狼は闇夜に潜む・その後

「ケイ、この本読み終わった!」
「うっ」
 どすん、と元気よく背中に体当たりされて、廊下の雑巾がけをしていた広瀬は危うく顔から木製の床に倒れ込みそうになった。
 どうにか踏み留まれたのは、駆け寄ってぶつかったのが、まだ六歳ほどの子供だったからだ。
「ねえねえ、読み終わったの、ほかのやつらより早かったろ、ねえケイ」
 少年はそのまま広瀬の背中にしがみついて、ゆさゆさと体を揺らしている。
 広瀬は笑いながら体制を立て直し、座ったまま職年に向き直った。
「偉いな、全部日本語なのに。ちゃんと声に出して読んだ?」
「あったりまえじゃん!」
 少年の声は自慢げだ。
 彼、そして広瀬の話している言葉は、広瀬の母国であるにほんとは別の国のものだった。今現在、広瀬や彼らが暮らしている土地の言葉とも違う。
 広瀬は故郷である日本を離れ、見知らぬ場所で暮らしている。郊外にある広く大きな家――屋敷といった方が相応しいような建物の中で、今背中に凭れている少年のような六歳から十一歳ほどの子供たち七人の世話を一手に引き受けていた。
「もうっ、ずるいよシュイン、ケイを独り占めしちゃだめって言ってるでしょ!」
 少年より少し大きな少女が、膨れ面で広瀬の前に立ちはだかった。
「そうだぞシュイン、オレだってその本、もう読み終わったのに」
 子供たちが、ぞろぞろと広瀬の周囲に集まってくる。広瀬は苦笑して、彼らの顔を見回した。
「夕食のあとに、全員の進み具合をちゃんと見るから。今は勉強の時間だろう、ちゃんと部屋で課題をやろう?」
 優しく窘められると、子供たちはしぶしぶ頷いて、元いた部屋へと去っていく。
(やっぱりまだまだ、子供だなあ)
 笑って息を吐きつつ、広瀬はどこかでほっとしている。
 彼らは全員、『人狼狩り』だ。
 小さいが、すでにその訓練を始めている。本来であれば初等教育を受けるべき年齢だが、学校には通わず家庭教師から勉強を教わり、午後は『狩り』のための厳しいトレーニングを課せられるのだ。
 子供たちが大人の人狼狩りから手解きを受ける姿を、広瀬は未だに正視できない。実際に狩りに出るのは十二歳からで、その瞬間から少しでも気を抜けば命に関わるような戦場に出ることとなるのだ。大人は誰も彼らを甘やかさない。大きな怪我をして帰ってくることも少なくなく、そのたび広瀬は胸が締めつけられるような思いを味わった。
 もし広瀬に人狼狩りの傷を癒す力が備わっていなければ、その痛みはさらに大きくなっていただろう。
(九住にほどは効かないけど、それでもいないよりはずいぶんとましだ)
 子供たちの両親はもれなく人狼狩りで、常にあちこちの土地を渡り歩いている。一族でまとまって暮らしているから、親族の誰かは同じ屋敷で過ごしているし、同じ境遇の子供たちが大勢居るので孤独を感じることはないだろうが、怪我や病気になれば親がそばにいない寂しさは味わうに違いない。
 その寂しさを埋めるように自分を慕う子供たちが、広瀬にはいじらしかった。

 九住について日本を離れた広瀬は、紆余曲折あって、九住の一族で暮らす時期が多くなった。
 大人たちの中には広瀬の存在――一族の人間でもないくせに、次の長たる九住の『従者』に収まったことを不服に思っている者は当然ながらいる。
 しかし広瀬との再会後、数年でこれまでの長と比べても目覚ましい狩りの成果を上げ続け、その功績の半分は広瀬にあると主張しつづける九住が、長老を含めた他の大人たち全員を黙らせた。
 大人たちの思惑はさておき、子供たちはとにかく広瀬を慕っていた。なにしろ広瀬は狩りの場に行くことができず(だからこそ不服に思う一族の人間も多いわけだが)、子供たちの世話を引き受けている。着替えや食事などの躾の他にも、日本語と、日本の常識やマナーなども教える役割を負った。九住の一族は日本で狩りをすることも多いので、そういった教師が必要とされているのだ。
(教職を採っておいて、よかった)
 高校教師としての職を辞すことを決めたのは自分自身で、その選択に後悔はなかったが、教え子のことを考えると少し懐かしく、寂しくなる時はある。顧問を任されたばかりだった吹奏楽部の部員、副担任として卒業まで見守ることのできなかった生徒の思い出は、特に切なかった。
 それでも教師時代の経験が今九住の一族の子供たちのために活かされていると考えれば、やはり悔いることはない。どのみち九住と別れて暮らすことなど、二度とは考えられない――考えたくもなかった。
 今はとにかく、一族に馴染めるよう、少しでも彼らの暮らしや生業の役に立つことに集中しなくてはならない。
(九住が無理を通して俺をここにいさせてくれているんだ)
 九住の顔を潰すような真似は絶対にしたくなかった。
「ケーイ」
 今日も一日子供たちの世話をして、訓練から戻った彼らに夕食を食べさせ風呂に入らせ、寝室に送り込んだあと、大食堂でひといきつくためにひとりでお茶を飲んでいた広瀬は、微かな声に呼ばれて振り返った。
 背後にシュインが立っている。足音も物音もせず、まったく気配を感じなかったので驚いたが、それを顔に出さないように広瀬は微笑んだ。
「どうした、シュイン。もう眠る時間だろう?」
「……だってさっき、ケイとあんまり話ができなかった」
 シュインは眠たげな顔をしている。午後の訓練を終え、疲れ果てたシュインは夕食を取ったあとにうとうとしていて、「読書の進み具合を見る」という午前中の約束をほとんど果たせなかったのだ。
「明日もあるよ。今日は休みなさい」
「でも明日、もし人狼がこの屋敷を襲ってきたら、オレは死んじゃうかもしれないだろ」
 当然のような口調で言ったシュインに、広瀬はぎくりとする。
 シュインはこの屋敷にいる子供たちの中では最年少だが、最も狩りの腕が卓抜しているらしい。こんなに小さいのに、もう狩人としての心構えが染みついている。
 広瀬はそれを憐れみたくはなかった。
(九住だって、きっと小さい頃はこうだったんだろう)
 五歳になれば引退した人狼狩りのいる村から離れ、各地にあるこの場所のような隠れ家で、訓練を受け始める。十二歳になれば実戦に駆り出されるきまりだが、九住は十歳ですでに人狼と戦っていたという。もしかしたらシュインもそうなるかもしれないと、九住から聞いていた。シュインは九住の兄の子で、おそらく九住の次の長の候補に挙がるだろうと。
(俺を伴侶にしたせいで、九住は――跡取りを作れないから)
 強い者が次の長になるのが掟で、長の子が長になるわけではない。だが今の長は九住の父親だ。一族の長には、ほとんど九住の直系に当たる者が据えられていると聞く。もし九住が強靱な人狼狩りの女性と子を成せば、それが次の長になることはほぼ間違いなかっただろうと、広瀬は思うのだ。
(九住は、そんなことにこだわりはないと言うけど……)
 だが広瀬はどうしても考えてしまう。シュインは自分の存在があるせいで、他の子供たちよりも険しい道を強いられるだろう。長は誰よりも強いことを示すために、常に前線に立たねばならない。他の人狼狩りでは手こずる人狼が現れた場合、対処するのは長だ。
 九住は広瀬が把握している限りでさえ、何度も瀕死の重傷を負っている。
 まだあどけないシュインもやがて同じ道を進み、その原因に自分が関わっているとなれば、広瀬はどうしてもシュインを気に懸けずにはいられない。
(でも全員、平等に扱わなくてはいけない)
 一族の大人たちからも強くそう求められている。訓練や実戦を繰り返すうちどうしても伎倆の差は生まれ、やがては主と従に別れ、従者は主人に命を預けることとなる。素直にその関係を構築するためにも、今は子供の扱いに差をつけてはならない。劣等感や優越感は人狼以上の敵だ。卑下して主人や長に跪くのではなく、純粋に一族への忠誠とより強い者への崇拝から命を投げ出せるよう、訓練以外の場ではすべての子供に等しく愛情を注ぐべきだ――。
「ケイ? オレの話、聞いてる?」
 考え込んでいると、膨れっ面のシュインが広瀬の顔を覗き込んできた。つい思いに耽ってしまっていた広瀬は我に返る。
「聞いてるよ。とにかく明日。今日きちんと眠って体調を調えなければ、明日起こるかもしれない危険に適切に対処できない。シュインンなら、わかるだろう?」
 六歳の子供に伝えるには酷な現実だとわかっていても、広瀬はそう言うしかない。シュインの言葉は譬え話ではなく、実際にこういった隠れ家の場所を突き止められ、人狼の集団に襲われたことがあったと広瀬も聞いている。どこにいても安全なわけではない。
「しっかり休んで、そうしたら明日、陽のあるうちに話を聞くから」
 頭を撫でてやると、シュインンは不満とはにかみの半ばのような表情を浮かべた。
「ちぇ。せっかく、邪魔なリュウのやつがいないのに」
「――誰が、『邪魔なリュウのやつ』だって?」
「ヒッ」
 がしっと後頭部を大きな手で掴まれたシュインが、大仰なくらい驚いた声を上げたので、広瀬は噴き出すのをこらえなければならなかった。
「リュ、リュウ!」
 シュインンの背後には九住が立っていた。先刻のシュイン同様、足音も気配も殺して近づいていたのだ。九住の姿が目に入っていた広瀬はもちろん彼の帰還がわかっていたが、シュインはまったく気づかなかったらしい。
「子供は、寝ろ」
 九住はにこりともせず、シュインの頭を掴んだまま、広瀬の方に向いていた彼の体を反転させた。シュインは「ちぇ、ちぇ」と何度も大きく舌打ちして、不貞腐れた顔で子供たちの寝室へと去っていく。
「――まったく、油断も隙もない」
「おかえり、九住」
 シュインの後ろ姿を見送り仏頂面で呟いていた九住に広瀬が微笑むと、九住もすぐに目許を和ませて広瀬に向き直る。
「ただいま」
 そのままごく自然と広瀬の前髪を優しく掻き上げ、額に唇をつけてくる。いつもならそれで満足なのに、今日は物足りない。何しろ九住と会うのは四日ぶりだ。少し離れたところへ狩りに行っている間、会うことも声を聞くことすら許されなかった。もっと遠くに『狩り』に行く時は、広瀬もその近辺の隠れ家へと一緒に潜伏させてもらえるのに、なまじ近場だっただけに、ここで待ちぼうけを喰らっていたのだ。
(会いたかった)
 広瀬は九住の腕を引くと首を伸ばして相手の唇に自分から唇をつけた。
 触れるともう我慢がきかず、その首に縋ろうとしたところで、九住がふと笑う。
「いいのか? シュインンが見てるぞ?」
「えっ」
 慌てて広瀬は九住から唇を離した。見遣れば、部屋に戻ったと思っていたシュインが、大食堂の入口のところから顔を覗かせ、への字口を見せている。
「シュ、シュイン、早く寝なさい」
「……はぁーい」
 いかにも不満げな声を残し、シュインが今度こそ去っていった。
「あいつ。俺がいない間に、俺からあんたを奪おうと必死だったんだろうな」
 笑いを含んだ声で九住が言う。
「無駄なことをする」
 広瀬は何とも言いがたく、曖昧に首を傾げた。
「やっぱり、母親が恋しいんだと思うんだよ、俺は」
 九住が広瀬を見返し、少々大仰に眉を上げる。
「そうか?」
「だって、いくらしっかりしていようが、六歳だし……」
 九住はシュインが広瀬を恋の相手として見ていると言う。生涯の伴侶にするつもりだろうと。広瀬にはぴんとこなかった。それこそ親子ほど歳が離れているのに。
「じゃあ、六歳の頃の俺が、あんたを口説きにかかったら?」
「え?」
「あんた、笑って相手にしないか?」
「……」
 九住に問われて、広瀬は真剣に想像してしまった。六歳の頃の彼。きっと普通の子供のようにあどけなく笑うことはなく、落ち着いた、けれども強い眼差しで広瀬を見ている。
「……なるほど」
 つい、納得してしまう。
「多分俺は六歳の九住に出会っていても、好きになったよ」
「もしシュインンに露骨に口説かれたら、そう言ってやれ」
 九住が手近な椅子を引っ張って、広瀬の隣に腰を下ろす。
「うちの一族のやつらはどいつもこいつもませてるから、始末に負えない。子供だろうが、あんたが俺の伴侶だってことは充分わかってるだろうに、出し抜いてやろうって輩ばっかりなんだ」
「でもやっぱりそこは、俺が甘やかし役だっていう部分が大きいと思う」
 母親や父親恋しさがまったくないとは、どうしても広瀬には思えなかった。厳しい訓練の続く毎日で、唯一の安らぎが広瀬ならば、そこに愛情を持つのは当然だ。
「……親父やじいさんは、六歳の子供じゃないぞ?」
「……う……」
 九住の一族は、自分の存在を疎んじていると、覚悟をして九住についてきた。今の長である彼の父親や、今は長老たちをまとめているという祖父からは、最も風当たりがきついだろうと想像していた。
 が、蓋を開けてみれば、二人とも広瀬には優しかった。九住に対しては素っ気なく、息子や孫に対する親しみなど一切感じられないのに、広瀬には笑顔で接してくれる。
「それは……俺が余所者だから、親切なだけじゃないか?」
「違う、あれは単に、あんたを気に入ってるんだ」
「人狼狩りを治癒できる力を、それなりに認めてもらえてるってことだと嬉しいんだけど」
「それもあるだろうけど。あんたが優しくて綺麗だから、やに下がってるだけだ」
 広瀬にはやはりどう答えていいのかがわからない。
(九住をからかってる感じも、少しだけ、するんだよなあ)
 たしかに九住の父親も祖父も、広瀬を過剰に褒めたり、親しげに肩や腰に触れてくることがあるが、大抵は九住がそばにいる時だ。九住がいちいち不機嫌になるのを面白がっている雰囲気が、そこはかとなくするのだが――九住たちは口を揃えて「俺たちの一族は親も子も孫も関係ない。力のある者が敬われ、仲間の上に立つのだ」と言う。だから親子の馴れ合いを九住は否定する。父親に向けては「父さん」「親父」などという言葉は使わず、他の者と同様に名前や「長」と呼びかけるのも、馴れ合わないという意思や習慣の表れなのだろう。
 九住は以前、広瀬に関わることで仲間を怒らせ、ひどい私刑を受けたと話していた。だから実際、決して馴れ合うことなく、独断で動いて仲間を危険に晒すようなことがあれば、皆が生き残るためにも、厳しい処置が待っている。結束は固いが、愛情だけで繋がっている群れではないのだ。
 それでも、広瀬が話に聞いて想像していたよりは、温かい繋がりに感じた。
「……ここで暮らせて、九住たちの仲間に受け入れてもらえて、嬉しい」
 そんなことを考えながら、広瀬はぽつりと漏らした。
「そうか」
 九住はひとつ頷いただけで、何も言わずに広瀬の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。広瀬も遠慮なく九住に凭れる。
「この先もずっと九住と暮らせると思うと、幸せで、クラクラする」
「俺もだ。――じいさんより長生きして楽隠居か、シュインたちをいびり倒す役目で毎日楽しく暮らしてやる。あんたと」
「俺はいびらないぞ」
 九住の軽口に広瀬が笑うと、九住も微かに笑みを浮かべた。
「たしかに、想像つかないからな、あんたが誰かをいびるところ」
「俺は狩りの仕方なんて教えられないから、ただ甘やかすことで大事にするよ。九住の大切な、家族だもんな」
 九住が優しく広瀬の髪を撫で、顔を寄せてくる。指で触れる仕種と同じくらい優しくキスされた。
「――部屋に行こう。早く、誰にも覗かれないところで、あんたと二人きりになりたい」
 ハッとして広瀬が大食堂の入口に目を遣ると、今度はシュインンではない子供が三人、興味津々とこちらを覗いている。広瀬は取り繕って咳払いをした。
「どうした、寝床に入る時間だろう?」
「トイレ」
「喉かわいたぁ」
「わたしも」
 広瀬が九住を見遣ると、九住はやれやれとばかりに肩を竦めている。広瀬はその背中を叩いて、座っていた椅子から立ち上がった。
「じゃあ、アイリはトイレに行こう。九住、温かい飲み物を入れてくれ、あんまり飲むとまたトイレに行けなくなるから、少し。あと眠れなくなるといけないから、カフェインの入っていないやつで頼む」
「ええー。リュウじゃなくて、ケイが作ってくれたジュースが飲みたい」
 子供たちは不満顔だ。九住がそれを、じろりとひと睨みした。
「文句があるなら、俺を倒してから言え」
 九住の言葉に、無茶を言うなと広瀬は笑いを堪えながら、一人の手を引いてトイレに向かう。
(いや、シュインだったら、本当に九住を倒そうとして挑むかも……?)
 想像して、笑っていいのか困っていいのか悩んでしまった。
「ごめんなさいね、ケイ。せっかくリュウが帰ってきたのに、邪魔をしてしまって」
 手を繋いだ八歳のアイリに申し訳なさそうに言われて、広瀬は参った。
「あの二人はわたしがさっさとお部屋に連れて行くから、リュウとゆっくり過ごしてね」
 気遣ってくれる少女に向け、広瀬は今さら変に羞じらってしまわないよう気をつけながら、微笑んだ。相手は八歳でも、立派な大人の女性だ。
「ありがとう。助かるよ、アイリ」
「どういたしまして。わたしたちは明日どうなるかわからないんだから、好きな人との時間は、大切にしなくちゃね」
「――そうだね」
 彼女もシュインと同じことを言う。そしてそれは、どうしよもなく真実で、現実だ。
(でも、俺は死ぬつもりはないし、九住を死なせるつもりもないし……九住がさっき言ったみたいに、きっとお互いおじいさんになるまで、ちゃんと生き延びるから……この子たちも)
 自分に九住たちを癒やす力があることを、広瀬は心から感謝している。
 大切な人たちのために出来ることがあるのは、幸福だ。
 改めて戦場の中の一時を守るための決意を固めながら、広瀬はアイリの手を引いて、薄暗い廊下を歩いて行った。
 

-end-

狼は闇夜に潜む

Posted by eleki