きまずいふたり・第1話

「佐山、今日、もし空いてたら飯でも喰いに行かないか」
 終業後、たまたま廊下で顔を合わせた御幸に声をかけられた。御幸も今仕事を終えたところらしい。
「ごめん、先約」
 佐山が申し訳なさそうに笑うと、御幸が思いついたように「ああ」と声を上げた。
「そうか、今日、金曜か」
 並んでエレベータホールの方へ歩きつつ、佐山は首を傾げた。
「そうかって、忘れてたのか、曜日。せっかくの週末だっていうのに」
「ここのところ予定が立て込んでたんだ。明日も出社だし、木曜辺りと勘違いしてた」
「疲れてるなあ、大丈夫か」
「正直通勤がしんどいよ、俺もそろそろひとり暮らしを考えるべきか……」
 話しているうちエレベータに辿り着き、他にも乗り込む人間がいたので、佐山と御幸は何となく黙り込む。二階に辿り着いてエレベータを下り、長いエスカレータに乗り換えた。
「それで、やっぱり今日もデートか」
 後ろに乗った御幸が身を屈め、佐山に耳打ちしてくる。
「デート……ねえ……」
 返す佐山の呟きは、いまいち微妙だ。
「何だよ、ぱっとしない返事だな。また喧嘩してんのか、おまえら」
 呆れ口調の御幸に、佐山は小さく息を吐く。
「喧嘩なんて表現が介在できない程度」
「ふーん?」
 わかったようなわからないような相槌を御幸が打った時、一階に着いた。並んでエントランスを抜ける。
「まあ、またろくでもないことしでかされるようなら、今度こそ息の根を止めてやれ」
 物騒な励ましをしてくれる友人と苦笑いで別れ、佐山は御幸とは反対方面、会社最寄りの駅から離れた方へ足を向けた。
 いつも向かう店はだいたい一緒だ。少し前までは、会社のエントランスで待ち合わせていたが、目立つようなので店待ち合わせになった。
 そう、秋口は目立つ。佐山の方が先に仕事が終わり、待っているのなら問題はないが、秋口がそうしている場合、ひっきりなし、入れ替わり立ち替わりに女子社員が声をかけては食事などを誘っていく。
 待ち合わせは店にしよう、と言い出したのは秋口の方だった。佐山も賛成した。綺麗な女子社員たちに声をかけ、誘う視線を向けられている秋口を見るのはあまり気が進まなかった。何というか、申し訳ない気分になってしまうのだ。秋口にも、女の子たちにも。
(よくない思考だなあ)
 反省しつつ、佐山はいつもの店に足を踏み入れ、秋口の姿を捜した。いつもと同じ席にいたのですぐに見つかったが、そうじゃなくても、佐山が秋口の姿を捜しあぐねることはなかっただろう。何をしているわけでもないのに、秋口は目立つ。男らしく、強気で、意志の強そうな顔つき。生意気そうだと敬遠する人も多かったけれど、佐山は秋口のそういう見た目も、性格も、嫌いじゃなかった。
 嫌いじゃない、などと控えめな表現をする必要もなく、そういう部分に、ずいぶん前から惹かれていた。
 夕食時、それなりに混み合った店内を、秋口の方へ進んでいた佐山は、彼の横にふたり連れのOLらしき女性が進み出たのに気づいて、足を止めた。
 女性たちは、華やかな雰囲気で秋口に声をかけている。
(またか)
 店での待ち合わせをしても、それはそれで、寄ってくる人たちはいるのだ。秋口みたいな男前がひとりでいて、おとなしく放っておかれるわけがない。「おひとりですか?」とか「よかったらご一緒しませんか」とか、自分の若さやかわいらしさを自覚している女の子たちは、引け目も遠慮もなく声をかけていく。
(……やっぱり、よくない思考だ)
 彼女らや、それを適当にあしらう秋口の様子を見ながら、佐山は溜息をつく。
 こういう場合に『面倒だから帰ってしまおうか』などと考えてしまう逃げ腰な気分は、やっぱり、褒められたものではないと思うのだが。
「佐山さん」
 女性ふたりの向こうで、秋口が片手を上げた。通路で立ち止まっている佐山に気づいたらしい。
 仕方なく佐山は再び歩き出し、秋口の方へ近づいた。
「ほら、連れがいるって言っただろ」
 秋口が、近づいてきた佐山を指してそう言っても、女性たちに怯むところはまったくない。
「じゃあ、よかったらそちらも一緒にどうですか? あたしたちもふたりで、ちょうどいいし」
「仕事の話だから」
 笑顔で、でも素っ気なさを隠しもせずに言った秋口に、女性たちが残念そうにしながらやっと引き下がった。
「悪い、遅くなった」
 女性たちが去った後、何事もなかったかのようにそう言って、佐山は秋口の向かいに腰を下ろした。
「忙しかったですか、今日」
「ってほどじゃないけど、思ってたより押しちゃって」
 他愛ない会話を交わしながら、佐山と秋口はメニューから料理を選び、注文した。
 店員がいなくなると、佐山はすぐに煙草に手を伸ばし、秋口はやってきたビールに口をつける。
(まあ、モテるわけだよなあ)
 焼き物のタンブラーを片手で口に運ぶ仕種、それだけでもやたら絵になって格好いい。別に惚れた欲目じゃないだろう、と思いながら佐山は秋口を眺めた。御幸もかなりな二枚目で、社内では秋口と人気を二分しているようだったが、彼とはまったくタイプが違う。御幸は雰囲気も物腰も柔らかく、いつも笑っているような優しい風情だ。だが秋口は、愛想笑いなんて労力の無駄だと言わんばかりにいつもきつい目をしているし、たまに笑うことがあってもそれは他人を嘲笑う時だったり、からかう時だったりする。
 おかげで敵は多いのに、それと同じ割合で秋口にベタ惚れする人も多かった。他人に媚びない秋口が、自分だけに優しくしてくれたら、どれほど気持ちがいいことか。そんなことを思っている女性社員は、社内にも掃いて捨てるほどいるだろう。
「……何か?」
 煙草をふかしつつ、つい秋口の顔をまじまじ眺めてしまっていた佐山は、怪訝そうに秋口に問われてはっと我に返った。
「いや、秋口ちょっと、痩せたかなと思って」
 その男前な顔に見とれていたのだなどと、正直に言う気も起きなくて、佐山は咄嗟にそんなことを口にした。別に出任せを言ったわけではなく、実際そう思ってもいた。
 ああ、と秋口が頷いて、自分の顎辺りを掌でさする。
「昨日おとといと、昼食べはぐって、残業だったから会社で適当に弁当喰ったんですけど、家に着いたら食欲がなくてそのまま寝るってパターンで」
 今週ずっと、秋口は仕事が忙しいようだった。飯はちゃんと食べないと――などと、佐山が説教できる筋合いではない。佐山だって、忙しい時はついつい食事を抜きがちだ。
「そうか、じゃあ、今日はたくさん食べないと」
「ですね」
 料理がやってきて、お互いそれをつつき出す。秋口は普段からよく食べる方で、今日も佐山の倍近い料理を頼んでは、気持ちいいくらいぱくぱくと口に運んでいた。
「――あれ、もしかしたら、秋口も明日出勤か?」
 秋口とは逆に食の細い佐山は、ゆっくり野菜炒めを食べつつふとそう訊ねてみた。
「そうですけど、俺『も』って?」
「さっき、御幸もそう言ってたから。営業全般、忙しいんだな」
「ああ……」
 秋口は二杯目のビールに手を伸ばしている。酒に強い秋口は、まだ顔色も変わらない。
「向こうも忙しいんだ」
「今日せっかく早く仕事が終わったんなら、帰って寝た方がよかったんじゃないか。あんまり寝られてないんだろ」
 佐山が気を利かせたつもりでそう言うと、ビールを手にしたままの秋口が、何だか妙な顔をして佐山のことを見返した。
「うん?」
「……明日は午後出でいいから、そんなに急いで帰らなくても。腹減ってたし」
「そっか」
「はい」
 そこで会話が途切れてしまった。
 秋口は黙然とビールを口に運び、佐山も野菜炒めを黙ってつつく。会話はまるで弾まなかった。どうやったって、佐山と秋口の間にあるのは微妙に気まずい空気ばかりだ。
 原因を佐山は何となく理解している。自分が余計なことを聞かないよう気を回し、秋口は自分に負い目があるから口が重くて、だから会話が途切れてしまう。
 余計なことを聞かないように――そう、昨日おとといは仕事だったとして、じゃあ火曜日は何をしていたかとか、月曜日は何をしていたかとか、土曜日日曜日は――
(ああ、面倒だ)
 週末になれば秋口は必ず自分を誘う。そう、まるで『義務』みたいに。佐山にはそう感じられた。
 仕事が忙しいのは本当だろう。新規の大口契約を狙っているのだと聞いた覚えがある。でも毎日残業というほどでもない。そして、残業の日以外、自分と会う日以外の秋口が何をしているのか、佐山はだいたい察している。
 誘いを断り切れない他の女の子と会っているのだ。
 まったく何だって秋口に関する噂の回りはこれほど早いのだろう、と佐山はますます面倒な心地になる。目立つのだから仕方がない。仕方がないが、そんな話を他人から聞かされるのはたまったものじゃなかった。この間は経理の何とかさん。その前は営業事務の何とかさん。いちいち名前を覚えるのも億劫なほどだ。
 佐山が身勝手な秋口に腹を立て、その横っ面を殴ったのが一ヵ月ほど前。腹を殴ったのがその十日ほど後。
 それから三週間経って、佐山と秋口の間に特に変わったことはなかった。時間が合えば食事に行って、店で別れて、そう、ただそれだけだ。以前みたいに触れあうことも、キスのひとつも交わすこともない。
 そもそもそういう雰囲気にならない。
(別に、好きだとかつきあおうだとか、そういうことを言われたわけでもないし)
 佐山を傷つけたことは謝るし、佐山が離れないようにしたいと、そういう秋口の意志は聞いた。
 でも特に、『だから佐山ひとりに絞る』とか、『恋人になって欲しい』とか、そんな言葉があったわけじゃない。
 そもそも好きだのひとこともなく、それでも秋口が自分を誘い続けるのは、やっぱり罪滅ぼしや義務の意味が多いんじゃないだろうかと佐山は思う。
 だから自分が秋口を責める筋合いはない。
「……佐山さん、疲れてます?」
 秋口に問われ、佐山は自分が小さく溜息を漏らしてしまったことに気づいた。
「そんなことは……いや、うん、そうかな」
 咄嗟に誤魔化そうとして、けれども誤魔化し切れない気がして、佐山は正直に頷いた。
「こういうの、もうやめた方がいいと思うんだ」
「は?」
 佐山の言葉の意味がわからないのか、秋口は眉根を寄せている。
 そういう顔も男前だ、などとしみじみ思う自分が、佐山には馬鹿馬鹿しかった。
「無理に時間合わせて会ったりするの。秋口だって疲れてるだろ」
「無理に……って、そりゃ、お互い仕事が忙しいんだから、無理にでも合わせないと会うこともできないじゃないですか」
「気持ちの問題だよ。俺はまあ、秋口が誘ってくれれば嬉しいけど、何ていうか……こんなこと言うの勝手で申し訳ないって思うけど、秋口がつまらなさそうにしてるくらいなら、そういう時間はいらないよ」
 そう、正直なところが、そういう理由なのだ。
 忙しくて会えなかろうと、他に会う相手がいようと、それを不満だと思ったとして我慢ができないわけじゃない。そんなことを不満に思う方が贅沢なのだと自分を諫めることはできる。
 だが、自分と一緒にいる秋口に、さっぱり笑顔がないことが一番こたえた。会話は弾まないし、空気は重たいばかりだし、たとえ好きな相手が目の前にいたって、いいことなんてひとつもない。
「別に俺、つまらなさそうにしてるつもり、ありませんけど」
「ほら、そういうの」
 仏頂面で吐き捨てた秋口に、佐山は冷静な言葉を返す。
「何かあるとすぐ、秋口、そうやって怒った顔になるだろ」
「それは佐山さんが――」
 言いかけて、秋口がますます仏頂面になると、再び口を噤んでしまった。
 ほらやっぱり、と佐山は大きく溜息をつく。
「俺の遺恨は、秋口を殴ったことで晴れてるわけだし。変なふうに気を遣わないでくれ、俺のことも誘わないとって思ってくれてるのかもしれないけど、俺だってこんなふうな会話するくらいなら、帰って寝てた方がいくらかましだよ」
 秋口が無理をしているのがわかるから、佐山はいたたまれない気分になる。秋口は佐山を腫れ物に触るように扱っていた。ぎこちなく、軽口も笑顔もなく、何が気に入らないのか時々眉間にしわが刻まれる。自分と一緒にいることで相手が苛立つ様子なんて、いつまでも見ていたくはなかった。
 だからわざとそんな言い方で、秋口の逃げ道を作った。
「……わかりました」
 怒った顔で、秋口がビールを飲み干すと、タンブラーをテーブルに置いた。
「佐山さんが別に俺と会いたくないって言うなら、俺だってわざわざ誘う理由はないわけだし」
「うん。秋口がちゃんと楽しく過ごせそうになったら、誘ってくれ。そうしたら喜んでつきあうから」
 それから秋口はもう口を開かず、佐山も何を喋る気にもなれず、ふたりして黙りこくったまま食事を終えると店を出た。
「……それじゃあ」
「おやすみ、仕事、頑張れよ」
 自分とは違う駅に向かう秋口に少しだけ笑いかけ、佐山は未練が残らないようさっさと自分も別の道に進んだ。
(まあこれで当分、誘われることもないだろ)
 落胆したような、安堵したような、おかしな気分だ。
 たぶん安堵の方が勝っている。
(惚れた相手の重荷になってるなら、これほど情けないことはないし)
 秋口がどんな形であれ自分に執着を持っていてくれる限り、気長に行こうと心に決めた。
 けれども万が一それより先に秋口の忍耐が切れてしまうようなら、それはまあ、仕方のないことだと思った。
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