君はきれいな(悪)夢のよう
寿賀翔鷹なんて無駄に画数の多い名前をそらで書けるようになってしまった。
高校の同級生。クラスが違ったから一年の時は名前も知らなかったし顔も見たことがなかった。
二年生になった時もクラスは違ったけど、女子がやたら「スガくんが」「スガくんが!」とか連呼するので名前は耳に残ってしまった。
騒がれる理由は初夏頃にわかった。寿賀翔鷹は、そこそこの進学率しか自慢するところのない平凡な公立高校で、教師やらOBやらがうっかり甲子園の夢を見てしまいそうになるくらいの実力を持つピッチャーだったのだ。
俺はスポーツにはあんまり明るくないけど、周りの反応からして寿賀の存在っていうのは「まあ、大変なことなんだろうな」と朧気に感じた。
運動部なんて受験前の体力造りか息抜きのために入る生徒がほとんどだから、寿賀が現れてからの野球部は、他の部の誰に文句を言われることもなく、広さだけはあるグラウンド(何しろ埼玉のど田舎なもんで、敷地面積は立派なものなのだ)をいっぱいに使って、夜遅くまで毎日練習に励んでいた。
毎日部活なんて正気の沙汰じゃない。『甲子園』に目が眩んだ一部の教師以外は、朝練や昼練まで始める野球部にずっと苦言を呈していた。寿賀が一年生の時は、県大会の四回戦進出、そこで敗退。それでもうちの学校にしては歴史的な快挙だったが、運動の強い公立、運動に特化した私立を押し退けて甲子園に出られるなんていうのは、まあ、その時点ではありえない話だった。
けど二年生の時、地方大会の準決勝まで勝ち進んだ。
結果的には敗退だったのに、甲子園になんて全然届かなかったのに、何だかみんなが舞い上がってしまった。それまで坊主頭の野球部員を見ると顔を顰め、「もっと地に足を着けて、受験に向けた準備をしっかりしなさい」なんて滔々と説教していた教師まで、「練習頑張れよ」と洗濯でも取れない汗と泥汚れの染みこんだユニフォームの背中を気安く叩くようになった。
寿賀翔鷹たったひとりの存在で、学校の雰囲気ががらっと変わってしまったのだ。
強豪校ではベンチ入りも難しいと思っていたそこそこ賢い中学生が、多分うちの学校ならレギュラーとして寿賀に甲子園まで連れてってもらえるんじゃないかと期待して押しかけ偏差値が上がってしまった辺りで、もう誰も坊主軍団に説教なんてしなくなってしまった。
怖いなあ。
俺はもう、怖いな以外の感想が、思い浮かばなかった。
◇◇◇
「水竹、おまえ、いい加減にしろよ」
年配の男性教師は、放課後少し経った廊下で俺を見るなり、ものすごい渋面を作った。
教師の目は俺の左耳を刺すように見ている。四個ほど、いや昨日五個にしたんだっけ、ピアスホールの開いた耳を。
「ピアスをつけてるわけじゃないんだから、大丈夫ですよ」
俺は我ながら愛想の欠片もない表情と口調で答えた。
「ピアス駄目って校則はあっても、耳に穴開けちゃ駄目って校則はないでしょ」
「おまえなあ」
教師が深々と溜息をつく。
「それは屁理屈だろ。校則以前に、見てて痛々しいんだよ、耳たぶならともかく、その、何て言うんだ、耳の上の方の……」
「軟骨に穴開けるの、結構痛いんですよね」
俺は耳の上の方にある穴、軟骨ピアス用のホールを左手の親指と人さし指で挟んで揉んだ。うん、まだ痛い。
「だったらわざわざそんなものを開けるな、馬鹿者が」
憤ったふうに言う教師は『風紀を乱す』俺に文句を言いたいのと同じくらい、俺を普通に心配してくれてるのがわかる。口うるさいがいい人なのだ。
ベテラン教師にの目には、きっとみっともない反抗期に映ってるんだろうなと思いながら、俺はへらっと笑った。
「痛くて気持ちいいんで」
教師はもう一度わざとらしいくらい大きな溜息をついた。
「うちの校則はゆるい方だが、成績がよければどういうふるまいをしてもいいってもんじゃないんだぞ、水竹。少しは寿賀を見習ったらどうだ、あいつは驕らず威張らず、毎日コツコツと努力してだな――」
「俺も結構努力家なんですよね。図書室行きたいんで、そろそろいいですか?」
寿賀の名前なんて出すなよな。
イラッとしながらも笑顔のままお説教の言葉を遮って言うと、相手は鼻白んだふうに頷いた。
「あ、ああ」
「失礼しまーす」
五十年の校史で初めての天才ピッチャーにくらべたら、学年常時首席とか県で二桁の成績なんて、ゴミみたいなものかもしれないけどさ。
それでも勉強するっていう時間を奪ってまで説教を続ける気もなかったんだろう。教師から解放され、俺はせいせいした気分で廊下を歩いていく。
「あ」
でもその途中、忘れ物に気づいた。
バカだ、ポケットに入れたつもりの携帯電話がない。
めんどくさいけど、さっきの教諭がもう廊下にいないのを振り返って確認してから、教室の方に取って返した。
別にSNSやってるとかネット見たいとかソシャゲやってるとかでもないし、徒歩通で定期券も使ってないからスマホなくたって俺は困らないんだけど。でもまあいちおう。
冴えない気分で教室に戻り、ドアに手をかける。
癖で窓ぎわ一番うしろの結構な特等席に視線を遣ってから、俺はぎょっと動きを止めてしまった。
「あれ、水竹?」
その机に腰を載せて窓の外を見ていた男子生徒が、驚いたような顔でこっちを見る。
まだ日焼けの名残はあるけれど、夏の頃にくらべれば白くなった肌。坊主の片鱗なんて見えなくなった長さの真っ黒い髪。
高三の十一月における寿賀翔鷹は、グラウンドを汗まみれで駆けずり回っていた男とは別人みたいに爽やかで、腹が立つほど綺麗な顔立ちをしている。
ちなみに寿賀がその席に座っているのは、別に何の不思議もない。
なぜならそこが本人の座席だからだ。
ドアに入ってすぐ、廊下側一番前にある自分の席よりも先にそっちに視線を向けてしまった俺の挙動が謎なだけで。
「もう帰ったのかと思ってた」
「……忘れもの」
俺はさっきの教師に向けたもの以上に素っ気ない声で答えながら、俯いて、机の中を探った。
くそ、ねえな、スマホ。
「何? スマホか何か?」
もたもたやってる俺に、寿賀が自分の席から訊ねてきた。仕方なく俺は頷く。
「鳴らしてやるよ。クラスLINEの――あれ、いない?」
「入ってない」
クラスのLINEには一年生の頃から一度も入ったことがない。
答えた俺に、何でか寿賀が弾けるように笑った。明るい笑い声だ。
「水竹っぽいな。俺もミュートにしてるから、クラスLINEとか見たことないけどさ」
何だ、俺っぽいって?
「じゃあ水竹の電話番号教えて」
「え……」
「だから、スマホ呼び出してやるって。LINEのIDでもいいけど」
「いい、悪いし」
断ると、寿賀がちょっと変な顔をした。
俺の席と寿賀の席で距離があるし、俺は目が悪いし、俯いてたからはっきりそう見えたわけじゃないけど。
「悪いとか意味不明。別に通話出なけりゃ金もかからないだろ、ほら、何番?」
迷惑がられてるって可能性を微塵も感じてない声音なのは、さすが、学校中、いや地域中の人気者だ。恐れ入った。
でも俺はおまえが苦手だよ。
部活で活躍してモテて、引退して髪伸ばしたらさらにモテて、校内だけじゃなくてその辺の中学生とか大学生とかもっと年上の社会人までが虎視眈々と彼女の座を狙って包囲網を固める中、二学期のど頭に寿賀は言い放った。
『俺、男が好きなんだよ』
それで寿賀の評判は下がることなく、何でか、大多数の女子はさらに盛り上がった。言い寄る女を遠ざけるための口実説と、元チームメイトの○○君とデキてる説と両方あって、どっちも好意的に受け入れられてるのが、心底腹立たしい。
何が腹立たしいって、こっちは死に物狂いで男が恋愛対象であることを、ずっと隠し続けていたからだ。
陽キャのモテ男は女子にも男子からもイジられもイジメられもせず普通に許されるからすげぇよな。
俺は本当、そんなふうに目立ちたくなくて、孤高気取ってたのにさ。
「水竹?」
顔を伏せたまま不機嫌でいる俺に、寿賀が怪訝そうに呼びかけてくる。つい顔を上げてしまうと、じっとこっちを見ている相手と目が合ってしまった。慌てて顔を逸らす。
「ほら、番号」
やっぱりウザがられてるとか全然、選択肢にも上ってこないらしい寿賀の急かす声に、俺はうっかり自分の携帯番号を口にしてしまった。陰キャは押しに弱くてクソだ。
寿賀が自分の携帯電話を操作すると、俺が肩から提げてた通学鞄の中から、ムームーと振動音が響いた。
くそっ、何だ、鞄に入れてたのかよ。
「あ、よかった、あったな」
寿賀は本当に「よかったな」って口調で言う。陽キャえぐい。いい奴で引く。
「どうも……」
とか何とか口の中でもごもご言いながら、申し訳程度に頭を下げて、俺はさっさと教室を出て行こうとした。
「水竹」
なのに寿賀が俺を呼ぶ。
「なに」
何なの。
三年進級で同じクラスになった今日の今日まで、おまえ、俺に声かけてきたこととかなかったじゃん。
「水竹ってさ……」
自分から声かけてきたくせに、寿賀が変に言い淀む。
マジ何なんだよって、ちょっとイラつく。
用がないなら帰るけど、と言いかけた時、寿賀がやっと意を決したふうに口を開いた。
「野球部いた頃、水竹、俺のことずっと見てたよな」
ひゅ、っと。
勢いよく息を吸い込んだせいで喉が鳴った気がした。
訊ねる寿賀の少し低くなった声のせいで、体温が二度くらい一気に下がった気がした。
駄目だ、黙るな。「違う」って言うべきだ。いや、即答なんてせずに、「は? 何が?」とか、怪訝そうにして誤魔化すべきだ。
そうしたいのに、でも、滅多に人としゃべらない口とか喉とかはうまく動かず、試験の時なら何の苦もなく働く頭が錆びたネジ並に固まって、身を固くしたまま顔を伏せる以外、どうしようもなかった。
何で?
何で知られた?
何で知ってる?
見てたの、四階の図書準備室からだぞ。俺は目が悪いから分厚い眼鏡かけてたってグラウンドにいる野球部員の顔とか見えないけど、でもぼんやり見える形とか雰囲気とか周りの反応とかで寿賀の区別はついたけど、練習に集中してたおまえは、そもそも図書準備室に人がいるなんて気づくこと自体ありえないだろ。
「……どうして……」
いっぱい聞きたいことがあったのに、喘ぐようにそう訊ねるのがやっとだった。
「去年の冬くらいに、図書室らへんで灯りついてるの気づいたんだよ。日が暮れてグラウンドのでかい電気、スポーツ照明っていうんだけど、あれ点ける頃って、下校時刻とっくに過ぎてるだろ。なのになんで残ってる奴いるのかなって、気になったのが最初で」
寿賀は俺が言葉にできなかったこと全部が聞こえてたみたいに、つらつらとそう説明する。
「『水竹は特例で図書準備室使ってるっぽい』って仲間が教えてくれて、水竹って誰って聞いたら、学校で一番頭いいやつっていうから」
「……」
寿賀が俺のこと知らなくて当然だ、俺だって周りがスガ君スガ君大声で騒がなけりゃ、名前も顔も知らなかった。
俺たちに接点なんてなんにもない。
――だから同じクラスになる前に寿賀が俺を認知してたとかいう事実に、思い切り動揺してしまった。
もうブレザーの中にニット仕込まないと肌寒い時期だっていうのに、嫌な汗が背中を伝う。俺どっちかっていうと寒がりなのに。いや今はそんなことどうでもいいのに。
「で、さ」
俯いた視界の中に、寿賀の上履きが映ってますます動揺した。何で。なんでこっちに近づいてくるおまえ。
「いいの?」
問われた意味がわからず、俺は俯いたまま小さく首を傾げた。本当は何ひとつ反応なんて示しちゃいけないと思っていたのに、無視することもできずに。
無視なんてしたら嫌われるのではとか最高にバカみたいな心配を消せずに。
「俺引退して、もう四ヵ月近く経つけど」
いやでもやっぱ意味わかんねえな。何言ってんだこいつ。
「水竹、俺のこと好きだから見てたんだろ。何も言わなくていいの?」
……駄目吐きそう。
好きな奴の前じゃなかったらしゃがみ込んで緊張と恐怖のあまり昼喰ったものが全部出そう。内臓も出そう。
好きだから見てたんだろ? マジで言ってる? 何で?何で知ってる? 何で気づいた? ああそうか、おまえのこと好きにならない奴なんてこの世にいないからか。だっておまえかっこいいからな。バカみたいに周りにもてはやされても調子に乗らずに明るく笑って、ありがとう頑張るよって前向きに答えてばっかで、掌返して百年前から応援してましたみたいな先生に対してもそんな感じで。毎日毎日朝早くから夜遅くまで真面目に練習して、練習試合で負けて周りが勝手にガッカリしても腐ったりしないで毎日毎日、オフの日も練習の一貫だからって筋トレしたりストレッチしたりマッサージ通ったりして過ごして、っていう情報を主に女子の噂に聞き耳立てて仕入れる自分が本当キメェなって思うたびに俺のピアスの穴が増えて、もういっそ嫌いになりたくて、寿賀が活躍するごとにどんどん増えてく女子マネをとっかえひっかえ弄んでる噂とか、現社と地学で赤点取ったとかいう噂を並べてみるのに全然嫌いになれなくて、そんな自分がバカみたいですごい苦しくて、辛い気分にさせられて腹立ってやっと嫌いになれそうで、でも結局全然好きな気持ちが勝ってるのを否定できなくて……とか。
そんなん知られたら死ぬ。死ねる。今すぐ教室の窓から飛び降りて死にたい。でも三年の教室一階だからよほど打ち所が悪くないと死ねない。もういい殺せ。殺してほしい。寿賀に殺してもらえるならすごく幸せだから。
「黙ってんなよ」
ちょっと苛立ったように言う声にさらに血の気がひいた。
寿賀に自分の気持ちを知られること。寿賀に嫌われること。どっちがより死ねるか?
多分前者だと思ったし、おそらくこの気持ちを知られれば嫌われる流れでもあるとも悟った。
いいの? とか訊ねてきた最初から、寿賀の声はどこか固い。怒ってるみたいに低い。俺みたいなぼっちの陰キャが自分をジロジロ見てるのが不愉快で釘を刺しにきたってこと? 男が好きとか言うのを鵜呑みにして自分にワンチャンあるとか勘違いされてたらダルいんだけどとか。
寿賀に自分の気持ちを悟られる可能性なんて考えたことなかったけど、四階からの視線に気づかれてたんなら、俺の考えが甘すぎたってことなんだろう。野球部を引退したあとはグラウンドを見ても寿賀はいないし、教室では俺の席からは寿賀が見えないし、鬱陶しがられる理由もやっぱり思い付かないけど、でも俺はどうにもグズでゴミみたいな駄目人間だから、多分どこかで失敗していたのだろう。
でも状況証拠はあっても物的証拠はない。
ないはずだ。
「……急に変なこと言われたからびっくりして、言葉出なかった」
絞り出すように言う自分の声が震えていていっそ笑いそうになる。実際ちょっと笑ったみたいになってしまった。
「はぁ?」
寿賀の声に、ますます苛立ちが混じったふうに聞こえた。
「見てただろって。俺、視力二・○あるし、動体視力一・二あるし、間違いない」
視力二・○の噂まじだったかとか止まってるもの見るなら動体視力関係ねえだろとか、そこを気にしている場合ではないのに気になってまた笑いそうになってしまう。多分ヒステリー反応だこれ、もう。
「勘違いです」
なぜか敬語になってしまいながら告げた言葉が、何というか、呆れたような響きになって焦る。いや焦ることはない、バカにしたと相手を怒らせれば、もう二度とこんなふうに寿賀が声をかけてくれることだってなくなるはずだから。
「意味わかんないこと言われても困るよ」
我ながらムカつく感じの鼻で嗤うような声に、寿賀は怒って怒鳴りつけてくるとか、机蹴りつけてぶつけてくるとか、そういう反応をするだろうなと予想して、ただ俯く。視界には相変わらず寿賀の上履きが映り込んでる。
「……」
けど予想に反して寿賀は何も言わないし上履きは動かないしで、さすがに怪訝な気分になってきた。
おそるおそる、ちょっとずつ、目を上げて寿賀の様子を窺い――。
と。
俺は俺で、言葉を失った。
なぜなら寿賀は怒りとは程遠い表情で、これ以上なく恥ずかしくて仕方がない様子で、耳と首まで真っ赤になった顔を、デカい左手の掌で覆っていたのだ。
「……寿賀?」
「あっ、か、勘違いか。そっか。ごめん」
怒鳴りもせず暴れもせず、寿賀は俺から目を逸らして半笑いで、赤い顔のまま言う。
「てっきり、水竹も俺のこと好きでいてくれてると思ってたから……」
……は?
「冬場のクソ寒い時とか特に、照明ついてからの練習すげぇ辛いけど、水竹見ててくれるから頑張ろうとか、そういう……励まされ……好かれてるのに気づいて嬉しくて、いや、気づいてっていうか勘違いだったけど、はは……」
何? どうした?
「他のグイグイ来る奴らと違って、水竹は俺の練習一番に考えてくれて、邪魔とか絶対しない感じに応援してくれてるって、そういうのがマジすげぇずっと嬉しかったんだけど」
……そうだけど。
練習中にグラウンドに潜り込んで奇声上げる他校含めた女子生徒とか、有名人の親友ポジ狙って休み時間に教室押しかけてくる手合いとか、そういう奴ら心底憎みながら、俺は絶対に寿賀には触らない――触れられないたったひとつの宝物みたいな気持ちで、勝手に、俺本当にキメェなって思いながらそういう気持ちで、いたのは、たしかだけど。
「引退したし、いつ声かけてくれるかなって思ってわざとひとりでいる時間作ってみたり……今日も、水竹いつもちょっと教室残ってから図書室行くの知ってて、一旦友達と駅まで帰ってから教室戻ってみたり、でも水竹もういないからガッカリしてボケーッと窓の外見て黄昏れてたり」
駄目だもうよく意味がわからない。寿賀マジで何言ってんの?
「なかなか声かけてくれないから、まだ周りに女子いるのとか気にしてんのかなと思ってさ。だから、俺も男が好きなんだって、半分以上水竹に対する答えみたいなつもりで……って、待て待て、ごめん、俺、今もしかしてものすごく限界まで気持ち悪いこと言ってるな……? 答えって何だ……? 別に水竹、俺のこと好きでも何でもないのに……?」
自問を経て、これ以上赤くなることもないだろうと思えるくらいだった寿賀の顔が、さらに赤くなる。破裂するのではと怖くなってきた。
「ってか、声かけてくれるの待つとか俺何様? っていう……やべぇ……今気づくとか……」
俺がひたすら呆気に取られてぽかんとバカみたいな顔をしていたら、宙を彷徨っていた寿賀の視線が俺を捉えた。でもそれがパッと一瞬で逸らされたかと思うと、
「わ、忘れて」
息も絶え絶えという調子で言い残し、寿賀が俺の横を擦り抜けて教室を出ようとする。
「待って」
気づいた時、俺の手は、そのブレザーの背中を鷲摑みにしていた。
「えっ?」
摑んでおきながら俺が驚いたような声を出してしまったからか、寿賀が振り向いた。
「えっ?」
俺は自分の行動にびっくりしていたし、寿賀も俺の行動にびっくりしていた。
「え……っと、寿賀、何、さっきの……」
狼狽して、おろおろと、俺はしどろもどろに言った
「何、とは?」
驚いたせいなのか、問い返す寿賀の顔色は、一割くらいマシになっていた。
九割まだ赤かったが。
「だから、一連の。俺が寿賀応援してて、それで寿賀が頑張れてた、とか……」
「――ああああ、ごめん、だからそれは俺の勘違いだから、忘れてほしくて」
寿賀がもはや両手で顔を覆ってしまった。
「……ごめん……」
俺は、寿賀の制服から手を離して俯く。
「――ごめん、とは?」
寿賀がこっちを覗き込もうとする気配を感じるが、百八十近い寿賀が百六十そこそこの俺の顔を見ようとしたら、しゃがみ込むしかないだろう。
「なんで水竹が謝んの?」
「……忘れるのとか無理っぽいから」
ぼそぼそと消え入りそうな小声で言う俺に、寿賀がちょっと自虐的に笑った気がする。
「水竹、ドS? 俺のこと殺そうとしてる?」
だからそういう台詞が寿賀の口から出るのが信じられなくて、忘れるとか、そんな、無理だ。
そこまで欲のない人間になれるわけがない。
「勘違いじゃない」
死にたい気分がどれほどやるせないものか身を以て知ってるから寿賀にそんなものを味わわせ続けたくないってだけじゃなくて、こんな冗談みたいな幸運を手放すもんかっていう理由で、俺は寿賀が聞き間違うことのないよう、できる限りはっきりした声で言った。
「……」
聞き返してこなかったから、寿賀にはちゃんと聞こえただろうし、意味は、わかったのだろう。
寿賀は地学と現社だけバカだけど、地頭いいっぽいし。勉強できるできないの以前に聡明で、観察眼とかすごくあって、空気読めて、そういうところが俺には憧れで、好きで、だから。――だから。
「寿賀が……寿賀も、俺のこと好きだなんて今日まで一回も思ったことなかったから、すごく驚いて、焦って、誤魔化そうとした。だから、ごめん」
「ひでぇ」
寿賀はさっきみたいに自虐の響きではなく、寿賀らしく明るい調子で笑いながら言った。
「でも、まあ、そうか。水竹が俺のこと好きなのは俺的に自明の理だったんだけど、俺は、水竹に何も言ってなかったもんな」
本当にまったくそうだよ。おまえの思考はどうなってんだよ。
「もしかして完全にヤバい奴でしかなかったか? 俺のさっきの言動……」
再び自問のような寿賀の呟きに、俺は遠慮なく、大きく頷いた。
「おまえ、そういうあしらいとか慣れてそうなのにな」
「あしらいって?」
「……女あしらい?」
俺は女じゃないけど、と多分今は野暮になりそうな言葉は飲み込みながら言うと、寿賀が大真面目な顔で俺を見た。
「慣れてると思うか? 夏まで、朝起きてから夜寝るまで、夢の中ですら野球のことしか考えてなかったのに」
「でも、彼女とっかえ引っ返してるって噂」
「マネージャーになって貢献した奴から俺に告白する権利を得るとかいう謎ルールの話か、もしかして」
「そ、そんなルールが」
「あったんだよ、俺も預かり知らぬところで。順番がきたマネージャーと次々勝手につき合ったことにされてたけど、違うって否定して回るのは相手に悪い気もして、放っておいたけど……」
まあ、優しいもんな、寿賀。
「マジで彼女作るとかつき合うとか、そんな暇なかったって。朝練やって昼もミーティングとか自主練で、放課後は暗くなるまで野球ばっかやっててさ」
「……それもそっか。あんな時間まで毎日毎日練習してるのに、休み時間はほとんど寝てたのに、実際そんな暇っていうか、体力もないよな」
見てたからわかってたはずなのに、寿賀に本当は彼女がいないことくらい。嫌いになりたくて、噂を鵜呑みにしようとしてしまっていた。
「とはいえ家に帰って飯喰ったら、案外体力は回復しちゃうんだよな」
「……マジ? すげぇな、運動部……」
「あ、でも、せっかく元気になったらその日の反省とか課題点の洗い出しとかやりたいから、やっぱそういう、女あしらいがどうとかなることに割く余裕は微塵もなくて」
また俺に彼女について疑いを持たれたくないのか、妙に言い訳っぽく言う寿賀に、ちょっと笑ってしまう。
「野球馬鹿」
俺が何だか妙に気安い気分で揶揄うように言ったら、寿賀がちょっとびっくりするくらい嬉しそうな顔になる。
眩しすぎて若干怯んでしまった。
「……何?」
「あんな時間まで毎日、って。やっぱり水竹、毎日見てくれてたんだな」
「――」
すでに語るに落ちているようなものだったけど、改めてそう指摘されると、今度は俺の方が全身赤くなってしまう。
寿賀の方はいつの間にか常識的な顔色に戻ってきていた。耳だけ相変わらず、赤いけど。
そうやって寿賀が全然嬉しそうなのを隠さないでいてくれるから、俺はいろんなこと怖がるのが、バカみたいに思えてきた。
「寿賀、俺のこと好きなの?」
そうやって口に出して訊けるのも、寿賀のおかげだ。
うん、と寿賀は迷いなく、素直に頷いた。
「甲子園行けたら告白しようと思ってた」
「何で……」
「甲子園は俺だけじゃない、野球部だけでもOBだけでもない、学校とか地域全体の夢になっちゃってたからさ。俺ひとりのことで浮かれて駄目になったらって思ったら怖くて。それまでは、ちゃんと野球に集中したかったんだ」
……何で甲子園行けたらって思ったのかじゃなくて、何で俺なんて好きなんだって、そう訊きたかったのに。
どこか寂しげに目を伏せる寿賀の様子に、訊けなくなってしまった。何も言えなくて口を噤む。
「でも結局、甲子園、駄目だったろ。勝負に負けたのに告白するのとか、どうも、こう……」
弱気になってたってことだろうか。あの、寿賀が?
「それで俺から言うの、待ってたのか」
「一日千秋の想いで」
頷く寿賀は、迷いないというか、悪怯れない。
野球と天秤にかけてこっちを放っておいたくせに、こっちから告白してほしいなんて、虫が良すぎやしないか――とか。
責める言葉も浮かんだのに、これも口にはできない。
だって、嬉しかったから。
今もってなお半分以上、いや九割くらい信じられないし、やっぱり何で俺なんかをとしか思えないけど、それでも、このチャンスを逃すほど愚かにはなれないから。
「……かっこよくて好きだった」
死に物狂いの勇気を振り絞って告白する。
「……県大の決勝で負けて甲子園に行けなくて、かっこ悪かったから、嫌いになった?」
なのにこのバカが真剣な顔で問い返すので、緊張とか吹き飛んで、笑ってしまう。
「負けたのがかっこ悪いなんて、全然思わないけど」
「……そうかな。いろんな人ガッカリさせたよ。保護者とか、先生たちとか、OBとか、顧問とか、コーチとか、部外の生徒とか、地元の人たちとか」
勝手に応援して、勝手に期待して、勝手に失望して好き放題なことを寿賀に聞こえるところや聞こえないところで散々言ってた奴が驚くくらい多かったのを、知ってる。知りたくないのに聞こえて来るし見えてしまうから知ってる。
その一人一人を滅茶苦茶に罵ってやりたかった。
「別にそれで、寿賀がかっこよかったことが帳消しになるわけじゃないだろ」
今みたいに苦笑いする寿賀を目の当たりにしたら、どうしてそうしておかなかったんだって、後悔しかない。
「寿賀は、勝ちたかっただろうけど。チームの奴らと一緒に甲子園行きたいって本気で思ってただろうから、頑張ったことは無駄にならないとか、そういうこと言いたいわけじゃない。でも事実は消えないだろ。寿賀は頑張ったし、かっこよかった。俺はそういう寿賀見て、す……好きに、なって、だからそういうのを寿賀になかったことにされたらムカつくって話を、単にしていて」
「そっかぁ」
俺の必死の熱弁を前に、寿賀はまた嬉しそうな顔で一言言って――その表情が、不意に、崩れた。
照れたように笑った顔が、泣きそうに歪んでいった。
「やべ」
慌てて、取り繕うように寿賀が笑みを浮かべる。片手で顔を覆って、俺から目を逸らそうとする。
……寿賀、ずっと、泣かなかったもんな。
県大会の決勝戦が終わったあととか。部外者の俺は、そういう、見えるところでしか見れてなかったけど、でもそれ以外でも、仲間の前では泣かなかっただろうなと思う。
泣けば周りを責めているようになってしまうから。
うちの学校、寿賀以外の投手は大したことがなかった。というか寿賀以外の選手にこれといってすごい奴は結局集まらなかった。寿賀以前のうちの学校のことを考えれば、それでも奇蹟的にまともな選手が集まったんだろうけど。でも寿賀並のスター選手なんて一人もいないまま、平均的にそこそこって選手が、寿賀にひっぱられてどうにか中堅校くらいの扱いになっていたのだ。
それを、チームの奴らはわかっていただろう。寿賀の周りにいるのはいい奴ばっかりだった。さっき寿賀の言った「ガッカリさせた」人の中に、チームメイトは入ってなかったもんな。
寿賀の仲間はみんな、文字通り部外者とか、無責任な大人たちみたいに、ふわふわと夢を見ていたわけじゃない。
ただ、寿賀がみんなを甲子園に連れて行きたかったみたいに、みんなも寿賀を甲子園に連れて行きたくて、キツい練習も寿賀の姿を見て必死に頑張ってた。
っていうのを、寿賀を見ていた俺はすごくよくわかってた。
だから、決勝戦で一点も取れなかった選手の気持ちとか。エラーで連続失点してしまった野手のこととか。あんまり寿賀を休ませてやれなかった控えの投手たちのこととか、ベンチに入れなかった部員のこととか、俺ですら考えるとキツいのに、寿賀がそいつらのこと考えなかったわけがない。
寿賀が悲しめばそいつらが自分を責めて、周りもそいつらを責めて、ろくなことにならないの、頭がよくて優しい寿賀はわかってたから、泣かなかった――泣けなかった。
とか、全部、そんなの、まあ俺の勝手な想像だけど。
でもあながち外れてないだろうなっていう妙な自信がある。
そしてそんな寿賀が、胸が苦しくなるくらい、可哀想で、愛しくて、苦しくて、俺の前でも泣くの我慢しようとしてる様子に、どうにもならないくらい腹が立った。
「泣けばいいだろ」
ムカついて仕方なかったけど、生まれてこの方出した覚えもないような優しい声が出せた自分を褒めてやりたい。
仕種も精一杯優しくなるようにと、細心の注意を払って寿賀の頭を撫でると、寿賀がびっくりした顔でいっぱいに目を瞠ってこっちを見た。
俺も驚いて、咄嗟に手を引いてしまう。
すると寿賀が、ちょっと身を屈めて、こっちに頭を差し出すようにして、
「もっと撫でて」
とか、甘えた声で吐かしやがる。
「何か、水竹なら、こういうの見てもかっこ悪いって思わずにいてくれる気がしたから」
続く声音はちょっと照れ臭そうで、また耳が赤い。
「思わねぇよ、バーカ」
こちとらどれだけおまえのこと見てきたと思ってんだよ。
そう思いながら、自分だって泣きそうなのを堪えて、坊主だった時代なんて忘れたみたいに柔らかくてさらさらの寿賀の髪を、俺は気がすむまで撫で続けた。