自分が佐山を誘い続けている限り、沙和子に言い寄るチャンスはない。
そう理由づけて、秋口は翌日も佐山に声をかけた。
「ごめん、今日は残業してかないと」
昼休みに食堂で見かけた時に「帰りにまたどこかへ寄らないか」と誘った秋口に、佐山は定食のトレイを手に申し訳なさそうな顔でそう答えた。
「そうですか、じゃあ仕方ないか」
まさか断られるなんて、まったく思っていなかった秋口は、少々鼻白んだ。というか、多少ながらにプライドが傷ついた。自分から誘った相手に断られるなんて生まれて初めての経験だ。これまで相手はすべて自分好みの女だった、という違いを除いては。
などという内心を悟られるような愚は犯さず、秋口は軽く笑みを浮かべると、自分も食事を頼むためにカウンタへ向かおうとした。
「あ、秋口」
立ち去ろうとしたところを、佐山に呼び止められた。
「今日と明日は無理だけど、明後日なら多分一段落ついて少し時間があるんだ。明後日はどうかな」
「いいですよ、忙しいのなら、無理しなくても」
佐山の仕事が手一杯なのは秋口も実は承知していた。その上で、なぜか佐山が自分の誘いを断るなんて予測もしていなかったのだ。
「秋口の都合がよければ、この間のところにもう一回行きたいんだ。料理、ひとつしか食べられなかっただろ。他のも試してみたくて」
秋口の機嫌を取るふうでもなく(そもそもそうしなければいけない理由はない、と秋口にもわかっているが)、笑いもせず、かといって突慳貪でもない不思議な調子で、佐山が言った。あえて言えば『自然な調子』だった。
「じゃあ……明後日」
断る理由は秋口にはないのだ。そもそも最初に誘ったのは自分の方だし、沙和子が佐山につけいる隙を与えないのが目的なのだから。
「明後日の仕事が終わったら連絡する」
最後にちょっとだけ笑って、佐山はトレイを持って座席を捜しに行ってしまった。
「秋口さん! おひとりでしたら、ご一緒していいですかぁ?」
その姿を何となく立ちっぱなしで眺めていたら、見覚えのある女子社員に声を掛けられた。反射的に頷くと、次から次へと他の女たちもやってくる。「まぁたやってるよあいつ」と聞こえよがしにやっかんだ男性社員の声がどこかから聞こえた。いつもならそれに優越感を覚える秋口だったのに、今はどうしてかあまり気にすることができなかった。
そうしてその翌々日に秋口は約束どおり佐山と一緒に前回と同じ店に赴き、前回と同じように料理を食べ、他愛ない話をして時間を過ごした。
佐山はあまり饒舌に語ることがなかったが、相槌を打つ調子やタイミングが落ち着いていて、どことなく秋口には心地いい。秋口が水を向ければ自分のこともなめらかに話した。
「免許は持ってるけど車は持ってないんだ、住んでるところは駐車場がないし、維持する自信もないし」
「金がないってわけじゃないんでしょう?」
「ガス代とか車検とかはいいんだけど、手入れがなあ……」
「人任せにすればいいのに。部屋にしろ、最近は何でもやってくれる業者があるじゃないですか」
「片づけない割に、人に手を入れられるのが嫌なんだよ。我儘なんだ」
佐山は相変わらず食が細く、注文したカレーをちょっとずつ口に運んでいる。秋口の方はピザやら、カルパッチョやら、サラダまで平らげた上、さらに追加しようかとメニューを手にしている状態。
「佐山さんが我儘っていうのも、あんまりピンと来ないですけどねえ」
「秋口は免許持ってないのか?」
「運転するよりさせる方が好きです」
「らしいなあ」
笑って、ゆっくりゆっくりとスプーンを口に運ぶ佐山を眺めているのは、何となくおもしろかった。喋り方にしろ、食べ方にしろ、佐山はやっぱり『マイペース』だ。
それが、そう不快ではなくなっている自分に、秋口は気づいている。
(そうぼんやりってわけでもないんだ)
早口ではないだけで、話す内容はひとつひとつに手応えがある気がした。佐山は人の話を聞くのがうまいようで、秋口が言ったことをすぐに把握したし、的確に答えを返してくる。ちょっと捻ったジョークを言ってみても、お愛想ではなく小さく笑い声を立てた。多分、自分が思っていたよりもずっと頭のいい人なのだろうと、秋口は自分の安易な評価を少々反省した。
自分の気に入られようと何にでも過剰に相槌を打つ女より、派手な自分に気後れしたり、内心で嫉妬心と蔑みの入り交じった微妙な感情を持って当たり障りない会話しかできない男より、佐山の声を聞いている方が楽しいことに気づいてしまう。
そういえば何で自分はこの人のことを嫌ってたんだっけ、と考えて、秋口はようやく沙和子のことを思い出した。
「佐山さんは――」
追加の料理を頼み、それがやってくるまで皿もグラスも空になった隙間の時間、さり気ない調子で秋口は佐山に呼びかけた。
「こないだ、部屋片づけてくれる人はいないって言ってたけど、じゃあ今、恋人とか、好きな人っていないんですか」
さり気ない質問だったつもりなのに、佐山がカレースプーンを手にしたまま軽く噎せ返ったので、秋口は驚いた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
佐山は涙目になって、おしぼりで口許を押さえた。結構な辛さのカレーが気管にでも入ってしまったのか、咳払いをしたり、水を飲んだりしても収まらないようで、俯いて何度も噎せている。辛さのせいか苦しさのせいか涙も止まらず、佐山は眼鏡を取っておしぼりで目尻を押さえている。
(やっぱりこの人、トロいのか)
気持ちの上っ面でそんなことを考えつつ、秋口は眼鏡を取った佐山の顔に、視線を釘付けにした。
(……やっぱりこの人、眼鏡取ったらまともな顔してる気がするんだけど)
元々童顔なのが、目許を赤くして涙目になっている様子は、とても三十代を間近にした男のものとは思われなかった。大学生だって、今どきもっと男臭いだろう。
佐山が噎せている間に追加の料理と酒がやってきて、「大丈夫だから食べてくれ」と佐山に仕種で言われてから、秋口は自分がずいぶんまじまじとその様子を眺めていたことに思い至った。
「ああ……苦しかった」
ようやく収まったのか、洟を啜りつつ、佐山がひとり呟いている。再び眼鏡を掛ける佐山に、
(勿体ない)
と秋口はぼんやり思った。
「佐山さん、結構目、悪いんですか」
「え? ああ、そうだな、子供の頃から割合」
「コンタクトにすればいいのに。眼鏡、重くありません」
自分の言葉で佐山がコンタクトに変えたらおもしろい――などと算段する自分の気持ちが、秋口にはいまいちよくわからない。
「昔ちょっとだけコンタクトつけてたことあるんだけど、目に合わなかったんだ。アレルギーっぽくって」
「勿体ないなあ」
「そうだな、最近はコンタクトもだいぶ安くなってるし」
再びスプーンを手にした佐山に、秋口はつい苦笑する。会話しやすく勘のいい人だ、と思ったのは撤回すべきか。
「コストの問題じゃなくて、眼鏡ない方がまだ見栄えするんじゃないかってことですよ」
「まあ……今さら何をどうしようと秋口ほどには」
微妙な空気になってしまった。
(まだ、とかわざわざつける必要はなくて)
やっぱりどうも未だに、癖のように佐山に対して嫌味な言い回しをしてしまう。怒らない佐山は大人だ。
(……別に普通に褒めたってよかったのに)
成り行き上とはいえ恋敵を、手放しで褒めるのはどことなく口惜しい。最初から余計なことを言わなけりゃよかったと秋口は後悔した。
その後はあまり会話の弾むこともなく、秋口の追加料理と佐山のカレーを同時に食べ終え、何となくお開きの流れになった。
今日はそれぞれの代金を自分で支払った。佐山と並んで店を出ながら、秋口は「あ」と思い出して声を上げた。隣の佐山が秋口の方を見る。
「どうした?」
「さっきの質問の答え、結局聞いてませんでしたよね」
前回よりも長く話し込んでいたせいで、今日はもう少し遅い時間になっていた。曇って星も出ていない路地を、大通りに向かって並んで歩く。
「さっき?」
腕時計で時間をたしかめながら、佐山が問い返した。
「恋人か、好きな人はいないのかって」
暗くて文字盤がよく見えないのか、佐山の視線は時計に落ちたままだ。
「……いる。……かな」
ぽつりと、小さな声が聞こえて、秋口は佐山の方を見た。俯いた佐山の顔はよく見えなかった。
「……恋人が?」
まだ左腕を見たまま、佐山が微かに首を横に振る。
秋口は少しぎくりとした。
「好きな人が?」
今度は、佐山は何も答えなかった。
「じゃあ、俺はこっちだから」
佐山は会社最寄りの駅方面を指さし、やっと左腕を下ろした。まだ何となく俯いている。自分から離れたそうにしている佐山を引き留めるように、秋口は再び口を開いた。
「うちの会社の人ですか?」
沙和子か、と訊ねればやぶ蛇になりそうで、秋口はぼかした訊き方をする。どっちにしろ、佐山が沙和子に未練があるとは、秋口には思えなかった。そうだったら、沙和子があんなに躍起にならなくたってすむ話だ。
「ごめん、秘密」
佐山が困ったように小さく笑った。
秋口は微かにムッとする。
「信用ないなあ、俺には話せないってことです?」
我ながら白々しい台詞だと思いつつ、まるで一昨日の昼に誘いを断られた時と同じ気分で、秋口はそう訊ねた。
「誰にも秘密だよ、聞いておもしろいもんでもないだろ」
「御幸さんにも?」
「御幸は……バレた」
小さい声で、珍しく早口にそう言うと、佐山は逃げ出すように「それじゃ」と駅に向かって歩き出した。
追いかけて腕を掴んで問いつめてやりたい気がしたが、そうする上手い言い訳が思いつかず、秋口は諦めて自分も帰宅の途についた。
そう理由づけて、秋口は翌日も佐山に声をかけた。
「ごめん、今日は残業してかないと」
昼休みに食堂で見かけた時に「帰りにまたどこかへ寄らないか」と誘った秋口に、佐山は定食のトレイを手に申し訳なさそうな顔でそう答えた。
「そうですか、じゃあ仕方ないか」
まさか断られるなんて、まったく思っていなかった秋口は、少々鼻白んだ。というか、多少ながらにプライドが傷ついた。自分から誘った相手に断られるなんて生まれて初めての経験だ。これまで相手はすべて自分好みの女だった、という違いを除いては。
などという内心を悟られるような愚は犯さず、秋口は軽く笑みを浮かべると、自分も食事を頼むためにカウンタへ向かおうとした。
「あ、秋口」
立ち去ろうとしたところを、佐山に呼び止められた。
「今日と明日は無理だけど、明後日なら多分一段落ついて少し時間があるんだ。明後日はどうかな」
「いいですよ、忙しいのなら、無理しなくても」
佐山の仕事が手一杯なのは秋口も実は承知していた。その上で、なぜか佐山が自分の誘いを断るなんて予測もしていなかったのだ。
「秋口の都合がよければ、この間のところにもう一回行きたいんだ。料理、ひとつしか食べられなかっただろ。他のも試してみたくて」
秋口の機嫌を取るふうでもなく(そもそもそうしなければいけない理由はない、と秋口にもわかっているが)、笑いもせず、かといって突慳貪でもない不思議な調子で、佐山が言った。あえて言えば『自然な調子』だった。
「じゃあ……明後日」
断る理由は秋口にはないのだ。そもそも最初に誘ったのは自分の方だし、沙和子が佐山につけいる隙を与えないのが目的なのだから。
「明後日の仕事が終わったら連絡する」
最後にちょっとだけ笑って、佐山はトレイを持って座席を捜しに行ってしまった。
「秋口さん! おひとりでしたら、ご一緒していいですかぁ?」
その姿を何となく立ちっぱなしで眺めていたら、見覚えのある女子社員に声を掛けられた。反射的に頷くと、次から次へと他の女たちもやってくる。「まぁたやってるよあいつ」と聞こえよがしにやっかんだ男性社員の声がどこかから聞こえた。いつもならそれに優越感を覚える秋口だったのに、今はどうしてかあまり気にすることができなかった。
そうしてその翌々日に秋口は約束どおり佐山と一緒に前回と同じ店に赴き、前回と同じように料理を食べ、他愛ない話をして時間を過ごした。
佐山はあまり饒舌に語ることがなかったが、相槌を打つ調子やタイミングが落ち着いていて、どことなく秋口には心地いい。秋口が水を向ければ自分のこともなめらかに話した。
「免許は持ってるけど車は持ってないんだ、住んでるところは駐車場がないし、維持する自信もないし」
「金がないってわけじゃないんでしょう?」
「ガス代とか車検とかはいいんだけど、手入れがなあ……」
「人任せにすればいいのに。部屋にしろ、最近は何でもやってくれる業者があるじゃないですか」
「片づけない割に、人に手を入れられるのが嫌なんだよ。我儘なんだ」
佐山は相変わらず食が細く、注文したカレーをちょっとずつ口に運んでいる。秋口の方はピザやら、カルパッチョやら、サラダまで平らげた上、さらに追加しようかとメニューを手にしている状態。
「佐山さんが我儘っていうのも、あんまりピンと来ないですけどねえ」
「秋口は免許持ってないのか?」
「運転するよりさせる方が好きです」
「らしいなあ」
笑って、ゆっくりゆっくりとスプーンを口に運ぶ佐山を眺めているのは、何となくおもしろかった。喋り方にしろ、食べ方にしろ、佐山はやっぱり『マイペース』だ。
それが、そう不快ではなくなっている自分に、秋口は気づいている。
(そうぼんやりってわけでもないんだ)
早口ではないだけで、話す内容はひとつひとつに手応えがある気がした。佐山は人の話を聞くのがうまいようで、秋口が言ったことをすぐに把握したし、的確に答えを返してくる。ちょっと捻ったジョークを言ってみても、お愛想ではなく小さく笑い声を立てた。多分、自分が思っていたよりもずっと頭のいい人なのだろうと、秋口は自分の安易な評価を少々反省した。
自分の気に入られようと何にでも過剰に相槌を打つ女より、派手な自分に気後れしたり、内心で嫉妬心と蔑みの入り交じった微妙な感情を持って当たり障りない会話しかできない男より、佐山の声を聞いている方が楽しいことに気づいてしまう。
そういえば何で自分はこの人のことを嫌ってたんだっけ、と考えて、秋口はようやく沙和子のことを思い出した。
「佐山さんは――」
追加の料理を頼み、それがやってくるまで皿もグラスも空になった隙間の時間、さり気ない調子で秋口は佐山に呼びかけた。
「こないだ、部屋片づけてくれる人はいないって言ってたけど、じゃあ今、恋人とか、好きな人っていないんですか」
さり気ない質問だったつもりなのに、佐山がカレースプーンを手にしたまま軽く噎せ返ったので、秋口は驚いた。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫」
佐山は涙目になって、おしぼりで口許を押さえた。結構な辛さのカレーが気管にでも入ってしまったのか、咳払いをしたり、水を飲んだりしても収まらないようで、俯いて何度も噎せている。辛さのせいか苦しさのせいか涙も止まらず、佐山は眼鏡を取っておしぼりで目尻を押さえている。
(やっぱりこの人、トロいのか)
気持ちの上っ面でそんなことを考えつつ、秋口は眼鏡を取った佐山の顔に、視線を釘付けにした。
(……やっぱりこの人、眼鏡取ったらまともな顔してる気がするんだけど)
元々童顔なのが、目許を赤くして涙目になっている様子は、とても三十代を間近にした男のものとは思われなかった。大学生だって、今どきもっと男臭いだろう。
佐山が噎せている間に追加の料理と酒がやってきて、「大丈夫だから食べてくれ」と佐山に仕種で言われてから、秋口は自分がずいぶんまじまじとその様子を眺めていたことに思い至った。
「ああ……苦しかった」
ようやく収まったのか、洟を啜りつつ、佐山がひとり呟いている。再び眼鏡を掛ける佐山に、
(勿体ない)
と秋口はぼんやり思った。
「佐山さん、結構目、悪いんですか」
「え? ああ、そうだな、子供の頃から割合」
「コンタクトにすればいいのに。眼鏡、重くありません」
自分の言葉で佐山がコンタクトに変えたらおもしろい――などと算段する自分の気持ちが、秋口にはいまいちよくわからない。
「昔ちょっとだけコンタクトつけてたことあるんだけど、目に合わなかったんだ。アレルギーっぽくって」
「勿体ないなあ」
「そうだな、最近はコンタクトもだいぶ安くなってるし」
再びスプーンを手にした佐山に、秋口はつい苦笑する。会話しやすく勘のいい人だ、と思ったのは撤回すべきか。
「コストの問題じゃなくて、眼鏡ない方がまだ見栄えするんじゃないかってことですよ」
「まあ……今さら何をどうしようと秋口ほどには」
微妙な空気になってしまった。
(まだ、とかわざわざつける必要はなくて)
やっぱりどうも未だに、癖のように佐山に対して嫌味な言い回しをしてしまう。怒らない佐山は大人だ。
(……別に普通に褒めたってよかったのに)
成り行き上とはいえ恋敵を、手放しで褒めるのはどことなく口惜しい。最初から余計なことを言わなけりゃよかったと秋口は後悔した。
その後はあまり会話の弾むこともなく、秋口の追加料理と佐山のカレーを同時に食べ終え、何となくお開きの流れになった。
今日はそれぞれの代金を自分で支払った。佐山と並んで店を出ながら、秋口は「あ」と思い出して声を上げた。隣の佐山が秋口の方を見る。
「どうした?」
「さっきの質問の答え、結局聞いてませんでしたよね」
前回よりも長く話し込んでいたせいで、今日はもう少し遅い時間になっていた。曇って星も出ていない路地を、大通りに向かって並んで歩く。
「さっき?」
腕時計で時間をたしかめながら、佐山が問い返した。
「恋人か、好きな人はいないのかって」
暗くて文字盤がよく見えないのか、佐山の視線は時計に落ちたままだ。
「……いる。……かな」
ぽつりと、小さな声が聞こえて、秋口は佐山の方を見た。俯いた佐山の顔はよく見えなかった。
「……恋人が?」
まだ左腕を見たまま、佐山が微かに首を横に振る。
秋口は少しぎくりとした。
「好きな人が?」
今度は、佐山は何も答えなかった。
「じゃあ、俺はこっちだから」
佐山は会社最寄りの駅方面を指さし、やっと左腕を下ろした。まだ何となく俯いている。自分から離れたそうにしている佐山を引き留めるように、秋口は再び口を開いた。
「うちの会社の人ですか?」
沙和子か、と訊ねればやぶ蛇になりそうで、秋口はぼかした訊き方をする。どっちにしろ、佐山が沙和子に未練があるとは、秋口には思えなかった。そうだったら、沙和子があんなに躍起にならなくたってすむ話だ。
「ごめん、秘密」
佐山が困ったように小さく笑った。
秋口は微かにムッとする。
「信用ないなあ、俺には話せないってことです?」
我ながら白々しい台詞だと思いつつ、まるで一昨日の昼に誘いを断られた時と同じ気分で、秋口はそう訊ねた。
「誰にも秘密だよ、聞いておもしろいもんでもないだろ」
「御幸さんにも?」
「御幸は……バレた」
小さい声で、珍しく早口にそう言うと、佐山は逃げ出すように「それじゃ」と駅に向かって歩き出した。
追いかけて腕を掴んで問いつめてやりたい気がしたが、そうする上手い言い訳が思いつかず、秋口は諦めて自分も帰宅の途についた。
◇◇◇
その次の日も秋口から夕食を誘ったら、佐山はふたつ返事で了承した。女相手の時みたいに駆け引きがいらなくて、接待みたいに気を遣う必要もないから、佐山と一緒にいるのは、秋口にとっていつの間にか心地のいいものになっていた。
あんな態度を取っておいて都合がいい――とは秋口も思ったものの、佐山の方は特にそれを気にしているふうもなく、それで余計秋口は気安い気分になっていた。
せっかくのアフターに男ふたりってのはどうなのか、ともやっぱり思うのだが。
「別に、教えてくれたっていいじゃないですか。言いふらしたりしませんよ」
三度目もやはり佐山の希望で同じ店、三回連続同じ席へ案内された秋口は、向かいに座った佐山へと喰い下がった。
今日も話のついでに「佐山さんの好きな人って?」と訊ねてみたのに、佐山はまた困った顔になって、煙草を吸うふりで黙り込んでしまった。
「かたくなだなあ」
頑固に答えを教えてくれない佐山に、秋口はひっそりとムキになってしまう。他人の言うことになんて、もっと唯々諾々と従うと思ったのに、佐山はどうやったって答えてはくれない。
「いいだろ、俺の話は。秋口なんかにしたら、つまらないことだよ」
しつこく訊ねる秋口に、困り果てた様子で、佐山がようやくそれだけ答えた。
「猫みたいな人だな」
「猫?」
秋口のたとえがよくわからなかったようで、佐山がスプーンを手に軽く首を傾げる。今日の佐山は、秋口が最初の時に頼んだのと同じフォーを食べてた。相変わらず秋口だけがビールを飲んでいる。
「猫って、相手を他人に悟らせないようにするって言うでしょ。結構、秘密主義?」
「そういうわけでもないけど」
困った顔をするだけで、佐山はどうしても答えを秋口に教えてはくれなかった。
週末を挟んで次の月曜日には、ランチを食べる佐山の向かいに強引に座っておいて、同じことを訊ねてみたが、結果は同じだった。
その月曜の帰り、定時を少し過ぎた後に会社を出ようとした秋口は、沙和子に捕まった。
「狡いわ、秋口君」
沙和子は綺麗な顔に、少し困惑と苛立ちを紛れさせた表情で、秋口を睨んだ。すでに制服から通勤用の服に着替えている。
「今日も佐山さんを誘ったの?」
秋口と佐山が並んで会社を出る姿は目立つらしく、「最近仲がいいのね」と他の社員たちからも不思議そうな声が上がっている。一緒の仕事もしているのだから、ふたりが揃って飲みにいったところで不思議はないはずなのに、派手な秋口とまじめな佐山が連れ立っていることが、周りの目には珍しく映るらしい。
沙和子も、秋口の方から佐山に声をかけているということを承知しているようだった。食堂で話す秋口の声に聞き耳を立てる女子社員は、ひとりやふたりじゃない。そして、社内を流れる噂の速さは通勤快速より速いのだ。
「今日は残業だそうです、俺もこれから打ち合わせがあるし」
沙和子の責めるような言葉に、秋口はわざとはぐらかした答えを返した。
「声、かけようと思ってるのに。先に秋口君が約束しちゃうんだもの」
上手く沙和子の出鼻を挫いた格好になったらしい。秋口は内心でほくそ笑んだ。
「俺とデート一回してくれたら、佐山さんを一回誘うの我慢してあげますよ」
いい取り引きのつもりで言った秋口に、沙和子はますます表情を曇らせた。
「子供ね」
沙和子がそう言って開いた口を、不意に閉ざした。彼女が自分の後ろを見て気まずそうな表情になったのを見て、秋口もつられて振り返る。
廊下のちょっと後ろ、曲がり角からやってきたらしい御幸が立っていた。
「通っていい?」
「ええ」
沙和子が頷き、秋口と御幸に頭を下げて、足早に玄関の方へと去っていった。
(……聞かれたか?)
佐山の名前が出ていた会話。佐山本人の次に、彼と親しい御幸には聞かれたくなかった。
「子供ね」
自分もさっさと会社を出たかったが、駅に向かう沙和子と同じ道なのは気まずかったので、少し間を置かなくてはと思う秋口の耳に、溜息と呟きが届いた。
ばつの悪い気分で、秋口は御幸のことを見遣った。
「――か。雛川さんはさらっと大人だよな」
「聞いてたんですか」
「聞こえてたんだよ」
秋口を見返す御幸の眼差しは、明らかに怒りが滲んでいたし、不愉快そうだった。
友人が当て馬に利用されていることを簡単に察して、腹を立てているのだろう。
「雛川さんと俺の問題ですよ」
牽制のつもりで言った秋口の台詞に、御幸は呆れた顔になりつつも頷きを返した。
「好きにしろよ、俺はおまえに何を言うつもりもないから」
御幸の反応が、秋口には少し意外だった。
「怒らないんですか?」
「俺が怒る筋合いでもないだろ。雛川さんと秋口の、秋口と佐山の問題だ」
「結構、冷たいんですね」
御幸はますます呆れた顔になった。
「おまえが言うことじゃないと思うぞ、それは」
それもそうだ、と秋口は肩を竦める。その様子を眺める御幸の目は冷たい。
「佐山は大人だよ、おまえと違ってな。俺がいちいちくちばしを突っ込まなくたって、自分のことなら自分で対処する。まあ、秋口はあとで痛い目に遇わないよう、ほどほどにしておけよ」
それだけ言って、御幸は秋口を追い越し去っていった。
「痛い目、ねえ?」
それがどんなことかなんて、秋口には想像もつかなかった。どう考えたって沙和子のことで佐山に出し抜かれるなんて思えなかったのだ。
あんな態度を取っておいて都合がいい――とは秋口も思ったものの、佐山の方は特にそれを気にしているふうもなく、それで余計秋口は気安い気分になっていた。
せっかくのアフターに男ふたりってのはどうなのか、ともやっぱり思うのだが。
「別に、教えてくれたっていいじゃないですか。言いふらしたりしませんよ」
三度目もやはり佐山の希望で同じ店、三回連続同じ席へ案内された秋口は、向かいに座った佐山へと喰い下がった。
今日も話のついでに「佐山さんの好きな人って?」と訊ねてみたのに、佐山はまた困った顔になって、煙草を吸うふりで黙り込んでしまった。
「かたくなだなあ」
頑固に答えを教えてくれない佐山に、秋口はひっそりとムキになってしまう。他人の言うことになんて、もっと唯々諾々と従うと思ったのに、佐山はどうやったって答えてはくれない。
「いいだろ、俺の話は。秋口なんかにしたら、つまらないことだよ」
しつこく訊ねる秋口に、困り果てた様子で、佐山がようやくそれだけ答えた。
「猫みたいな人だな」
「猫?」
秋口のたとえがよくわからなかったようで、佐山がスプーンを手に軽く首を傾げる。今日の佐山は、秋口が最初の時に頼んだのと同じフォーを食べてた。相変わらず秋口だけがビールを飲んでいる。
「猫って、相手を他人に悟らせないようにするって言うでしょ。結構、秘密主義?」
「そういうわけでもないけど」
困った顔をするだけで、佐山はどうしても答えを秋口に教えてはくれなかった。
週末を挟んで次の月曜日には、ランチを食べる佐山の向かいに強引に座っておいて、同じことを訊ねてみたが、結果は同じだった。
その月曜の帰り、定時を少し過ぎた後に会社を出ようとした秋口は、沙和子に捕まった。
「狡いわ、秋口君」
沙和子は綺麗な顔に、少し困惑と苛立ちを紛れさせた表情で、秋口を睨んだ。すでに制服から通勤用の服に着替えている。
「今日も佐山さんを誘ったの?」
秋口と佐山が並んで会社を出る姿は目立つらしく、「最近仲がいいのね」と他の社員たちからも不思議そうな声が上がっている。一緒の仕事もしているのだから、ふたりが揃って飲みにいったところで不思議はないはずなのに、派手な秋口とまじめな佐山が連れ立っていることが、周りの目には珍しく映るらしい。
沙和子も、秋口の方から佐山に声をかけているということを承知しているようだった。食堂で話す秋口の声に聞き耳を立てる女子社員は、ひとりやふたりじゃない。そして、社内を流れる噂の速さは通勤快速より速いのだ。
「今日は残業だそうです、俺もこれから打ち合わせがあるし」
沙和子の責めるような言葉に、秋口はわざとはぐらかした答えを返した。
「声、かけようと思ってるのに。先に秋口君が約束しちゃうんだもの」
上手く沙和子の出鼻を挫いた格好になったらしい。秋口は内心でほくそ笑んだ。
「俺とデート一回してくれたら、佐山さんを一回誘うの我慢してあげますよ」
いい取り引きのつもりで言った秋口に、沙和子はますます表情を曇らせた。
「子供ね」
沙和子がそう言って開いた口を、不意に閉ざした。彼女が自分の後ろを見て気まずそうな表情になったのを見て、秋口もつられて振り返る。
廊下のちょっと後ろ、曲がり角からやってきたらしい御幸が立っていた。
「通っていい?」
「ええ」
沙和子が頷き、秋口と御幸に頭を下げて、足早に玄関の方へと去っていった。
(……聞かれたか?)
佐山の名前が出ていた会話。佐山本人の次に、彼と親しい御幸には聞かれたくなかった。
「子供ね」
自分もさっさと会社を出たかったが、駅に向かう沙和子と同じ道なのは気まずかったので、少し間を置かなくてはと思う秋口の耳に、溜息と呟きが届いた。
ばつの悪い気分で、秋口は御幸のことを見遣った。
「――か。雛川さんはさらっと大人だよな」
「聞いてたんですか」
「聞こえてたんだよ」
秋口を見返す御幸の眼差しは、明らかに怒りが滲んでいたし、不愉快そうだった。
友人が当て馬に利用されていることを簡単に察して、腹を立てているのだろう。
「雛川さんと俺の問題ですよ」
牽制のつもりで言った秋口の台詞に、御幸は呆れた顔になりつつも頷きを返した。
「好きにしろよ、俺はおまえに何を言うつもりもないから」
御幸の反応が、秋口には少し意外だった。
「怒らないんですか?」
「俺が怒る筋合いでもないだろ。雛川さんと秋口の、秋口と佐山の問題だ」
「結構、冷たいんですね」
御幸はますます呆れた顔になった。
「おまえが言うことじゃないと思うぞ、それは」
それもそうだ、と秋口は肩を竦める。その様子を眺める御幸の目は冷たい。
「佐山は大人だよ、おまえと違ってな。俺がいちいちくちばしを突っ込まなくたって、自分のことなら自分で対処する。まあ、秋口はあとで痛い目に遇わないよう、ほどほどにしておけよ」
それだけ言って、御幸は秋口を追い越し去っていった。
「痛い目、ねえ?」
それがどんなことかなんて、秋口には想像もつかなかった。どう考えたって沙和子のことで佐山に出し抜かれるなんて思えなかったのだ。
◇◇◇
週末、金曜日にも秋口は佐山を誘った。昼休みでは沙和子が佐山に話しかける隙ができてしまうかと思って、駅から会社に行く道のりで姿を見かけたのを幸い、約束を取りつけることに成功した。
「でも、いいのか。俺とばっかり食べに行って……その、他の人の約束とか」
会社に向かって並んで歩きつつ、佐山が遠慮がちにそう言った。佐山を最初に誘った日以来、秋口は他の人間と夜に出かけたことがない。同じ会社の女子社員も、メールや携帯電話で連絡を取り合うような他の相手も、声をかけられてもすべて上手く断った。今のところ沙和子を落とせないのなら秋口にとって意味はなく、沙和子に声をかけられても怒って睨まれてしまうのだから仕方がない。
(でもこれ、いつまでやってりゃいいんだ?)
沙和子と佐山が縒りを戻すことを場当たり的に阻止することはできても、結局沙和子の不興を買うだけで、彼女の中で秋口の株が上がるわけもない。むしろ下がる一方だ。
沙和子が佐山のことを諦めるまで佐山を誘い続けるしかないのか、と秋口はいささかげんなりしつつ、今日も佐山と一緒にいつもの店へと向かった。
「あれ、何だかものすごく並んでないか?」
ビルに入り、店のある二階へ向かう途中の階段に、客が行列を作っていた。これまで多少店の中で待たされることはあっても、外にまで客が列を成しているところなんて秋口は初めて見た。隠れ家的な穴場だったのだ。
「申し訳ございません、一時間ほどお待ちいただくことになると思いますが……」
客の名前を順番にメモしている店員が、秋口たちに声をかけてきた。何でも、雑誌に紹介されたために、昨日から急激に客が増えてしまったらしい。
「どうします?」
秋口が訊ねると、佐山が困惑げに「うーん」と眉を顰めた。
「一時間も待つのは、ちょっとなあ……もう結構遅いし」
「他に行きますか? 金曜だし、どこも混んでると思いますけど」
「でも、その店もそろそろ終わりじゃないか?」
腕時計を見ながら佐山が言った。秋口の方の仕事が伸びてしまったから、会社を出た頃はもう九時を回っていたのだ。この店は深夜まで営業しているが、オフィス街なので、それ以外の店はそろそろラストオーダーの時間だろう。
「でも俺、だいぶ腹減ってるんですよね。腹に何か入れないと、家に帰るまでに電車でぶっ倒れそう」
「チェーン系の居酒屋なら、ちょっと待てば入れるかもしれない」
「いや、それは勘弁。あの安っぽい味駄目なんですよ」
割合味にうるさいタチなので、秋口はテレビコマーシャルでさんざん宣伝しているような、薄利多売の居酒屋が嫌いだった。ろくな味だったためしがない。
「新宿辺り出ても、どうせ混んでるだろうしな……」
思案する佐山を見ていた秋口は、思いついて口を開いた。
「そうだ、佐山さんち、ここから近いでしょう。この駅からちょっと外れたところに、結構美味い惣菜置いてるスーパーがあるんですよ、遅くまでやってる。そこで買っていけばいい」
「えっ」
あからさまなほどぎょっと驚いた顔で、佐山が時計から秋口に視線を移す。
「うち……いや、でも、すごく散らかってるぞ?」
「座れるところがあれば気にしませんよ。十五分で着くんでしょ? 新宿出て駅からうろうろするより早い」
「う、うーん……」
「俺が行ったら、迷惑ですか」
煮え切らない様子の佐山に、秋口は少し強引な語調で訊ねた。それでも、意外に頑固な佐山のことだから、半分くらいは「急にそんなこと言われても」と断られることを覚悟した。覚悟しておけば、不意打ちに突っぱねられて腹を立てることもない。
「……まあ……本当にものすごく散らかっててもいいなら」
だが、佐山は長い時間考えた後にようやく頷いた。それに少し驚きつつ、どことなく嬉しくなって、秋口は頷きを返す。
「じゃ、行きましょう。本当に美味いんですよ、そこ」
秋口の案内でそのスーパーに向かい、ふたりで買い物カゴをぶら下げてあれこれ食料や飲み物を買った。
「秋口は結構、食い道楽なんだな」
料理を吟味してはカゴに放り込むのは秋口の役目で、佐山はただそれを興味深そうに眺めている。
「母親が料理上手なんですよ、料理教室とか開いてるし。小さい頃から舌が慣らされちゃって、滅多なものは受けつけない」
「ブルジョア……」
「ってほどでもないと思うんですけどね」
すべて秋口が選んだ商品で会計をすませ、代金は折半した。ふたりしてスーパーのビニール袋を片手にぶら下げて、会社最寄りの駅へと戻る。
「でも秋口、電車大丈夫か」
電車に乗り込む頃には、十時近くになっていた。これから食事をして酒を飲んで、といっても、それほど時間がない。
「まあ最悪タクシーで。それとも泊めてもらおうかな」
冗談めかして言った秋口は、佐山が予想を超えて困り果てた顔になっているのに、ひそかにショックを受けつつ笑って見せた。こうまでわかりやすく嫌がられるとは。
「冗談ですよ、そこまで図々しくありません」
佐山は曖昧な笑顔で頷いた。ほっとしているようにも見えた。
(何だ。少しはうち解けたってことでもないのか)
立て続けに一緒に食事をして、それなりに会話も交わして、勝手に親しくなった気になっていた。自分が佐山に好意を持って近づいたわけではないにしろ、佐山の方はそういう自分をゆったり受け入れているふうに見えていたのだが。
(誰にでもこうなだけか?)
後輩の強引な誘いを断れないだけの先輩――という図式を思い浮かべて、秋口は勝手に落胆した。
「この駅」
少し混み合った電車の中、会話を弾ませることもなくいたら、佐山が停車駅の少し前で口を開いた。頷き、秋口は停まった駅で佐山と一緒に電車を降りる。
「歩いてすぐだから」
そう佐山が言ったとおり、彼の住んでいるマンションは駅から五分ほどの立地だった。近くにはコンビニエンスストアや、もう閉まってしまったがスーパーマーケットや書店、CDショップが並び、住みやすそうな街だ。
「いいとこ住んでますね」
「うん、気に入ってる。こっちだよ」
三階建ての煉瓦造りのマンションが、佐山の住処だった。暗いのでよくは見えなかったが、年季が入っている割に手入れの行き届いた建物のようだった。管理人室はもう閉まっているが、セキュリティが入っていて、ビデオカメラが作動している。エントランスは明るい。
佐山の案内で、秋口は二階の南端に当たる部屋へ向かった。ワープロ打ちの文字で「SAYAMA」と綺麗に表札が出ている。
「えーと、本当にすごいから」
そう言いながら佐山が鍵を開けた時も、秋口は「まあ大袈裟に表現しているのだろう」と思っていた。
しかし実際、佐山の部屋はすごかった。
「……わー……」
玄関で立ち往生し、秋口は我知らず、驚きか、感嘆かわからない声を発した。
多分広めの1DK。玄関から入ってすぐがダイニングキッチンだ。
しかしそのダイニングキッチンには、うずたかく本が積まれ、雑誌が積まれ、それが雪崩を起こし、溜まりきった新聞がヒモで括られもせず新聞入れに放り込まれ、ダイレクトメールは散乱し、これからクリーニングに行くらしい服とクリーニングから帰ってきたらしい服がダイニングテーブルと椅子の上を占拠している。本と服に埋まってテレビやコンポが見えて、CDがなぜかケースにも入らず、佐山のつけた照明を反射させている。
「うーん」
足も踏み場もない、とはよく言ったもので、佐山は腰に手を当てて秋口と一緒に部屋の惨状を眺めた後、おもむろに足であちこちの荷物を払いのけ始めた。
「い、いや、佐山さん。手でやりましょうよ」
「とりあえず、獣道を作らないと」
「獣なのか」
わけのわからないところで秋口は感心した。しかし佐山が作った細い通り道は、たしかに獣道と表現するのに相応しいものだった。
泊めてもらおうか、と自分が言った時の佐山の態度は、もしかしたら泊まって迷惑ということではなく、単純にもうひとりが寝るような場所がないという意味だったのでは――と秋口は察した。
「……これだけ散らかってても、台所は綺麗なんだな」
そしてそのことに秋口はまた感心する。シンクには汚れた皿ひとつ残っていないし、洗いカゴの中は空っぽだ。レンジの上にはやかんひとつ。その他食料も調味料も見あたらないが、もしかしたらきちんと整理してしまってあるわけではなく、そもそもそれらがこの部屋には存在していないのではと秋口は予測を立てた。
「佐山さん、自炊って全然しません?」
「あ、全然まったく。全部外で済ます」
なるほどそれで、ゴミらしいゴミが見あたらないのだろう。新聞も雑誌もゴミなのかもしれないが、とりあえず飲食物に関するゴミは、ミネラルウォーターの空きボトルくらいだ。
「こっちは多少、マシだから」
率先して獣道を進んだ佐山が、奥の部屋から秋口を手招きした。
こちらは広い洋室で、ベッドや棚、ローテーブルがあった。やはりここも紙類が山積みになり、ローテーブルの上には開きっぱなしのノートパソコンがあった。
「仕事して寝るだけって感じの部屋だ」
クロゼットは開けっ放しだったが、こちらにあるのはクリーニング済のシャツとスーツやネクタイだけのようだった。
佐山はテーブルの上からパソコンを退かし、床に積まれた資料を部屋の隅に寄せて、どうにか人が座れるスペースを作った。ふたり分のスーツの上着は、皺にならないよう秋口がそっとベッドへ載せた。
「二週間前くらいまでなら、もうちょっとマシだったんだけど」
佐山に促され、秋口はネクタイを緩めながらとりあえずそのスペースに腰を下ろす。クッションや座布団などの気の利いたアイテムは見あたらなかった。
「大掃除でもしたんですか」
「御幸がな」
そしてその部屋を、佐山は二週間でここまでに育て上げたらしい。
「悪いな、本当、こんなで」
「いやー……まあ」
言葉を濁しつつ、秋口は買ってきた総菜を取り出した。
「あ、皿とか」
「このままでいいんじゃないですか、割箸もあるし」
獣道を通ってダイニングの食器棚まで向かわせるのも忍びなかったので、秋口はプラスチックのパックのまま料理を並べた。
「佐山さん、ちょっと、飲みません?」
ビニールの中から缶ビールを取り出し、秋口は佐山にそれを示して見せた。
「これすごく美味いんですよ。自宅だし、ちょっとだけなら平気じゃないですか」
「うーん……じゃあまあ、本当に少しだけ」
「残ったら俺が飲みますよ」
迷いつつ、佐山が缶を秋口から受け取った。お互いプルタブを開け、申し合わせたように缶を掲げる。
「初訪問の素晴らしい部屋に」
「悪かったな」
秋口の軽口に佐山が笑い、鈍い音を立てて缶を軽くぶつけ合ってから、ふたりしてビールに口をつけた。
「あ、本当だ、口当たりいい」
驚いて缶を見る佐山に、秋口はしてやったりの気分でにやりとした。
「アルコール度もそんなにないですし。食べながら、ほどほどに」
空腹だった秋口は総菜の片っ端から手をつけ、佐山もちびちびとビールを啜りつつ、料理を口にした。
「ひとり暮らしは長いんですか?」
食事と酒の合間に、佐山の部屋を眺めながら秋口は訊ねた。窓には素っ気ない無地のカーテン、広い壁には会社で配られたカレンダーがぽつんと貼られているだけだ。
「そうだな、大学進学してからだから……かれこれ九年くらい」
「その頃からずっとこの調子?」
「そうだなあ……ひとりになって、拍車がかかったかも。駄目なんだ、綺麗だと落ち着かなくて。それにしても散らかしすぎたって御幸にいつも言われるけどな」
「片付いてる方がむしろどこに何があるのかわからないって人もいますよね」
「さすがに会社で使うものだけは別によけてあるけど、それ以外は本当にどこにあるのかわからない」
フォローしてみたつもりの秋口の言葉に、佐山は何かを諦めたような緩い笑顔でそう呟いた。
「あれですか、片づけられない病気の人」
「なのかな。単にずぼらなだけかも」
息を吐き出した佐山の目許がほのかに赤いことに、秋口は呟いた。先刻から何度かビール缶に口をつけただけなのに、もう酔いが回り始めているらしい。
「あー……クラクラする、久しぶりだよ、酒なんて」
「大丈夫ですか?」
「うん、いい気分だ。料理も美味しいし」
笑って、佐山がテーブルの上の総菜をつつく。
「でも、変な感じだよ。あの秋口が、俺の部屋で俺の向かいで、飯喰って酒飲んで」
「『あの』って?」
どこか上機嫌に見える佐山を、くつろいだ気分であぐらをかきながら秋口は眺めた。
本当に散らかりきってはいたが、佐山の部屋は居心地がいいのが不思議だ。
「女の子にモテて、男前で、仕事もできる――」
褒められて当然のことばかりだったが、秋口の方も、佐山にそう言われるのが『変な感じ』だった。
「佐山さんがそんなふうに思ってるとは知らなかったな」
「うん?」
ビールを飲みながら、佐山が首を傾げて秋口を見返した。
「仕事、失敗したじゃないですか、俺。呆れられてると思ってた」
「あれは、たまたま……相手が悪かったよ、青木さんの時も、ああいうやり方で困ってたんだ」
「八つ当たりでひどいこと言ったし、佐山さんに」
秋口の方も、景気よく進めたビールのせいか、酔いが回ってきている。普段ならビールの一杯や二杯で酔っぱらうような軟弱な体でもないのだが、妙にいい気持ちになっている。
「そうだなあ……ちょっと、ひどいなと思ったけど」
笑って、佐山はまたビールを飲んだ。
「ちゃんと謝ってくれただろ。その上あんないい店に誘ってくれて、奢ってくれて。その後もこうやって一緒に飲んでくれて。おつりが来るよ」
佐山が少し眠たそうに瞼を指先で擦った。
「本当に酒、弱いんですねえ」
佐山の言葉にくすぐったい気分になりながら、秋口はその様子を眺める。
「横になりますか? 眠たそうだ」
「大丈夫――せっかく秋口が来てくれたのに、寝たら、悪いだろ」
そう言いつつも、佐山の瞼は重たく落ちかけている。
「……ごめん、ここのところ残業続きで、家でも仕事してたから、あんまり寝てなくて……」
「いいですよ、適当に俺、ひとりで飲んでますから」
「でも」
佐山は頑なに、それよりもくずった子供のように首を横に振っている。その仕種が妙に微笑ましくて、秋口は笑ってしまった。
「食べたら、帰っちゃうだろ」
「そりゃまあ、ここに泊まるってわけにも……」
「片づけておけばよかった」
壁に背中で寄り掛かり、ビール缶を両手で持って、佐山は大仰に溜息をついた。
「せっかく秋口が来てくれるなら、こんなみっともない部屋見せないで、御幸が掃除してくれたまま綺麗だったらよかったよ」
「そんな気にしてませんって」
「秋口の部屋は、きっと綺麗なんだろうなあ……」
秋口の返事は聞こえていない風情で、佐山はまたビールを呷った。
「佐山さん、そろそろやめといた方がよさそうじゃないですか。顔真っ赤ですよ」
「でも、気持ちいいから」
そう答えつつ、佐山の体はゆらゆらと揺れている。見事な酔っ払いだ。秋口は苦笑した。
「まだ半分も飲んでないんだよ」
ほら、と佐山が差し出した缶を、秋口は取り上げてしまった。重さでは、たしかにまだ三分の一程度しか飲んだ感じはしない。
「あー……」
缶を取られて、佐山が不満そうに顔を顰める。秋口はやっぱり笑ってしまってから、佐山が飲んでいたビールの残りを飲んだ。
「間接キス……」
「え?」
「とか言ったような言わないような……」
いまいち聞き取れない発音でむにゃむにゃと呟いて、佐山はそのまま床へ横向きに倒れ込んだ。
「ベッドで寝ますか?」
あまりに早い撃沈に感心しつつ、秋口は佐山に問いかけた。
「遠い」
ベッドは秋口の背中の方にある。
「運びますよ」
「重いよ」
「まさか。そんなガリガリの体しておいて」
これならふっくらした女を運ぶ方が辛いだろう。
「駄目なんだよ、肉がつかない体質で……」
床に転がったまま、佐山が眼鏡の向こうの瞼を閉じた。
「小さい頃、全然食事をしない時があって。成長期にそんなことしたから、こんな体になったんだ」
「食事をしないって、何でまた」
佐山が気持ちよさそうなので、秋口はベッドに運ぶことは見送ってビールを飲んだ。
「何でだっけ……」
佐山の声は、もう半分眠っている。
「体力をつけようと思って、運動もしたけど、筋肉はつかないし背は伸びないし……秋口みたいになりたかった」
「俺ですか」
「そう。背が高くて、手足もしっかりしてて、足なんかすごく長くて」
佐山の手放しの褒めように、秋口はやっぱりこそばゆい気分になった。そんな褒め言葉なんて、他の人たちから言われ慣れているはずなのに。
「おまけに男前だし、声も低くてよく響くし、サラリーマンなんかやめて、役者やったって不思議じゃないくらい」
「褒めすぎですよ」
酔っ払いの戯言だと知りつつ、秋口は無性に照れ臭くなってわざと眉を顰めた。もちろん、目を閉じている佐山に見えるはずもなかったが。
「男親がいないから、そういうの、憧れるんだ。秋口が俺の親父だったらよかったなあ……」
「親父か。俺、佐山さんより年下なんですけど?」
「そう、年下なのにやたら格好いいし、いつも美人と一緒にいるし……俺はきっと彼女たちに恨まれてるだろうな」
「佐山さん、眼鏡外した方がいいんじゃないですか。歪みますよ」
「うん」
子供みたいな素直さで頷いたものの、佐山は寝転がったまま動こうとはしなかった。床に押しつけた顔で、眼鏡のフレームが変形しそうになっている。秋口はひとつ溜息をつくと、テーブルの横を回って、積まれた書類を倒さないように気をつけながら佐山の近くに膝行った。
「取りますよ」
一声かけて、秋口は佐山の顔からそっと眼鏡を取った。
その時、不意に佐山が瞼を開き、秋口は自分でも奇妙だと思うほど動転した。
佐山は眠気とアルコールで潤んだ目で、秋口のことを見上げて、笑った。
「秋口は、優しいな」
「たかが眼鏡取っただけじゃないですか」
「じゃあ、意地悪だな」
「どっちですか」
小さく体を揺らして、佐山が笑っている。酔っ払いめ、と思いながら、秋口は佐山のネクタイに手をかけた。
「ほら、せめて着替えて、ベッド入ってください。俺そろそろ帰りますよ」
「……駄目だって」
「何が」
「まだ帰っちゃ駄目だよ、来たばっかだろ」
不満げに自分を睨みつけた佐山の眼差しに、秋口はまた動揺する。
年上の、いつも眼鏡でおまけに腕カバーの、いまいち冴えない、しかも男を、一瞬でも色っぽいとか可愛いだとか思うなんて。
どうかしている。
「でも佐山さん、眠たいでしょ」
「起きる」
佐山は両手を床について、体を起こそうとした。だが、横座りの格好で起き上がったところで眩暈がしたらしく、そのまま後ろに倒れそうになり、秋口は慌ててその背中を押さえた。あやうく壁に頭を激突させるところだった。
「酒に弱いって、本当は酒癖が悪くて営業向いてなかったんじゃないですか」
「そうだよ、秋口みたいに口が上手いわけじゃないし」
ふう、と大きく息を吐き出しながら、今度は前に倒れそうになる佐山の体を、仕方なく秋口は抱き込むように支えた。佐山の頭の重みが肩に来る。
本当なら、男にもたれかかられて嬉しいことなんてなかったし、多分相手が佐山じゃなかったら容赦なく床に突き飛ばしていたところだろう。
しかし秋口はそうせず、あやすように佐山の背中を叩いた。
「……秋口見てると、羨ましいんだ……すごく憧れる」
いつも以上にゆっくりとした、たどたどしい語調で佐山が呟いている。吐息が、ネクタイを緩めた首元に掛かって、秋口は少し身じろいだ。
心臓が鳴っていた。
秋口は跳ね上がる鼓動を押さえて、そっと、佐山の様子を窺おうと身じろぎした。途端、その体勢が床に崩れそうになるのを、慌てて支え直した。
「格好いいし、男らしいし、背は高いし……」
「それはさっき聞きました」
すっかり酔っ払いの譫言になっている佐山に、どぎまぎしつつ、それを悟られないよう努めて冷静な声で秋口は言った。
「何度でも言うよ」
佐山が小さく笑う。
その手が自分のシャツの背中を掴む感触がして、秋口は驚いた。
シャツの布たった二枚を隔てた、自分たちの肌の近さに思い至って、秋口の理性がぐらりと揺れる。
(……って、男相手に何をこんな)
どうしてこんなことになってしまったのか、秋口は佐山の部屋を訪れたことを後悔した。
相手が佐山でも、散らかりきった部屋でも――こんな雰囲気になって、それをぶち壊すことができなくなってしまう。今まで秋口がそんなことをしたことはなかった。
こんなふうに、相手が無防備に自分への好意を表している状態で。
自分がそれを不愉快だと感じているわけでもなく。
むしろ、嬉しいなどと思った上、相手の様子に微かな緊張まで感じているというのに。
「……佐山さん」
自分の頭にも、たしかに酒が回っていることを自覚しつつ、秋口はそっとその耳許に囁いた。
「佐山さん、俺のこと好きなの?」
相手が自分に向ける、単なる好意以上の感情に、どうしてこれまで気づかなかったのか。秋口は自分の間抜けさに驚いた。
たとえ普段はまったく気づかなかったとしても、今こうして佐山が全身で向ける自分への感情が、わからないほど恋愛に対して秋口は無知じゃない。
「うん」
呆気ないほど素直に、佐山が頷いた。
「……マジで?」
訊ねてみたものの、まさかあっさり肯定されるとは思っていなかった。
佐山はもう、安心しきったように自分にすべての体重を預けている。佐山の体は軽くて骨張っていて、女みたいに柔らかくはないが、その服や髪に染みた煙草の匂いに、うっすら汗ばんだ肌の感触に、秋口はたしかな官能を感じた。
(待て、この人、男だぞ)
男が好きな男なんて、これまで嘲笑の対象でしかなかった。これまで二度ほど、そういう手合いに言い寄られたことがあるが、両方こっぴどく侮蔑的な言葉で突き放して、二度と自分に近づけようとはしなかった。
なのに秋口は今、佐山のことを突き放そうなんて気分すら、まったく起こらなかった。
「……佐山さん」
体がずり落ちないように、両腕でその背を支えつつ、秋口は慎重に佐山に呼びかけた。
「あの、今のは」
訊ねる途中、秋口は軽く眉を寄せ、口を噤んだ。
「……」
首筋に当たる暖かな吐息は、紛れもなく、寝息だ。
「……寝てやがる」
慣れない酒は、佐山をあっという間に眠りのふちに引きずり込んでしまったらしい。
秋口は深々と息を吐き出した。
ほっとしたような、とてつもなく困惑したような、何とも形容しがたい気分だった。
秋口は生まれて初めてこんな問題でこんなふうに途方にくれ、眠ってしまった佐山を叩き起こすこともなく、その体を抱くようにただただ座りこけていた。
「でも、いいのか。俺とばっかり食べに行って……その、他の人の約束とか」
会社に向かって並んで歩きつつ、佐山が遠慮がちにそう言った。佐山を最初に誘った日以来、秋口は他の人間と夜に出かけたことがない。同じ会社の女子社員も、メールや携帯電話で連絡を取り合うような他の相手も、声をかけられてもすべて上手く断った。今のところ沙和子を落とせないのなら秋口にとって意味はなく、沙和子に声をかけられても怒って睨まれてしまうのだから仕方がない。
(でもこれ、いつまでやってりゃいいんだ?)
沙和子と佐山が縒りを戻すことを場当たり的に阻止することはできても、結局沙和子の不興を買うだけで、彼女の中で秋口の株が上がるわけもない。むしろ下がる一方だ。
沙和子が佐山のことを諦めるまで佐山を誘い続けるしかないのか、と秋口はいささかげんなりしつつ、今日も佐山と一緒にいつもの店へと向かった。
「あれ、何だかものすごく並んでないか?」
ビルに入り、店のある二階へ向かう途中の階段に、客が行列を作っていた。これまで多少店の中で待たされることはあっても、外にまで客が列を成しているところなんて秋口は初めて見た。隠れ家的な穴場だったのだ。
「申し訳ございません、一時間ほどお待ちいただくことになると思いますが……」
客の名前を順番にメモしている店員が、秋口たちに声をかけてきた。何でも、雑誌に紹介されたために、昨日から急激に客が増えてしまったらしい。
「どうします?」
秋口が訊ねると、佐山が困惑げに「うーん」と眉を顰めた。
「一時間も待つのは、ちょっとなあ……もう結構遅いし」
「他に行きますか? 金曜だし、どこも混んでると思いますけど」
「でも、その店もそろそろ終わりじゃないか?」
腕時計を見ながら佐山が言った。秋口の方の仕事が伸びてしまったから、会社を出た頃はもう九時を回っていたのだ。この店は深夜まで営業しているが、オフィス街なので、それ以外の店はそろそろラストオーダーの時間だろう。
「でも俺、だいぶ腹減ってるんですよね。腹に何か入れないと、家に帰るまでに電車でぶっ倒れそう」
「チェーン系の居酒屋なら、ちょっと待てば入れるかもしれない」
「いや、それは勘弁。あの安っぽい味駄目なんですよ」
割合味にうるさいタチなので、秋口はテレビコマーシャルでさんざん宣伝しているような、薄利多売の居酒屋が嫌いだった。ろくな味だったためしがない。
「新宿辺り出ても、どうせ混んでるだろうしな……」
思案する佐山を見ていた秋口は、思いついて口を開いた。
「そうだ、佐山さんち、ここから近いでしょう。この駅からちょっと外れたところに、結構美味い惣菜置いてるスーパーがあるんですよ、遅くまでやってる。そこで買っていけばいい」
「えっ」
あからさまなほどぎょっと驚いた顔で、佐山が時計から秋口に視線を移す。
「うち……いや、でも、すごく散らかってるぞ?」
「座れるところがあれば気にしませんよ。十五分で着くんでしょ? 新宿出て駅からうろうろするより早い」
「う、うーん……」
「俺が行ったら、迷惑ですか」
煮え切らない様子の佐山に、秋口は少し強引な語調で訊ねた。それでも、意外に頑固な佐山のことだから、半分くらいは「急にそんなこと言われても」と断られることを覚悟した。覚悟しておけば、不意打ちに突っぱねられて腹を立てることもない。
「……まあ……本当にものすごく散らかっててもいいなら」
だが、佐山は長い時間考えた後にようやく頷いた。それに少し驚きつつ、どことなく嬉しくなって、秋口は頷きを返す。
「じゃ、行きましょう。本当に美味いんですよ、そこ」
秋口の案内でそのスーパーに向かい、ふたりで買い物カゴをぶら下げてあれこれ食料や飲み物を買った。
「秋口は結構、食い道楽なんだな」
料理を吟味してはカゴに放り込むのは秋口の役目で、佐山はただそれを興味深そうに眺めている。
「母親が料理上手なんですよ、料理教室とか開いてるし。小さい頃から舌が慣らされちゃって、滅多なものは受けつけない」
「ブルジョア……」
「ってほどでもないと思うんですけどね」
すべて秋口が選んだ商品で会計をすませ、代金は折半した。ふたりしてスーパーのビニール袋を片手にぶら下げて、会社最寄りの駅へと戻る。
「でも秋口、電車大丈夫か」
電車に乗り込む頃には、十時近くになっていた。これから食事をして酒を飲んで、といっても、それほど時間がない。
「まあ最悪タクシーで。それとも泊めてもらおうかな」
冗談めかして言った秋口は、佐山が予想を超えて困り果てた顔になっているのに、ひそかにショックを受けつつ笑って見せた。こうまでわかりやすく嫌がられるとは。
「冗談ですよ、そこまで図々しくありません」
佐山は曖昧な笑顔で頷いた。ほっとしているようにも見えた。
(何だ。少しはうち解けたってことでもないのか)
立て続けに一緒に食事をして、それなりに会話も交わして、勝手に親しくなった気になっていた。自分が佐山に好意を持って近づいたわけではないにしろ、佐山の方はそういう自分をゆったり受け入れているふうに見えていたのだが。
(誰にでもこうなだけか?)
後輩の強引な誘いを断れないだけの先輩――という図式を思い浮かべて、秋口は勝手に落胆した。
「この駅」
少し混み合った電車の中、会話を弾ませることもなくいたら、佐山が停車駅の少し前で口を開いた。頷き、秋口は停まった駅で佐山と一緒に電車を降りる。
「歩いてすぐだから」
そう佐山が言ったとおり、彼の住んでいるマンションは駅から五分ほどの立地だった。近くにはコンビニエンスストアや、もう閉まってしまったがスーパーマーケットや書店、CDショップが並び、住みやすそうな街だ。
「いいとこ住んでますね」
「うん、気に入ってる。こっちだよ」
三階建ての煉瓦造りのマンションが、佐山の住処だった。暗いのでよくは見えなかったが、年季が入っている割に手入れの行き届いた建物のようだった。管理人室はもう閉まっているが、セキュリティが入っていて、ビデオカメラが作動している。エントランスは明るい。
佐山の案内で、秋口は二階の南端に当たる部屋へ向かった。ワープロ打ちの文字で「SAYAMA」と綺麗に表札が出ている。
「えーと、本当にすごいから」
そう言いながら佐山が鍵を開けた時も、秋口は「まあ大袈裟に表現しているのだろう」と思っていた。
しかし実際、佐山の部屋はすごかった。
「……わー……」
玄関で立ち往生し、秋口は我知らず、驚きか、感嘆かわからない声を発した。
多分広めの1DK。玄関から入ってすぐがダイニングキッチンだ。
しかしそのダイニングキッチンには、うずたかく本が積まれ、雑誌が積まれ、それが雪崩を起こし、溜まりきった新聞がヒモで括られもせず新聞入れに放り込まれ、ダイレクトメールは散乱し、これからクリーニングに行くらしい服とクリーニングから帰ってきたらしい服がダイニングテーブルと椅子の上を占拠している。本と服に埋まってテレビやコンポが見えて、CDがなぜかケースにも入らず、佐山のつけた照明を反射させている。
「うーん」
足も踏み場もない、とはよく言ったもので、佐山は腰に手を当てて秋口と一緒に部屋の惨状を眺めた後、おもむろに足であちこちの荷物を払いのけ始めた。
「い、いや、佐山さん。手でやりましょうよ」
「とりあえず、獣道を作らないと」
「獣なのか」
わけのわからないところで秋口は感心した。しかし佐山が作った細い通り道は、たしかに獣道と表現するのに相応しいものだった。
泊めてもらおうか、と自分が言った時の佐山の態度は、もしかしたら泊まって迷惑ということではなく、単純にもうひとりが寝るような場所がないという意味だったのでは――と秋口は察した。
「……これだけ散らかってても、台所は綺麗なんだな」
そしてそのことに秋口はまた感心する。シンクには汚れた皿ひとつ残っていないし、洗いカゴの中は空っぽだ。レンジの上にはやかんひとつ。その他食料も調味料も見あたらないが、もしかしたらきちんと整理してしまってあるわけではなく、そもそもそれらがこの部屋には存在していないのではと秋口は予測を立てた。
「佐山さん、自炊って全然しません?」
「あ、全然まったく。全部外で済ます」
なるほどそれで、ゴミらしいゴミが見あたらないのだろう。新聞も雑誌もゴミなのかもしれないが、とりあえず飲食物に関するゴミは、ミネラルウォーターの空きボトルくらいだ。
「こっちは多少、マシだから」
率先して獣道を進んだ佐山が、奥の部屋から秋口を手招きした。
こちらは広い洋室で、ベッドや棚、ローテーブルがあった。やはりここも紙類が山積みになり、ローテーブルの上には開きっぱなしのノートパソコンがあった。
「仕事して寝るだけって感じの部屋だ」
クロゼットは開けっ放しだったが、こちらにあるのはクリーニング済のシャツとスーツやネクタイだけのようだった。
佐山はテーブルの上からパソコンを退かし、床に積まれた資料を部屋の隅に寄せて、どうにか人が座れるスペースを作った。ふたり分のスーツの上着は、皺にならないよう秋口がそっとベッドへ載せた。
「二週間前くらいまでなら、もうちょっとマシだったんだけど」
佐山に促され、秋口はネクタイを緩めながらとりあえずそのスペースに腰を下ろす。クッションや座布団などの気の利いたアイテムは見あたらなかった。
「大掃除でもしたんですか」
「御幸がな」
そしてその部屋を、佐山は二週間でここまでに育て上げたらしい。
「悪いな、本当、こんなで」
「いやー……まあ」
言葉を濁しつつ、秋口は買ってきた総菜を取り出した。
「あ、皿とか」
「このままでいいんじゃないですか、割箸もあるし」
獣道を通ってダイニングの食器棚まで向かわせるのも忍びなかったので、秋口はプラスチックのパックのまま料理を並べた。
「佐山さん、ちょっと、飲みません?」
ビニールの中から缶ビールを取り出し、秋口は佐山にそれを示して見せた。
「これすごく美味いんですよ。自宅だし、ちょっとだけなら平気じゃないですか」
「うーん……じゃあまあ、本当に少しだけ」
「残ったら俺が飲みますよ」
迷いつつ、佐山が缶を秋口から受け取った。お互いプルタブを開け、申し合わせたように缶を掲げる。
「初訪問の素晴らしい部屋に」
「悪かったな」
秋口の軽口に佐山が笑い、鈍い音を立てて缶を軽くぶつけ合ってから、ふたりしてビールに口をつけた。
「あ、本当だ、口当たりいい」
驚いて缶を見る佐山に、秋口はしてやったりの気分でにやりとした。
「アルコール度もそんなにないですし。食べながら、ほどほどに」
空腹だった秋口は総菜の片っ端から手をつけ、佐山もちびちびとビールを啜りつつ、料理を口にした。
「ひとり暮らしは長いんですか?」
食事と酒の合間に、佐山の部屋を眺めながら秋口は訊ねた。窓には素っ気ない無地のカーテン、広い壁には会社で配られたカレンダーがぽつんと貼られているだけだ。
「そうだな、大学進学してからだから……かれこれ九年くらい」
「その頃からずっとこの調子?」
「そうだなあ……ひとりになって、拍車がかかったかも。駄目なんだ、綺麗だと落ち着かなくて。それにしても散らかしすぎたって御幸にいつも言われるけどな」
「片付いてる方がむしろどこに何があるのかわからないって人もいますよね」
「さすがに会社で使うものだけは別によけてあるけど、それ以外は本当にどこにあるのかわからない」
フォローしてみたつもりの秋口の言葉に、佐山は何かを諦めたような緩い笑顔でそう呟いた。
「あれですか、片づけられない病気の人」
「なのかな。単にずぼらなだけかも」
息を吐き出した佐山の目許がほのかに赤いことに、秋口は呟いた。先刻から何度かビール缶に口をつけただけなのに、もう酔いが回り始めているらしい。
「あー……クラクラする、久しぶりだよ、酒なんて」
「大丈夫ですか?」
「うん、いい気分だ。料理も美味しいし」
笑って、佐山がテーブルの上の総菜をつつく。
「でも、変な感じだよ。あの秋口が、俺の部屋で俺の向かいで、飯喰って酒飲んで」
「『あの』って?」
どこか上機嫌に見える佐山を、くつろいだ気分であぐらをかきながら秋口は眺めた。
本当に散らかりきってはいたが、佐山の部屋は居心地がいいのが不思議だ。
「女の子にモテて、男前で、仕事もできる――」
褒められて当然のことばかりだったが、秋口の方も、佐山にそう言われるのが『変な感じ』だった。
「佐山さんがそんなふうに思ってるとは知らなかったな」
「うん?」
ビールを飲みながら、佐山が首を傾げて秋口を見返した。
「仕事、失敗したじゃないですか、俺。呆れられてると思ってた」
「あれは、たまたま……相手が悪かったよ、青木さんの時も、ああいうやり方で困ってたんだ」
「八つ当たりでひどいこと言ったし、佐山さんに」
秋口の方も、景気よく進めたビールのせいか、酔いが回ってきている。普段ならビールの一杯や二杯で酔っぱらうような軟弱な体でもないのだが、妙にいい気持ちになっている。
「そうだなあ……ちょっと、ひどいなと思ったけど」
笑って、佐山はまたビールを飲んだ。
「ちゃんと謝ってくれただろ。その上あんないい店に誘ってくれて、奢ってくれて。その後もこうやって一緒に飲んでくれて。おつりが来るよ」
佐山が少し眠たそうに瞼を指先で擦った。
「本当に酒、弱いんですねえ」
佐山の言葉にくすぐったい気分になりながら、秋口はその様子を眺める。
「横になりますか? 眠たそうだ」
「大丈夫――せっかく秋口が来てくれたのに、寝たら、悪いだろ」
そう言いつつも、佐山の瞼は重たく落ちかけている。
「……ごめん、ここのところ残業続きで、家でも仕事してたから、あんまり寝てなくて……」
「いいですよ、適当に俺、ひとりで飲んでますから」
「でも」
佐山は頑なに、それよりもくずった子供のように首を横に振っている。その仕種が妙に微笑ましくて、秋口は笑ってしまった。
「食べたら、帰っちゃうだろ」
「そりゃまあ、ここに泊まるってわけにも……」
「片づけておけばよかった」
壁に背中で寄り掛かり、ビール缶を両手で持って、佐山は大仰に溜息をついた。
「せっかく秋口が来てくれるなら、こんなみっともない部屋見せないで、御幸が掃除してくれたまま綺麗だったらよかったよ」
「そんな気にしてませんって」
「秋口の部屋は、きっと綺麗なんだろうなあ……」
秋口の返事は聞こえていない風情で、佐山はまたビールを呷った。
「佐山さん、そろそろやめといた方がよさそうじゃないですか。顔真っ赤ですよ」
「でも、気持ちいいから」
そう答えつつ、佐山の体はゆらゆらと揺れている。見事な酔っ払いだ。秋口は苦笑した。
「まだ半分も飲んでないんだよ」
ほら、と佐山が差し出した缶を、秋口は取り上げてしまった。重さでは、たしかにまだ三分の一程度しか飲んだ感じはしない。
「あー……」
缶を取られて、佐山が不満そうに顔を顰める。秋口はやっぱり笑ってしまってから、佐山が飲んでいたビールの残りを飲んだ。
「間接キス……」
「え?」
「とか言ったような言わないような……」
いまいち聞き取れない発音でむにゃむにゃと呟いて、佐山はそのまま床へ横向きに倒れ込んだ。
「ベッドで寝ますか?」
あまりに早い撃沈に感心しつつ、秋口は佐山に問いかけた。
「遠い」
ベッドは秋口の背中の方にある。
「運びますよ」
「重いよ」
「まさか。そんなガリガリの体しておいて」
これならふっくらした女を運ぶ方が辛いだろう。
「駄目なんだよ、肉がつかない体質で……」
床に転がったまま、佐山が眼鏡の向こうの瞼を閉じた。
「小さい頃、全然食事をしない時があって。成長期にそんなことしたから、こんな体になったんだ」
「食事をしないって、何でまた」
佐山が気持ちよさそうなので、秋口はベッドに運ぶことは見送ってビールを飲んだ。
「何でだっけ……」
佐山の声は、もう半分眠っている。
「体力をつけようと思って、運動もしたけど、筋肉はつかないし背は伸びないし……秋口みたいになりたかった」
「俺ですか」
「そう。背が高くて、手足もしっかりしてて、足なんかすごく長くて」
佐山の手放しの褒めように、秋口はやっぱりこそばゆい気分になった。そんな褒め言葉なんて、他の人たちから言われ慣れているはずなのに。
「おまけに男前だし、声も低くてよく響くし、サラリーマンなんかやめて、役者やったって不思議じゃないくらい」
「褒めすぎですよ」
酔っ払いの戯言だと知りつつ、秋口は無性に照れ臭くなってわざと眉を顰めた。もちろん、目を閉じている佐山に見えるはずもなかったが。
「男親がいないから、そういうの、憧れるんだ。秋口が俺の親父だったらよかったなあ……」
「親父か。俺、佐山さんより年下なんですけど?」
「そう、年下なのにやたら格好いいし、いつも美人と一緒にいるし……俺はきっと彼女たちに恨まれてるだろうな」
「佐山さん、眼鏡外した方がいいんじゃないですか。歪みますよ」
「うん」
子供みたいな素直さで頷いたものの、佐山は寝転がったまま動こうとはしなかった。床に押しつけた顔で、眼鏡のフレームが変形しそうになっている。秋口はひとつ溜息をつくと、テーブルの横を回って、積まれた書類を倒さないように気をつけながら佐山の近くに膝行った。
「取りますよ」
一声かけて、秋口は佐山の顔からそっと眼鏡を取った。
その時、不意に佐山が瞼を開き、秋口は自分でも奇妙だと思うほど動転した。
佐山は眠気とアルコールで潤んだ目で、秋口のことを見上げて、笑った。
「秋口は、優しいな」
「たかが眼鏡取っただけじゃないですか」
「じゃあ、意地悪だな」
「どっちですか」
小さく体を揺らして、佐山が笑っている。酔っ払いめ、と思いながら、秋口は佐山のネクタイに手をかけた。
「ほら、せめて着替えて、ベッド入ってください。俺そろそろ帰りますよ」
「……駄目だって」
「何が」
「まだ帰っちゃ駄目だよ、来たばっかだろ」
不満げに自分を睨みつけた佐山の眼差しに、秋口はまた動揺する。
年上の、いつも眼鏡でおまけに腕カバーの、いまいち冴えない、しかも男を、一瞬でも色っぽいとか可愛いだとか思うなんて。
どうかしている。
「でも佐山さん、眠たいでしょ」
「起きる」
佐山は両手を床について、体を起こそうとした。だが、横座りの格好で起き上がったところで眩暈がしたらしく、そのまま後ろに倒れそうになり、秋口は慌ててその背中を押さえた。あやうく壁に頭を激突させるところだった。
「酒に弱いって、本当は酒癖が悪くて営業向いてなかったんじゃないですか」
「そうだよ、秋口みたいに口が上手いわけじゃないし」
ふう、と大きく息を吐き出しながら、今度は前に倒れそうになる佐山の体を、仕方なく秋口は抱き込むように支えた。佐山の頭の重みが肩に来る。
本当なら、男にもたれかかられて嬉しいことなんてなかったし、多分相手が佐山じゃなかったら容赦なく床に突き飛ばしていたところだろう。
しかし秋口はそうせず、あやすように佐山の背中を叩いた。
「……秋口見てると、羨ましいんだ……すごく憧れる」
いつも以上にゆっくりとした、たどたどしい語調で佐山が呟いている。吐息が、ネクタイを緩めた首元に掛かって、秋口は少し身じろいだ。
心臓が鳴っていた。
秋口は跳ね上がる鼓動を押さえて、そっと、佐山の様子を窺おうと身じろぎした。途端、その体勢が床に崩れそうになるのを、慌てて支え直した。
「格好いいし、男らしいし、背は高いし……」
「それはさっき聞きました」
すっかり酔っ払いの譫言になっている佐山に、どぎまぎしつつ、それを悟られないよう努めて冷静な声で秋口は言った。
「何度でも言うよ」
佐山が小さく笑う。
その手が自分のシャツの背中を掴む感触がして、秋口は驚いた。
シャツの布たった二枚を隔てた、自分たちの肌の近さに思い至って、秋口の理性がぐらりと揺れる。
(……って、男相手に何をこんな)
どうしてこんなことになってしまったのか、秋口は佐山の部屋を訪れたことを後悔した。
相手が佐山でも、散らかりきった部屋でも――こんな雰囲気になって、それをぶち壊すことができなくなってしまう。今まで秋口がそんなことをしたことはなかった。
こんなふうに、相手が無防備に自分への好意を表している状態で。
自分がそれを不愉快だと感じているわけでもなく。
むしろ、嬉しいなどと思った上、相手の様子に微かな緊張まで感じているというのに。
「……佐山さん」
自分の頭にも、たしかに酒が回っていることを自覚しつつ、秋口はそっとその耳許に囁いた。
「佐山さん、俺のこと好きなの?」
相手が自分に向ける、単なる好意以上の感情に、どうしてこれまで気づかなかったのか。秋口は自分の間抜けさに驚いた。
たとえ普段はまったく気づかなかったとしても、今こうして佐山が全身で向ける自分への感情が、わからないほど恋愛に対して秋口は無知じゃない。
「うん」
呆気ないほど素直に、佐山が頷いた。
「……マジで?」
訊ねてみたものの、まさかあっさり肯定されるとは思っていなかった。
佐山はもう、安心しきったように自分にすべての体重を預けている。佐山の体は軽くて骨張っていて、女みたいに柔らかくはないが、その服や髪に染みた煙草の匂いに、うっすら汗ばんだ肌の感触に、秋口はたしかな官能を感じた。
(待て、この人、男だぞ)
男が好きな男なんて、これまで嘲笑の対象でしかなかった。これまで二度ほど、そういう手合いに言い寄られたことがあるが、両方こっぴどく侮蔑的な言葉で突き放して、二度と自分に近づけようとはしなかった。
なのに秋口は今、佐山のことを突き放そうなんて気分すら、まったく起こらなかった。
「……佐山さん」
体がずり落ちないように、両腕でその背を支えつつ、秋口は慎重に佐山に呼びかけた。
「あの、今のは」
訊ねる途中、秋口は軽く眉を寄せ、口を噤んだ。
「……」
首筋に当たる暖かな吐息は、紛れもなく、寝息だ。
「……寝てやがる」
慣れない酒は、佐山をあっという間に眠りのふちに引きずり込んでしまったらしい。
秋口は深々と息を吐き出した。
ほっとしたような、とてつもなく困惑したような、何とも形容しがたい気分だった。
秋口は生まれて初めてこんな問題でこんなふうに途方にくれ、眠ってしまった佐山を叩き起こすこともなく、その体を抱くようにただただ座りこけていた。

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