こころなんてしりもしないで・第5話

 土曜日、日曜日と、いつもより楽な気分で過ごすことができた。月曜日になればまた秋口の姿を見ることができると思ったら、少し倖せな気分になる。
 金曜のトラブルのことを思い返せば、あっという間に暗い気分になることもできたが。
(まあ、気長に行こう……)
 秋口は佐山の行動が自分より遅いと軽く見ていて、仕事ぶりにも不安を抱いていたようだ。
 そういう自分にフォローされたことが秋口の癇に障ったのだろうが、金曜日のことは、むしろ自分も人並みに仕事ができるのだとわかってもらえる切っ掛けになるんじゃないか――と佐山はできるだけ前向きに考えるようにした。
 月曜日、会社の最寄り駅で御幸と行き会わせた。佐山はひとり暮らし、御幸は実家住まいで、沿線は同じだが方向が違う。フレックスを使ったり、出社前に得意先回りをする時以外だと、駅で顔を合わせることもある。
 挨拶を交わして、佐山は御幸と並んで歩き始めた。
 金曜日の晩にあんな話をした次の顔合わせなので、佐山には何となく照れ臭い。
「俺、思ったんだけど。佐山とコイバナなんかしたの、初めてだよな」
 御幸の方も同じことを思い出していたのか、真っ先にそんな話題を振ってきた。
「何だよ、朝から……そうか?」
「そうだよ、雛川さんの時も、悩みとか気持ちに関する相談って聞かなかったし」
「御幸もそういう話、してくれないしな」
「俺は単純に相手がいないの」
 佐山は少々疑わしそうに御幸を見遣った。
「信じられないんだよな、俺。御幸に恋人がいないっていうの」
「佐山に嘘なんてつきませんって。モテないんだよ、俺」
「平気な顔で嘘つくなよ」
「俺の好みのタイプに」
「ああ……」
 それは何となく、佐山にもわかった。御幸は容姿が派手だから、群がってくるのはやはりきらびやかな女性が多いが、そういう相手が彼が得意じゃないのは知っている。
「家庭的な子が好きなんだけど、きょうびそうそう出会わないだろ。『遊びでいいから抱いてください!』とか言われると、萎えるんだよ。気持ちも体も」
「言われてみたいよ、そんなこと」
 佐山は御幸の脇腹に拳をねじ込んでやった。
「佐山は間違っても、そんなこと言い出すなよ」
 拳を避けながら言った御幸に、佐山はつい吹き出してしまう。
「言うかよ、女の子じゃないんだから」
 もう一度御幸の腹に拳を押しつけ、佐山は彼と並んで歩いていった。
 
     ◇◇◇
 
 ホームを降りたところで見覚えのある横顔をみつけて、秋口は自分が佐山と同じ電車に乗ってきたことを知った。
 声をかけるかどうか、迷う。
(……こないだは、言い過ぎた)
 金曜日の晩、佐山に投げつけた言葉は全て八つ当たりだった。
 工場にも、宮原にもどうにか連絡がついて、納期に間に合うよう手配を済ませた後、秋口を支配したのは安堵感よりも苦い後悔だった。
 思い返すと、無性に自分が恥ずかしくなった。子供でもあるまいし、自分のミスを誰かのせいにして、それを庇ってくれた人に喰ってかかるなんて、無様なことこの上ない。
 土日をかけて、結局自分を保つために佐山にあんな暴言を吐いたことが、ミスをしたこと以上に愚かなことだと納得して、次に顔を見たら謝ろうと思っていた。
 だが、同じ会社へ向かう社員たちも多いホームで、その話題を持ち出すことがどうしてもためらわれた。肩を叩いて、挨拶をして、この間はすみません、ありがとうございましたと頭を下げればとりあえずの格好はつくとわかっているのに。
 結局つかず離れずの距離で、さり気なく佐山の後ろを歩いているうちに、改札口まで辿り着いてしまった。
(よし、声掛けよう)
 いつまでも自分の失態を思い悩むのも嫌だったので、さっさと謝ってしまおうと秋口が足を踏み出しかけた時、自分が声をかけるより先に佐山が振り返ったのに驚いた。
 佐山の横顔がパッと笑顔になる。つられて秋口がその視線を追うと、御幸が隣に並ぶところだった。
(何だよ)
 出鼻をくじかれた気分で、秋口は軽く舌打ちする。
 佐山と御幸の足取りはのんびりしていて、追い越すわけにもいかず、秋口は少し離れたところからその後ろをついて歩く羽目になった。御幸のいるところで佐山に頭を下げるなんて死んでも御免だったが、かといってふたりを何喰わぬ顔で追い越して行くこともできない。
 会社のビルまでは歩いて十五分ほど、面倒なことになった。知り合いに大声で声を掛けられたら気まずいことこの上ないだろう。
 声がかけ辛いよう、気むずかしい表情まで作っている自分は間違いなく道化だと思った。
「……?」
 何気ない素振りで見遣っていた佐山の目許が、不意に赤く染まり、秋口は驚いた。御幸を見上げて驚いたような表情をしている。
(……あの人、あんな顔もするのか)
 何を話しているのかはわからないが、佐山は照れた顔になっている。
 それを見下ろす御幸の表情は優しい。
 囁くように御幸が佐山の耳許に唇を寄せ、佐山が笑ってその脇腹に拳を軽く突き立てる。
 ごく親しい友人同士の遣り取りから、秋口はなぜか目が離せなかった。佐山の表情はくつろいだ笑顔に変わっていて、その変化に秋口の視線が奪われる。自分の前で、どこか頼りなく笑顔を浮かべる佐山とは別人のようだった。
「おはよう、秋口君」
 そして急に名前を呼ばれ、ハッとしてふたりから自分の隣へ目を移す。
「ずいぶん怖い顔で佐山さんのこと睨んでるのね」
 沙和子だった。
「おはようございます、今日もお綺麗ですね」
 咄嗟に社交辞令を口にした秋口を、沙和子が「ありがとう」とさらっと躱す。
「佐山さんと一緒に仕事をするようになったんですってね」
「ええ、偶然ね」
 佐山と御幸は仲睦まじそうに会話しながら歩いている。朝の喧噪に紛れてお互いの声が聞き取りづらいのか、佐山よりも背の高い御幸がときおり顔を佐山の方へ近づけたり、佐山が御幸を見上げたりしていた。
(本当に、仲よすぎじゃないか? あの人たち)
「他の人が担当だった仕事に、秋口君が強引に割って入ったって聞いたわ。――何考えてるの」
 沙和子の口調は少し困ったようなものだった。
 秋口は佐山たちから彼女にまた視線を移し、笑う。
「何って、前任の方が忙しくなったから、手助けするために申し出ただけですよ」
「佐山さんに、おかしなこと言わないでね」
「おかしなことって?」
 わざと問い返すと、沙和子はますます困った顔になる。
「雛川さんが、まだ佐山さんに未練があるとか?」
「……そうよ」
 思いのほかはっきりと、沙和子が秋口の軽口に頷きを返した。その潔さに秋口は驚く。
「雛川さんの方から佐山さん振ったんだって聞きましたけど」
「子供だったの。佐山さんが優しくて強いって気づけなかったこと、今は後悔してるわ」
 優しいはともかく、強いという表現が佐山に使えるとは秋口は思えない。沙和子が佐山の何を見ているのか、やっぱり不思議になった。
「雛川さんが縒りを戻そうって言ったのなら、佐山さんは喜ぶんじゃないですかね」
 内心の焦りと嫉妬心を抑えつつ、秋口は努めて軽い口調でそう言った。沙和子は黙り込んで何も応えなかった。
「雛川さんがその気なら、別に俺が佐山さんに何言ったって構わないでしょ、結果は同じだし」
「自分で言いたいのよ」
 橋渡しなんてする気は毛頭ないのにそう言ってみた秋口に、沙和子はきっぱりと答えた。
「だから、秋口君は邪魔しないでね」
 そう言い置いて、沙和子は小さく秋口に微笑みかけると、同じ総務部の女子社員をみつけてそちらへ向かっていってしまった。
(――何だよ、それは)
 きっちり釘を刺されてしまった。
 男として、ずいぶん虚仮にされたもんだと思う。
 沙和子のことは他人の羨望を集める存在として以外興味がなかったが、それでも、だからこそ、自分を軽く扱われたことに腹が立つ。
(邪魔するなって言われると、邪魔してやりたくなるんだよな)
 佐山にしても沙和子にしても、関われば苛立つだけだったから、もう全部無視したっていいのだ。なのに妙な意地のせいでそれができない。
 むっつりと顔を顰めたまま秋口が前を見遣ると、佐山は相変わらず御幸と楽しそうに話していた。
 自分がこんなふうに腹を立てているのに、佐山だけ脳天気に笑っているのが許せない。
(……よし)
 秋口は肚の裡でひとつ決意して、会社へと向かっていった。
 
     ◇◇◇
 
「この間は、失礼なことを言って本当にすみませんでした」
「え、あ、いや……」
 午前中、佐山が廊下に出てきたところを捕まえて、秋口は休憩所まで彼を引っ張ってくると、そう言って頭を下げた。
 最初佐山が自分をみつけた時、気まずそうな、少し怯えたようにも見える表情をして逃げ腰になっているのを、強引に腕を掴んで連れてきた。幸い休憩所には誰もおらず、秋口は腹を括って謝罪することができた。
「たしかに俺も、秋口の指示を待たずに勝手に連絡取ったのは悪かったと思うし」
 きっちり頭を下げた秋口の態度に、戸惑った様子で佐山が言う。
「あの時はテンパってて、冷静な判断ができなかったんです。正直なとこ、自分のミスが恥ずかしくて佐山さんに八つ当たりしてました。佐山さんがすぐ工場に連絡取ってくれたおかげで、損失らしい損失も出なかったのに」
 この辺り、土日をかけてたっぷり反省したので、謝る気持ちは嘘じゃない。
 佐山に今さらふざけるなと言われても無理はないと思っていたが、しかし彼はそんなことを言わないだろうと予測もしていた。
「宮原さんとのトラブル、これが初めてじゃないから。俺の方が対処に慣れてるだけだし、気にしないでくれ」
 顔を上げると、佐山が困った顔で、それでも笑って秋口を見下ろしている。
(優しい、か――)
 ひどい暴言を吐いた自分に怒りもせず、あっさりと許してくれる佐山はたしかに優しいのだろう。それが軟弱だと自分の目に映りかねないのは、自分の性格がどちらかというと好戦的なものだからかもしれない。
(みんな俺みたいだったらやってけないだろうし、こういう人も必要なのかも)
 佐山の性格の好き嫌いは置いておいて、秋口は何となくそう思った。
「あの、もし迷惑じゃなかったら、今日の帰りにでも晩飯奢らせてくれませんか。お詫びもかねて」
「えっ」
 秋口が切り出した言葉に、佐山がなぜか一瞬、絶句した。
「そんな、いいよ、俺はもう気にしてないし、秋口が謝ってくれたので充分だし」
 もう、というからには多少は気にしていたのだろう。それがわかって秋口はまた少し反省を深めた。いくら佐山がぼんやりに見えるからと言って、自分の舌鋒にまるっきり傷つかないはずがない。実際、金曜の晩の帰り際の佐山は、ひどく辛そうな顔をしていた。
「俺の気がすまないんです。それに、T社との仕事が続くなら、佐山さんとはこれから長くやってくことになるだろうし。いろいろ聞きたいこともあるから」
「そうか……」
 まじめな佐山に、こう言えば断られないだろうことは秋口もシミュレーションずみだ。案の定、ちょっと考える素振りのあと、佐山は頷いた。
「奢りはいいけど、聞きたいことがあるっていうなら、夕飯つき合うよ」
「ありがとうございます」
 秋口は笑顔でまた頭を下げた。
(これでとりあえず、今日は雛川さんの動きは封じたと)
 朝の沙和子の様子だと、今日にでも佐山に声をかけかねない雰囲気だった。昼間だって話をするなら機会はあるだろうが、廊下で擦れ違った時や、昼休みではなく、もっと時間をかけたいと考えるだろうから、狙うのならやっぱり終業後だろう。
「俺がよく行ってる店でいいですか、隣の駅に近い方で、ちょっと歩くんですけど」
 会社帰り、女の子がそばにいるのが煩わしくてひとりになりたい日によく使っている店だ。訊ねると、佐山はすぐに頷いた。
「いいよ」
「じゃ、こっちの仕事終わったら携帯に連絡します」
 秋口はそう告げて、自分の仕事場に戻った。うまくいったと、ひそかに沙和子への意趣返しを果たした気分だった。
 
     ◇◇◇
 
 自分で誘っておきながら、佐山と――というより男と差し向かいで食事、という状況を考えて秋口は気が重くなった。これが年上の美人でふたりきりというのなら、残業なんてすべて放り出しても構わないと思うのに。
 特に急ぎの仕事があるわけでもなかったのに、秋口は定時の就業時間がとっくに過ぎても、自分のデスクの前でパソコンのモニタを眺めていた。
 パソコンの画面で時間をたしかめれば、もう七時を回ろうとしている。お互いの仕事が終わったら、と約束をしておいたが、ぐずぐずと今日やらなくてもいい書類などを作った。このまま遅くなれば、佐山も待ちくたびれて帰ってしまうかもしれないという都合のいい希望。
 少なくとも自分を待っている間は、万が一沙和子に声を掛けられたって、彼女と出かけてしまったりはしないだろう。
 八時半を回ってようやく、秋口は携帯電話を手に取った。アドレス帳から佐山の名前を捜し出して、通話ボタンを押す。
 五回呼び出し音が鳴って、やっぱりもう痺れを切らして帰ってしまったのだろうかと思った時、佐山が電話に出た。
『はい、佐山です』
「あー……お疲れ様です、秋口です。ええと、今仕事終わったんですけど」
『そうか、お疲れ』
「佐山さん、まだ会社です?」
『え、うん、開発に』
「そっちは仕事、どうですか」
『今日やらなきゃいけない作業は終わったから、もう出られるよ』
 溜息を押し殺しつつ、秋口はエントランスで待ち合わせることにして、電話を切った。
(まあ、この時間なら、ちょっとメシ喰って酒飲んで帰ればいいか)
 荷物を持って、まだ数人残っている他の社員に挨拶をすると、秋口は廊下に出た。
 エントランスに辿り着くと、佐山がその隅の壁に人待ち顔で寄り掛かっている。外の方を眺めていた。秋口はゆっくり歩きながら、その横顔を見遣った。
(あの人、何であんな分厚い眼鏡してんだろ)
 よほど視力が悪いのか、佐山の眼鏡のレンズは分厚い。顔も小作りなのにフレームの大きな眼鏡をしているから、どうも野暮ったく見えるのだ。
 横から見ると、ちょうど眼鏡に隠れず顔のラインが見えるようになる。元々の顔の造りはそう悪くないんじゃないか、と秋口は少し驚いた。眼鏡を取って、真っ黒の髪を明るく染めたり、思い切って短くしてしまえば、ずいぶんと印象が変わるのではないだろうか。
(まあ、中身は変わらないんだろううけど)
 そんなことを思いつつ、秋口は佐山の方に近づいて声を掛けた。
「すみません、お待たせしました」
 秋口の声に、佐山が振り返って控えめに笑う。
「お疲れ、じゃ、行くか」
 並んで会社を出ると、秋口も佐山も、もうすっかり暗いですねとか腹減ったなとか、当たり障りのないことを話しながら店の方へと歩いた。何となく会話がぎこちない。自分は乗り気じゃないし、佐山の方にしてもそうかもしれないと秋口は思った。謝って許してもらったとはいえ、先輩に向かってひどい言葉を吐くような後輩と一緒に食事するなんて、気が乗らなくて当然だ。
 すでに佐山を誘ったことを後悔しながら、秋口は辿り着いた店のドアをくぐった。大通りから細い路地の方へ少し入ったビルにある、割合広くて小洒落た店だ。
「へえ、いい雰囲気だな」
 店員に案内されるのを待つ間、佐山が店の中を見回してそう呟いた。それで秋口は少しだけ嬉しくなる。自分の気に入った店を褒められるのはちょっと気分がいいものだ。内装はエスニックで、暗い照明の中、木像や金属のオブジェが浮かび上がり、低く民族音楽が流れている。客はそれなりに入っているが、ざわめきは控えめだった。
「秋口、よく来るのか、こういう店」
「ちょっと前からハマってるんですよ、ここの生春巻きと海鮮焼きそばが、特に美味くて――あ、結構香草キツい料理とかありますけど。佐山さん、大丈夫ですか」
「うん、多分」
 話している間にやって来たが、ふたりを窓際の席に案内した。秋口がひとりで来る時は、同じ窓際でも大抵カウンタ席だ。
 フロアにはひとりの者、友達同士で数人固まったOLやサラリーマン、あとはカップルが一番目についた。その間を擦り抜けて、秋口は案内された席、木の椅子に腰かける。佐山もその向いに座った。
 テーブルに置いてあったメニューは一冊きりで、秋口はふたりで見られるような向きでそのページを開いた。
「ええと、何が美味いんだっけ」
 佐山が少し身を乗り出してメニューに視線を落とす。
「このスプリングロールっていうのと、あとこの焼きそば。それにカレーも美味いし、デザートも結構いけます」
「うーん、目移りするなあ」
 佐山は楽しそうにメニューを眺めている。写真入りのメニューは細かく材料や調理方の説明もしてあって、どれも美味そうだった。初めて来たのなら、たしかに目移りするだろう。
「秋口は、何にする?」
「今日は豆腐野菜のフォーにしようかな。あとスプリングロール」
「俺は……じゃあ、海鮮焼きそばで」
「佐山さん飲めないんでしたっけ? 甘いもの系平気だったら、この柚子茶お勧めですよ」
「じゃ、それも」
「俺はビール頼もう。すみません!」
 秋口は近くを通り掛かった店員を呼び、佐山の分もてきぱきと注文をすました。少し待つと、ビールと柚子茶がやってくる。
「へえ、焼き物のタンブラーなんだ」
 テーブルに載せられたビールタンブラーを見て、佐山が感心したように呟く。
「これだと泡がきめ細かくなって、美味いんです」
 佐山は物珍しそうな様子で、秋口が傾けて見せたタンブラーを覗き込んでいる。酒は飲めないというし、営業時代もこういう店での接待はなかっただろう。
「一応、乾杯しますか?」
 秋口の言葉に、佐山が笑った。
「お茶だぞ、俺」
「まあ気分で。――お疲れ様です」
「お疲れ」
 瀬戸物のタンブラーとガラスのティカップで乾杯すると、佐山がますます楽しそうな笑顔を見せる。
 秋口も何だか釣られて笑ってしまった。冷まし冷まし秋口がお茶を飲むのを、ビールに口をつけながら眺め。
「どうですか、それ」
「うーん……結構、かなり、甘い。でも美味い、疲れ取れそう」
 猫舌だという佐山は、舐めるようにちびちびと柚子茶を飲んでいる。
(……何か)
 冷たい空調の中、暖かい飲み物を飲んでほっとしたのか、佐山は少しくつろいだ様子になっていた。
(可愛いな、この人)
 不意にそんなことを思ってしまってから、秋口はそんな自分に気づいてハッとした。
(可愛いって何だ、気色悪い)
 男、しかも年上に対して可愛いなんて、どんな気の迷いだと自分の思考にげんなりした。
 大体その男なんかと向い合って食事をすること自体、気が進まなかったはずなのに、何を釣られてくつろいだ気分になっているのか。
「秋口? 飲まないのか?」
 タンブラーを手にしたまま、眉を顰めて動きを止めている秋口に気づき、佐山が不審そうに呼びかけてきた。
「疲れてるみたいだけど、大丈夫か」
 黙り込んでしまった秋口に、体調が悪いのかと気遣った佐山が訊ねてくる。きまり悪い心地になって、秋口は「いや……」と曖昧に答えてビールを飲んだ。
「営業は大変だもんな、歩き回らなくちゃいけないし。秋口は家、どの辺だっけ。通勤大変じゃないか?」
「電車で、一回乗り換えて、何だかんだで四十分くらい掛かるかな。まあ楽な方ですよ、電車乗ってる時間自体は二十分くらいだし。佐山さんは?」
「俺は電車で十五分くらい。会社から近いとこ選んだから」
 どうやら佐山はひとり暮らしらしい、とその言葉で秋口は察する。
「御幸さんも近くに住んでるんですか」
「御幸? いや、あいつは結構遠いよ、実家住まいだから、そろそろ会社の近くに引っ越したいって言ってるけど、楽だからなかなか踏み切れないって言ってたな」
「ああ、わかります、ひとりの方が気楽だけど、掃除とか洗濯とか料理とか面倒な時なんかは実家はよかったって思う」
「秋口、自分でそういうのやるのか?」
 佐山が少し驚いたように言って、秋口はその反応になぜだかムッとした。どうしてかは自分でもわからない。腹が立ったというより、奇妙な羞恥心のようなものを感じたようだ。
「そりゃ、連れ込んだ女の子に毎日全部やらせるわけじゃないですよ。自分でできます」
「あー……そっか……」
 佐山の方は、腑に落ちたような、そうでもないような、微妙な感じで頷いている。
「佐山さんは? 何か結構、几帳面にやりそうだけど。掃除とか」
 訊ねると、佐山は秋口から視線を逸らし、微かに遠い目になった。
「掃除機が、もはやどこにあるのか……」
「……ひょっとして、真逆ですか」
 予想外の反応に、秋口がおそるおそる訊ねると、神妙な顔で頷かれてしまった。
「たまに御幸が遊びに来た時に、発狂される」
「そこまでカオスなのか……」
「片付いてると、何となく不安になるんだよ。まあ、単にずぼらだっていうのもあるんだけど」
「意外だ……だって佐山さんの机、結構片付いてるじゃないですか」
「会社はまた別なんだよ。仕事するには整理整頓されてる方が効率いいだろ。でも、自分のテリトリーっていうか、縄張りの中では、カテゴリ関係なく物に囲まれてたいっていうか。とにかく、捨てるのが苦手なんだよ」
「ふうん。割と、物に執着がある方です?」
「だな。きっとこれはもう使わないなと思っても、思い出が残ってるから捨てられない」
 話しているところに、料理を持った店員がやってきた。しばらくその料理に舌鼓を打つことで会話が中断する。佐山が料理を手放しで褒めるから、この店に連れてきた秋口がやっぱり誇らしくなってしまう。
「で――さっきの話」
 フォーを箸で摘まみつつ、秋口は話題を元に戻した。
「部屋散らかってるって、それじゃ彼女も呼べないんじゃありません」
 探りを入れるつもりで訊ねた秋口に、佐山が苦笑を返した。
「残念ながら、片づけてくれるような人にも心当たりがないし」
「そういうの、欲しくないんですか? 便利でしょ」
「うーん……あんまり他人に自分のもの弄られるのは得意じゃないし。それに、つき合ってるとしても、だからって掃除をしてくれてあたりまえってわけじゃないだろ。恋人であって、家政婦じゃないんだから」
 至極まっとうな意見だ。恋人じゃなくたって、掃除も洗濯も料理もしてもらって当然と思っている秋口には、少々耳が痛い。
「まあ俺も、勝手に自分のものいじられたら、気分悪いですけどね」
 つけ足しのよう言った秋口の言葉は嘘でもない。一度寝ただけで、恋人面して部屋に居座り、勝手に自分のものをあちこち弄り回すタイプの女は苦手だった。こちらから頼んでやってもらう分には何とも思わないのだが。
「でもまあ、うちは母親と姉が勝手に部屋掃除するタイプだったから、耐性はついてるのかも。家族の場合は、ちゃんと俺が触ってほしくないところわかっててくれるから、楽だったんですけど」
「いいご家族だな」
 佐山が微笑した。少し喋りすぎたかもしれないと、秋口はほのかに悔やむ。秋口は割合自分の家族が好きだったから、マザコンなり、ファザコンなり、シスコンなりと思われたらばつが悪い。実際そうであると自覚している分。
「佐山さんのところは? 兄弟とか、いないんですか」
 佐山の方の言質も取ればおあいこだと、妙な対抗意識で秋口はそう訊ねた。
 佐山が焼きそばを摘んでいた箸を留め、ほんのわずかだけ困ったような表情で、皿の上に視線を落とす。
「うーん……俺は、一応、ひとりっ子」
 微妙な言い回しだ。秋口は訊ねてすぐ、聞かない方がいいことを聞いてしまったと後悔した。家族の話は佐山にとって鬼門なのかもしれない。そこに踏み込んでいけるほど、秋口だって無神経ではなかった。
(そういえば俺、やけに和やかにメシ喰ってるな)
 不意にそう気づいて、秋口は怪訝な気分になった。
 佐山のことが目障りだったからこそ、沙和子とよりを戻すなんてことがないよう、彼をここに誘ったのに。
 仕事の失敗をフォローしてもらった負い目もあるが、自分が今佐山にキツイことが言えないのは、その雰囲気のせいもあるだろうと秋口は考える。佐山は終始控えめに自分の横や隣にいて、こっちを苛々させるようなことを言わない。
 たまに一緒に飲みに行く男連中は、自分の手柄を自慢したり、すぐ女の話になったり、仕事の愚痴を言ってばかりで、秋口が見下すのに充分な理由があった。俺より大したことないくせに、と。
 だが佐山はそういう話題を一切口にしないし、居心地がいいのだ。
(まあ……うるさくないから、いてもいいってことかな)
 学生時代など、クラスに必ずひとりはこういうタイプがいて、購買に行くと言えばついでに買い物を頼んだり、他の友達が煩わしくなった時に遊びに誘った。たいてい、何もせずぼんやりそばにいるだけで、気の利いたことひとつ言うでなし、誘った秋口の方から飽きて、二度と声も掛けなくなるのだが。
(そういうことだろ、きっと)
 自分を納得させて、秋口は生春巻きを口に放り込んだ。
「いい食べっぷりだなあ」
 その様子を見て、佐山が感心したような声を上げた。秋口はもうフォーを平らげ、合間に摘んでいた春巻きも、あとひとつを残すところになっている。
「あ、春巻き一個食べます?」
 気を利かせて秋口が勧めると、佐山が首を横に振った。
「いや、俺はもう腹一杯」
「え、それだけですか」
 この店は一皿の量がそう多くはなく、大抵の人はメイン一品に、サイドメニューを一品つけている。秋口もそうだし、実はさらにデザートも追加しようかと思案していたところだった。
「本当に小食なんですね」
 佐山が少し恥ずかしそうな苦笑で、箸をテーブルに置いた。
「憧れなんだけどな、秋口みたいに美味そうにたくさん料理食べる奴。ああ、足りなかったら、こっちは気にしないでもっと頼んでくれ」
 お言葉に甘えて、秋口はビールのお代わりと、甘くないデザートの追加を注文した。
 それからは仕事の話に移り、だがまじめな打ち合わせというわけでもなく、雑談混じりの気楽な会話をしながら秋口は料理をすべて平らげた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
 言った佐山に頷いて秋口が腕時計を見ると、すでに時刻は十一時を回っていた。秋口が思ったよりずっと遅い時間になってしまった。
「あ、今日はここ、払いますから」
 伝票を手に取ろうとした佐山の動きを制し、秋口はそれを横から奪った。
「いや、でも」
「――先週のお詫びってことで。受け取ってください」
 殊勝に頭を下げた秋口を少しの間眺めてから、佐山が表情を綻ばせて、頷く。
「そうか、じゃあ、今日はご馳走になろうかな。ありがとう」
 頑なに断られると思っていた秋口は、建前で提案したわけでもなかったので、ほっとした。佐山のような性格だったら、きっと自分の分は自分で払うと言い張って、謙虚な頑固さで譲らないと予測していたのだ。
 こんな場合、気持ちよく奢らせてもらった方が、遺恨が残らなくて秋口も気が楽だ。
 会計を済ませ、秋口は来た時と同じように、佐山と並んで店を出た。
「俺、こっちの駅から帰れるんで」
 大通りに向かいながら、秋口は店に近い駅の方を指さして佐山にそう告げた。
「俺は向こうに戻らないとだから――じゃあここで」
「すみません、遠い方まで引っ張って来ちゃって」
「いや、すごく美味しかった、ご馳走様」
 笑って言った佐山が、そのままふと目を伏せて俯いた。表情の変化に、秋口はなぜかぎくりとする。
「佐山さん?」
「こんなこというの、あれだけど……俺は秋口に嫌われてるって思ってたから」
 顔を上げてもう一度秋口を見上げた佐山の表情は、照れたような、はにかむような、嬉しそうな顔をしていた。
「誘ってくれて嬉しかった、どうもありがとう」
「……いや……」
 ストレートな佐山の言葉と、その表情に、秋口も釣られて無性に照れ臭い気分になってしまった。何を言い出すのかと、逆に突慳貪な声で返したくなるほど。
 さすがにそれでは子供っぽすぎると思って、どうにか踏みとどまったが。
「よかったら、また来ような」
「……はい」
 それでもやっぱりどこかぶっきらぼうな口調になってしまいながら、秋口は笑った佐山に向けて、そう答えた。
「じゃあ、おやすみ。また会社で」
「おやすみなさい」
 佐山が踵を返し、ゆっくりと会社の方へと歩いていく。
 静かに遠ざかっていく佐山の後ろ姿を、秋口は突っ立ったまま見送った。
(はい――って)
 小柄なその背中を眺めながら、秋口は何だか複雑な気分だった。
(何いい返事してんだ、俺は)
 別に馴れ合うつもりで誘ったわけじゃない。
 でも、どうしてか、秋口はもう一度くらいは佐山と一緒に食事をしたっていいんじゃないかと、そんなふうに思った。
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