こころなんてしりもしないで・第10話<完結>

 気持ちが落ち着くまで秋口と話すのをやめておこうと思ったら、一週間彼を無視しつづける羽目になった。
 多分、話し合う状態じゃない。自分も秋口も。まともに話そうとすれば、自分は秋口を許してしまうだろうと佐山にはわかっていた。それがお互いの関係のためにはよくないだろうということも。
 どうせ同じことの繰り返しだ。
(時間が必要なんだよ)
 それで駄目になるならなってしまえと、佐山は半ばやけくそ気味に思った。許せば自分がなお辛くなることは目に見えている。好きだから何をされても我慢できるわけじゃない。他の何にも代えがたい恋があると思い込むほど盲目にはなれなかった。
「そもそもは、そういうのが嫌で早く普通に結婚したかったんだけどなあ……」
 仕事を終え、帰宅のためにビルのエントランスへ向けてエスカレータを下りつつ、佐山の口から思わずぼやくような呟きが漏れた時、背中を叩かれた。
 振り向くと、沙和子が立っている。
「今、帰り?」
 沙和子は少し息を切らしていた。佐山の姿を見かけて、追いかけてきたのだろう。
「うん、沙和子もか? 総務も今日は遅いな」
 終業時刻はとうに過ぎている。総務部は残業の少ない部署だったから、開発部の佐山とこうして顔を合わせることは珍しい。
 腕時計を見てそう言ってから、佐山はもしかすると彼女が自分を待っていたのではないかと気づいた。
「ね、ご飯、まだだったら一緒に行きませんか」
「そうだな、何か食べてこうと思ってたし」
 断る理由はない。沙和子の誘いに佐山は応じた。ふたり揃って会社を出て、駅前近くのビルにあるレストランへ向かう。以前、佐山と彼女がつき合っていた時によく足を向けた店だ。女性かカップル客しかいなかったから、沙和子と別れてからは一度も訪れていなかった。
 昔と同じように沙和子と向かい合って座り、他愛のない話をしながらメニューを選び、やってきた料理にあれこれと感想を言い合っては笑う。そうしながら、佐山は何となく感慨深くなった。
 ここのところ沙和子と言葉を交わす機会は増えたが、こうしてゆっくり食事を一緒にとることなんて、本当に久しぶりだ。
 沙和子は以前と変わらず綺麗で、優雅だった。ゆっくり料理を噛み、口にものが入っている時には決して喋らず、明るい笑い声を立てて、上手にフォークとナイフを使う。いい意味で、しっかり躾けられたのだとよくわかる。沙和子のそういうところを佐山はとても気に入っていた。
 普通で、優しくて、暖かい匂いがする。
 それにずいぶんと癒される心地で、佐山は食事を終えた。
 食後のお茶を飲んでいる時、それまで饒舌に喋っていた沙和子がふと黙り込んだので、佐山も黙って飲み物を口に運んだ。
「……佐山さん、あのね」
 やがて沙和子が緊張した声音で呼びかけて来たので、佐山は首を傾げて彼女の方を見返した。
「うん?」
「あの頃わたし、まだ大学を出て社会人になってほんの数年で、自分が誰かと結婚するっていうことを考えることができなかったの」
 沙和子が言う『あの頃』がいつを指しているのか、すぐに察して佐山は少し笑って頷いた。
「わかってる、沙和子には本当に無理を言って申し訳なかったって」
「でも今は違うの」
 佐山の言葉を遮るように、沙和子は真剣な眼差しで言った。
 その表情で、彼女が今日これを言うために自分を呼び止めたのだと、佐山にもわかる。
「佐山さんと別れて、他の人とつき合ってから、佐山さんがどれだけ優しくてわたしのこと考えてくれてたのかやっとわかった。ただ一緒にいて楽しいだけじゃなくて、相手のことを思い遣るとか、そういうこと……わたしは子供で馬鹿だったから、帰る時間や両親のことを気に懸けて、羽目を外すこともないようなところを不満に思ってしまったけど、今ならわかるの。佐山さんみたいな人、他にいないんだわ。みんなただわたしを楽しませることだけを考えて、ただその場その場で無茶をしても恋人として振る舞えればいいだけで、本当にわたしのこと大事にしてくれていたのは佐山さんだけだって」
「……」
 佐山は答える言葉を思いつかず、ただ黙って沙和子のことを見返した。
「本音を言えば、あなたのお母様のことでも結婚に二の足を踏んでいたことはあるわ。そういう覚悟はなかったし、佐山さんが始めから隠さずにわたしの家族にも話したことで、反対されていたから余計に。でも、今は違うの。佐山さんのお母様となら家族になりたいと思うし、わたしにできることがあればお母様のためにも、佐山さんのためにも力になりたいと思う。……今さらって、思われるでしょうけど……」
 少しずつ困った顔になっていく佐山の表情に、沙和子の声音も次第に小さくなっていった。
「……呆れるわよね。佐山さんの優しさに後足で砂をかけるような真似をして、裏切ってわたしの方からいなくなったのに」
「そんなことない。沙和子がそう言ってくれるのは、すごく嬉しいよ。ありがとう」
 実際、嘘偽りなく佐山には沙和子の言葉が嬉しかった。彼女が自分以外の男を選んで、彼女の言うとおり『裏切る』ような形で別れが来たことは辛かったから、今真剣な顔で沙和子が自分との結婚を考えると言ってくれるのは、本当に嬉しい。
 だが――
「でも、ごめん、今好きな人がいるんだ」
 すんなりとそう答えが出てきて、佐山は内心、自分でも驚いた。
 これ以上ひどい思いを味わうくらいなら、別の選択肢を選んだって構わないと、自分では覚悟を決めていたはずなのに。
 そうやって、好きだと思った相手に手を上げたりもしたというのに。
「恋人……なの?」
 沙和子の問いに、佐山は苦笑するしかない。
「いや、そういうんじゃ、全然。空回ってばっかりだよ。到底うまくいく気がしない相手だし」
「……」
 沙和子はまだ何か訊ねたそうにしていたが、一度言葉を呑み込んで俯き、それから顔を上げた。
「それでもいいの」
 彼女は本当に綺麗な人なのだと、まっすぐに自分をみつめられて、佐山は思う。
「それでもいいから一緒にいたいの。佐山さんのこと好きだから、一緒にいたい」
「……ごめん」
 彼女の真摯さを愛しいと思いながら、それでも佐山にはそう答えることしかできなかった。
「そういうのは、嘘をつくみたいで沙和子に失礼だと思う」
「でもわたしは」
「それに、当てつけみたいで嫌だし……自分の気持ちを誤魔化すのも無理なんだ」
 正直な気持ちを伝えることでしか、彼女の気持ちに報いることができない。それが佐山の胸に痛かったが、今は沙和子の方がずっと痛いことはわかっている。
 沙和子はそれ以上言いつのることができず、目を伏せて小さく溜息をついた。
「楽な方にって、考えないのね。佐山さんは」
「器用じゃないし、融通がきかないから」
「強いっていうのよ。そういうの」
 苦笑して答えた佐山に、沙和子も困った顔で笑いを返した。
「どうして佐山さんのそういうところ、あの頃気づかなかったんだろう。勿体ないことしたなあ」
 沙和子が冷めた紅茶を口にして、佐山も何とも答えられず、曖昧に笑いながら空になった湯呑みを片手でもてあそんだ。
「……こうやって、たまに食事をするくらいはいいわよね」
 紅茶を飲み干すした沙和子に問われ、佐山は頷きを返す。
「もちろん」
「応援、しないからね」
 この言葉は、佐山は聞こえなかったことにした。
 
     ◇◇◇
 
 沙和子の誘いで別の店に移り、彼女は酒を、佐山はジュースを飲んでずいぶん長い時間を一緒に過ごした。
 お互いの家族のことや共通の知人の近況など、二年の間話せなかったことが山のようになっていたから、話題は尽きないまま名残惜しくその夜は別れた。
 遅くなってしまったので佐山が沙和子を自宅まで送って、自分のマンションに帰り着く頃にはすでに日付が変わろうとしていた。
 階段を昇り、自分の部屋のあるフロア、その共同廊下に進もうとした佐山は、そこに人影を見つけて少しぎょっとした。こんな時間に他の住民と会うのは珍しい。
 そしてその人影が自分の部屋の前に佇んでいること、その上それが秋口だということに気づくと、佐山は咄嗟にきつく眉根を寄せ、唇を引き結んだ。
 足音に気づいて秋口が佐山の方を見る。佐山は早足に秋口の方――自分の部屋の前まで向かうと、ポケットにしまってあった定期入れから鍵を取り出す。
「退いてくれないか」
 秋口の顔を見ないように佐山は言った。
 秋口は佐山を部屋に入れまいとするように、ドアの前に立ちはだかったままだ。
「雛川さんと一緒だったんですか。会社で並んで出て行くところ見ました」
 前置きも何もなく、秋口は低い声でそう訊ねる。
 自分に非があるわけではないのに、秋口の口調が明らかに責める響きを持っていたから、佐山は表情だけではなく心も曇らせてしまう。
「そうだよ」
 こんなふうに秋口に責められるいわれなんて、自分には何ひとつないのだ。
 佐山が顔を上げて見ると、秋口は吐き出す言葉を必死に呑む込むような、歪んだ表情をしていた。
 自分の腕へと伸びてこようとする秋口の手を見ながら、佐山は嗤った。
「それでまた、俺のこと無理矢理抱くのか?」
 大仰なほど、秋口の手がびくりと震えて動きが止まる。佐山はそれをひどく冷静な心地で眺めながら、秋口の体をドアの前から押し遣った。
 大した力も入れていなかったのに、秋口の体は簡単に動いた。
「佐山さん」
 呼びかけには応えず、佐山はドアを開けてすぐに部屋の中へ滑り込む。
「佐山さん!」
 苛立った秋口の声を断ち切るようにドアを閉め、錠も下ろした。
「何でだよ、何で俺の話は聞かないのに、雛川さんとは」
 チェーンもかけてしまうと、外から力ずくでドアを蹴りつける音と衝撃が響く。二度、三度と続いてから、苛立ったような足取りが部屋の前から離れていった。
「……」
 佐山はドアに額を押しつけ、目を閉じると深々息を吐いた。
「……子供なんだよなあ……」
 呟く表情には、苦笑が浮かんでしまう。
 ――いい加減、佐山にだってわかっているのだ。
 秋口は自分に何かしらの執着心を持っている。多分それは、独占欲といってしまっていいくらい強い気持ちだ。
 それが恋とか愛情なのかとか、そんなのはわからない。きっと秋口自身にだってわからないのだろう。
 わからないから苛立って、うまくいかないことに駄々を捏ねている。
 最初に佐山の方から好きだと言ったから、簡単に佐山が自分のものになったと思い込んで、なのに思い通りに佐山が自分の言いなりにならないから腹を立てている。
(ペットとか、おもちゃじゃないんだよ、俺は)
 それを秋口がわからない限り、佐山は彼とまともに話ができるなんて到底思えなかった。
(最初はまあ、それでもよかったのかもしれないけど)
 佐山の気持ちを哀れんでか、おもしろがってか、秋口が気紛れにでも自分に手を出したことは、幸運なのかもしれないと最初は思った。思い込もうとした。どうせ報われない気持ちなら、思い出のひとつでもできれば何もないよりはまだマシだろうと。
 もちろん、秋口が純粋に自分へ気持ちを返してくれればそれが本当の幸福だとどこかで考えてはいた。そうなることを願わなかったわけじゃない。期待もなく秋口と一緒にいたわけじゃない。
 でもそれは、秋口が他の人間を相手にしたことで裏切られたのだ。自分とはまるで本気ではなかったと、あれほどわかりやすい形で示す方法も他にない。今まで秋口が相手にしてきた大勢の女たちと十把一絡げの扱い。いや――『女より面倒がないから』などという理由でしかなかったと、そう本人の口から聞かされた。
(それで今、これなんだから)
 きっと自分が泣き喚いて、縋りつけば、秋口は満足だったのではないかと今の彼を見て佐山は気づいた。
 秋口が他の相手といることは許して、自分は秋口だけを見ていると甘えて訴えれば、それで秋口の自尊心は満たされるのだ。
(……馬鹿だよ)
 そんなことをしてまともに続く関係があるわけない。そういうふうにしか秋口が佐山の気持ちを確認することができないのなら、やり方はどんどんエスカレートするだけだ。秋口が佐山を傷つけ、傷ついたことをたしかめて喜んで、また佐山を傷つけて、いつまでもいつまでも終わりなく続いてしまう。今だってもうそうなりかけている。
 そんな歪んだ関係なら、たとえそれを作り出した理由が愛情だったとしても、佐山は欲しくなんてなかった。
 それを欲しがる自分なんて認められなかった。
 だから今、秋口と話すわけにはいかない。秋口が何も気づかないままそれを許したくない。
 どこで間違ってしまったのかはわからなかった。以前に何度も思ったように、『何でこうなったんだっけ』と途方に暮れる気分にもなった。
(でも、あと、もうちょっと)
 自分の心だけが秋口に向いているのなら、自分が何かを望むのはお門違いだと思っていたけれど、もしも秋口がほんの少しでも同じ気持ちでいてくれるのなら、願って、待つことは間違ってはいないのかもしれない。
 縛るだけじゃないやり方で、ほんの少しだけでも自分に好意を持っているのだとわからせてくれたなら。
 それですべてがうまく行くわけではないとわかっていても、その先にわかりあうことができるかもしれないと信じられる気がする。
 祈るような気持ちで、佐山は秋口がそれに気づいてくれることを思った。
 それを自分に信じさせてくれることを願った。
 そうじゃなくちゃ、自分を好きだと言ってくれた沙和子を傷つけてまで秋口を選んだ意味がない。
 
     ◇◇◇
 
 向こうが最初に手を上げたのだから、こっちだって暴力をふるって言うことを聞かせてしまおうか。
 そんな凶暴な考えが浮かんでは、必死に打ち消した。
 佐山がもう笑顔もなく自分を無視するようになってから三日、秋口は怖くて、自分から彼に近づくことなんてできなくなってしまっていた。
(もうどうだっていいじゃないか。あんな奴)
 もう何度もそうやって自分に言い聞かせている。
 わざわざ男の、それもあんなパッとしない相手を選ばなくたって、周りにいくらでも綺麗で柔らかくて簡単に自分に媚びる女がいる。
 そう思うのに、佐山を抱いて以来、秋口は他の女と寝る気なんて塵ほども起きなくなっていた。
 誰と会っていても、佐山ならきっとこう言うはずなのにとか、あんなふうに笑うはずなのにとか、そんなことばかりが思い浮かんでどうにもならなかった。
 佐山以外に、誰が自分にあんなふうに柔らかく笑ってくれたり、優しく話してくれたりするのか、秋口には思いつかない。
(――もう、駄目なんだ)
 何度も自分に『佐山なんていらない』と言い聞かせようと努力したのに。
 佐山以外の誰でも、自分にとっては一緒にいても意味なんてないと、どう誤魔化そうとしてもわかってしまった。
 佐山なんて必要ないと思い込もうとするたび、余計に佐山に会いたくなって、触れたくなって、頭がおかしくなりそうになる。
 今で充分おかしくなっているのかもしれない。
 数日前に沙和子と一緒にいる佐山を見た時に、自分の中で何かが壊れる感じがした。追いかけて引き離すような無様な行為を二度としたくないと、その時は気持ちをねじ伏せて家に帰ったけれど、とても正気で眠れる気がしなくて結局佐山の家に向かい、馬鹿みたいにその帰りを待った。
 それでも佐山に拒絶され、怒りと、惨めさと、悲しみとが判別つきがたい強さで渦巻いて、何もできなくなってしまった。
 佐山は本気で自分のことを切り捨てる気かもしれない。
 そう思うとそれだけで頭がいっぱいになり、取引先でミスをして呆れられ、今まで浴びたことのない罵声を浴びて、秋口は限界を感じた。
(佐山さんがいないと、駄目なんだ)
 三日冷たくされて気が変になってしまうのなら、一週間続いたらきっと死んでしまう。
 仕事のミスを反省するいとまもなく戻ってきた会社のビルで、秋口は走ってエレベータに近づくと、叩き壊しかねない勢いでボタンを押した。
 エレベータを下り、まっすぐ開発課を目指そうとする途中、休憩所に佐山が座っているのが見えて心臓が鳴った。緊張したのか、嬉しいのか、わからないくらい強い感情が突き上げて来る。後ろ姿なのに間違えようもなくわかる。ベンチに座って、少し俯いて、両手に何か持っている。きっとホットミルクだ。猫舌だから冷ましながら呑んでいる。湯気が吹き上げて眼鏡が曇っているかもしれない。
 そんなことを想像して、秋口は今浮かんでくるこの感情をどうしていいのか、自分でもすっかり見失ってしまった。
「佐山さん!」
 声を張り上げると、驚いたように佐山が振り返った。その表情がすぐに翳るのが辛い。ここのところ、佐山は自分の姿を見ると眉を顰めた。少し前までは、廊下で擦れ違うだけで優しく、穏やかに微笑みかけてくれていたのに。
 それを壊したのは紛れもなく自分だ。
「……何」
 走って休憩所にやってきた秋口の勢いに押されたのか、佐山が今日は秋口を無視せず、だがやはり笑いもせずに短く訊ねた。
「ごめん」
 何から切り出せばいいのかわからず、秋口は息を切らしたままそう言って頭を下げた。
「ひどいことたくさん言って、して……傷つけて、すみませんでした」
「……」
 佐山は何も言わず黙りこくっている。秋口の心臓は、走ったせいだけではなく、怖いくらい早鐘を打っていた。
「俺が悪かったから……だから、無視するのやめてください。話聞いてください、頼むから」
 頭を下げたままだから、秋口には佐山がどんな顔をしているのかわからない。
 自分でも何を言うべきなのか、そもそも自分の考えすらもまとまらないまま、秋口にはただ懇願することしか思いつかなかった。こんな醜態を避けたくてずっと意地を張ってきたのに、それを続けることで佐山と二度と話すらできなくなってしまうことの方が嫌だと、ようやく気づいただけで。
「お願いします、佐山さん」
「女々しいこと言うんだな」
 秋口の頭上に振ってきたのは、優しい声音と、それと真逆の冷淡な言葉だった。
 おそるおそる秋口が頭を上げると、佐山は笑っている。だが、笑いかけてくれたことに安堵できるような類の表情ではなかった。
「俺は何を謝られてるのかわからないよ。心当たりがたくさんありすぎて」
「全部です」
 少しでも黙り込んでしまえば、言いくるめられて逃げられる気がして、秋口は必死になった。
「俺が佐山さん傷つけたこと全部」
「……わかってもないくせに。全部なんて」
 佐山は笑みを消して、秋口から顔を逸らした。
 秋口は憔悴する気持ちでその両腕を掴む。
「じゃあ教えて下さい」
 佐山は答えなかった。
「佐山さんが何考えてるかとか、俺にはわからないんだよ。佐山さんみたいな人、初めてで……でもわかりたいんだ。どうやったら佐山さんがいなくならずにすむかとか、どうやったら俺がこんな気持ちにならなくてすむかとか」
「結局、自分のことだけか」
 微かな溜息と共にそう呟かれ、秋口は駄目だと思うのに、言葉が続けられなかった。
「自分が辛いから、そうならずにいられる方法を人に聞いて知りたいだけで、自分じゃ考えようともしないで」
「それでも佐山さんじゃなきゃ嫌なんだから仕方ないだろ!!」
 佐山の細い腕を掴み、その肩に額を押しつけて、秋口は感情に任せて声を張り上げた。こんなふうに哀れっぽい声で叫ぶことなんて、生まれて初めてだった。
 今はそれを、無様だと嫌悪する余裕すらない。
「わかってるなら、教えてくれればいいじゃないか。やり方がわからないだけなんだ、どうしたら佐山さんが傷つかずにすむのか、教えてくれたらそのとおりにするから。どうやったら俺から離れないでいてくれるのかわかったら、そういうふうにするから、だから」
「……」
「教えてくれよ……」
 夢中で、頭で考えるよりも先に出てくる言葉を必死に紡いでいると、大きな溜息が聞こえた。
 それだけで秋口は怯えて、言葉を切らせてしまう。
「……まあ……気長に行くか……」
 ひとりごとのような、佐山の呟き。
 その真意を問うのも怖くて顔を上げられない秋口の頭を、佐山が軽く掌で叩いた。
「いいよ、話は聞く。ちょっとは自分で考えてほしいけど……話し合う余地はある。と思う。理由はどうあれ秋口が謝ったっていうのは進歩だと思うし」
 勢いよく顔を上げた秋口が何か言うより早く、その代わり、と佐山が言を継ぐ。
「許す代わりに、もう一発殴らせろ」
「――」
 瞬間、以前殴られた頬が痛みを思い出して、秋口は顔を引きつらせた。冷やしたのに腫れはなかなか引かなかったし、切れた口の中もなかなか治らないしでさんざんだった。傷が痛むたびに佐山に力ずくで遠ざけられたことも実感してしまったから、もう思い出したくない痛みだというのに。
(でも……)
 それくらいは、当然の報いなのかもしれない。
「わかりました」
 覚悟を決めて、秋口は佐山から手を離すと、背筋を伸ばして目を閉じた。力一杯歯を食いしばる。殴られる、と覚悟して構えておけば、多少はダメージに差も出るだろう。
 直立不動で振り上げられる拳を待っていた秋口は、しかし、
「……ッ……、……ぐ……っ」
 次の瞬間、鳩尾に下から上への強烈な一発を見舞われて、思わずその場に膝をついた。
(は……腹……!?)
 予測もしない報復に、秋口は自分のものとも思えない低い呻き声をもらしながら、殴られた腹を両手で押さえた。まるで遠慮のない一撃だった。
「さ、さ、佐山……おまえ、最高……ッ!」
 そしてなぜか、爆笑する御幸の声が聞こえた。佐山しか目に入っていなかったので気づかなかったが、休憩所にはどうやら御幸も最初からいたらしい。
「あー、すっきりした」
 晴れやかな声が聞こえ、さすがに恨みがましい涙目で秋口は佐山を見上げて――痛みで声が出ないという以上に、絶句した。
 佐山は言葉どおり晴れ晴れした表情で笑って秋口を見下ろしながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていたのだ。
(――あたりまえだ、佐山さんの方が辛かったんだから)
 自分が今までどれだけのことを佐山にしたのかを考えれば、たかが渾身の力で腹に一発喰らったくらいで許してくれるのなんて、安すぎる。
 笑って、それでもこらえきれずに涙を落とす佐山の姿を見て、秋口はたまらない気持ちになってしまった。
 たまらなく、この人のことが愛しいと思う。
 床に膝をついて咳き込む秋口の前に、佐山も座ってその顔を覗き込んでくる。
「すっきりしたから、もういいよ。俺も子供みたいに無視なんかしてごめんな」
 ここに御幸がいなかったら佐山を抱き締められるのに――と思って涙目を向けると、御幸が笑いをこらえた顔で秋口を見下ろし、軽く肩を竦めて見せてから、休憩所を出て行った。
 それで秋口は遠慮なく、片手を床について自分の体重を支え、片手で佐山の頭に手を伸ばした。抱き締めようとしているのか、助けを求めて縋っているのか、よくわからないような格好になったが。
「……今晩……空いてますか」
 掠れたみっともない声で秋口が咳き込みながら切れ切れに訊ねると、佐山は眼鏡を取って濡れた目許を指で擦りながら首を横に振った。
「今日は残業」
「遅くても待ってる」
 喰い下がると、佐山が少し笑って、それで秋口は無性にほっとした。
 佐山はちゃんと、いつもの彼らしい表情で笑ってくれた。
 そのことが今、どうしようもなく嬉しい。
「じゃ、奢りな」
 それだけ言うと、佐山が立ち上がる。
 そのまま休憩所を出て行きそうになって、秋口は慌てた。
「あの、手、貸して欲しいんですけど」
 秋口を見下ろして、佐山がもう一度笑った。
「甘えるな」
 そして佐山は本当に廊下の方へ出て行ってしまい、後には未だ自力では立ち上がることのない秋口だけが残される。
 呆然と見送った先で、佐山が開発課には戻らず、その向こうのトイレに入ったところを見て、秋口は気づいた。佐山は泣き顔が恥ずかしくて逃げたのだ。
(……もう泣かせない)
 いつも笑ってばかりの佐山を、何度も泣かせたのは自分だ。泣かせることのできる立場を喜ぶような浅ましい心を捨てて、どうすれば佐山が笑ってくれるのか、それだけを考えなくてはならないと思った。
 どうしてそうすべきことがわからなかったのか、秋口には今は不思議だ。
 そんなことを考えながら、秋口はまだ立ち上がれずにいる体を持て余し、顔を洗った佐山がもう一度自分のところへ来てくれることを願った。
 もう一度佐山が自分を見て笑ってくれることを祈った。

-end-
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eleki

小説家・漫画原作者

趣味と仕事で小説を書きながらさびねこ2匹と暮らしつつ「渡海奈穂」で小説を、「別府マコト」で漫画原作をやってます。

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