【8】ドラゴンと魔女、とうとう伝説の魔女の許へと辿り着く、が
明るくなると、スウェナの体力はさらに回復して、普段よりちょっと鈍いくらいの動作で動き回れるようになった。
メリルはまだ仰向けに寝転んだまま、身じろぎするのも辛そうだ。
スウェナは弱ったメリルを襲う魔物がいないか心配しながら、走って薬草を探してはメリルのところに戻り、水を探してはまた戻りと繰り返しながら、懸命に看病を続けた。
不運なことに、役立ちそうな薬草も、清らかな水も、スウェナにはみつけられなかった。
どうにか小さな果物の実をいくつかもいで、それをメリルの口に含ませる他に、やれることはない。
それでも、長い間眠り、目を覚ますたびに冷たくみずみずしい果物を飲み下していくうち、メリルは少しずつ回復していった。
あちこちの肉が抉れ、骨も何本か砕けていたようだったのに、二日ほど経つうちにその傷は目に見えて癒えている。
(きっと、薬草をみつけて、メリルのためにって一生懸命になったら、一瞬でよくなるんだろうけど……)
癒やしの魔法は上級の魔法使いでないとあまり効果を期待できなかったが、状況が許すのならばスウェナはどんな努力も惜しまないつもりだった。
薬草は手に入らず、その努力は発揮できなかったが、二日目にメリルはようやく体を起こせるようになり、三日目の明け方にはもう立って、以前よりもずいぶんとゆっくりな早さだが歩けるようになった。
「大丈夫? あと一日くらい、休んでいた方がいいと思うんだけど……」
準備しておいた二本の杖のうち一本をメリルに手渡しながら、スウェナは不安な心地で訊ねた。
メリルのくれた杖は火竜に襲われた時に失くしてしまったので、メリルが眠っている間に自分で用意したものだ。メリルがみつけてくれたもののようにまっすぐで丈夫そうではなく、節くれ立って不格好な杖だったが、メリルは文句も言わずに受け取ってくれた。
「時間が惜しい。ここでのんびり休んでいるより、さっさとジャニスに会った方が手っ取り早いだろう」
「……」
『ジャニス』と、久しぶりに彼女の名前を聞いて、スウェナは複雑な気分になった。
そしてそんな気分を味わってしまってから、自分がメリルの回復よりも、彼と一緒に過ごせたこの数日間の方に喜びを覚えていたことに気づいて、愕然とした。
「どうした」
青ざめるスウェナに、メリルが気づいて首を捻っている。
「……もしかして、俺の看病で疲れたんじゃないのか。あまり眠っていないようだったし、あちこち走り回っていたし」
「ううん、平気。行きましょ」
強張った顔で微笑んで、スウェナはメリルを促した。
メリルは気懸かりそうな顔をしながらも、頷いて、歩き出した。
(嫌な子だわ、わたし)
スウェナは自分の内心を恥じた。
そうしてようやく、なぜ自分がそんな恥ずべきことを考えたのかという理由に、思い至る。
(……好きなんだわ、わたし、この水竜のことが)
それは思ってもみない答えだった。
人間の自分が、いくら今は人間の姿をしているからといって、魔物に恋をするなんて。
だが真の姿――巨大な竜の眠る様子――を思い出しても、スウェナの心は萎えるどころか、ますます想いが募っていくばかりだ。
(人間の格好をしたこの人も好き……あの湖で眠っていた姿も、好き……)
メリルの歩みはゆっくりで、まだ少し体の痛むスウェナにも、無理なく追いつける。
この旅で初めて、スウェナはメリルのすぐ隣を歩くことができた。
「……ジャニスのいるところまで、あとどれくらいかかるの?」
彼女に会う時までに、自分は何かの覚悟を固めなければいけない気がする。
心構えもなくジャニスに――メリルの想い人に会うのが怖くて、スウェナはメリルにそう訊ねた。
「あと、普通に歩けば二ヵ月と少し」
普通に、とわざわざ付け加えたメリルに、スウェナは重ねて訊ねる。
「普通でない方法を採るのなら?」
歩きながら、メリルがすっと片腕を上げた。
「あの門を越えて間もなく」
メリルの指先を追って、スウェナは斜め前方へと視線を巡らせた。
あともう少し歩いたところで、森が途切れている。
その突き当たりには石の断崖が反り立っていた。
「門……?」
崖は自然にできたものではなく、誰かが――人か、魔物かが――石を積み上げてできたもののように見える。
スウェナはメリルと並んでゆっくり歩き、その崖の間近まで進んだ。
近づいても、やはりただの崖というか、壁にしか見えない。
門、と表現するにはふさわしくない佇まいだ。
「あの、これが、門?」
スウェナの問いに答えるように、メリルがもう一度片手を上げ、そっと石に触れた。
ゴ、と低く短い音がして、壁が震える。
メリルがごく軽く腕に力を込めると、ちょうど彼の身長ほどの高さ、肩幅ほどの大きさ分だけ、石が奥へと動く。
「――あ!」
驚いてスウェナは声を上げた。石は扉のように開いた。
厚い岩壁だと思っていたものは、中をくり抜かれた空洞になっていたのだ。
「すごい、どうやってこんな……」
少なくとも、これは人の手によるものではないことには間違いない。
中はスウェナの家ひとつが丸ごと収まるほどの奥行き、高さがあった。
入り口から見て突き当たりの壁には、何らかの素材で、大きな円と、記号、古い文字らしきものが記されている。
「魔方陣……見たことないわ、こんなの」
魔法を使えないスウェナは、その代わりのように魔術書を読み漁った。他の生徒が知らないような高度な魔法も、知識だけは得ている。
だが魔方陣に使われた術式は、まったくスウェナに覚えのないものだ。
「だろうな。これはジャニスのオリジナルだ」
スウェナの呟きに応えながら、メリルが片手を彼女に向かって差し出した。
「……」
スウェナは自然とその手を取る。
顔が赤らむのをメリルに知られたくなかった。
(心を読む魔法を、この人が持っていませんように)
祈るスウェナの手を握ったまま、メリルがジャニスの魔方陣の前へと進み出る。
「多少、気分が悪くなるかもしれないが」
「え?」
「わからなくなったらしがみついてればいい。行くぞ」
「え、え?」
相手の言葉の意味が理解できないまま、スウェナはメリルが魔方陣に触れるのを見た。
刹那、目の前がぐにゃりとゆがみ、みつめていたはずの魔方陣もメリルの手も、そのうち白い光に呑み込まれた。
(き、き、気持ち悪い……!)
頭の中に直接手を突っ込まれて、滅茶苦茶にかき回されている気分だった。胃の奥から苦いものがこみ上げる。
自分がまっすぐ立っているのか、斜めになっているのか、座り込んでいるのかもわからず、スウェナはとにかく必死になって片手の中の冷たい感触に意識を集中した。
メリルの手。もしメリルがそこにいるとわからなかったら、スウェナは恐慌状態に陥って、やがて気がふれてしまっただろう。それほどの混乱と恐怖。
そしてそれは突然、途切れた。
(え?)
ぐしゃぐしゃに歪んで白濁した視界が、唐突に開ける。
気づけばぽっかりと青い空の下にいた。
「……ぅ……」
ここがどこなのか、そしてどういう状況なのかを具体的にたしかめる前に、スウェナは両手で口許を押さえて屈み込んだ。
いけない、と思う間もなく胃の中からこみ上げた来たものを、地面に吐き出す。
(いやだ、こんなところ、メリルに……)
数日果物以外を口にしていないので、大したものが体に残っていたわけではなかったが、好きな相手に嘔吐する様子など見られるなんて、辛い。
苦しさと恥ずかしさで涙目になりながら顔を上げたスウェナは、しかし少し離れた場所で、メリルも前屈みになって嗚咽している姿をみつけた。
「だ、大丈夫?」
スウェナが声をかけると、あっちに行っていろ、というふうに片手を振られた。
スウェナは急いでメリルから目を背け、代わりに自分たちを取り巻く状況について観察することにした。
再び森の前、だ。断崖絶壁の向こうには同じような森があったのか。
振り向けば、まるで中に入る前に見たものと同じ石壁がそこにそびえ立っている。
単純に、魔方陣のあった壁を開いて部屋の外に出たというわけではないことは、スウェナにもわかった。
「これで二ヵ月と少し分」
ようやく落ち着いたのか、口許を拭いながらメリルがスウェナの隣にやってきた。
「ジャニスはこの先の森にいるはずだ」
「今の……転移門?」
スウェナはようやく思い当たってメリルに訊ねた。
メリルが頷いたので、改めて驚愕する。
「ずっと昔に失われた魔法かと思ってた……」
書物では、その存在について読んだことはあった。遠い場所と場所を一瞬のうちに繋ぐ魔法。それはあまりに莫大な魔力を必要として作られる場であり、今では伝説としか語られることのないもの。
「ジャニスにはそれを作ることができた。ただし門をくぐる方にも莫大な魔力が必要となる、それがなければ転移の負担に体が耐えられないからな」
メリルの顔色は、悪くなる一方に見えた。
「俺も使ったのは初めてだ。翼があれば数日だし、その姿では入り口に引っかかって入れないからな」
「もしかして、王宮の上の位の魔法使いは、この門を使ってジャニスに会いに来ることがあるの?」
「ないだろう」
自分が知らなかっただけで、伝説となった賢者の智慧を、今の時代にも必要とした人間がここを訪れることがあるのかもしれない。
そう思って訊ねたスウェナに、メリルが首を振ってみせる。スウェナは少し驚いた。
「でも、そのためにジャニスは門を用意したんじゃないの?」
「ジャニスと国との間には盟約があるはずだ。メルディアの真の危機以外で、彼女の仕事を妨げることがないようにと」
「彼女の仕事――この国を守ること……?」
「そうだ、ジャニスは人としての形骸を捨て、魂だけの存在となりながらも世界中からあらゆる魔法の知識を集め続け、それを実践してメルディアを守護している。彼女が自ら人の前に現れるのは、この国の王が死んだ時だけだ。次の王になるべき人間の夢の中に現れてそれを告げる。その王がこれから取るべき道を示すためにな。それを人間は天啓と呼ぶ」
スウェナが生まれてから王位が変わったことがないので、実際に起きた時を知らないが、たしかに『王は天啓を得て王となる』という話は聞いたことがあった。
それがジャニスのもたらすものだということは知らなかったが。
「それ以外で、誰かが自分に会いに来ることをジャニスは許さなかった。それが命と引き替えにしてあの女の求めたことだ。命の代わりに知識を得て、知識の代わりにこの国の安定を与える。……まったく、欲深い人間だ」
「……」
メリルの口調には、呆れよりも悲しさや、寂しさが籠められている気がして、スウェナの胸も痛くなった。
「わたしたち……よかったの? 今わたしたちの身に起きているのは、国の危機ではないわ。彼女は望まないのに、転移門を使ってしまって」
「あいつと契約したのは国の人間だ。人間同士の約束など、魔属の俺の知ったことか」
「……そうまでして、会いたかったの」
「何?」
スウェナの小さな呟きが聞こえなかったようで、メリルが首を傾げて問い返す。
ううん、とスウェナは首を振った。
「メリルは彼女に許されているのね、会いに来ることを」
痛む胸を堪え、笑ってスウェナが訊ねると、メリルはなぜか憮然とした表情で黙り込んでしまった。
「え、これまでも会いに……来てるんでしょう?」
スウェナの家からここまで、メリルは迷わず進んで来た。かかる日数にも詳しいようだった。だから、メリルはもう何度もジャニスと会っているのかとスウェナは思ったのだが。
「……ジャニスが人間でなくなってからは、一度も会ってない」
ぼそりと呟いたメリルに、スウェナは驚いて目を瞠る。
「一度も……?」
「なってからというより、なる前、ジャニス自身がそうなると決めてからだ。俺はそんな馬鹿げたことはやめろと言った。だがあの女は聞き入れなかった。それ以来会っていない」
「……」
ジャニスが人の形を失ってから二百七十五年、メリルはずっとその年月を数え続けていたのだ。
きっと長い、長い時間だったのだろう。
千年以上を生きるドラゴンにとっても。
「なら、メリルはやっと、彼女に会えるのね」
自分が微笑んでいられるのがスウェナには不思議だ。
こんなにもまた、泣きたい気持ちになっているというのに。
「ふん。別に、会わなくてすむのなら、あの生意気な女となんて二度と会いたくはなかったさ。行くぞ」
吐き捨てるように言って、メリルが森へと向かい足を進める。
頷いてスウェナはそれに従った。何となく、再びメリルの隣を歩く気分になれず、その少し後ろをゆっくり進む。
ジャニスの森は、これまでスウェナが進んできた転移門以前の森より、ずっと明るくて、ずっと空気が澄んでいるように感じられた。不吉にざわめく魔属の気配もない。植物も、生きものもだ。
草は青々としていて、木々は明るい生命力に満ちている。
色とりどりの綺麗な花や、瑞々しい木の実があちこちについていて、スウェナの悲しい心は少しだけ癒やされた。
「何て綺麗なところなのかしら……」
まるで夢の中のようだ。
ただ、進んでいっても薬になりそうな草がみつからず、スウェナは少しずつ焦燥してきた。
前を行くメリルの足取りは重い。杖をつく動きが、段々にゆっくりとなっている。
「メリル、やっぱり少し、休みましょう? ジャニスのところへはもうちょっとなんでしょう、その前に、少しだけ」
スウェナがそっと呼びかけると、メリルは思いがけず素直に頷き、歩みを止めた。
(それだけ辛いんだわ)
メリルが大きな木の根元を選んで座り込む。
スウェナはすぐに走り出し、水を捜しに行った。すぐに小さな泉をみつけ、大きな葉で不器用に入れ物を作ると、急いでまたメリルのところに戻る。
メリルは横向きに地面へ倒れ込んでいた。
スウェナは水を零さないよう細心の注意を払いながら、そのそばへと駆け寄って跪く。
「メリル? お水、飲んで」
スウェナはその乾いてかさかさになっている唇に水を流し込んだ。半分は零れてしまい、半分をやっと呑み込んでくれた。
(どうしよう……朝よりも、もっと悪くなってる)
おそらく転移門を使ったせいだ。魔力のない人間には門は使えないとメリル自身が言っていた。
今のメリルの体に、その魔法に耐えうるだけの力が、本当は残っていなかったのかもしれない。
メリルの体に触れると、いつもよりさらに冷たい。まるで氷のようで、スウェナは全身に悪寒が走った。
「メリル、他にほしいもの、ある? 木の実を持ってきましょうか? それとも……門の向こうに戻れば、獣の肉だって、どうにか」
泣き出しそうになるのを堪えて訊ねたスウェナを、視線だけ見上げてメリルが首を横に振る。
「少し、眠る……」
それだけ言うと、メリルは目を閉じ、すうっと吸い込まれるように眠りに落ちていった。
スウェナは身を屈め、その唇の近くに自分の頬を近づけた。かすかだが吐息が当たる。本当にただ眠っているだけだとわかって胸を撫で下ろす。
「どうしよう……」
薬草のみつからない理由が、スウェナにはおぼろげにわかっていた。
病に打ち勝つ草は、魔を帯びた存在の近くにしか生まれない。
そしてこの森には魔の気配がない。おそらくジャニスがそう作った場所なのだろう。
生きものがいなければ薬草は必要ない。ここには体を持たないジャニスしかいないのだ。
(それに、空気が清涼すぎるんだ……)
人間であるスウェナにも、気配が清すぎてむしろ息苦しいほどだった。
これでは、魔属であるメリルの体には負担にしかならないに違いない。
この場にいればいるほど、メリルは弱っていく。確実に。
(今できること、やるしかないわ……)
スウェナはぐっと腹に力を込めて、とにかくメリルの体を温めるもの、水、それに食べ物と、頭の中で呪文のように呟きながら、震える足で動き出した。
メリルはまだ仰向けに寝転んだまま、身じろぎするのも辛そうだ。
スウェナは弱ったメリルを襲う魔物がいないか心配しながら、走って薬草を探してはメリルのところに戻り、水を探してはまた戻りと繰り返しながら、懸命に看病を続けた。
不運なことに、役立ちそうな薬草も、清らかな水も、スウェナにはみつけられなかった。
どうにか小さな果物の実をいくつかもいで、それをメリルの口に含ませる他に、やれることはない。
それでも、長い間眠り、目を覚ますたびに冷たくみずみずしい果物を飲み下していくうち、メリルは少しずつ回復していった。
あちこちの肉が抉れ、骨も何本か砕けていたようだったのに、二日ほど経つうちにその傷は目に見えて癒えている。
(きっと、薬草をみつけて、メリルのためにって一生懸命になったら、一瞬でよくなるんだろうけど……)
癒やしの魔法は上級の魔法使いでないとあまり効果を期待できなかったが、状況が許すのならばスウェナはどんな努力も惜しまないつもりだった。
薬草は手に入らず、その努力は発揮できなかったが、二日目にメリルはようやく体を起こせるようになり、三日目の明け方にはもう立って、以前よりもずいぶんとゆっくりな早さだが歩けるようになった。
「大丈夫? あと一日くらい、休んでいた方がいいと思うんだけど……」
準備しておいた二本の杖のうち一本をメリルに手渡しながら、スウェナは不安な心地で訊ねた。
メリルのくれた杖は火竜に襲われた時に失くしてしまったので、メリルが眠っている間に自分で用意したものだ。メリルがみつけてくれたもののようにまっすぐで丈夫そうではなく、節くれ立って不格好な杖だったが、メリルは文句も言わずに受け取ってくれた。
「時間が惜しい。ここでのんびり休んでいるより、さっさとジャニスに会った方が手っ取り早いだろう」
「……」
『ジャニス』と、久しぶりに彼女の名前を聞いて、スウェナは複雑な気分になった。
そしてそんな気分を味わってしまってから、自分がメリルの回復よりも、彼と一緒に過ごせたこの数日間の方に喜びを覚えていたことに気づいて、愕然とした。
「どうした」
青ざめるスウェナに、メリルが気づいて首を捻っている。
「……もしかして、俺の看病で疲れたんじゃないのか。あまり眠っていないようだったし、あちこち走り回っていたし」
「ううん、平気。行きましょ」
強張った顔で微笑んで、スウェナはメリルを促した。
メリルは気懸かりそうな顔をしながらも、頷いて、歩き出した。
(嫌な子だわ、わたし)
スウェナは自分の内心を恥じた。
そうしてようやく、なぜ自分がそんな恥ずべきことを考えたのかという理由に、思い至る。
(……好きなんだわ、わたし、この水竜のことが)
それは思ってもみない答えだった。
人間の自分が、いくら今は人間の姿をしているからといって、魔物に恋をするなんて。
だが真の姿――巨大な竜の眠る様子――を思い出しても、スウェナの心は萎えるどころか、ますます想いが募っていくばかりだ。
(人間の格好をしたこの人も好き……あの湖で眠っていた姿も、好き……)
メリルの歩みはゆっくりで、まだ少し体の痛むスウェナにも、無理なく追いつける。
この旅で初めて、スウェナはメリルのすぐ隣を歩くことができた。
「……ジャニスのいるところまで、あとどれくらいかかるの?」
彼女に会う時までに、自分は何かの覚悟を固めなければいけない気がする。
心構えもなくジャニスに――メリルの想い人に会うのが怖くて、スウェナはメリルにそう訊ねた。
「あと、普通に歩けば二ヵ月と少し」
普通に、とわざわざ付け加えたメリルに、スウェナは重ねて訊ねる。
「普通でない方法を採るのなら?」
歩きながら、メリルがすっと片腕を上げた。
「あの門を越えて間もなく」
メリルの指先を追って、スウェナは斜め前方へと視線を巡らせた。
あともう少し歩いたところで、森が途切れている。
その突き当たりには石の断崖が反り立っていた。
「門……?」
崖は自然にできたものではなく、誰かが――人か、魔物かが――石を積み上げてできたもののように見える。
スウェナはメリルと並んでゆっくり歩き、その崖の間近まで進んだ。
近づいても、やはりただの崖というか、壁にしか見えない。
門、と表現するにはふさわしくない佇まいだ。
「あの、これが、門?」
スウェナの問いに答えるように、メリルがもう一度片手を上げ、そっと石に触れた。
ゴ、と低く短い音がして、壁が震える。
メリルがごく軽く腕に力を込めると、ちょうど彼の身長ほどの高さ、肩幅ほどの大きさ分だけ、石が奥へと動く。
「――あ!」
驚いてスウェナは声を上げた。石は扉のように開いた。
厚い岩壁だと思っていたものは、中をくり抜かれた空洞になっていたのだ。
「すごい、どうやってこんな……」
少なくとも、これは人の手によるものではないことには間違いない。
中はスウェナの家ひとつが丸ごと収まるほどの奥行き、高さがあった。
入り口から見て突き当たりの壁には、何らかの素材で、大きな円と、記号、古い文字らしきものが記されている。
「魔方陣……見たことないわ、こんなの」
魔法を使えないスウェナは、その代わりのように魔術書を読み漁った。他の生徒が知らないような高度な魔法も、知識だけは得ている。
だが魔方陣に使われた術式は、まったくスウェナに覚えのないものだ。
「だろうな。これはジャニスのオリジナルだ」
スウェナの呟きに応えながら、メリルが片手を彼女に向かって差し出した。
「……」
スウェナは自然とその手を取る。
顔が赤らむのをメリルに知られたくなかった。
(心を読む魔法を、この人が持っていませんように)
祈るスウェナの手を握ったまま、メリルがジャニスの魔方陣の前へと進み出る。
「多少、気分が悪くなるかもしれないが」
「え?」
「わからなくなったらしがみついてればいい。行くぞ」
「え、え?」
相手の言葉の意味が理解できないまま、スウェナはメリルが魔方陣に触れるのを見た。
刹那、目の前がぐにゃりとゆがみ、みつめていたはずの魔方陣もメリルの手も、そのうち白い光に呑み込まれた。
(き、き、気持ち悪い……!)
頭の中に直接手を突っ込まれて、滅茶苦茶にかき回されている気分だった。胃の奥から苦いものがこみ上げる。
自分がまっすぐ立っているのか、斜めになっているのか、座り込んでいるのかもわからず、スウェナはとにかく必死になって片手の中の冷たい感触に意識を集中した。
メリルの手。もしメリルがそこにいるとわからなかったら、スウェナは恐慌状態に陥って、やがて気がふれてしまっただろう。それほどの混乱と恐怖。
そしてそれは突然、途切れた。
(え?)
ぐしゃぐしゃに歪んで白濁した視界が、唐突に開ける。
気づけばぽっかりと青い空の下にいた。
「……ぅ……」
ここがどこなのか、そしてどういう状況なのかを具体的にたしかめる前に、スウェナは両手で口許を押さえて屈み込んだ。
いけない、と思う間もなく胃の中からこみ上げた来たものを、地面に吐き出す。
(いやだ、こんなところ、メリルに……)
数日果物以外を口にしていないので、大したものが体に残っていたわけではなかったが、好きな相手に嘔吐する様子など見られるなんて、辛い。
苦しさと恥ずかしさで涙目になりながら顔を上げたスウェナは、しかし少し離れた場所で、メリルも前屈みになって嗚咽している姿をみつけた。
「だ、大丈夫?」
スウェナが声をかけると、あっちに行っていろ、というふうに片手を振られた。
スウェナは急いでメリルから目を背け、代わりに自分たちを取り巻く状況について観察することにした。
再び森の前、だ。断崖絶壁の向こうには同じような森があったのか。
振り向けば、まるで中に入る前に見たものと同じ石壁がそこにそびえ立っている。
単純に、魔方陣のあった壁を開いて部屋の外に出たというわけではないことは、スウェナにもわかった。
「これで二ヵ月と少し分」
ようやく落ち着いたのか、口許を拭いながらメリルがスウェナの隣にやってきた。
「ジャニスはこの先の森にいるはずだ」
「今の……転移門?」
スウェナはようやく思い当たってメリルに訊ねた。
メリルが頷いたので、改めて驚愕する。
「ずっと昔に失われた魔法かと思ってた……」
書物では、その存在について読んだことはあった。遠い場所と場所を一瞬のうちに繋ぐ魔法。それはあまりに莫大な魔力を必要として作られる場であり、今では伝説としか語られることのないもの。
「ジャニスにはそれを作ることができた。ただし門をくぐる方にも莫大な魔力が必要となる、それがなければ転移の負担に体が耐えられないからな」
メリルの顔色は、悪くなる一方に見えた。
「俺も使ったのは初めてだ。翼があれば数日だし、その姿では入り口に引っかかって入れないからな」
「もしかして、王宮の上の位の魔法使いは、この門を使ってジャニスに会いに来ることがあるの?」
「ないだろう」
自分が知らなかっただけで、伝説となった賢者の智慧を、今の時代にも必要とした人間がここを訪れることがあるのかもしれない。
そう思って訊ねたスウェナに、メリルが首を振ってみせる。スウェナは少し驚いた。
「でも、そのためにジャニスは門を用意したんじゃないの?」
「ジャニスと国との間には盟約があるはずだ。メルディアの真の危機以外で、彼女の仕事を妨げることがないようにと」
「彼女の仕事――この国を守ること……?」
「そうだ、ジャニスは人としての形骸を捨て、魂だけの存在となりながらも世界中からあらゆる魔法の知識を集め続け、それを実践してメルディアを守護している。彼女が自ら人の前に現れるのは、この国の王が死んだ時だけだ。次の王になるべき人間の夢の中に現れてそれを告げる。その王がこれから取るべき道を示すためにな。それを人間は天啓と呼ぶ」
スウェナが生まれてから王位が変わったことがないので、実際に起きた時を知らないが、たしかに『王は天啓を得て王となる』という話は聞いたことがあった。
それがジャニスのもたらすものだということは知らなかったが。
「それ以外で、誰かが自分に会いに来ることをジャニスは許さなかった。それが命と引き替えにしてあの女の求めたことだ。命の代わりに知識を得て、知識の代わりにこの国の安定を与える。……まったく、欲深い人間だ」
「……」
メリルの口調には、呆れよりも悲しさや、寂しさが籠められている気がして、スウェナの胸も痛くなった。
「わたしたち……よかったの? 今わたしたちの身に起きているのは、国の危機ではないわ。彼女は望まないのに、転移門を使ってしまって」
「あいつと契約したのは国の人間だ。人間同士の約束など、魔属の俺の知ったことか」
「……そうまでして、会いたかったの」
「何?」
スウェナの小さな呟きが聞こえなかったようで、メリルが首を傾げて問い返す。
ううん、とスウェナは首を振った。
「メリルは彼女に許されているのね、会いに来ることを」
痛む胸を堪え、笑ってスウェナが訊ねると、メリルはなぜか憮然とした表情で黙り込んでしまった。
「え、これまでも会いに……来てるんでしょう?」
スウェナの家からここまで、メリルは迷わず進んで来た。かかる日数にも詳しいようだった。だから、メリルはもう何度もジャニスと会っているのかとスウェナは思ったのだが。
「……ジャニスが人間でなくなってからは、一度も会ってない」
ぼそりと呟いたメリルに、スウェナは驚いて目を瞠る。
「一度も……?」
「なってからというより、なる前、ジャニス自身がそうなると決めてからだ。俺はそんな馬鹿げたことはやめろと言った。だがあの女は聞き入れなかった。それ以来会っていない」
「……」
ジャニスが人の形を失ってから二百七十五年、メリルはずっとその年月を数え続けていたのだ。
きっと長い、長い時間だったのだろう。
千年以上を生きるドラゴンにとっても。
「なら、メリルはやっと、彼女に会えるのね」
自分が微笑んでいられるのがスウェナには不思議だ。
こんなにもまた、泣きたい気持ちになっているというのに。
「ふん。別に、会わなくてすむのなら、あの生意気な女となんて二度と会いたくはなかったさ。行くぞ」
吐き捨てるように言って、メリルが森へと向かい足を進める。
頷いてスウェナはそれに従った。何となく、再びメリルの隣を歩く気分になれず、その少し後ろをゆっくり進む。
ジャニスの森は、これまでスウェナが進んできた転移門以前の森より、ずっと明るくて、ずっと空気が澄んでいるように感じられた。不吉にざわめく魔属の気配もない。植物も、生きものもだ。
草は青々としていて、木々は明るい生命力に満ちている。
色とりどりの綺麗な花や、瑞々しい木の実があちこちについていて、スウェナの悲しい心は少しだけ癒やされた。
「何て綺麗なところなのかしら……」
まるで夢の中のようだ。
ただ、進んでいっても薬になりそうな草がみつからず、スウェナは少しずつ焦燥してきた。
前を行くメリルの足取りは重い。杖をつく動きが、段々にゆっくりとなっている。
「メリル、やっぱり少し、休みましょう? ジャニスのところへはもうちょっとなんでしょう、その前に、少しだけ」
スウェナがそっと呼びかけると、メリルは思いがけず素直に頷き、歩みを止めた。
(それだけ辛いんだわ)
メリルが大きな木の根元を選んで座り込む。
スウェナはすぐに走り出し、水を捜しに行った。すぐに小さな泉をみつけ、大きな葉で不器用に入れ物を作ると、急いでまたメリルのところに戻る。
メリルは横向きに地面へ倒れ込んでいた。
スウェナは水を零さないよう細心の注意を払いながら、そのそばへと駆け寄って跪く。
「メリル? お水、飲んで」
スウェナはその乾いてかさかさになっている唇に水を流し込んだ。半分は零れてしまい、半分をやっと呑み込んでくれた。
(どうしよう……朝よりも、もっと悪くなってる)
おそらく転移門を使ったせいだ。魔力のない人間には門は使えないとメリル自身が言っていた。
今のメリルの体に、その魔法に耐えうるだけの力が、本当は残っていなかったのかもしれない。
メリルの体に触れると、いつもよりさらに冷たい。まるで氷のようで、スウェナは全身に悪寒が走った。
「メリル、他にほしいもの、ある? 木の実を持ってきましょうか? それとも……門の向こうに戻れば、獣の肉だって、どうにか」
泣き出しそうになるのを堪えて訊ねたスウェナを、視線だけ見上げてメリルが首を横に振る。
「少し、眠る……」
それだけ言うと、メリルは目を閉じ、すうっと吸い込まれるように眠りに落ちていった。
スウェナは身を屈め、その唇の近くに自分の頬を近づけた。かすかだが吐息が当たる。本当にただ眠っているだけだとわかって胸を撫で下ろす。
「どうしよう……」
薬草のみつからない理由が、スウェナにはおぼろげにわかっていた。
病に打ち勝つ草は、魔を帯びた存在の近くにしか生まれない。
そしてこの森には魔の気配がない。おそらくジャニスがそう作った場所なのだろう。
生きものがいなければ薬草は必要ない。ここには体を持たないジャニスしかいないのだ。
(それに、空気が清涼すぎるんだ……)
人間であるスウェナにも、気配が清すぎてむしろ息苦しいほどだった。
これでは、魔属であるメリルの体には負担にしかならないに違いない。
この場にいればいるほど、メリルは弱っていく。確実に。
(今できること、やるしかないわ……)
スウェナはぐっと腹に力を込めて、とにかくメリルの体を温めるもの、水、それに食べ物と、頭の中で呪文のように呟きながら、震える足で動き出した。