【6】落ちこぼれ魔女、ドラゴンを守ると心に誓う
(そんなに疲れているのか)
ざくざくと大股に森の中を歩きながら、メリルは背後のスウェナの様子が気になって仕方がなかった。
気にはなるが、振り返るのはどうしてか負けた気になりそうだったので、それが口惜しくてできない。
何に『負ける』のか、自分でもいまひとつわからなかったが。
(まったく、叫んだり笑ったり泣いたり、落ち着きのない人間だ)
最初に出会った日から、大声で泣きわめくし、かと思えば強気なところを見せて、なのにまたしょんぼりと俯いていたりする。
(人間というのは……特に人間の女というのは、よくわからん)
考えながら、メリルの頭に浮かぶのはもうひとりの人間の女――魔女ジャニスのことだった。
(あの女もよくわからなかった)
ジャニスとの出会いは、スウェナに話したとおりのなりゆきだ。
いくら魔法使いとしての力が強いとしても、しょせん人間。どんなに上級の魔属を使役していても、ドラゴンに較べればしょせん下級。
絶対に自分になど敵わない存在だと思っていたのに、しかしメリルは、最後までジャニスを喰ってやることができなかった。
(そう、最後まで……)
ふと物思いに耽ってしまいそうになってから、そんな自分に気づいて、メリルは慌ててそれを頭から振り払う。
もう昔のことだ。ずっとずっと昔のこと。人間の世界では、すでに思い出でもなく、伝説になっているほどの大昔……。
ちらりと、メリルはできるだけさりげない仕種のつもりで振り返った。
先刻そうしてみた時よりも、スウェナと自分との距離がさらに離れている。
「荷物を持ってやったのに、どうしてまた遅れているんだ……」
ぼやきつつ、仕方なく、メリルはその場で立ち止まった。
スウェナは片手で自分の心臓の上辺りを押さえて、俯くように歩いている。
息が苦しいのか、それともその辺りに怪我でもあるのか。
だったら自分に言えばいいのに、いや、言われたからといって傷を癒やしてやるつもりはないが……などとメリルはめまぐるしく、頭の中で考える。
もともと、いろいろなことを頭で考えるたちの妖魔だ。
種族の性質というより、単純に、ただ、本人の性格。
俯いて歩いていたスウェナが、ふと、顔を上げる。立ち止まって顔だけ振り向いているメリルに気づくと、瞬間、わずかにその表情が嬉しそうに綻んだ。
(な、何だ)
その表情に、メリルは少しうろたえた。スウェナは、一生懸命、という言葉がよく似合う様子で背の高い草を踏み分けながら歩いてくる。
人間の少女にとって、この深い森を進むのは、さぞかし難儀なことだろう。
(俺だってしんどいんだ)
人間の『成体の雄』と同程度の器を作った。普段ならばもう少し力に余裕があるが、今は本体に戻れず魔力のチャージができないまま、体力は失われていくばかりだった。人間と同じ食事程度では、その場しのぎにはなっても本格的な回復はできない。
歩くほどに疲労が蓄積される感じに、メリルは苛立ちと不安を感じている。
それはきっと、スウェナだって同じことだろう。だから不安定になっているに違いない。
あんなに細くて頼りない体、人間の身で、弱っているとはいえ腐っても魔属の自分と一緒に旅をすれば、ひとりの道行きよりもずっと疲れる。
彼女と森に入ってから、手を貸さなかったのは、苛ついていたからだ。誰が、自分の大事な宝を、よりによって『食べられて』、愛想よく振る舞っていられるものか。
だがその自分の態度を、今メリルは後悔していた。
そんな自分に気づきたくはなかったが、でもやっぱり、どうしても後悔してしまっていた。
(俺が守らなくては、あの娘は死んでしまうかもしれない)
無意識のうちにそんな想いを胸に浮かべてから、メリルは、愕然とした。
(守る、だと……?)
この自分が、他の誰かを、よりによって人間なんかを、守りたいだなんて。
(気でもふれたのか、俺は)
スウェナはのたのたとメリルの方へ近づいてくる。
メリルは焦った。
待っているはずなのに、彼女が近づいてくることに狼狽した。
彼女の姿が間近になることばかりに気持ちを向けていたから、だから森の上空から怪しく生暖かい風が吹きおりてきたと気づくことに、一瞬、遅れた。
「え――?」
スウェナのほつれて頬に垂れた藁色の髪が、風になぶられて揺れ、気配に気づいた彼女が上空を振り仰ぐ。
「スウェナ!」
スウェナとの間は、約十メートル。鋭い大声で名前を呼んだメリルに、スウェナは驚いて振り向こうとして、そして、転んだ。
慌てて上がった彼女の小さな悲鳴は、ごうっと吹き下ろされた激しい風の音に掻き消される。
風に森の木々が薙ぎ倒され、地面に倒れたスウェナの体が舞い上がる。メリルは地を蹴って彼女の腰に手を伸ばし、腕でその体を抱き留めた。
風はまだ吹いている。大きな木々や草がまとめて倒れ、メリルとスウェナのいるあたりはすっかり見晴らしがよくなってしまった。
「火竜――!」
吹き下ろされる風は、ドラゴンの翼から生まれるものだった。全長二十メートルもあろうかという四つ足のサラマンダーが、メリルたちの頭上で羽ばたいている。
火竜が牙を剥き出しにして口を開いた。その周囲の空気が青白い微光を放っている。
(燐だ)
メリルは片手で担ぎ上げているスウェナから漆黒のマントを剥ぎ、自分たちの前に勢いよく広げた。
ドラゴンの口から吐き出された火焔を、マントがぎりぎりのところで遮断する。だが熱さは伝わってきた。
直撃を受けたら、人間の体など骨も残さず消え去るだろう。
火竜が咆哮する。空気がビリビリと震え、木立がざわめいた。
「なぜ火竜が、こんなところに」
剥き出しの敵意で自分たちを見下ろすサラマンダーに、メリルは歯がみした。この森に住むドラゴンの話は聞いたことがない。気配も感じない。おそらくもうひとつふたつ山を越えたところにある、火山近辺に住んでいる奴だ。
「貴様、やはり我らの眷属だな」
唸るような声を次に発したのは、火竜だった。
「気配がしたから追ってくれば、なんだその
喋るたびに森が揺れ、スウェナの身が竦む。メリルは彼女の背を抱くように抱えたまま、火竜を睨み上げた。
「俺の姿にケチをつけるなど僭越な。誰が眷属だ、貴様のような身内を持った覚えはない」
「――そうか、貴様は」
中空で翼を広げたまま、ドラゴンの赤い瞳が獰猛に光る。
「噂に聞く裏切り者か。人間に与して人間の貴族の称号を名乗り、人間を殺さぬ腰抜け竜だという」
「ぬかせ、不細工なドラゴンめ。我らの旅路を遮るなど不遜と知れ」
竜の言葉へ尊大に答えながらも、メリルは嫌な汗が背中に浮かぶ気がしていた。
魔女ジャニスを殺さず、人の世界に降りては公爵として持てなされる自分の存在を、裏切りと見做す同族が多いことは知っている。それでわざわざ命を狙いに来るものもまれにあったが、爪の一振りで追い払っていた。竜属の中でも最高級と呼ばれる力を持ったメリルに太刀打ちできるものは、この世のどこにも存在しない。
それが、ドラゴンの形態を取っている時は。
「メリル、下ろして」
体を強張らせて震えながら、それでも気丈であるよう努めようとするスウェナの声がした。
「わたしを抱いていたら動けない、下ろして、逃げましょう」
スウェナにもわかっているのだろう。今の姿ではメリルは火竜に勝てない。勝てるはずがない。
それほど圧倒的な力がドラゴンからは感じられた。
「馬鹿を言え、背を向けた時点でやられる」
メリルは囁き返した。
「じゃあどうしたら――」
「同族の恥さらしが、貴様が眷属だなど許し難い、ここで死ね!」
再び火竜の周りに燐光が浮かぶ。
メリルはその口許を睨めつけたまま、燐が紅蓮に変わる瞬間、スウェナの体を片手で宙に放り投げた。
「……ッ!」
スウェナが声もなく空に舞う。
と同時にメリルは再びマントで火を払おうと腕を振るが、一直線に降りてきた火竜の爪にそれを奪われた。
「ぐ……ッ」
遮るものを奪われ、至近距離から体を灼かれる。
咄嗟に魔力を皮膚の周囲に巡らせたが、それでも感じたひどい痛みと熱に、メリルはそのまま地面へ膝をつく。
直後、体の片側に衝撃を感じた。火竜の尾に打たれて、人間の体はいともたやすく撥ね飛ばされ、太い木の幹に背中をしたたか打ちつけた。
ごふっと嫌な音がして、口から血液が溢れた。骨の何本かが砕けた気がする。自分はいったい何だって、血液の流れまで律儀に人間を擬えて作ったのか。
そんなことを考えていたのはほんの一瞬か、それ以下の時間。
「きゃあ!」
悲鳴を聞いて、メリルは激痛を堪え顔を上げた。
「スウェナ!」
スウェナが火竜の前足に囚われている。
火竜は翼を大きく動かし、天高く昇っていこうとしていた。スウェナを落とす気か、握ったまま地に押し潰す気か。
「させん……ッ」
メリルは立ち上がり、鋭く片腕を振った。体を巡る魔力を集めて火竜に向ける。
球状の光が尾を引きながら火竜に向かい、その腕に喰い込んだ。
低い咆哮が辺り中に響く。力の抜けたドラゴンの爪の間からスウェナの体がこぼれ落ちる。メリルは火竜に裂かれたマントを拾い、スウェナが地面に叩きつけられる直前に、その体を包んで守った。
「う……」
だが包みきれず、スウェナは地面へ投げ出された。呻き声が起きたが、気を失っていたのが、その衝撃で覚醒したように見えた。
「来い、スウェナ!」
スウェナは火竜に灼かれた、隠れる場所もない地面に仰向けに倒れている。
駆け寄りたいがメリルは体が動かない。地面に両膝をつきながら、体のあちこちから溢れる血液を持て余すだけだ。
メリルの声を聞くと、スウェナが弾かれたように起き上がった。足を引きずりながらメリルの方へと駆けてくる。
「メリル!」
メリルの血まみれになった姿を見て、スウェナの顔が蒼白になった。駆け寄って跪き、倒れたメリルの体に腕を回す。
「メリル、大丈夫、メリル!?」
「俺の後ろに――そこでは、奴に狙われて」
「駄目よ、このままじゃメリルが死んでしまう!」
スウェナはメリルを庇うように、無防備な背を火竜の方へ向けている。
火竜はメリルの起こした一閃に片腕を持って行かれ、怒りに我を失くしかけている。
「オォ……ウォオオオオオ!」
すでに言葉を発することもなく、唸り声だけが谺した。
「森の奥へ走って逃げろ、樹に隠れながらこの先進めば谷がある、そこに飛び込め」
「いや、メリルも一緒でなくちゃ行かない!」
「いいから行け、谷を滑り降りればあるいは助かる、ここで灼かれるよりは確率が高い、行け!」
「いや!!」
スウェナは頑是ない子供のように、メリルに抱きついたまま首を振った。
ちりちりと、耳障りな音が届く。三度目の燐光が上空に浮かんで見えた。
(駄目だ、やられる――)
魔法を集めようとしても、メリルは自分の中にその片鱗をほとんど感じ取れなかった。先刻の攻撃で使い果たしてしまったのだ。
重いブレスの音と共に、青い光がまた紅蓮に変わろうとする。
メリルは死力を尽くしてスウェナの体を押し遣った。
もう一度、もう一度だけ、彼女を遠くへ飛ばしてしまわなくてはいけない――
◇◇◇
空高くから、震える空気が背中へと降りてくる。ドラゴンがまた火焔を吐き出そうとしているのだ。
(もう、駄目)
まだ走ることはできた。だがスウェナはメリルから離れることなんてどうしても考えられなかった。
(いいわ、死ぬなら、一緒に)
死への怖さも悲しみも、今はすべて麻痺して、ただメリルと共にいたいという想いだけがスウェナの全身を支配していた。
なのにメリルの腕が動いた。自分を引きはがそうと、血だらけの体であがいている。
(いや……)
離れたくない。
自分だけ助かって、メリルが灼かれてしまうなど、耐えられない。
スウェナはこれまで生きてきた中で、最大の早さで思考を巡らせた。
(火竜、火、炎――)
竜に勝てるもの。炎に抗えるもの。
(メリルは、わたしが守る)
メリルに体を押された時、腰の辺りでちゃぷんと水の音がした。服に括りつけておいた、水の入った革袋。
スウェナは咄嗟に紐を引きちぎり、革袋を片手に握り締めて頭上に掲げた。
(竜公爵は、何の竜?)
スウェナの脳裡に浮かぶ、水辺で眠っていたメリルの本体。
自分が何をするべきなのか、スウェナには、考える前にわかった。
「水竜――メリル・マディナータ・メレル、水の力をわたしに!」
ざわざわと、全身の産毛が逆立つ。悪寒ではない。むしろ歓喜。
体中から力が溢れてくるのがわかる。その力はたかだか掲げた右の腕へと昇っていく。
「そう……そうか、スウェナ」
何かを納得したような呟きが、背後から聞こえた。瞬間、体の中だけでなく、外からも魔法の力に包まれる感触。
頭上から紅蓮の焔が宙を走り、スウェナたちの方へと一直線に降り注ぐ。
スウェナは掲げた腕を、焔に向けて一振りした。
「……ッ!」
思いがけないほどの反動が来た。スウェナの握った革袋が弾けるように細かく飛び散り、中から、まるで嵐の日の川のような荒々しい流れで、水が空へと向かってうねりながら昇っていく。
うねりを吐き出すと共によろめいたスウェナを、後ろでメリルの腕が支えた。抱き留められていることを意識しながら、スウェナは空を振り仰ぐ。
焔と水が拮抗している。
だがそれもほんのわずかの間だけで、スウェナの――スウェナとメリルの生み出した水は、火竜の焔を巻き取るように絡みつき、そのままドラゴンへ向かってすさまじい勢いで突き進んでいった。
「ギャアアアアア!」
喉の潰れたような、絶叫。水は焔を呑み込みながら、火竜の体をも包み込んだ。
轟音と共に水蒸気が生まれ、霧になって辺りを包む。スウェナは咄嗟に熱い蒸気から腕で顔を庇った。
――やがて、静寂。
熱が引き、水蒸気はより大きな雨粒になって森に叩きつけ、それがすんだ後は、風の音すら残らない。
「……」
腕をどけてスウェナが見上げると、空の向こうに小さな黒点がふらふらと消えていくところだった。
火竜は去っていったらしい。
「……助かった……の……?」
ずるっと、スウェナはその場に頽れた。咄嗟に力の籠もったメリルの腕では、だがそれを支えきれず、スウェナは湿った地面に尻餅をつく。
体に力が入らない。その代わりのように、ガンガンと頭が痛んだ。心臓が激しく脈打っていて、息も荒く、スウェナは自分がこのまま死んでしまうのではと思った。
でもそれよりもっと気になって、どうにかして、首を巡らせ背後のメリルを振り向く。
「メリル……大丈夫……?」
メリルもスウェナの後ろで座り込み、片腕で、その腹を抱いていた。
間近で目が合うと、メリルが力なく口許を持ち上げた気がした。
(笑った……?)
皮肉でも、威嚇でもない、初めてのメリルの笑顔。
優しい笑顔。
それを瞼の裏に焼きつけながら、スウェナは意識を失った。