【3】落ちこぼれ魔女、ドラゴンから旅の手解きをしぶしぶ受ける(2)

 しばらく黙然と歩いているうち、次第に森の中が薄暗くなってきた。
 宝珠のせいかいつもより疲れづらいとはいえ、前回休憩を取ってからほぼ一日歩きっぱなしで、体力も限界だった。
 もう歩けない、どうせ自分を置いてはいけないのだから、怒られるのを承知で休みたいと言い出してみようか――とスウェナが思い切って口を開きかけた時、それより先にメリルが立ち止まった。
「休む」
 メリルはそう宣言するなり、手近な木の前に腰を下ろすと、腕組みをして目を閉じた。
 怒られずに休憩が取れるのはありがたかったが、眉間に皺を寄せているメリルの顔色が何となく悪いようで、スウェナはそれが気になった。
「あのう……」
 すっかり短くなってしまった松明を地面に立てると、スウェナはおそるおそるメリルの方へ近づいて、その顔を覗き込む。
「もしかしたら、具合が悪いんですか? もしよかったら、わたしのお水、少し飲みますか?」
 呼び掛けると、相手の瞼が開いて、ぎろりと睨み上げられた。
「寄越せ」
 スウェナは腰にぶら下げておいた革袋を、メリルに手渡す。
「残りが少ないから、ちょっとずつ飲んでくださ――きゃあああ! 駄目、いっぺんに飲んだら駄目!」
 メリルがごくごくと喉を鳴らして水を一気に飲み干そうとしているのに、スウェナは悲鳴を上げた。革袋を取り返そうとするが、延ばした手を簡単に押し返されて叶わない。
「どっ、どうして全部飲んじゃうんですか、本当に全部飲んじゃったんですか……嘘、どうしよう、もうそれで最後のお水だったのに……!」
 狼狽するスウェナに向かって、メリルが空になった革袋を放り投げる。スウェナはそれを受け取ることもできず、ぺたりとメリルの前にへたり込んだ。
「人間は、お水がないと死んじゃうんですよ……」
「奇遇だな、俺もだ」
 悪怯れず答えたメリルを、スウェナは精一杯の勇気で睨みつけた。
「嘘、だって、おうちを出てからメリルは一度もお水を飲んでなかったじゃないですか。……そうだ、わたし何てばかなんだろう……どうしてそれを思い出さなかったのかしら」
 地面に落ちた革袋を拾い上げ、スウェナはそれを抱き締める。
 長旅になるというから、家から持ってきた水を大事に大事に飲んできた。残りの分で、あと最低でも三日は保たせようと思っていたのに。
「ご飯もお水もいらないんでしょう? だってその体、本物じゃないんだもの」
 革袋の中に入っているのは、水を腐らないようにするための魔法を帯びた石ひとつだけだ。
 メリルの体は魔属が変化したものではなく、魔法で作った体に魂だけ入れたものだと言っていた。
 だとすればその体を動かす燃料は魔法だから、水も食料も必要ないはずなのに、メリルが辛そうだったので、ついよけいなことをしてしまった。
(そんなのちゃんと、学校でも習ったのに)
 迂闊な自分が情けなくて、スウェナは俯くと、我慢できずに涙を零した。
「何だ、泣いているのか。水分を垂れ流すなど勿体ない」
 下を向いて啜り上げていたスウェナは、投げかけられたメリルの言葉の冷たさにショックを受けて、反射的に顔を上げる。
 何か言い返そうと口を開くが、だが不意に腕を掴まれて引き寄せられ、おまけにメリルの顔が視界いっぱいに入ってきたことに驚いて、硬直してしまう。
「……うん? 何だ、この味は……?」
「……?」
 何をされているのかしばらくわからなかった。
 目許に当たっている温かい感触がメリルの唇だとわかって、悲鳴を圧し殺しながら、咄嗟に掴まれていない方の手を振り上げる。
 派手な音と共に、スウェナはメリルの頬をぶん殴った。
「な……っ、何をする、貴様!」
 女の細腕では大した力にならなかっただろうが、その女に殴られたという驚きと屈辱のせいか、メリルが怒声を上げる。
「あ、あなたが何するんですか!?」
 メリルを上回る声で叫びながら、真っ赤になるのが嫌でもわかる自分の顔を隠したくて、スウェナは両手で頬を覆った。
 そんなスウェナの反応を見て、メリルが鼻先でそれを嗤う。
「何を勘違いしてる、俺はただ貴様の目から出ている水分をもらっただけだ」
「だから、どうしてそんなことするんですか、お水なんて必要ないくせに! そっ、そんなにまでして……わたしに……意地悪したいんですか……!」
 言いながら、スウェナはますます悲しくなってきてしまった。
 たとえ相手が誰だろうと、魔物だろうと、嫌われるのは辛い。
 だがこれ以上泣いたら、また無体を強いられるだけだと、一生懸命泣くのを我慢する。
「水は必要だ」
 再び俯くスウェナに、答えたメリルの様子は憮然としていた。
「この体の六割は水分でできているからな。興が乗って本物の人間とほぼ同じ構成で作った。食べ物は魔力で代替できるが、水が足りなければ乾涸らびていく。だがいつもなら、一週間やそこらでこんな状態になることはないんだ」
 言いながら、メリルが片腕を持ち上げてそれを眺めている。かったるそうな仕種だった。
「この体が朽ちれば俺の魂はおしまい、湖で眠ったままの本体に戻れないままなら俺の体はおしまい、どっちにしろ貴様から宝珠を取り戻さんことには後がない」
 スウェナは顔を上げて、メリルをみつめた。
 自分も殺されるなんて嫌だったが、この竜だって、生きるか死ぬかの狭間にいるらしい。
「貴様のせいなんだから貴様が責任を取れ。涙の一粒や二粒飲まれたところでごちゃごちゃ文句を言うな」
「も……もう、泣きません」
 しかしそれにしたって、涙を舐め取られるなんて恥ずかしすぎる。
 スウェナが首を振ると、メリルが目をつり上げ、スウェナは慌てて言を継いだ。
「その代わり、夜が明けたらお水を探しにいきましょう、どっちにしろこの袋が空にならないうちにそうするつもりだったんです。この森に、涌き水とか、あなたのいた森のような湖はないんですか?」
「さあな、地上を歩いてジャニスのところに行ったことはないから知らない」
「……そう……」
「俺は普段の体なら水源くらいすぐにみつけられるが、いまいましいことにこの体では能力が鈍る。――そうだ、人間は水を増やすのに魔石を使うと聞いたぞ。その革袋に入っているのは違うのか」
 スウェナが胸に押し当てている革袋を見てメリルが訊ねる。スウェナはまた首を横に振った。
「これは、お水が腐るのを遅らせるだけの石です。お水を増やせる石は、すごく高価で、うちなんかじゃとても」
「おまえは魔法使いなんだろう、そのくらいの魔石くらい自分の力で作ればいい」
 あっさりと言ってのけた妖魔に、スウェナはぐっと言葉に詰まる。
「……駄目なんです、わたし、落ちこぼれだから……」
 そもそもスウェナに魔法が使えるのなら、ここでこんなふうに辛い旅をしなくてもいいはずなのだ。
「落ちこぼれ?」
「わたしには魔力がないんです。一緒に進んでいて、わかるでしょう? 妖魔が近づいても気づけないし、追い払うこともできないし、罠に引っかかってばっかりで」
「たしかにおまえは人間であるにしても、度を超して、これまで俺が見たこともないくらい非力な上、不器用で鈍臭くて要領も悪いようだが」
「……ですよね……」
「しかし魔力がないわけがあるか。まったくその素因になるものがなくて、俺の宝珠を喰われたんじゃたまらん」
「え?」
 落ち込んだり、愕然としたり、忙しい。スウェナが目を瞠って見上げると、メリルは呆れた顔をしていた。
「自分の魔力にも気づけないなんて、どれだけ鈍感なんだ。そもそも俺の体がある湖の周りには結界が張ってあって、普通なら人間も魔属も入れないはずなんだぞ」
「で、でもわたし、実際に五年も魔法学校に行ってたのに下級の魔属とすら契約できないままだったし、簡単な魔法だってろくに使えなかったんですよ? 人間の半分は持っているっていうごく微量の魔力くらいはあるのかもしれないけど……でもそれは、魔法使いを名乗れるレベルじゃありません。だから学校だって……追い出されたんだもの……」
 もう泣かない、と先刻言い切ったばかりだというのに、どんなに駄目だと自分に言い聞かせても涙が滲みそうになる。
「……わたしなんて、何のために生きてるんだろう……」
 考えても仕方ないことだとわかっていたが、スウェナはそう思わずにはいられない。
 何の取り柄もない無力な自分。魔法使いにもなれず、町で仕事をみつけることもできないのなら、義母の言うとおり誰かと結婚して子供を産むしか道はない。
 でもやっぱりそんなのまだピンとこないし、それにこんな自分を、いったい誰が愛してくれて、一生添い遂げたいと請うてくれるのか。
「愛のない結婚はいやぁ……」
「何の話だ」
 自分の内心に気を取られ、思わず呟きを漏らしてしまったスウェナに、メリルが怪訝そうな顔をしている。
 訝しそうだったし、それに、どことなく困惑したふうでもあった。
「どうでもいいが、あんまりめそめそするんじゃない。鬱陶しい」
 叱責されても涙を堪えられそうになく、スウェナは自己嫌悪のループに陥ってしまう。
 メリルが大仰なくらい深々と溜息をついた。
「まったくどうしようもない人間だな。こんなうじうじぐずぐずめそめそしたのと一緒に先を行くんじゃ、こっちまで気が滅入る」
「……ごめ……なさ……」
「だから明日からは、罠の見破り方も妖魔の追い払い方も俺が教えてやる」
「――え?」
 またしても意外な台詞を聞いた気がして、スウェナは先刻と同じように大きく瞠目した。
「おまえが罠に引っかかってひゃあひゃあと悲鳴を上げて泣きじゃくってるから、なかなか前に進まないんだ。いいか、俺は手を貸さない。口を出すだけだ。おまえはそれに従え。それでもうそれ以上泣くな。今度泣いたら涙だけじゃなくて、体ごと口に入れてやるからな」
 それだけ言うと、メリルはスウェナに背を向け、ごろりとその場に寝転んでしまった。
「あ……ありがとう……」
 小さく呟いても、メリルは聞こえないふりで、ただ小さく鼻を鳴らしただけだった。
「……」
 スウェナはしばらくメリルの背中を眺めてから、地面に手をついて立ち上がった。
 そろそろ本格的に暗くなる。火を焚いておかなくてはいけない。
 暖を取るためと獣避けのために薪を集めて火をつけると、スウェナは干しパンと木の実で少しの食事をとり、火の晩をしているつもりが、そのうち眠たくなって座ったまま夢の中に潜り込んでいった。

失恋竜と契約の花嫁

Posted by eleki