【2】ドラゴン、宝珠を出せと皿と箸を持って押しかける(1)
「もう、本当にあなたは、愚図な子ねえ。二晩も家を空けておいて、結局薬草のひとつも取ってこられないなんて」
夕食のあと、面目なく俯きながら針仕事をするスウェナの向かいで、義母が溜息交じりに愚痴をこぼした。
「お父さんも心配してたっていうのに、ぴんしゃんして、元気そうだし」
「痛!」
義母のお小言を聞きながら弟の破れた下着を繕っていたスウェナは、自分の指先を針で刺してしまい、悲鳴を上げた。
義母がさらに深々と溜息をつく。
「それはもういいわ、向こうで皿でも磨いておいてちょうだい。あなたにかかっちゃ、破れた穴がもっと広がるだけだわ。皿は割るんじゃないわよ、いい、あなたはもう今月に入って二枚も割ってるんですからね」
「はぁい……」
ドラゴンのいた森から、自分でも信じがたい早さで家まで辿り着いたスウェナを、病床から無理に起き出していた父と、それを支える義母、泣きじゃくる弟妹たちが迎えてくれた。
家を出てからまる二日帰ってこなかったスウェナを、みんな心配してくれていたらしい。
義母はスウェナを見て一瞬泣きそうに顔を歪めてから、彼女が手ぶらであることに気づくと、本当にドジな子だわと厳しく叱りつけてきた。
薬草を手に入れるどころか、どこかでランプを落としてしまったスウェナには弁解のしようもなくて、それから休む間もなく家事を手伝った。父親には休むように言われたが、家まで戻っても疲れることはなかったし、お腹も空いていない。
家を出た二日前よりやたら血色のよくなっているスウェナに、わけのわからない子だと義母は呆れ返り、父親は逆に高熱を出して寝込んでしまった。
スウェナ本人はともかく、着ていた服がボロボロになっていたせいで、遊んでいたわけではないと義母が信じてくれたのは幸いだった。ただただドジで要領が悪くて道に迷っていたのだと、説明もしていないのに納得していた。
「それでねえ、あたしは思ったんだけど」
器用な義母はスウェナが一刻かけても終わらなかった繕い物をあっと言う間に終えて、食事に使った皿を布で磨くスウェナの隣に並び、自分も同じ作業を始めた。
弟たちは洗濯物を畳んだり、野菜クズを裏庭に撒くため細かく刻んだりと、いつもどおり手伝いをしている。末の妹だけは、まだひとりで満足に歩けないので義母の背中だ。
「魔法学校も駄目になっちゃったんじゃ、あなたは将来の働き口にろくなものはないでしょう。町のどこかで雇ってくれる人を捜すったって、あなたのその不器用ぶりじゃ、どこも三日で馘首になるのがおちだわ」
スウェナは反論の余地なく、悲しい気分で皿を磨き続ける。
「あなたの得になるものといったら、あとはもう若さくらいよ。見た目はまあ地味だけど、きちんと髪をとかして結って、その野暮ったい眼鏡を外して着飾れば、どうにかなるわ。それにその胸と腰、やせっぽっちの割に立派なものだから、どうにかなると思うのよ」
「どうにか、って……」
「結婚相手を探すの」
何となく及び腰になるスウェナをキッと見遣り、妙な迫力で、義母が言う。
「いい、スウェナ、女のしあわせは最終的には結婚よ。結婚して子供を育てる、それが一番なの。魔法学校を退学になったのは残念だけど、実のところ、あなたには向いてるわけがないと思っていたから、結果的にはよかったのかもしれないわ。家事以上に、他国の兵隊や魔物と戦うなんて、もっと向いてないでしょう。だから今のうちに、結婚なさい」
「け……結婚……」
自分の中にまったくなかった言葉に、スウェナは目を白黒させた。
普通の少女らしく、そりゃあ自分だっていつかは誰かと家庭を持つのだろうと想像したことはあるが、それは今のスウェナにとって現実離れした、人ごとのような単語でしかなかった。
だってスウェナには、生まれてこの方この歳まで、恋人がいたことがなければ、恋をしたことだってなかったのだ。
「そうだわ、学校で、親しくなった男の子はいないの? 王宮づきの魔法使い候補生ならエリートだわ。給料もうんと高いだろうし、ねえ、忘れられないうちに手紙でも書いて」
いいことを思いついた、というふうに身を乗り出す義母に、スウェナはしょんぼり俯いて首を振った。
(恋人なんて……わたし、友達だっていないのに)
学校で仲よくしてくれるような相手はいなかった。皆日々の勉強や訓練で精一杯だったから、不器用でろくに魔法が使えないスウェナをいじめる暇のある者はいなかったが、すすんで話しかけてくれるような相手もいなかった。
落ち零れの自覚があるスウェナが自分から誰かに話しかけることもできず、結局退学になるまで五年間もあったのに、友達と呼べる人とは巡り会えなかったのだ。
「もう、本当に……駄目ねえ、あなたは……」
悲しい顔で黙り込むスウェナに、義母が深々と溜息をつく。
「まあ、あなたに自分で結婚相手を探せなんて、無理難題は言わないわ。あたしの親戚筋に、何人か心当たりがあるから聞いてみてあげる」
「えっ、で、でも」
急なことでスウェナが慌てていると、義母に怖い顔で睨まれた。
「さもなければ、今すぐ仕事をみつけに町に行ってもらわなけりゃならないわ。でも仕事だって、どうせあなたは自分じゃ満足にみつけられないし、みつけても続けることなんてできやしないでしょう。騙されて人に言えないようなことをさせられるのが目に見えるようだもの」
「そ、そんな、ことは」
「あるのよ。そんなことになればお父さんの具合がよけいに悪くなるわ。だからおとなしく、人の言うことを聞いてちょうだい」
厳しく言い置いて、義母は小さな弟妹たちを寝かしつけるために、台所を出て行った。
残りの皿を磨きながら、スウェナはひっそりと溜息をつく。
「結婚……なんて」
したいとはさっぱり思えないが、この家で自分が邪魔者なのはわかっている。
俯いていればじわじわと滲み出してしまう涙を、スウェナがぐっと手の甲で拭い上げた時、その耳に奇妙な音が届いた。
玄関の木戸を叩く、コツコツという音。
別にノックの音が奇妙なわけではない。こんな月も高々出ている時刻に、家を訪れるような者のあるのが奇妙だったのだ。
「誰……?」
手にしていた皿を置くと、スウェナはそっと木戸の方へ近づいた。
「あの、どなたですか?」
近所の人か、それとも道に迷って困っている誰かか。
控えめな声で訊ねてみるが、なぜか返事がない。
ますます不審に思いながら、スウェナは閂を外して、そっと木戸を開いた。
「……」
視界に飛び込んできたのは、大きな皿と箸。
スウェナは何が何だかわからずに、ぽかんと目を見開いた。だがどう見ても皿と箸。それが暗い夜の闇の中に浮かび上がっている。
「……おまえだな」
そして頭上から降ってきたのは、低く、深い、男の声。スウェナは皿と箸から目を上げ、相手の顔を見上げた。
夜がそのままそこに立っているのかと思った。白いのは彼の持つ皿だけだ。
黒いマントを身につけ、無造作に切られた男にしては長い髪も漆黒、肌の色はスウェナたちよりも――人間よりも暗い、褐色。
赤く底光りするふたつの瞳が、じっとスウェナのことを見下ろしている。
「おまえが俺の『あれ』を、喰らった人間だな」
「……」
考えるより先に手が動いて、とスウェナは木戸を力一杯閉めていた。
「何を勝手に閉めている、開けろ!」
ドン、と木戸が大きな音と共に震える。スウェナは両腕でその戸を内側から押さえた。
「どっ、どなたかのおうちと間違えてらっしゃいませんか!」
相手が何者なのかはさっぱりわからなかったが、スウェナの心臓は警戒心のためいっぱいに高鳴っていた。
変だ。
どう見ても変だ。
人間と同じような姿、格好だったが、やっぱり変だ。
(あんなに暗い肌、それに赤い瞳!)
能力と知能の高い魔属は、ときどき人間と同じ格好で人間の町に現れる。
力が強ければ強いほど、人間と同じ形態でい続けることが可能になり、人間と同じ言葉で喋るようになる。
「開けろ! 開けて俺を迎え入れろ人間! どうぞお入りくださいと言え!」
ドッと、再び乱暴な動きでドアが叩かれた。魔属が人間の暮らす家に入るには、そこに住む者が自ら迎え入れるか、あるいは家ごと破壊して外との境界線を失くしてしまうしかない。
「スウェナ、どうしたの、うるさいわよ」
子供たちを寝かしつけていた義母が、音と声に眉をひそめながら玄関まで出てきた。
「こんな時間に誰なの?」
「だっ、駄目、来ちゃ駄目!」
スウェナは急いで背を木戸に押しつける。外にいるのが魔物だったら、迂闊に接触するのは危険すぎる。
「開けないとこの家ごと吹き飛ばしてしまうぞ!」
スウェナは半泣きになって閂をかけ直すと、義母を無理矢理奥の部屋に押し込めた。絶対に出ないように何度も頼んでから、もう一度木戸に近づく。
「ら、乱暴はしないでください、開けます、絶対にわたしたちを襲わないと約束してください」
「ふん、人間ごときと約束などできるものか」
尊大で、冷たい声が木戸越しに聞こえる。
「いいから開けろ、三つ数える間だ。一、二」
恐怖のあまり震える手で、スウェナは再び閂を開け、戸を開いた。
その刹那、ぬっと目の前に突き出されたのは、皿と箸。
「出せ」
「は?」
「今すぐ出せ」
「な、何を……ですか?」
いきなり火焔で焼かれるわけでもなく、呪いの言葉を吐かれるわけでもなく、相手はぐいぐいとスウェナに皿と箸を押しつけてくる。
怯える目でスウェナが見上げると、男は怒りに満ちた顔つきでそれを見返している。
その容貌を確認したスウェナは、畏れのためではなく、別の理由で身震いした。
ぞっとするような美形だった。切れ長の目に通った鼻梁。血のように赤い瞳。酷薄そうな薄い唇。闇に溶け込む漆黒の髪。
スウェナが今まで一度だって見たことのない、それは美しい男の人だった。
「排泄しろと言っているんだ」
その美しい男の人は、スウェナを冷たい目で見据えながら、はっきりとそう言った。
明瞭なその言葉の意味を、だがスウェナはすぐに呑み込むことはできなかった。
「はい……せつ?」
「食べたものを出せ、今すぐ出せ、そして俺に返せ!」
「き……」
息を吐き出し、そして、スウェナは差し出された皿を押し返しながら大きく息を吸い込んだ。
夕食のあと、面目なく俯きながら針仕事をするスウェナの向かいで、義母が溜息交じりに愚痴をこぼした。
「お父さんも心配してたっていうのに、ぴんしゃんして、元気そうだし」
「痛!」
義母のお小言を聞きながら弟の破れた下着を繕っていたスウェナは、自分の指先を針で刺してしまい、悲鳴を上げた。
義母がさらに深々と溜息をつく。
「それはもういいわ、向こうで皿でも磨いておいてちょうだい。あなたにかかっちゃ、破れた穴がもっと広がるだけだわ。皿は割るんじゃないわよ、いい、あなたはもう今月に入って二枚も割ってるんですからね」
「はぁい……」
ドラゴンのいた森から、自分でも信じがたい早さで家まで辿り着いたスウェナを、病床から無理に起き出していた父と、それを支える義母、泣きじゃくる弟妹たちが迎えてくれた。
家を出てからまる二日帰ってこなかったスウェナを、みんな心配してくれていたらしい。
義母はスウェナを見て一瞬泣きそうに顔を歪めてから、彼女が手ぶらであることに気づくと、本当にドジな子だわと厳しく叱りつけてきた。
薬草を手に入れるどころか、どこかでランプを落としてしまったスウェナには弁解のしようもなくて、それから休む間もなく家事を手伝った。父親には休むように言われたが、家まで戻っても疲れることはなかったし、お腹も空いていない。
家を出た二日前よりやたら血色のよくなっているスウェナに、わけのわからない子だと義母は呆れ返り、父親は逆に高熱を出して寝込んでしまった。
スウェナ本人はともかく、着ていた服がボロボロになっていたせいで、遊んでいたわけではないと義母が信じてくれたのは幸いだった。ただただドジで要領が悪くて道に迷っていたのだと、説明もしていないのに納得していた。
「それでねえ、あたしは思ったんだけど」
器用な義母はスウェナが一刻かけても終わらなかった繕い物をあっと言う間に終えて、食事に使った皿を布で磨くスウェナの隣に並び、自分も同じ作業を始めた。
弟たちは洗濯物を畳んだり、野菜クズを裏庭に撒くため細かく刻んだりと、いつもどおり手伝いをしている。末の妹だけは、まだひとりで満足に歩けないので義母の背中だ。
「魔法学校も駄目になっちゃったんじゃ、あなたは将来の働き口にろくなものはないでしょう。町のどこかで雇ってくれる人を捜すったって、あなたのその不器用ぶりじゃ、どこも三日で馘首になるのがおちだわ」
スウェナは反論の余地なく、悲しい気分で皿を磨き続ける。
「あなたの得になるものといったら、あとはもう若さくらいよ。見た目はまあ地味だけど、きちんと髪をとかして結って、その野暮ったい眼鏡を外して着飾れば、どうにかなるわ。それにその胸と腰、やせっぽっちの割に立派なものだから、どうにかなると思うのよ」
「どうにか、って……」
「結婚相手を探すの」
何となく及び腰になるスウェナをキッと見遣り、妙な迫力で、義母が言う。
「いい、スウェナ、女のしあわせは最終的には結婚よ。結婚して子供を育てる、それが一番なの。魔法学校を退学になったのは残念だけど、実のところ、あなたには向いてるわけがないと思っていたから、結果的にはよかったのかもしれないわ。家事以上に、他国の兵隊や魔物と戦うなんて、もっと向いてないでしょう。だから今のうちに、結婚なさい」
「け……結婚……」
自分の中にまったくなかった言葉に、スウェナは目を白黒させた。
普通の少女らしく、そりゃあ自分だっていつかは誰かと家庭を持つのだろうと想像したことはあるが、それは今のスウェナにとって現実離れした、人ごとのような単語でしかなかった。
だってスウェナには、生まれてこの方この歳まで、恋人がいたことがなければ、恋をしたことだってなかったのだ。
「そうだわ、学校で、親しくなった男の子はいないの? 王宮づきの魔法使い候補生ならエリートだわ。給料もうんと高いだろうし、ねえ、忘れられないうちに手紙でも書いて」
いいことを思いついた、というふうに身を乗り出す義母に、スウェナはしょんぼり俯いて首を振った。
(恋人なんて……わたし、友達だっていないのに)
学校で仲よくしてくれるような相手はいなかった。皆日々の勉強や訓練で精一杯だったから、不器用でろくに魔法が使えないスウェナをいじめる暇のある者はいなかったが、すすんで話しかけてくれるような相手もいなかった。
落ち零れの自覚があるスウェナが自分から誰かに話しかけることもできず、結局退学になるまで五年間もあったのに、友達と呼べる人とは巡り会えなかったのだ。
「もう、本当に……駄目ねえ、あなたは……」
悲しい顔で黙り込むスウェナに、義母が深々と溜息をつく。
「まあ、あなたに自分で結婚相手を探せなんて、無理難題は言わないわ。あたしの親戚筋に、何人か心当たりがあるから聞いてみてあげる」
「えっ、で、でも」
急なことでスウェナが慌てていると、義母に怖い顔で睨まれた。
「さもなければ、今すぐ仕事をみつけに町に行ってもらわなけりゃならないわ。でも仕事だって、どうせあなたは自分じゃ満足にみつけられないし、みつけても続けることなんてできやしないでしょう。騙されて人に言えないようなことをさせられるのが目に見えるようだもの」
「そ、そんな、ことは」
「あるのよ。そんなことになればお父さんの具合がよけいに悪くなるわ。だからおとなしく、人の言うことを聞いてちょうだい」
厳しく言い置いて、義母は小さな弟妹たちを寝かしつけるために、台所を出て行った。
残りの皿を磨きながら、スウェナはひっそりと溜息をつく。
「結婚……なんて」
したいとはさっぱり思えないが、この家で自分が邪魔者なのはわかっている。
俯いていればじわじわと滲み出してしまう涙を、スウェナがぐっと手の甲で拭い上げた時、その耳に奇妙な音が届いた。
玄関の木戸を叩く、コツコツという音。
別にノックの音が奇妙なわけではない。こんな月も高々出ている時刻に、家を訪れるような者のあるのが奇妙だったのだ。
「誰……?」
手にしていた皿を置くと、スウェナはそっと木戸の方へ近づいた。
「あの、どなたですか?」
近所の人か、それとも道に迷って困っている誰かか。
控えめな声で訊ねてみるが、なぜか返事がない。
ますます不審に思いながら、スウェナは閂を外して、そっと木戸を開いた。
「……」
視界に飛び込んできたのは、大きな皿と箸。
スウェナは何が何だかわからずに、ぽかんと目を見開いた。だがどう見ても皿と箸。それが暗い夜の闇の中に浮かび上がっている。
「……おまえだな」
そして頭上から降ってきたのは、低く、深い、男の声。スウェナは皿と箸から目を上げ、相手の顔を見上げた。
夜がそのままそこに立っているのかと思った。白いのは彼の持つ皿だけだ。
黒いマントを身につけ、無造作に切られた男にしては長い髪も漆黒、肌の色はスウェナたちよりも――人間よりも暗い、褐色。
赤く底光りするふたつの瞳が、じっとスウェナのことを見下ろしている。
「おまえが俺の『あれ』を、喰らった人間だな」
「……」
考えるより先に手が動いて、とスウェナは木戸を力一杯閉めていた。
「何を勝手に閉めている、開けろ!」
ドン、と木戸が大きな音と共に震える。スウェナは両腕でその戸を内側から押さえた。
「どっ、どなたかのおうちと間違えてらっしゃいませんか!」
相手が何者なのかはさっぱりわからなかったが、スウェナの心臓は警戒心のためいっぱいに高鳴っていた。
変だ。
どう見ても変だ。
人間と同じような姿、格好だったが、やっぱり変だ。
(あんなに暗い肌、それに赤い瞳!)
能力と知能の高い魔属は、ときどき人間と同じ格好で人間の町に現れる。
力が強ければ強いほど、人間と同じ形態でい続けることが可能になり、人間と同じ言葉で喋るようになる。
「開けろ! 開けて俺を迎え入れろ人間! どうぞお入りくださいと言え!」
ドッと、再び乱暴な動きでドアが叩かれた。魔属が人間の暮らす家に入るには、そこに住む者が自ら迎え入れるか、あるいは家ごと破壊して外との境界線を失くしてしまうしかない。
「スウェナ、どうしたの、うるさいわよ」
子供たちを寝かしつけていた義母が、音と声に眉をひそめながら玄関まで出てきた。
「こんな時間に誰なの?」
「だっ、駄目、来ちゃ駄目!」
スウェナは急いで背を木戸に押しつける。外にいるのが魔物だったら、迂闊に接触するのは危険すぎる。
「開けないとこの家ごと吹き飛ばしてしまうぞ!」
スウェナは半泣きになって閂をかけ直すと、義母を無理矢理奥の部屋に押し込めた。絶対に出ないように何度も頼んでから、もう一度木戸に近づく。
「ら、乱暴はしないでください、開けます、絶対にわたしたちを襲わないと約束してください」
「ふん、人間ごときと約束などできるものか」
尊大で、冷たい声が木戸越しに聞こえる。
「いいから開けろ、三つ数える間だ。一、二」
恐怖のあまり震える手で、スウェナは再び閂を開け、戸を開いた。
その刹那、ぬっと目の前に突き出されたのは、皿と箸。
「出せ」
「は?」
「今すぐ出せ」
「な、何を……ですか?」
いきなり火焔で焼かれるわけでもなく、呪いの言葉を吐かれるわけでもなく、相手はぐいぐいとスウェナに皿と箸を押しつけてくる。
怯える目でスウェナが見上げると、男は怒りに満ちた顔つきでそれを見返している。
その容貌を確認したスウェナは、畏れのためではなく、別の理由で身震いした。
ぞっとするような美形だった。切れ長の目に通った鼻梁。血のように赤い瞳。酷薄そうな薄い唇。闇に溶け込む漆黒の髪。
スウェナが今まで一度だって見たことのない、それは美しい男の人だった。
「排泄しろと言っているんだ」
その美しい男の人は、スウェナを冷たい目で見据えながら、はっきりとそう言った。
明瞭なその言葉の意味を、だがスウェナはすぐに呑み込むことはできなかった。
「はい……せつ?」
「食べたものを出せ、今すぐ出せ、そして俺に返せ!」
「き……」
息を吐き出し、そして、スウェナは差し出された皿を押し返しながら大きく息を吸い込んだ。