【1】落ちこぼれ魔女、道に迷ってうっかりドラゴンの珠を食べる

 ずるり、と足許の地面が滑るように崩れたので、スウェナは悲鳴を上げて近くの木の枝に掴まった。
「きゃっ……、あ……、ああ……」
 悲鳴は次いで、溜息に変わる。枝に掴まるために、左手に提げていたランプをつい投げ飛ばしてしまい、火はぬかるんだ地面に落ちて消えた。
 おまけにその隣に転がっているのは、マッチの箱。慌てて拾い上げたが、箱の中まで水分が染みこんでいて、どんなに擦っても硫黄の嫌な匂いがかすかに上がるばかりだった。
「ばかっ、予備なんて持ってきてないのに……!」
 雨上がりの森の中は、いつにも増して薄暗く、それに肌寒い。しばらく頭を抱えてしゃがみ込んでいたスウェナは、地面に落ちて汚れたランプを拾って、斜めに傾いた体をどうにかまっすぐ立て直す。慎重に枝から手を離し、おそるおそるの足取りで、再び森の中を歩き始めた。
 そっと天上を振り仰げば、鬱蒼と茂る木々の葉の間からは、ぼやけた月の姿が見えるばかりだ。
 スウェナは湿った草を踏み分けてのろのろと森の中を歩きながら、溜息をつく。
 十六歳の少女だった。すらりと背が高く――と言ってしまえば聞こえはいいが、手足が長い割に肉づきが薄いので、全体的には小柄に見える。お下げに結われたくすんだ金色の長い髪はいたずらな枝に引っかかってあちこちほつれ、大きな眼鏡は蔓のサイズが合っていないのか、半分ずり下がっている。
 いまいちパッとしない容姿だと自他共に認めるスウェナは、火の消えたランプを手にして、さらに情けない泣き顔だ。
 スカートの裾も、もともと着古してつぎの当たったエプロンも、泥だらけになっていた。
 一昨日の晩に降った雨の跡はまだ消えきらず、革靴の底から染み出した冷たい水で、両脚の感覚は失いつつある。
 すべてにおいて最悪。
「おなか、すいたわ……」
 ぐす、とすすり上げ、スウェナは誰も聞く者のない呟きを漏らした。
 森に入り込んでからすでに一日と半分。家を出たのはそれよりもっと前で、その間スウェナはパンひとかけ、水一滴も口にしていなかった。
「どこで迷っちゃったのかしら……」
 ついひとりごとを口にしてしまうのは、そうしないと不安で仕方がないからだ。
 夜の薄暗がりから生ぬるい風が吹きつけ、木の枝や葉が揺れる音が絶え間なく響いている。
 この森には、肉食の鳥や獣が住んでいると聞いた。スウェナはそれを思い出すだに震え上がる。
 獣避けのつもりでもあったランプの火はつい先刻消えた。
(出てくるのが、獣だけなら、まだいいけれど)
 考えるまいとしていても、スウェナの脳裡には不吉なことばかりが浮かんでくる。
(妖精避けの鈴しか持ってないのに、もっと怖ろしい魔物が出て来たら……)
 胸元に忍ばせた鈴を、スウェナは服の上からぎゅっと握り締めた。
 臆病なピクシーならば、鈴の音を聞けば怯えて立ち去ってくれるだろう。
 だが、人間の血肉を好んで食したり、なぶり殺しにして楽しんだり、皮を剥いで蒐集するようなたぐいの魔属が相手では、『ここにか弱い人間がいますよ』と自分で報せるようなものだ。
 ぐすりと、スウェナはもう一度すすり上げた。
(どうしてわたし、何をやってもこう(ヽヽ)
 病弱な父親のため、薬草を摘みにきたはずだった。
『いったいこれまでいくらあなたにかかったと思うの、スウェナ』
 足を引きずるように歩きながら、薄暗い夜の中、スウェナは一昨日の晩に母親から言われた言葉を思い出す。
『サミアもルセアもマリサもいるし、お父さんはあんな体だし、それでもあなたが魔法学校を出たら王宮で働いて元を取ってくれると思ったから、無理してあちこちからお金を借りて送り出してあげたのよ』
 母親と言っても、父の後妻だった。スウェナの実の母親は、スウェナがずっと小さい頃に魔物に襲われて死んだ。歳の離れた双子の弟たちと妹は、新しい母と父の子供だった。
『それが、才能がないから突っ返されてくるなんて……村の人に何て言い訳すればいいのかしら、あなたに魔法の力があるっていうから、さんざん自慢しちゃったのよ。他の子に較べて愚図だしドジだし泣き虫だし、何の取り柄もないあなたが将来は王宮づきの魔法使いになれるのなら、あなたにもうちにもいいと思って楽しみにしてたのに』
 スウェナに返す言葉はなかった。いつもただしょんぼりと俯いて、義母の言うとおりの自分を悲しく思うことしかできない。
『ほら、ご飯がすんだのなら、お父さんの病気に効く薬草でも探してきて。学校で教わったんでしょう、魔法の力がなくても、そのくらいはしてもらわないと困るわ。うちは穀潰しを何人も養ってけるほど、裕福じゃないんですからね』
 家族六人で暮らすには、町外れにあるスウェナの家は狭い。ほぼ寝たきりの父親の寝室がひとつ、台所がひとつ、あとは義母と弟たちと一緒の部屋でスウェナも寝起きするしかなかった。弟妹たちはまだ小さくて、本人たちはもちろん、その面倒を見なくてはならない義母も外に働きに出るわけにいかず、家計は苦しかった。
(わたしが学校に行けなくなってしまったから、国の援助もなくなってしまったんだものね……)
 学校では、魔法の力で傷を癒やすことの他に、薬草についての知識も与えてもらった。
 頻繁に町医者に診せるほど金銭に余裕がない家で、スウェナにできることはといえば、薬草を摘んで父親に飲ませたり、それを町で売ったりして、いくらか生計の足しにするくらいだ。
 しかし許可なく医療行為をすることは国で禁じられているのであまり大量にはさばけないし、スウェナが魔法学校を追い出されるほどのおちこぼれだと知られている周辺の町では、そんな娘の煎じた薬草など誰も欲しがらない。遠出するしかなく、手間と時間がかかる割に、本当に微々たる売り上げにしかならなかった。
 そのうえ薬草のある森はスウェナの住む家から半日歩いてやっと辿り着く場所。薬草が採れるのは明け方、あさつゆが葉に乗る時間の間だ。夜のうちに家を出て、陽が昇るちょっと前に森の入口に辿り着く。
 薬になる草を探しながら森の中を歩けば、ちょうどほんのりと空が白む頃にそれをみつけられる、という調子だった。
 薬草を採ったら、すぐに森を出なくてはならない。薄暗い森の中には、夜でなければ現れないはずの妖魔が目を覚ましているかもしれないのだ。
 植物は魔属の力を受けて薬草になるのか、それとも薬草の魔力に惹かれて魔属が集まるのか、それを摘むことのできる森には、必ず彼らが住むという。
 魔属の大抵は人を嫌っているので、森の奥に潜んでいる。
 だからスウェナは、いつも薬草を採ると、すぐに入口へとって返していた。
 だが今回は、歩けども歩けどもちっとも薬草がみつからず、それを探すうちに、気づけば森のずっと奥深くへと迷い込んでしまったのだ。
 慌てて出口を探そうとした時には遅かった。人の滅多に足を踏み入れない森だから、地図もないし偶然の助けも期待できない。もし家族が戻ってこないスウェナを心配して人を頼んでも、わざわざこんな森の中に危険を冒してまで迎えに来てくれる物好きはいないだろう。
「おなかすいた……」
 ぐすぐすと泣き声をたてながら、スウェナは先刻からみじめに鳴っている自分の腹を押さえた。
 穀潰しと言われたのが辛くて、申し訳なくて、干した穀物や果物を持ってこなかった自分を、今は恨む。森はただ鬱蒼と葉が茂るばかりで、食べられそうな実も花すらなっていない。
 もういっそ、この場に倒れ込んでしまいたい。
 棒のような足を持てあましてそう思った時、背後で甲高い鳥の鳴き声が聞こえて、スウェナは全身を強張らせた。
(鳥――違う!)
 聞き覚えのある、不吉で、不愉快な声。金属を擦り上げたような音。
 スウェナは咄嗟に胸元から妖精避けの鈴を取り出した。
 瞬間、耳許に釘でひっかかれたような衝撃が走る。
「痛い!」
「あんた! あんた、何やってんのさ!」
 ばさばさと鳴る羽根の音、甲高くあざわらうような声、それにこの臭い。
(ハーピー)
 まるで髪を荒らすように頭の回りを飛び回る、大きな鳥のような生き物に向けて、スウェナは必死で鈴を鳴らした。
「ちょっと、うるさいよ! その鈴を馬鹿みたいに鳴らすのやめな!」
 腐った生もののような臭いに辟易しながら鈴を振り回すスウェナの腕に、ハーピーが噛みついた。
「きゃ!」
「人間がこんなところで何やってんのさ! 殺しちまうよ!」
 慌てて腕を振ったせいで、鈴も火のついていないランプも、ぬかるんだ地面に落ちてしまった。
 金属的な声が頭に響き、スウェナは涙目になって、両腕で自分の頭を抱えた。
「あ……あた、あたしは魔法使いよ、魔法使いスウェナ、あたしと、け、契約しなさい! 契約して、あたしの言うことを聞きなさい!」
 つっかえつっかえ叫んだスウェナに、ハーピーは一瞬ぽかんとした顔で、羽ばたくのをやめた。
「はァ? ……バーカ!」
 そして次の瞬間には、心底から馬鹿にした顔になって、スウェナをじろじろ見ながら再びばさばさと臭い臭いをまき散らし始める。
「あんた何言ってんの? 何言ってんの? そんなことできると思ってるの?」
 キャハハ、と耳障りな声で鳴いて、ハーピーがまたスウェナの顔ぎりぎりのところをかすめるように飛んでいく。
 スウェナは悲鳴を上げて地面に倒れた。
 不愉快な笑い声を残して、ハーピーがスウェナのそばから飛び去って行く。
「……あんな下級の魔属とも、契約できないなんて……」
 立ち上がる気力もなく、スウェナはぽつりと呟いた。
 スウェナの住むこのメルディア王国では、国を挙げて魔法使いの育成に励んでいる。領土が小さく、国力の弱いメルディア王国が魔属や他国に対抗するために、魔法使いの存在は貴重だった。
 魔法使いは魔属を従わせてそれを戦力にしたり、他国の攻撃から身を守るための結界を作ったり、普通の医者では治せない魔属による傷を癒やすことができる。
 大陸の片隅にあるメルディアは、その小さな領土ですら虎視眈々と狙う軍事国家や、人間を嫌っている魔属の集落に囲まれていた。他国のように魔属を徹底的に排除する、あるいは徹底的に支配下に置けるほどの力がないから、魔法使いが魔属と行う『契約』は本当に重要なことだった。
 だがその契約に、スウェナは未だかつて成功したことがない。
 だから学校を追い出された。
(さっきのハーピーが仲間を呼びに行ったのなら、どうしよう)
 ハーピーは群れる魔属ではないが、人を不快な目に遭わせることが大好きな性質なので、何をしでかすかわからない。
 本当ならあのハーピーを魔力で強制的に従わせ、森の出口まで案内させることができればよかったのだ。魔法使いならそれができるはず。
 そしてうるさくて臭いハーピーなんて、その場で契約を解除してそれでおしまいだ。
 しかしそれがスウェナにできるのなら、今ごろはまだ魔法学校の寮にいて、暖かいベッドですてきな夢でも見ていられただろう。
「……このまま……迷ったまま死んでしまうのかしら、わたし……」
 考えれば考えるほど怖くなる。スウェナはそんな想像から逃れるため、冷たい泥水に浸かったままの体で、腕を伸ばすと、地面に落ちているランプを拾った。
「……駄目よね、やっぱり」
 魔法の初級中の初級、火をつけるための道具に火をつける呪文さえ、満足に扱えない。
 それでも小さな頃は、そのくらいの魔法は正式な呪文を使わなくたってできた。できてしまったから、父親と再婚相手との間に子供が生まれたと同時に、王宮近くの魔法学校に放り込まれたのだ。
「とにかく、歩かなきゃ……」
 ここに座り込んでいれば、何にせよ助かる道はない。
 スウェナはよろよろと立ち上がり、萎えた足を叱咤して、またどうにか歩き始めた。
 時間の感覚はとっくに狂っている。薄暗いだけでもう朝なのか、それともまだ真夜中なのか。
 次第に頭がぼうっとしてきて、スウェナは自分が歩いているのか、もう立ち止まっているのかすらわからなくなっていった。
「母様……スウェナも、もう、そっちへ行くかも……」
 夢とうつつの間をいったりきたりで、スウェナの目の前を死んだはずの実の母親がちらちらしはじめる。
 眠たくてお腹がすいて辛い。この辛さが続くのならば、倒れて込んでもう二度と立ち上がれなくてもいい――などと、スウェナがうっすら感じ始めた時。
「……え……?」
 唐突に、ぱあっと目の前が開けて、スウェナは驚いた。
 暗かった視界が急激に明るくなり、無意識に片腕で目許を庇う。
 しばらくすると少しだけ明るさに目が慣れてきたので、そっと腕を顔の前から退かした。
 そして目前に広がる風景に、疲れも空腹も瞬間的に吹っ飛んだ。
 暗くて深い森が急に途切れた先に、大きくて澄んだ湖が見えたのだ。
(きれいな水……)
 よろぼいながら、スウェナはその湖に向かって進む。
 途切れた森のすぐ向こうはゆるやかな谷になっていて、途中何度も滑り落ちながら、最後には這うようにして水辺に辿り着いた。
「……」
 あとはもう、夢中になって水の中へ手を差し込み、ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲む。
 湖の水は冷えていて心地よく、気がすむまで喉の奥に流し込んでから、眼鏡を外し、今度は勢いよく顔を洗った。
 そのうち自分の体の汚れが気になってきて、水底が低いのを確認すると、スウェナは思いきって服を着たまま湖の中に飛び込んだ。
「ああ、気持ちいい……!」
 爽快だった。この一日半、木の葉に溜まった濁った雨水で喉を湿らせることしかできなかった仇をめいっぱい取ってやった気分だった。
 お下げをほどいて、頭から湖水に浸かる。
 水は本当に綺麗で、目を開けたまま中に潜ると、ずっと向こうの方まで見渡せた。
 ざばっと音を立てて湖面から頭を出し、動物のように頭をふってその水を髪から払うと、スウェナは改めて辺りを見回す。
 湖はとても大きく、向こうの岸が靄で霞んでいるほどだった。
 岸辺には柔らかい苔のような植物が敷き詰められ、見たこともない草が、赤や桃色の綺麗な花をつけている。
 スウェナがやってきた森から続く谷を除けば、岸の周辺はごつごつした岩の壁で覆われていた。岩の向こうに何があるのか、スウェナの背では見ることができない高さだ。
 岩はひとつの塊ではなく、いくつか重なるように連なり、まるで慎重に湖を鎧うかのような形だった。
 空を見上げると、明け方のように明るいのに、白い靄に覆われて空は見えない。雲ではないようだった。湖の水が蒸発して霧ができているのかしらとスウェナは思いながら、水に浸かったままざぶざぶ歩き出す。
 こんなに綺麗な水のあるところなら、食べられる草の実がなっていないだろうかと思ったのだ。
 しかししばらく湖のふちに沿って歩いても、苔の他に目につくのは蜜も大して取れなさそうな花と、よくよく調べると茎や葉が小な固い棘に覆われた草だけだった。
 湖の中には魚の影もない。
(へんな湖……)
 がっかりしながら、それでも綺麗な水が飲めただけマシだと自分に言い聞かせ、スウェナはようやく湖の中から上がった。頭まで水に浸かったせいで少し肌寒い。地形のせいなのか風がないのは幸いだった。
 濡れた靴で踏みしめた苔の地面は柔らかく、まるで上等な絨毯が敷き詰められているようだった。
「ここで少しだけ、眠ろうかしら……」
 スウェナの胸は、不思議な安心感で包まれていた。森の中で感じていた、獣や魔属への怯えはすっかりなりをひそめている。
 水辺なのだから水棲の魔属に襲われる心配をしたってよさそうなものだったが、疲れているせいか、別の理由からか、そんなのはまるで気にならなかった。
 眠たくて、気が遠くなってくる。
 ぼんやりした頭でも、可愛らしい花を踏んでしまうには忍びないと感じて、自分が横たわっても大丈夫そうな場所を探してふらふら歩いているうち、スウェナは湖を囲う岩の方へと近づいていた。
 その岩が、一部変色しているのに気づいて、スウェナは首を傾げた。
 他のところは灰色なのに、ひとつの大きな岩だけ、紫と赤を混ぜたような色になっている。変わった苔でも生えているのかと思いつつ、なぜその岩だけが……といぶかしくなって、手に持ったままだった眼鏡をかけながらさらにその方へ近づいた。
 別の大きな岩になって、半分くらい赤い岩は隠れている。
 苔を踏みしめながら赤い岩に近づき、何の気なしに表面に触れたスウェナは、その肌触りにぎょっとした。
「う、動いて……!?」
 岩肌はかすかに震えていた。
 しかも感触はあきらかに岩ではない。
 石のように固くはあるが、もっとなめらかで、冷たくて――
「……」
 どうしてそんなことをするのか自分でもわからないうち、スウェナはその表面にそっと頬を当てていた。
(脈打ってる……)
 どく、どく、と奥の方から音が聞こえた。
(鼓動……?)
 ぼうっとした頭で、スウェナはしばらくその音を聞いた後、やがて頭を起こすと掌でそれに触れながらゆっくりと歩き出した。
 表面を辿るように撫でているうち、スウェナは次第に怪訝な気分になってくる。
(変な形……)
 岩はまるで巨大な翼のような浮き彫りに包まれた形をしている。
 翼の下には、スウェナの体まるごとよりも太くて大きな腕のような彫り込みがある。
 腕の先に鋭い爪のような形の尖ったものがあり、鈍く光を放ってる。
 腕の上に載せられているのは、鰐に似た形の、それよりもずっとずっと大きくて獰猛そうな顔。
 両眼の瞼は閉じられ、赤紫に映える白く巨大な牙と牙の間から、妙に安らかな寝息が漏れている。
(……息……を、している……?)
 歩きながら、それらをひとつひとつ部位確認したのち、スウェナはようやく、自分の触れているものが『何』なのかに思い当たった。
「ド……」
 ひとこと息を吐き出した後、ひゅっと、高い音を立てて息を吸い込む。
(ドラゴン……)
 絞り出したつもりの声は、音にはならなかった。
 数歩よろめいて後ろに下がって見遣れば、小山にすら感じる大きさの、それはたしかにドラゴンだった。
 初めて目の当たりにするが、魔法学校の教科書で絵は見たことがある。
 魔属の中でも最高級の魔力と知能を持ち、そして人間に対する、人間以外のもっとも驚異となる存在。
 すとんと、スウェナはその場に尻もちをついた。
 恐怖よりも驚愕のあまり、膝から力が抜けてしまったのだ。
 自分の何倍も、何十倍にも見える大きさのこのドラゴンが、居眠りからさめたら。
(殺されるわ、わたし)
 竜属は人間を嫌う。嫌うが、弱くて相手になりはしないので、わざわざ人の群れに飛び込んで襲ってきたりはしない。人間も、決してドラゴンの国や群れに自ら入り込むことはない。
 なのにスウェナは、自分からドラゴンの鼻先まで近づいてしまった。
 ドラゴンが眠っているうちに逃げなくてはと思うのに、スウェナは座り込んだまま体が動かなかった。
 驚きすぎたせいか、自分でもわからないほど怯えているせいか、それとも歩きすぎて疲れたせいか。
 ただ呆然とドラゴンを見上げていたスウェナは、ふと、その体から妙に心惹かれる香りが漂っていることに気がついた。
 何かしら、と思わず香りの元へ目を凝らす。
 ドラゴンは片腕の中、腹の下に何かを抱え込んでいた。
 乳白色に輝く丸いもの。スウェナの頭ほどはある大きな塊。
(……竜珠?)
 そこから、やたら滅多にいい匂いがしているのだ。
 逃げることもままならない体なはずなのに、スゥエナは無意識のうちに腕と膝を使ってドラゴンの方に近づいていく。
「何て、いい匂い……」
 ずるずると這いずって、いつの間にか恐怖心も忘れ、大きな竜珠のそばに辿り着いた。
「何て……おいしそうな、匂い」
 夢見るように呟きながらスウェナがそっと手を伸ばした刹那、竜珠がひときわ派手に輝いた。
「……!?」
 大切そうに抱きかかえていたドラゴンの腕から、光と共に竜珠が飛び出してくる。ドラゴンの瞼が開く気配はない。
 スウェナが目を見開いているうち、竜珠は爆発的に輝きながら彼女の方へ近づいてくる。
(駄目、おいしそう……)
 スウェナはその珠を両手で掴み取ると、空腹に乾いた唇をつけた。
 スウェナの唇から口中、喉の奥を、温かく、たとえようもなく『おいしい』ものが滑り降りていく。スウェナは夢中になってそれを飲み下した。
「ん……っ……んん……」
 あっという間に、竜珠は光と共にスウェナの体に呑み込まれていった。
 スウェナの体中を、いい知れない熱と快感が満たしている。
 まるで特別なご馳走を食べて、温かな湯に浸かり、ふかふかの布団にくるまって眠る時の幸福がいっぺんに訪れたような、どうしようもない幸福感を味わった。
 ぞくぞく震えながら恍惚と目を閉じているうち、スウェナに呑み込まれてなお放たれていた珠の光が収まり、昂揚していた少し気分が落ち着いた。
 それでもまだうっとりとしたまま、ひとつ溜息をついたスウェナは、ふと自分の体から空腹も疲れも吹き飛んでいることに気づく。
 脚の感覚も戻っている。自然と立ち上がることができた。
「竜珠の力……?」
 ドラゴンの持つ宝珠には、万病に効く魔法の治癒力が秘められているのだと、学校で習った。
(だったら、お父さんに持って帰ってあげればよかった!)
 そう思い至っても、遅い。
(……というか……そもそもこれは、わたしのものじゃなくて……)
 ドラゴンは、スウェナの目の前で、相変わらず安らかに眠っている。
 その寝顔を見た途端、急激に我に返ったというか、血の気が、引いた。
(わたし――わたし、何てことを……!)
 ドラゴンが目を覚まし、大切な竜珠を奪って、よりによって食べてしまったのが自分だと知れば、間違いなく殺される。
「ご……ご、ご、ごめんなさい……!」
 竜属は残虐な性だ。どんなひどい目に遭わされた挙句に殺されるのか、と考えたら、ようやくスウェナのうちからとんでもない恐怖が沸き起こってきた。
「ごめんなさい、ごちそうさまでした……!」
 悲鳴のように叫んでその場から身を翻す。
 これも竜珠の恩恵なのか、びしょぬれだった髪も服もすっかり乾き、疲れの癒えた体は一度も転ぶことなく湖から森へ続く斜面を登り、スウェナはそのまま一目散に森の出口へ向けて走り出した。

失恋竜と契約の花嫁

Posted by eleki