エピローグ
いや、感じた、というのか――。
（もう見えないわ）
視覚はどうの昔に失っている。瞳自体をもう持たなかったからだ。
見える代わりに、だから感じる。五感ではない部分が彼らの幸福を、満たされた心を感じる。
（よかった）
あの寂しがりの竜が幸福になることだけを、もしかしたらこの三百年近く、祈り続けていたのかもしれない。
それがただ、自分という人間の意識をこの世界に留めていたのかもしれない。
（もう大丈夫）
これからは、人でも魔属でもない存在として、ただ知識の海をたゆたうだけになるのだろう。
人格も失ったまま、すべてを識り、契約どおりメルディアを守る結界を造り続け――これからが本当の永遠だ。
だがそれはちっとも怖くなかった。
（あなたたちのいる場所を、守るよ）
あの竜のことも、それに寄り添う少女のことも、心から愛しいと思える。
それが自分の幸福。
『でも、なぜ、こんなことになってしまったのかしら』
拡散し、消失しようとする意識の中で、ふと彼女の言葉を思い出した。
ふふ、と体のない自分が笑った感覚。
（覚えていないのね。あたしは、知っているけど……）
永遠の眠りに就く直前、その一瞬、最後に魔女は思い出した。
『今』からほんの少し前、たった十年昔のことを。
◇◇◇
小さな少女が泣いていた。
まだ四、五歳。人間の子供だ。
真夜中、寝間着のまま裸足で、泣きながら夜の道を歩いている。夜に怯えて、孤独に怯えて、泣くことしかできずに、行く宛もなくさまよっている。
『おかあさん……おかあさん』
彼女が呼ぶのは、もうこの世にいない者の名だった。
『おかあさん、帰って来て……いい子いい子って、して……』
坂道を登る。その先にある崖のことを、子供は知らない。
『ひとりはやだよ……もうやだよ……』
啜り上げながら、小石や落ちた枝で傷ついた素足を引きずるように歩く。
自分がどこを歩いているのかは、子供にはもうわからない。家を出てずいぶん歩いた。実際は子供の足だったから、そう遠くへは来ていなかったのだけれど――『遠いところへ行った』母親に、もうすぐ会えるんじゃないかと、その期待だけが疲れた体を無理に動かしていた。
その足許がなくなったことに、彼女は、すぐには気づけなかった。
がくんと体が崩れる。踏み出した足が、あるべき地面を探せず、落ちた。
『――！！』
悲鳴も出なかった。切り立った高い崖。下は深い森。頭から、真っ逆さまに落ちていく。
言葉にならない感覚で迫り来る死を理解し、恐怖に竦む体に向けて、その時一直線に向かってくる黒い塊があった。
塊は竜の形。翼を広げて、自分の背で、落ちてくる子供を受け止めた。
『！？』
突然現れた大きなごつごつした床に、子供がびっくりしたように目を見開く。
『何をやっている、人間の子供が』
怒った声が、夜の空気に伝わって、子供の耳をびりびりと震わせた。
『たまたま俺がみつけたからよかったものの、あのまま下に落ちていたら、肉片も残らず飛び散っていたぞ、勿体ない！』
叱られて、子供はびっくりした目のまま、自分がへたり込んでいるその背に触れた。
『ドラゴン……』
本でしか見たことのない、上級魔属。
少女の呟きを聞き止めて、チッと、竜は舌打ちする。泣くな。きっと泣く。助けてやったのに人間という軟弱な生きものは俺のこの強そうな立派な姿を見て絶対泣く。
竜が身構えた瞬間、その背の上で人間の少女が大声で泣きじゃくり始めた。それ見たことか。
『その辺で下ろしてやるから泣きわめくな、うるさいガキだ』
『いやあ！』
だが彼女は竜にとっては意外にも、強い声で拒絶して、その場に伏せた。まるで竜の背にしがみつくように。
『帰らないもん、わたし、絶対おうちになんか帰らないもん！』
『帰らないと言われても』
『おうちには新しいおかあさんがいるの。おかあさんはわたしのこと嫌いだから、いっつも叱ってばっかりいるの。わたしが失敗すると、そんなことじゃだめっていっぱい怒るの。だから帰らない、帰ったって、おかあさんは怒るし、おとうさんを困らせるだけだもの。そんなのいやだもの』
『……』
わあわあと泣いている少女に、夜空を飛びながら、竜は狼狽えた。
魔属のくせに、人間が好きで、人間を決して傷つけることができず、人間の子供が死に瀕しているのを見過ごせずについ助けてしまったものの、もう長い間人間と直接触れ合ったことのない竜は、人間を慰める言葉を知らない。
『ひとりはいや、ひとりはいや、おかあさんのとこに行きたい……』
痛切な悲しみが、竜の硬い皮膚から、その中へと伝わってくる。
『泣くな、子供』
その悲しみに狼狽える自分に苛立って、竜が声を上げる。
子供は怯えて体を揺らし、それでも、竜に縋るようにその背に伏せたまま。
『おまえは今ひとりではないだろうが。俺がいるから、泣くな』
『……』
小さくしゃくり上げながら、そっと、子供が体を起こした。
『……一緒にいてくれる……？』
『ああ、おまえの気がすむまでな』
子供を泣かせたくない一心で、よけいなことを言ってしまった。竜は悔やむが、遅い。背中で、少女がぱあっと笑顔になった。
『あなたは、何ていうお名前なの？』
新しくできた友達が嬉しくて、笑いながら少女は訊ねる。
竜は飛びながら、溜息をついた。
『メリル・マディナータ・メレル。人間の子供なんぞに教えてやるには勿体ない立派な名前だが、特別だ』
『メリ……ル……マディナー、タ、メレ……ル……』
長くて難しい名前を、覚えようと口の中で繰り返した少女の声は、風を切って空を飛ぶ竜の耳には届かなかった。
『わたしのそばに、いてくれる……？ わたしが寂しい時に、助けに来てくれる……？』
『わかったわかった、必要になれば、飛んで来てやる。おまえが寂しい時にも、おまえが命の危険にさらされた時も、助けてやる』
どうせ人間の、それも子供の記憶なんて曖昧だ。今だって眠たそうに目を擦り始めている。
きっと今起こったことは、朝目覚めれば夢の中のことだと忘れてしまうだろう。
どうせ弱くて儚い人間なんて、自分が瞬きした間に死んでしまう。自分だって覚えておく必要なんてない。覚えるだけ……忘れられず、辛い。
そう思って、深く考えようとせず、竜は請け合った。
――だから、竜も、少女も、気づきもしなかった。
その時に契約は結ばれたのだと。
誰にも、自分でも知らずにその体の中へ強い魔力を秘めた少女が、魔属の中でも強い力を持つ水竜を支配下に置いたなどいうことには。
その時からすでに、強力な使い魔を持ってしまった彼女が、その後いくら願おうとも、彼よりも格下の魔属と契約できなくなってしまったのだが――それももちろん、気づかない。
知っているのは、この世でたったひとり、すべての知識を得ている魔女だけ。
どこかで魔女が笑っていることにも気づかず、竜は背に乗せた少女が泣き止んだことに安堵して、またそっと息を漏らした。
『おい。おまえの名は何という』
どうせあと数時間、夜明けまでのつき合いだが、その間呼びかけに困るのも面倒臭い。名前を聞いて、家の場所を聞いて、夜明けの前に送り返せばいい。
そう思って訊ねた竜に、濡れた頬をごしごしと腕で擦りながら、少女が笑った。
『わたし、スウェナ』
それは本当にほんの少し前――永遠を生きる魔女にとっては瞬きの間、けれども幼い少女にしてみれば、眠りの狭間に見た夢として記憶に紛れてしまうのに充分な時間を持つ、昔のこと。
そして、契約は果たされた。