【9】夢は優しく、懐かしく

「やめろって、なぜ?」
 笑いながら、彼女が言った。
 赤茶けた長い髪、男物のローブの上からでもわかるガリガリに痩せた体、化粧気のまるでない顔は日に焼けてそばかすが浮いている。
 お世辞にも美人だなんて言えない姿だったのに、それでも彼女の強い瞳や、明るい表情から、メリルは目を離せなかった。
 いつも、いつも。
「そこまでする理由が理解できん。どうして人間のためなどに命を投げ出そうなんて思えるんだ」
「あたしも人間よ。それに、死にに行くわけじゃないわ。永遠に生きるの。生きて……この世の知識すべてを自分のものにする。ああ、考えるだけでもぞくぞくする」
 ジャニスは自分の細い体を腕で抱いて、言葉どおり小さく震えた。
 自分が選んだ運命に対する怯えではなく、期待のせいで湧き起こる、武者震い。
「……おまえは頭がおかしい」
「ふふっ、そうよ、みんなそう言ってる。勉強中毒、仕事中毒で、狂ってるってね。でもそれが何? あたしはあたしのしたいことをする。誰にも邪魔はさせない」
 怒らせようとした自分の台詞を笑い飛ばされて、メリルはひっそりと溜息をついた。
たかが(ヽヽヽ)国ひとつ守るだけで、あたしの仕事を邪魔しないでもらえるの。そんな理想的な状況があって? 今は他人の命令で魔物の討伐や、人との戦争にいちいち駆り出されるのよ。そんな毎日から解放されるなんて、何て素敵」
 国ひとつの運命をたかがと言い切って、ジャニスは夢見るように頬を紅潮させている。
「――そうだな、俺に会いに来ることなんかより、魔法の勉強をしている方が楽しいんだろうな、おまえは」
「あら」
 憮然と呟いたメリルに、ジャニスがびっくりしたように目を見開いた。
「あたし、あなたを討伐しに来たわけじゃないわよ?」
 ジャニスと最初に会ってから、もう十年。
 戦ったのは最初の二、三ヵ月だけだ。あとはずっと、彼女はメリルと会う時に使い魔は連れてこなかったし、メリルはドラゴンの姿ではなく人間の姿で彼女の前に出た。
「勉強の合間の息抜きに、遊びに来てるの。友達だからね」
「何が友達だ、誰が人間なんかと馴れ合ったりするものか」
 不快そうに顔を歪めるメリルを見ても、ジャニスは小さく笑いを漏らすばかりだ。
「メリルがあたしのこと、心配してくれるのは嬉しいんだけど……」
「だから心配なぞしとらん、おまえの愚かさに呆れているだけだ」
「誰に何て言われようが構やしないわ。あたしは自分の選んだ道を行く。それでやっとあたし、自分が生きてるって思えるんだもの」
「……」
 ジャニスは出会った最初から、表情に翳りがない。魔物を討伐する魔法使いとして対峙した時は、恐れのない凛とした顔でメリルから目を逸らさなかった。
 こんなに強い人間がいたのかと、その魔力だけではなく魂の在り方に心が揺れたのは、メリルが生きた数百年の中で初めてのことだった。
「知識を得るために長く生きたいのなら、他に方法がある」
 少しの間黙り込んだ後、メリルの方から沈黙を破った。
 ジャニスがこの国の王からの依頼で、国を守る人柱――彼女はその表現を否定するが、メリルにはそうとしか思えない――に立てられると聞いてから、ずっと考えていたことを口にする。
「俺の魔力を少しずつ分ければ、永遠とは言えないが、俺たちの種族と同じくらいは長く生きられる。それでも人間の数十倍だ。人間のためなどに体を失わなくとも、そうすればおまえは自由にどこにでも行ける」
「……」
 じっと、ジャニスがメリルの顔をみつめていた。
 メリルはその視線に耐えられず、ずっと見ていたいと思っていた彼女の瞳から目を逸らした。
「俺と共に来い。俺がどんな災厄からでも守ってやる。おまえが望むことすべてを、俺が守ってやるから」
 さらに言い募ろうとしたメリルは、そっと、腕に触れられて言葉を失った。
「……ありがとう、メリル」
 ジャニスの指先はメリルに優しく触れる。
 魔属として生を受けてから、こんなふうに体に触れてくる人間など、彼女の他には存在しなかった。
「でもね、あたしは本当に欲深いの。強欲で、きっと不遜だわ。自分ひとりの欲望を果たすだけでなく、あたしと同じ境遇にある子供たちを救いたいと思ってる」
 そっと視線を再び向けると、ジャニスはメリルの知る限り、初めて悲しそうに目を伏せて微笑む仕種をした。
「あたしは孤児なんだ。生みの親に捨てられ、拾い親に売られて王宮に来た。魔法を持ってる子供はお金になるからね。王宮では動物みたいに扱われた。ろくな食事も与えられず、寝る時間を削られて、それで魔物と契約して、魔物を殺すんだよ。動物でもないかな。ただの兵器としか見られないの、兵士ですらなく」
「……」
 人間の世界の不平等さは、魔属であるメリルも知っている。
 魔属の世界はシンプルだ。強いものが偉い。弱ければ死ぬ。
 なのにジャニスたちの世界では、彼女のように強い力を持っている人間でさえ、身分とか、財産というものの前では、膝を屈しなければならない。
「あたしの永遠と引き替えに、魔法を持つ子供たちを集めて教育する場を作るように約束させた。魔法使いは貴重だから、もっと丁重に扱うように、人として生きられる地位を与えるように。……そうしなければ、あたしの友人たちみたいに、いいように使われてたくさん死ぬわ。この先ずっと」
 魔物と戦うことも、契約することも、魔法使いにとっては命懸けだ。だがそれを命じる方は気楽だった。失敗しても、自分の体も国の懐も痛まない。魔法使いはまた生まれる。
 だからまた捜して買ってくればいい。短剣(ナイフ)一本にも満たない値段で。
「あたしが国にとって貴重な存在になれば、魔法使い全体の地位が上がる。そうしたら、親からも疎まれて気味悪がられて、捨てられる子供たちの行き場ができる。……今それができるのは、あたしだけなの」
 ジャニスの言葉は最後まで揺るがなかった。
 メリルの腕を、ジャニスの両腕がぎゅっと抱く。
 敵に襲われたわけでもないのに、たったそれだけの仕種で、メリルは心臓を抉られたような痛みと息苦しさを覚えていた。
「ごめんね、メリル。あたしはあなたを選べない」
「俺が魔属だからか」
「――」
 じっと、ジャニスがメリルのことを見上げる。
「いいえ。あたしが、人間だから」
 もう一度腕に力を籠めてから、ジャニスがそっとメリルのそばを離れた。
「さよなら、メリル・マディナータ・メレル。あたしにはもうあなたしか友達がいない。人間のあたしと、仲よくしてくれてありがとう」
「……っ」
 言い返したいことが、山ほどあった気がする。
 けれどメリルは声が出せなかった。
 あの時も――今も。
(今?)
「この世界も、あなたのことも、ずっと見てるよ、メリル……」
 夢の中にいるように、体が上手く動かない。もどかしい気分で手を伸ばす。
 まだ遠く離れてはいないはずのジャニスに触ることができなかった。
 必死で目を凝らすのに、その輪郭もぼやけてしまう。
「メリル、あたし……」
 悲しく微笑んでいる。はらはらと、その双眸から涙が落ちたような気がした。
 ジャニスが泣いている。
(いや――ジャニスは泣かない)
「メリル、わたし……」
 そばかすだらけの日に焼けた肌が、色を失う。ガリガリなのは一緒だったが、二十歳をとうに超えたジャニスよりも、よほど女性らしい曲線を部分的に持つ体へと、輪郭は変化していく。
「わたし、あなたを、助けたい」
 赤茶けた髪は、くすんだ金色へ。泣きべそで、頼りない表情に、メリルはもう一度手を伸ばした。
「あなたと一緒にいたいの、メリル。だから……」
 か細い声。叫ぶ時は大声なのに、話し声はいつも自信なさげで、小さくて、震えている。
 呆れるほど不器用で間が抜けていて、それでもいつも必死な少女。
(スウェナ)
 名前を心に浮かべたら、おぼろげだった輪郭が不意にはっきり繋がった。
「だから目を覚まして、メリル」
 手を伸ばす。スウェナも片手をメリルに向けて伸ばしていた。指先が触れる。――たしかな感触。
「メリル」
 名前を呼ぶ優しい声が、心地いいと思った。

失恋竜と契約の花嫁

Posted by eleki