【7】落ちこぼれ魔女、魔法が使えなかった理由を知る
スウェナは草すら燃やし尽くされた、禿げた地面に仰向けに転がり、ひゅうひゅうと音を立てて息をした。
「……目が覚めたか」
真横で声が聞こえた。
首を巡らせると、メリルも、スウェナと同じように地面に寝転んでいた。
「うん……」
メリルの声は掠れていたが、スウェナの声だって相当ひどいものだった。喉が灼けて潰れてしまったんじゃないかと思った。
「もう、指一本動かせん」
ぼやいたメリルの声音は、不機嫌でもなく、どこかおかしげな響きを持ったものだった。
「わたしも」
言いながら、でも、スウェナは腕を動かすことができた。ひどく億劫な気分でのろのろと右手を持ち上げ、顔に張りついた髪を指で剥がす。
(髪、焦げちゃった……)
火竜の焔は、水に抗いながらもスウェナたちの方まで降り注いでいたらしい。髪や服に火の粉がついたのか焦げ臭い。だが、ざっと見遣ったところ、自分の体に欠けている部分はなさそうだったのでほっとする。
「右手の指が三本吹っ飛んでたぞ」
スウェナが安堵の息を漏らしたら、その内心を読んだかのようにメリルが言った。
「えっ?」
「だがおまえが眠っている間に再生した。――もう少し休んでいれば、起き上がれるようにもなるだろう」
「……」
スウェナは、髪を触っていた掌で、そっと自分の胃の腑の辺りに触れた。
指が再生したのは、きっと、呑み込んだ宝珠の力のせい。
「ごめんね……」
喉が痛むせいだけではなく、スウェナは掠れた小声で呟いた。
「何がだ」
「わたしが宝珠を食べなければ、メリルがちゃんと、回復できたのに……」
「それは後できっちり仕返ししてやるから、気にするな」
メリルは目を閉じたようだった。
物騒な返答だったのにスウェナはまるで恐怖も感じず、ただ、何となく泣きたくなってその綺麗な横顔を眺めた。
そうしているうちに、また眠ってしまった。
◇◇◇
次に目が覚めた時は真夜中だった。
真っ暗な森の中で、目を開くと、自分たちの寝転んでいる辺りだけがぽっかりと丸くえぐり取られているせいで、夜空がよく見えた。
「綺麗な月……」
空の遠くで、金色の大きな星が光っている。
こんな夜は、魔物の動きが活発になる。その法則を思い出して、スウェナはもそもそと身を起こした。
(起きれたわ)
まだあちこち痛むし、ひどく怠かったが、自力で体を起こせた。
横を見下ろすと、メリルがまだ眠っている。夜の闇の中にいるせいでなく、顔色は前よりもずっとひどくなっている気がした。触れると肌が冷たい。その冷たさに、スウェナはぞっと震え上がった。
火で焼けてぼろぼろになった上着を脱いで、メリルの上にかける。それからスウェナは立ち上がると、夜目が利かずに何度も転びながら薪を集め、メリルから少し離れたところで火を焚いた。
(お水、なくなっちゃったのよね)
気づけばメリルの背にスウェナの荷物はなかった。火竜に灼かれてしまったのだろう。スウェナが持っていた水の革袋は腰に下げていたひとつきりだ。また湧き水にでも出会わなければ、乾涸らびてしまう。
(きっと、メリルにはたくさんの水が必要だわ)
自分はどうやらまだしばらく飲み物も食べ物も口にしなくて大丈夫そうだ。
だがおそらく、火竜と戦った水の性のドラゴンであるメリルには、水が不可欠だろう。
(……探してこよう。お水も、食べ物も、薬草も、みつなくちゃ)
そう迷うこともなく決意して、スウェナは薪のひとつに手を伸ばそうとした。明かりを頼りにして、水のある場所を探さなくてはいけない。
だがスウェナの動きを阻むように、その手を掴まれた。
「どこへいく」
メリルが目を覚ましていた。弱々しい力がスウェナの手を握っている。
「ここにいろ」
「……」
スウェナはメリルの眠たそうな瞼をしばらく見下ろしてから、頷いて、そのそばに座り直した。
(メリルがもう一度眠って……空が、少し明るくなったら)
心の中で言い訳をする。メリルの手を振り解いてそばを離れるなんて、今の自分にはきっと死ぬより辛い選択だ。
(……変なの、さっき本当に死ぬ目に遭いかけたのに……それより辛い、だなんて)
「笑っているのか」
メリルはスウェナの手の甲に触れたまま、目を閉じた。
「うん。生きてて……わたしも、メリルも、こうしていられて、よかったなって思って」
「そうか」
呑気だとか、誰のせいでこんな目に遭っているのかとか、スウェナが予測した罵倒はメリルの口から吐き出されることはなかった。
ちょっと、調子が狂ってしまう。
ジャニスの話をした後からメリルが優しくて、嬉しいのに、胸が詰まって困ってしまう。
「メリル……お願いがあるの」
込められた指の力で、彼がまだ起きていることをたしかめながら、スウェナはぽつりと呟いた。
「何だ」
「また、名前で呼んでくれる?」
「……何だ?」
メリルの声音が少し怪訝な調子に変わる。
「スウェナって。さっき、呼んでくれたでしょう? ずっと『貴様』とか、『おまえ』とか、そういうふうだったから……」
「スウェナ」
すぐに、メリルの返事があった。
「……」
スウェナはそっと自分からも、メリルの指に指を絡めた。
(泣かないって、決めたのに)
嬉しくて泣きたくなるなんていう気分を、スウェナはもうここ何年も味わったことがなかった。
「……スウェナ?」
「……ありがと……」
泣いているのに気づかれないように、スウェナは声を絞り出した。
もしかしたらメリルは気づいているかもしれないが、そのことに触れる気配はなかった。
しばらくの静寂。
冷たいメリルの指の感触を味わいながら、スウェナはちろちろと揺れる焚き火の方を見遣った。
少しの火なら安心するのに、その赤さから火竜の吐き出す焔を思い出し、スウェナは小さく身震いする。
「ねえ、どうして、わたし……あんなことできたのかしら」
そしてあの恐ろしく強大な火竜を追い払ったことは、夢の中のできごとだったかのように、信じがたい。
「感じたわ。わたしあの時、魔法が使えたのよね。魔法を使って水を生んで……そして、あなたの力を借りて、その水を火竜にぶつけることができた」
自分の中にたしかに魔法があること、それから自分がメリルと行った『契約』が有効であったことを、スウェナはあの時全身で感じていた。
「あなたを従わせることなんてできなかったはずなのに。どうしてあの時は……」
五年間、学校でいくら努力しても、ささいな魔法すら使えなかった自分。
その自分の手を、スウェナは不思議な気分で眺めた。
「……おまえの魔法の性質は、たぶん」
少しの沈黙の後、メリルが口を開いた。スウェナはその目を閉じたままの端正な顔を見下ろす。
「おまえ自身のためには使われることのないものなんじゃないのか」
「わたしの魔法の、性質……?」
「俺が水であり、さっきの忌々しいドラゴンが火の性を持つというのとは、また違った意味で。魔法の指向性というのか……俺がおまえと……スウェナと契約した時のことを、思い出してみろ」
「契約した時……」
言われるまま、スウェナはその時の場面へ心を巡らせる。
家の中、家族がいて、夜にメリルがやってきて、竜珠を『出す』ように言った。
「ひどいわよね、仮にも年頃の女の子に、あんな……」
「そこじゃない、もっと後だろう。『出す』のは無理だというから、では引き裂いてやろうと脅した時に」
怯えるスウェナを、両親が庇ってくれた。
そしてメリルは、スウェナよりも先に父親を襲おうとして――
「……そうだわ、お父さんが殺されると思って、それで、必死で……」
「父親を庇おうとした。その瞬間、スウェナの体の中から強い魔法の力が溢れてくるのを感じた。それで気づいたらこの為体、だ」
為体とは、契約が成立して、スウェナに体や魂を呪縛されてしまったことを指しているらしい。
だがメリルの口調は口惜しげでもなく、穏やかな響きだった。
「人間は、魔法の力を持つ子供を学校に集めて教育するんだったな。スウェナは最初、なぜその学校に行くことになった?」
「最初は……そうだわ、近所の小さな女の子が、魔物に襲われて。助けなくちゃと思って、夢中で……魔法で追い払うことができたの。誰でも教わる、護符を使った簡単な魔除けのおまじないよ。それを使ったら、恐ろしいラミーだったのに、他の魔属との契約もなく追い払えて……それで」
「やはりな」
ふと、メリルの口許が笑う。
「だから言ったろう、スウェナに魔法がないわけがないと。さっき溢れてきた魔法の力がどれだけ強かったのか、自覚があるのか?」
「でもそれは、メリルが助けてくれたからだわ」
スウェナにはそう確信があった。メリルはあの時、契約にねじ伏せられて嫌々助けてくれたわけではない。
「……俺だって、死にたくなかったからだ。俺は魔属だ、魔属が利己的な理由以外で戦うことなんてない」
魔物としてはもっともな言い分を、スウェナはしかし信じられなかった。
あの時メリルは、自分の身だけではなく、たしかにスウェナを救うために魔力を使った。
そのために、疲れ傷ついて枯渇していた魔力の最後の一滴までを絞り出そうとした。
スウェナがそうであったように。
「……あなたを癒やしたいわ、メリル・マディナータ・メレル」
魔法使いが魔法を使うには、媒介となる要素が必要だ。火を生むなら火種が。水を生むなら水滴が。
今のスウェナには薬草のひとつもない。だから癒やしの魔法は使えない。
それでも、メリルの指をぎゅっと握りながら、その傷が癒えるよう祈らずにはいられなかった。