【5】ドラゴン、伝説の魔女の話をする

 翌日にはメリルの腕の傷が完全にふさがり、顔色もぐっとよくなった。
 それでももう少し休んでいた方がいいのではとスウェナは不安になったが、一刻でもジャニスのところに行きたいと言うメリルに強く反対することができず、再びふたりで森の中を歩き出す。
「魔女ジャニスとメリルは、これまでに何度も会ったことがあるんですか?」
 杖をついて歩きながら、スウェナは少し前を行くメリルの背中に訊ねた。
 メリルの足取りは倒れる前より少し遅く、ついて行くのがスウェナにはさほど苦ではなくなっている。
「……大昔」
 メリルの声音は、いつも以上に不機嫌そうだ。まだ具合が悪いんじゃないかと、スウェナはやはり不安を覚えた。
「もうずっと昔のことだ。最後に会ったのはあの女がまだ人間の形をしていた頃……もう二百七十五年にもなるのか」
 妖魔はずいぶん細かく年月を覚えているようだった。
「あいつは俺を封じに来たんだ、忌々しい」
「封じられるような悪さを、人間にしたんですか?」
 訊ねたスウェナを、メリルが顔だけ振り返ってじろりと睨んだ。
「ただ生きていただけだ。腹が減ったら目についた人間を喰うし、自然に成っていようが人間が世話していようが植物も喰う。人間だって家畜を育てるくせに口ばっかりはご立派で腹が立つ。俺は人間ほど悪趣味ではないから、自分の餌として集めた人間を増やして、育てた挙句に殺して喰うようなことはしない」
「……」
 スウェナが相槌を打ちがたく黙ってしまうと、メリルはふんと鼻を鳴らしてまた前を向いた。
「俺がいつもどおり手近な人間の村で餌を喰っていたら、あの女が現れたんだ。すぐに殺してやってもよかったが、あいにくその時満腹でな。からかうつもりで、話くらいは聞いてやろうという気になった」
 メリルは饒舌だ。スウェナをからかったり、罵ったりする時以外に彼がこんなふうにたくさん話すこと――こんな淡々とした口調で話すことも、これまではなかった。
「それまでも何度か人間の騎士やら、魔法使いやらが戦いを挑んで来たことはある。大抵、俺が翼を一振りしたら、腰を抜かして泣き叫んだ。だがあの女は違った。俺が間近に来ても、怯みもしないで、俺のことをきつい目で睨みつけて……」
「強い魔法使いだったんですね」
「まあ思い上がっていたのはたしかだろうな。だがそれだけではない。あの女にはやたらな矜恃があった。相手が魔物であろうと、人間であろうと、自分以外の存在に屈しはしないという生意気なプライドだ」
「……」
 スウェナはまた、言葉を返せなくなる。
(何かしら……胸が、痛いわ)
 杖を持たない方の手で、ぎゅっと服の上から胸元を押さえる。
「ひ弱な人間ごときがなぜそんな目をするのかと、興味を持った。すぐに殺してしまうのはつまらないし、その瞳の理由を調べた後で、あの女が泣き叫んで命乞いをするところを見てから殺して、喰ってみたくなった」
 残虐なことを口にしているのに、メリルの声音からはそんな雰囲気がまるで感じられない。
 昔を懐かしむような、おかしそうな、それでいて、どこか切なそうな調子だった。
(痛い、痛い)
 スウェナは胸の痛みだけでなく、息苦しさまで感じてしまう。
「だがあの女は最後まで泣くことも命乞いをすることもなかった。俺が餌を探して行く先々に現れては食事の邪魔をして、いい加減腹が立ったから、あいつの使役する魔物を片っ端から殺して喰ってやった」
 普通の魔法使いなら、いっぺんに契約できる魔物は一匹、強力な力があれば二匹を交代で従わせることができるという。
 伝説の魔女ジャニスは、歴史の中でただひとり、同時に複数の魔属と契約し、同時にそれを使うことができた人間だ。
「とうとう俺に多少でも抗えるほどの妖魔がいなくなったのか、ある日あの女はたったひとりで俺の前に現れた。ちょうどいい、その時は結構腹が減っていたし、こいつには面倒な目に遭わされたから殺してしまおうと思ったが……」
 メリルが一度、言葉を呑み込む。
 その続きを、スウェナは聞かなくてもわかる気がした。
「だが俺に対抗できる、対抗しようと思う人間なんて、あの女以外になかった。それを失えば、俺はずいぶんと退屈な暮らしに戻るのかもしれないと思ったら、急にやる気がなくなった」
 森の中を歩くスウェナに、近づく妖魔も、悪さをしたがる植物もいない。
 襲われないのはありがたいはずなのに、スウェナには今それが少しだけ恨めしかった。
(しなかったらよかったわ、あんな質問)
 もし魔物が襲いかかってくれれば、それと戦うためにメリルの話を聞かなくてすむのに。
 そう本気で考えてしまってから、スウェナは自分の思いにはっとした。
(いやだ、わたし……何を考えてるのかしら……)
 喉の奥がよけいに詰まって、苦しい。
「俺の気紛れもまあ相当なものだが、あの女の物好きもひどかった。俺はもう面倒臭くて人間を襲うのはやめてしまったのに、それでも俺のところに来るんだ。人間の作った野菜や果物や家畜の肉を持ってな。そうしなければ俺がまた人間の村を襲うと思っていたのだろうが……俺はもう、人間なんて喰う気はなくなっていたのにな」
 メリルが人間を食べなくなった理由も、スウェナにはわかった。
(ジャニスのことを好きになってしまったから、彼女と同じ生きものを食べられなくなったんだわ)
 それと同時に、メリルが人間である自分を手ひどく扱わない理由もわかってしまった。
(……ジャニスのことが好きだから、同じ人間のわたしに……優しくしてくれるんだわ)
 メリルには脅され、意地悪なことを言われ、さんざん馬鹿にもされたが、魔属が人間に対して取る態度にしては破格に『優しい』だろうとスウェナは思う。
「まあ狩りに行くのが面倒な時、向こうから勝手に食料がやってくるのは悪くない。だから好きにさせておいたら、そのまま十年……あっという間の時間だった」
(十年)
 最低でも千年は生きると言われているドラゴンにとって、それはたしかに瞬きの間のできごとだろう。
(わたしとは、一週間)
 もし魔女ジャニスのところで宝珠を取り出すことができた後、別れ別れになったとして、メリルはこんなふうに自分とのことも誰かへ語ってくれるのだろうか。
(無理ね。きっと、すぐに忘れられてしまうわ)
 力も気も弱くて、取り柄も特徴もなく平凡な女の子でしかない自分と、伝説の魔女なんて、較べることだっておこがましい。
「おい、さっきから人にだけ喋らせておいて、相槌くらい――」
 黙ったままのスウェナに気を悪くしたのか振り返って文句を言いかけたメリルが、そのままぎょっとした表情になった。
「何だ、また怪我でもしたのかおまえは」
「……痛いの……」
 スウェナは俯いて、歩けなくなっていた。痛むのは胸なのに、体全体に力が入らなくて、進めない。
「油断も隙もないな、どうやったらそう簡単に転んだりぶつかったりできるのか教えてもらいたいものだ」
 きっと呆れて先に行ってしまうと思ったのに、ぶつぶつ言いながら、メリルはそのままスウェナの方まで戻ってきてくれた。
「どこを痛めたんだ。血が出てるのか?」
 メリルに問われても、スウェナはただ首を振るしかできなかった。
 自分でも、いつどうやって怪我をしたかなんてわからない。
 ただメリルの口から出てくるジャニスの話を聞いていると、じくじくと、胸の中が細い棒でつつかれたみたいに痛くなるのだ。
「おい?」
「――大丈夫、大したことないから。行きましょう、早くジャニスのところに着かないとね」
 自分でもどうにもならない。答えようがなくて、スウェナは無理矢理に顔を上げて笑って見せた。
 メリルは不審そうな顔をしている。
「まあ、どうってことないならいいが」
 腑に落ちない様子のメリルが、前触れなくスウェナの肩に触れる。
 え、と思ってスウェナが硬直しているうち、メリルは彼女が背に負った大きな旅袋を、いともたやすく取り上げてしまった。
「メ、メリル?」
「こんなものを背負っているから歩くのが遅いんだ。貸せ」
 スウェナの返事も聞かずに、メリルは袋を背負ってしまった。
「待って、いいの、わたしの荷物だけなんだから」
「別におまえの負担を減らしてやるためじゃない。おまえの歩くのが遅くて迷惑してるから奪ってやっただけだ」
「でも」
「なら代わりにこれを持っておけ。邪魔だ」
 メリルが身につけていた真っ黒なマントを外すと、スウェナの頭の上にばっさり被せた。
 おかげで前が見えなくなって、スウェナが慌ててそのマントを頭から下ろした時には、スウェナの荷物を背負ったメリルがすでに先を歩き出しているところだった。
 先刻から、ゆっくりと気温が下がりつつあるのは、スウェナも感じていた。日が暮れ始めたせいだけではなく、森の中で、寒暖が不安定になる場所へ踏み入れつつあるらしい。
 スウェナは少し考えてから、メリルのマントを自分にかけた。ずいぶんと大きかったので頭からすっぽり被るような格好になって、それはとても暖かくスウェナを包んでくれた。
(……できることをがんばるって、決めたんじゃない)
 ジャニスと自分を較べても仕方がない。自分がジャニスになれないことくらい、スウェナにだってわかっている。
 決意したつもりだったのに、すぐに弱気になってしまう自分を恥じながら、スウェナは小走りにメリルの後を追いかけた。

失恋竜と契約の花嫁

Posted by eleki