【3】落ちこぼれ魔女、ドラゴンから旅の手解きをしぶしぶ受ける(3)
森の木漏れ日で目を覚ました時、いたはずのメリルの姿がそこになかった。
置いて行かれたのかと一瞬慌てたが、メリルはすぐに長い棒を手にしてスウェナのそばに戻ってきた。
「これを持っていろ」
手渡されたのは、地面につけば握った手が腰より少し高い位置にくる木の枝だった。太さはちょうどスウェナの親指と人さし指で作った輪と同じくらい。メリルはこれを探しにいっていたらしい。
「あの腹立たしい松明は捨てていけ。これを突きながら歩けば多少は楽だし、他にも役立つ」
スウェナはおとなしくその棒を受け取って、支度を終えると、歩き出すメリルの後ろをついていった。
重たい荷物を背負っているから、棒を杖代わりにして歩けばたしかに昨日よりもぐっと楽だし、倒木などの障害物を乗り越える時などはさらに都合がいい。それに進む先が草に隠れたぬかるみだということも、足を着くより早くわかる。
杖はスウェナの体にあつらえたようにぴったりの大きさだ。何て便利なんだろうと感動しながら、スウェナは先を行くメリルの背中を見上げた。
「メリル、あなたはいつもならドラゴンの体で、森なんて歩かなくてもその上をひとっ飛びなんでしょう? どうして杖が便利だって知っているの?」
ふと思いついた疑問を投げかけてみたが、メリルはすぐに答えなかった。聞こえなかったのかしら、それとも無視されているのかしら……とスウェナが判断に迷っているうち、やっと答えが聞こえる。
「ずいぶん昔に、そう言っていた人間がいたんだ。もう本当にずっと以前のことだがな」
メリルは不機嫌な声をしていた。
どうやらよけいなことを聞いてしまったらしいと、スウェナが萎縮していると、メリルが不意に立ち止まった。
「あの木」
それから、片手を上げて前方にある若木を指さした。
「その棒で幹を殴ってから、すぐに逃げてみろ」
「え、どうしてですか?」
「いいから」
何の意味がわるのかよくわからなかったが、スウェナは促されるまま、杖を両手に握り直すとそろそろとその木に近づいた。
若木と言っても、すでにスウェナと同じくらいの背がある。だがこの森はずっと昔からあるのか、樹齢の高そうな大きく立派な木ばかりだったから、それに較べればずいぶん小さくて幹も枝も細い。
スウェナはそっと、杖の先でその幹をつついてみた。
「殴れ、と言っているんだ」
言外に力が弱いと叱られ、スウェナは思いきって杖を振って、強く幹を叩いた。
「よし、逃げろ」
言われるまま、反射的に身を翻す。だが生来の不器用さが災いして、足許にあった大きな石に足を取られ、スウェナは地面に倒れ込んでしまった。
「きゃっ」
背後で、ぶわっと音が響いた。転んだまま、無意識に頭を上げて振り返ったスウェナは、目の前に赤い霧が吹きつけられるのに悲鳴を上げかけ、口を開いてはその霧を吸い込むだけだと辛うじて気づくと、慌てて再び地面に頭を伏せた。
両手で頭を庇ってじっとしているうち、音がやんだ。
「な、何なの……」
そっと身を起こす。座って自分の体を見下ろすと、背中に背負った袋やズボンの後ろが朱色に染まっていた。髪も濡れてしまったようだ。
「やだ、べたべたする、それに何か臭い……」
「本当に奇蹟的な間抜けだな、貴様は」
擦っても落ちない色と臭いにスウェナが慌てていると、呆れるというより感心したようなメリルの声が頭上から降ってきた。
「その種類の木に乱暴するとそういうことになる。覚えておけ」
「……って、もしかして、それを教えるためにわざわざ!? 口で教えてくれればいいじゃないですか、口だけ出すって言ったんだから!」
「まだ小さいやつで試させてやったんだ、ありがく思え。もっと成長した木を倒そうとでもしれみれば、樹液で固められて身動きが取れなくなって、臭いに惹かれてやってきた獣や魔物に骨まで喰われて終わりだ」
メリルは悪怯れないし、倒れたままのスウェナに手を貸してもくれない。
スウェナは杖で体を支えながらよろよろと立ち上がった。
「実際に身の危険を感じれば、いかな鈍い貴様でも反射的に動けるようになるだろう。おまえはこれまで見たところ、力は弱いが運動神経がないわけではなさそうだ。単に、本当に、どうしようもなく、他に比肩しようもないくらいドジでトロいだけであって」
「え、運動神経、あるように見えますか?」
スウェナは思わず、パッと顔を輝かせた。そんなことを言われたのが初めてだったので咄嗟に喜んだが、スウェナを見返すメリルは妙な表情になっていた。
(気休めとか、慰めだったのかしら)
だったらはしゃいでしまって恥ずかしい。
ただ昨日から、スウェナは少し嬉しかったのだ。
メリルはスウェナに魔力があるとも言った。自分のことは自分が一番わかっているつもりなので、スウェナはそれを鵜呑みにすることはもちろんできなかったけれど、誰かに自分の力を肯定してもらえることなんてもうずっとなかったから、そう言われた言葉を思い出すと気分が上向きになってくる。
「そうか、これを褒め言葉と取るのか……」
ぶつぶつ呟きつつ、メリルはきびすを返すと、再び森の中を歩き始めた。スウェナもそれに続く。
(メリルのことを信じて、ついてってみよう)
どっちにしろ、メリルが教えてくれなくても罠にはかかる。自分がどんな罠にかかったことすらわからなければ、次にそれを避けることもできない。今襲ってきた木に関しては、嫌というほど理解した。
その調子で、スウェナはメリルに言われるまま、一度足を取られたらなかなか這い出せないぬかるみとか、近づいたら小さな棘を放ってくる花とか、果実でおびき寄せて眠らせる蔓草とか、片っ端から体験させられた。
「やっ、やっ、ぱり、一回一回、実践するのは、どうかと、思うんです……!」
スウェナは息が上がりきって、すでに服も肌も泥まみれ、花粉まみれ、擦り傷だらけで大けががないのが我ながら奇蹟だと思うような有様だった。
「そろそろコツがわかってきただろう。俺に言われるままでなく、怪しいものは怪しいと自分で見分けられるようになれ」
一方メリルは涼しい顔だ。
半日で立て続けにいくつも罠に引っかかったものだから、たしかにスウェナはその特徴を掴んできた。
平地に突然現れる沼とか、やけに大きな花弁とか、きつすぎる香りとか、どれもこれも、『その場にあるのが不自然なもの』がおとりになっている。
その法則性に気づけば、魔力がなくったってやり過ごせそうだ。
「それにしても、あっちこっちに、あんまり罠がありすぎじゃないですか。メリルの体があった森だって、こんなにはなかったわ」
「近道だから仕方ないだろう」
「うう……あと、どれくらいかかりそうですか?」
「普通に歩けば三ヵ月」
途方もない日数に聞こえてスウェナは気が遠くなりかけたが、メリルの言い回しに『不自然なもの』をみつけて問い返した。
「『普通に』歩かない場合は?」
「……。うまくいけば一週間」
メリルはつまらなさそうな顔をしていた。スウェナがまた取り乱すのを見て楽しむつもりだったらしい。
「もっと近道をする方法があるんですか?」
「行けばわかる」
メリルはそう答えたきり、もう口を開かなかった。仕方なく、スウェナも黙って歩いていく。
この四日間でもっとも過酷な進行になっているせいか、スウェナはまだずいぶん陽が高いうちなのにすっかりくたくただった。
水が飲みたい、と思うが言っても仕方がない。起きた時に掻き集めた朝露を口に含んだだけでは到底足りないが、あとは水を手に入れる手段がなかった。
ないと思えばよけいに喉が渇く。
だから考えないようにしているのに、体は正直で、ただ歩いているだけなのにスウェナは苦しくて息が上がってきてしまった。
杖に、ほとんど寄り掛かるようにしながら、どうにか歩く。
メリルは相変わらず大股で早足で、次第に彼とスウェナは距離は開いていった。
歩くたびに頭がクラクラして、目の前が白くなる。もう駄目倒れる――とスウェナが杖や荷物を投げ出してしまいそうになった時、ふと目の前でメリルが立ち止まっていることに気づいた。
「……メリル……?」
「ふん。運がいいな」
メリルは片方の掌を地面にかざしていた。
「もう少し行ったところに水脈を感じる。涌き水程度だろうが」
森の中に入った時から、ひたすら一方へとまっすぐ進んでいたメリルが、初めて別の方向に道を逸れた。おそらく水の在処をみつけたから、遠回りしてくれる気になったらしい。
「ありがとう、メリル」
「別におまえのためじゃない。俺だってそろそろ喉が渇いていたんだ」
何にせよありがたい。スウェナは萎えそうになる足を叱咤しながら、メリルの後を必死に追いかけた。
小一時間ほど、気を抜けば倒れてしまいそうなのを我慢して歩き続けた時、スウェナにも近くに水の匂いがあることに気づいた。
「あ、あそこに……」
あともう少し歩けば着くところに、朽ちてほとんど根元だけになりかけている樹のうろから、清水が溢れ出しているのが見える。地下を流れる水脈が、どうやってか汲み上げられているようだった。
スウェナはたとえようもなくほっとして、その樹の方へ駆け出そうとした。
(あっ、でも、また罠かもしれない――)
だが寸前で思い止まって、足を止める。
刹那、背中に衝撃を感じて、スウェナはよろめくと近くに生えた大木にぶつかってしまった。
「痛った……」
鼻が潰れてしまった。何が起きたのか把握できないまま、スウェナは自分の足許にひんやりした感触を覚えて、首を巡らせると無意識にそこを見下ろした。
そのまま、体が凍ったように動けなくなる。
(へ、蛇……)
それはスウェナがこの世で一番大嫌いなものだった。
しかもこれまで見たどんな蛇よりも大きい。軟弱なスウェナの足よりも太く、その背丈よりも長い大蛇だ。その上双頭だった。紫をベースに黒と黄色のまだらという、趣味の悪い配色の鱗に生理的な嫌悪を覚えて、スウェナは全身を鳥肌立てる。
「メ、メリル……」
恐怖と嫌悪のせいで悲鳴も出ない。大蛇はスウェナの体を樹に縫い止めるように巻きつきだした。
「まぁた、捕まっているのか、おまえは」
水の湧き出る樹のところへ辿り着こうとしていたメリルが、スウェナの状態に気づいて振り向き、呆れたような声を出した。
「ど、ど、どうしたらいいの、これ……」
樹ごとスウェナの体に巻きついた蛇は、ふたつの頭からチロチロと青い舌を覗かせている。
どう見てもただの蛇ではない。魔力を持った巨大蛇(ハイドラス)だ。
「杖で適当に追い払え。大した妖魔じゃない」
メリルは人ごとのように言って、再び水の湧き出る樹へ向かっていってしまった。
そう言われても、巻きつく蛇の力が強くて、スウェナは樹と抱き合う格好のまま身動きが取れなくなっていた。杖を握った手を動かそうとするが、それもままならない。
「ひ……、や、あ……」
服の上を、ぬるりとした感触が滑り上がる。横を向いた顔のすぐそばで、双頭の蛇がスウェナをみている。
一瞬卒倒しかけたスウェナは、だが体を締めつける力が強くなりすぎ、痛みのせいで強制的に意識を取り戻させられた。
「痛……っ」
樹木ごと、スウェナの骨がミシミシと軋んでいる。胸の肉がクッションになっていなければ、あっという間に肺が潰されてしまいそうだった。
「メ……ル……」
助けを呼ぶにも、もう声がまともに出ない。
間近で蛇の威嚇音が重なった。苦しみの涙で滲んだ視界に、真っ白な牙がいやに大きく映し出された。
噛み殺される、と思った時、目の前にある頭の片方が吹き飛んだ。
すぐに体を締めつけていた力が緩んで、スウェナはその場に膝をつく。その足を掠るように、頭ひとつになってしまった蛇が逃げていった。
ひゅうひゅうと、空気を求めてスウェナの喉が鳴る。
「あ、あり、がと……メリル……」
激しく咳き込みながら、スウェナはどうにかそれだけ口にした。すぐそばに黒ずくめの体があるのがわかった。メリルが蛇を追い払ってくれたのだ。
「罠にはまって勝手に転ぶのは構わんが、俺以外の奴が貴様を喰らうのは許し難い」
言い捨て、メリルがすぐに再び水の方へと向かっていく。
(ああ、メリルだって喉が渇いてる――のね……、え!?)
すぐには立ち上がれずにその場に座りこけていたスウェナは、歩いているメリルの真横から、長い影が身をくねらせて近づいて来るのに気づいた。
先刻よりもはるかに大きな双頭の蛇だ。同じ模様をしていた。
おそらく先刻メリルが頭を潰した蛇の親か、仲間か。
「メリル、危ない……ッ」
声を限りに叫んだつもりが、うまく音にならなかった。
大木のような巨大蛇が自分に向かってくるのにメリルが気づいたのは、ずいぶんと遅いタイミングだったようにスウェナの目には映った。
ハイドラスが牙を剥くと、その口はメリルの体半分を丸呑みできそうな大きさになった。
メリルが素早く片手を上げて、その口の中に何かを打ち込んだ。魔力の弾のようだった。
蛇がもどりを打って地面に転がる。だがすぐに体を回転させると再びメリルに襲いかかった。
(どうしたの、メリル)
やはりメリルの動きが妙に鈍い。
もう一度メリルが魔法を繰り出す前に、その腕に蛇の牙が深々と突き刺さった。
「メリル!」
今度こそ、スウェナは絶叫した。
蛇に腕を呑み込まれたまま、しかしメリルは動揺することもなく、冷淡な目でその妖魔を見ている。
「調子づくな、下等な虫けら風情が」
吐き捨てたメリルの声も掠れていた。
声が終わる前に、その腕を呑み込んだ蛇の喉元が唐突に膨れあがり、そのまま肉片が弾け飛んだ。
「――ッ!」
散らばる紫や黒や黄色、青い体液。スウェナは思わず固く目を閉じる。
少しの間の後おそるおそる瞼を開くと、そこには頭から体半分が弾け飛んだ邪悪な蛇と、その肉片にまみれ疲れ切ったように片膝を立てて座り込んでいるメリルの姿があった。
(もしかしたら、メリルも、わたしと同じくらいお水が足りなかったんじゃ……)
スウェナはそう気づくと、這うようにして水の湧き出す樹に向かい、革袋にそれを流し込んだ。また這っていって、メリルのところに近づく。
散らばった蛇の肉塊が気持ち悪かったが、それに構っている気持ちの余裕はなかった。
「これ、お水、飲んでください」
スウェナが差し出した革袋を、メリルは緩慢な動きで受け取ると、中の水を飲み始めた。
唇の端から水を零しながら、喉をごくごくと鳴らしている。やはり、そうとう喉が渇いていたらしい。
あっという間に大きな革袋いっぱいの水を飲み干したメリルのために、スウェナはもう一度同じように袋に水を入れて渡した。
その水の半分ほどを飲んでから、メリルが一度口を離し、スウェナを見下ろした。
「貴様も飲め」
スウェナは大きく首を振って、背にした荷物を下ろすと中から薬草の入った袋を探った。
「毒消しを……血も止めなくっちゃ……」
ハイドラスに噛まれたメリルの腕には大きな穴がふたつ空き、そこから真っ赤な鮮血が絶え間なく流れ出している。
メリルがとりあえず満足したらしいので、革袋を取り返し、スウェナは中の水を彼の傷口にかけた。沁みたのか、びくりとその腕が強張る。
スウェナはとにかくその血を止めるために、布で傷口の上の辺りをきつく縛った。それから毒消しと血止めの効果がある薬草を傷口に押し当てる。
「――おい。あんまり泣いていると、また涙を飲んでしまうぞ」
黙って傷の手当てをしながらぽろぽろ涙を零すスウェナに、脅すような口調でメリルが言った。
「いいです。それで、メリルが少しでもよくなるなら、構わないわ」
「……」
血はなかなか止まらない。きっと、彼本来の姿であったら、蛇の牙なんて、硬い皮膚のせいで大した怪我にはならなかっただろう。
それ以前に、ドラゴンに襲いかかるような命知らずの魔物はいないはずだ。
「ごめんなさい、わたしに魔法が使えれば、あなたの傷をちゃんと癒やしてあげられるのに」
薬草なんて、治癒の魔法よりも、医者よりも役に立たない。
メリルと旅を始めてから、今ほど自分に魔法が使えないことをスウェナが口惜しく、悲しく思ったことはなかった。
「……おまえを喰らおうという魔属に対して、泣くのか」
それでも何もしないよりましだと、泣く目を擦ったりせずメリルの治療を続けるスウェナの耳に、ぽつりと呟きが届いた。
「え?」
「何でもない。貴様が俺の怪我に対して責任を感じるなど、僭越だ。俺は俺の意志と判断でやっているのだから、俺の行動に貴様が罪悪感を覚えるなど不遜の極みだから覚えておけ」
「え、ええと」
一気に早口で偉そうに言われ、啜り上げていたスウェナにはメリルの言葉が聞き取れなかった。
「ごめんなさい、何ですか?」
「――ッ、好きで怪我をしたのだから放っておけと言ったんだ!」
言い切ったメリルの言葉に、スウェナは驚いてつい治療の手を止めてしまう。
「か……変わってるんですね、メリルって……」
好きこのんで怪我をする魔属など、初めて聞いた。
びっくりしているスウェナに、メリルが何か言おうとする仕種を見せてから、諦めたようにそれを飲み込み、苛立ち交じりのような息を吐いた。
「俺は少し休む。おまえは眠らないで見張りをしていろ」
スウェナが薬草の上から不器用に包帯を巻き終わったところで、メリルがスウェナの手を振り払うようにしながら立ち上がった。蛇の死骸から離れて、木蔭の方へ向かう。
スウェナは残った水を飲み干し、メリルがもう地面に横たわって目を閉じるのを確認すると、涌き水で汚れた手や顔や髪を洗った。ついでに服も着替え、汚れた服を洗って干す。
数日ぶりに汚れを落とし、生き返った気分になった。
置いて行かれたのかと一瞬慌てたが、メリルはすぐに長い棒を手にしてスウェナのそばに戻ってきた。
「これを持っていろ」
手渡されたのは、地面につけば握った手が腰より少し高い位置にくる木の枝だった。太さはちょうどスウェナの親指と人さし指で作った輪と同じくらい。メリルはこれを探しにいっていたらしい。
「あの腹立たしい松明は捨てていけ。これを突きながら歩けば多少は楽だし、他にも役立つ」
スウェナはおとなしくその棒を受け取って、支度を終えると、歩き出すメリルの後ろをついていった。
重たい荷物を背負っているから、棒を杖代わりにして歩けばたしかに昨日よりもぐっと楽だし、倒木などの障害物を乗り越える時などはさらに都合がいい。それに進む先が草に隠れたぬかるみだということも、足を着くより早くわかる。
杖はスウェナの体にあつらえたようにぴったりの大きさだ。何て便利なんだろうと感動しながら、スウェナは先を行くメリルの背中を見上げた。
「メリル、あなたはいつもならドラゴンの体で、森なんて歩かなくてもその上をひとっ飛びなんでしょう? どうして杖が便利だって知っているの?」
ふと思いついた疑問を投げかけてみたが、メリルはすぐに答えなかった。聞こえなかったのかしら、それとも無視されているのかしら……とスウェナが判断に迷っているうち、やっと答えが聞こえる。
「ずいぶん昔に、そう言っていた人間がいたんだ。もう本当にずっと以前のことだがな」
メリルは不機嫌な声をしていた。
どうやらよけいなことを聞いてしまったらしいと、スウェナが萎縮していると、メリルが不意に立ち止まった。
「あの木」
それから、片手を上げて前方にある若木を指さした。
「その棒で幹を殴ってから、すぐに逃げてみろ」
「え、どうしてですか?」
「いいから」
何の意味がわるのかよくわからなかったが、スウェナは促されるまま、杖を両手に握り直すとそろそろとその木に近づいた。
若木と言っても、すでにスウェナと同じくらいの背がある。だがこの森はずっと昔からあるのか、樹齢の高そうな大きく立派な木ばかりだったから、それに較べればずいぶん小さくて幹も枝も細い。
スウェナはそっと、杖の先でその幹をつついてみた。
「殴れ、と言っているんだ」
言外に力が弱いと叱られ、スウェナは思いきって杖を振って、強く幹を叩いた。
「よし、逃げろ」
言われるまま、反射的に身を翻す。だが生来の不器用さが災いして、足許にあった大きな石に足を取られ、スウェナは地面に倒れ込んでしまった。
「きゃっ」
背後で、ぶわっと音が響いた。転んだまま、無意識に頭を上げて振り返ったスウェナは、目の前に赤い霧が吹きつけられるのに悲鳴を上げかけ、口を開いてはその霧を吸い込むだけだと辛うじて気づくと、慌てて再び地面に頭を伏せた。
両手で頭を庇ってじっとしているうち、音がやんだ。
「な、何なの……」
そっと身を起こす。座って自分の体を見下ろすと、背中に背負った袋やズボンの後ろが朱色に染まっていた。髪も濡れてしまったようだ。
「やだ、べたべたする、それに何か臭い……」
「本当に奇蹟的な間抜けだな、貴様は」
擦っても落ちない色と臭いにスウェナが慌てていると、呆れるというより感心したようなメリルの声が頭上から降ってきた。
「その種類の木に乱暴するとそういうことになる。覚えておけ」
「……って、もしかして、それを教えるためにわざわざ!? 口で教えてくれればいいじゃないですか、口だけ出すって言ったんだから!」
「まだ小さいやつで試させてやったんだ、ありがく思え。もっと成長した木を倒そうとでもしれみれば、樹液で固められて身動きが取れなくなって、臭いに惹かれてやってきた獣や魔物に骨まで喰われて終わりだ」
メリルは悪怯れないし、倒れたままのスウェナに手を貸してもくれない。
スウェナは杖で体を支えながらよろよろと立ち上がった。
「実際に身の危険を感じれば、いかな鈍い貴様でも反射的に動けるようになるだろう。おまえはこれまで見たところ、力は弱いが運動神経がないわけではなさそうだ。単に、本当に、どうしようもなく、他に比肩しようもないくらいドジでトロいだけであって」
「え、運動神経、あるように見えますか?」
スウェナは思わず、パッと顔を輝かせた。そんなことを言われたのが初めてだったので咄嗟に喜んだが、スウェナを見返すメリルは妙な表情になっていた。
(気休めとか、慰めだったのかしら)
だったらはしゃいでしまって恥ずかしい。
ただ昨日から、スウェナは少し嬉しかったのだ。
メリルはスウェナに魔力があるとも言った。自分のことは自分が一番わかっているつもりなので、スウェナはそれを鵜呑みにすることはもちろんできなかったけれど、誰かに自分の力を肯定してもらえることなんてもうずっとなかったから、そう言われた言葉を思い出すと気分が上向きになってくる。
「そうか、これを褒め言葉と取るのか……」
ぶつぶつ呟きつつ、メリルはきびすを返すと、再び森の中を歩き始めた。スウェナもそれに続く。
(メリルのことを信じて、ついてってみよう)
どっちにしろ、メリルが教えてくれなくても罠にはかかる。自分がどんな罠にかかったことすらわからなければ、次にそれを避けることもできない。今襲ってきた木に関しては、嫌というほど理解した。
その調子で、スウェナはメリルに言われるまま、一度足を取られたらなかなか這い出せないぬかるみとか、近づいたら小さな棘を放ってくる花とか、果実でおびき寄せて眠らせる蔓草とか、片っ端から体験させられた。
「やっ、やっ、ぱり、一回一回、実践するのは、どうかと、思うんです……!」
スウェナは息が上がりきって、すでに服も肌も泥まみれ、花粉まみれ、擦り傷だらけで大けががないのが我ながら奇蹟だと思うような有様だった。
「そろそろコツがわかってきただろう。俺に言われるままでなく、怪しいものは怪しいと自分で見分けられるようになれ」
一方メリルは涼しい顔だ。
半日で立て続けにいくつも罠に引っかかったものだから、たしかにスウェナはその特徴を掴んできた。
平地に突然現れる沼とか、やけに大きな花弁とか、きつすぎる香りとか、どれもこれも、『その場にあるのが不自然なもの』がおとりになっている。
その法則性に気づけば、魔力がなくったってやり過ごせそうだ。
「それにしても、あっちこっちに、あんまり罠がありすぎじゃないですか。メリルの体があった森だって、こんなにはなかったわ」
「近道だから仕方ないだろう」
「うう……あと、どれくらいかかりそうですか?」
「普通に歩けば三ヵ月」
途方もない日数に聞こえてスウェナは気が遠くなりかけたが、メリルの言い回しに『不自然なもの』をみつけて問い返した。
「『普通に』歩かない場合は?」
「……。うまくいけば一週間」
メリルはつまらなさそうな顔をしていた。スウェナがまた取り乱すのを見て楽しむつもりだったらしい。
「もっと近道をする方法があるんですか?」
「行けばわかる」
メリルはそう答えたきり、もう口を開かなかった。仕方なく、スウェナも黙って歩いていく。
この四日間でもっとも過酷な進行になっているせいか、スウェナはまだずいぶん陽が高いうちなのにすっかりくたくただった。
水が飲みたい、と思うが言っても仕方がない。起きた時に掻き集めた朝露を口に含んだだけでは到底足りないが、あとは水を手に入れる手段がなかった。
ないと思えばよけいに喉が渇く。
だから考えないようにしているのに、体は正直で、ただ歩いているだけなのにスウェナは苦しくて息が上がってきてしまった。
杖に、ほとんど寄り掛かるようにしながら、どうにか歩く。
メリルは相変わらず大股で早足で、次第に彼とスウェナは距離は開いていった。
歩くたびに頭がクラクラして、目の前が白くなる。もう駄目倒れる――とスウェナが杖や荷物を投げ出してしまいそうになった時、ふと目の前でメリルが立ち止まっていることに気づいた。
「……メリル……?」
「ふん。運がいいな」
メリルは片方の掌を地面にかざしていた。
「もう少し行ったところに水脈を感じる。涌き水程度だろうが」
森の中に入った時から、ひたすら一方へとまっすぐ進んでいたメリルが、初めて別の方向に道を逸れた。おそらく水の在処をみつけたから、遠回りしてくれる気になったらしい。
「ありがとう、メリル」
「別におまえのためじゃない。俺だってそろそろ喉が渇いていたんだ」
何にせよありがたい。スウェナは萎えそうになる足を叱咤しながら、メリルの後を必死に追いかけた。
小一時間ほど、気を抜けば倒れてしまいそうなのを我慢して歩き続けた時、スウェナにも近くに水の匂いがあることに気づいた。
「あ、あそこに……」
あともう少し歩けば着くところに、朽ちてほとんど根元だけになりかけている樹のうろから、清水が溢れ出しているのが見える。地下を流れる水脈が、どうやってか汲み上げられているようだった。
スウェナはたとえようもなくほっとして、その樹の方へ駆け出そうとした。
(あっ、でも、また罠かもしれない――)
だが寸前で思い止まって、足を止める。
刹那、背中に衝撃を感じて、スウェナはよろめくと近くに生えた大木にぶつかってしまった。
「痛った……」
鼻が潰れてしまった。何が起きたのか把握できないまま、スウェナは自分の足許にひんやりした感触を覚えて、首を巡らせると無意識にそこを見下ろした。
そのまま、体が凍ったように動けなくなる。
(へ、蛇……)
それはスウェナがこの世で一番大嫌いなものだった。
しかもこれまで見たどんな蛇よりも大きい。軟弱なスウェナの足よりも太く、その背丈よりも長い大蛇だ。その上双頭だった。紫をベースに黒と黄色のまだらという、趣味の悪い配色の鱗に生理的な嫌悪を覚えて、スウェナは全身を鳥肌立てる。
「メ、メリル……」
恐怖と嫌悪のせいで悲鳴も出ない。大蛇はスウェナの体を樹に縫い止めるように巻きつきだした。
「まぁた、捕まっているのか、おまえは」
水の湧き出る樹のところへ辿り着こうとしていたメリルが、スウェナの状態に気づいて振り向き、呆れたような声を出した。
「ど、ど、どうしたらいいの、これ……」
樹ごとスウェナの体に巻きついた蛇は、ふたつの頭からチロチロと青い舌を覗かせている。
どう見てもただの蛇ではない。魔力を持った巨大蛇(ハイドラス)だ。
「杖で適当に追い払え。大した妖魔じゃない」
メリルは人ごとのように言って、再び水の湧き出る樹へ向かっていってしまった。
そう言われても、巻きつく蛇の力が強くて、スウェナは樹と抱き合う格好のまま身動きが取れなくなっていた。杖を握った手を動かそうとするが、それもままならない。
「ひ……、や、あ……」
服の上を、ぬるりとした感触が滑り上がる。横を向いた顔のすぐそばで、双頭の蛇がスウェナをみている。
一瞬卒倒しかけたスウェナは、だが体を締めつける力が強くなりすぎ、痛みのせいで強制的に意識を取り戻させられた。
「痛……っ」
樹木ごと、スウェナの骨がミシミシと軋んでいる。胸の肉がクッションになっていなければ、あっという間に肺が潰されてしまいそうだった。
「メ……ル……」
助けを呼ぶにも、もう声がまともに出ない。
間近で蛇の威嚇音が重なった。苦しみの涙で滲んだ視界に、真っ白な牙がいやに大きく映し出された。
噛み殺される、と思った時、目の前にある頭の片方が吹き飛んだ。
すぐに体を締めつけていた力が緩んで、スウェナはその場に膝をつく。その足を掠るように、頭ひとつになってしまった蛇が逃げていった。
ひゅうひゅうと、空気を求めてスウェナの喉が鳴る。
「あ、あり、がと……メリル……」
激しく咳き込みながら、スウェナはどうにかそれだけ口にした。すぐそばに黒ずくめの体があるのがわかった。メリルが蛇を追い払ってくれたのだ。
「罠にはまって勝手に転ぶのは構わんが、俺以外の奴が貴様を喰らうのは許し難い」
言い捨て、メリルがすぐに再び水の方へと向かっていく。
(ああ、メリルだって喉が渇いてる――のね……、え!?)
すぐには立ち上がれずにその場に座りこけていたスウェナは、歩いているメリルの真横から、長い影が身をくねらせて近づいて来るのに気づいた。
先刻よりもはるかに大きな双頭の蛇だ。同じ模様をしていた。
おそらく先刻メリルが頭を潰した蛇の親か、仲間か。
「メリル、危ない……ッ」
声を限りに叫んだつもりが、うまく音にならなかった。
大木のような巨大蛇が自分に向かってくるのにメリルが気づいたのは、ずいぶんと遅いタイミングだったようにスウェナの目には映った。
ハイドラスが牙を剥くと、その口はメリルの体半分を丸呑みできそうな大きさになった。
メリルが素早く片手を上げて、その口の中に何かを打ち込んだ。魔力の弾のようだった。
蛇がもどりを打って地面に転がる。だがすぐに体を回転させると再びメリルに襲いかかった。
(どうしたの、メリル)
やはりメリルの動きが妙に鈍い。
もう一度メリルが魔法を繰り出す前に、その腕に蛇の牙が深々と突き刺さった。
「メリル!」
今度こそ、スウェナは絶叫した。
蛇に腕を呑み込まれたまま、しかしメリルは動揺することもなく、冷淡な目でその妖魔を見ている。
「調子づくな、下等な虫けら風情が」
吐き捨てたメリルの声も掠れていた。
声が終わる前に、その腕を呑み込んだ蛇の喉元が唐突に膨れあがり、そのまま肉片が弾け飛んだ。
「――ッ!」
散らばる紫や黒や黄色、青い体液。スウェナは思わず固く目を閉じる。
少しの間の後おそるおそる瞼を開くと、そこには頭から体半分が弾け飛んだ邪悪な蛇と、その肉片にまみれ疲れ切ったように片膝を立てて座り込んでいるメリルの姿があった。
(もしかしたら、メリルも、わたしと同じくらいお水が足りなかったんじゃ……)
スウェナはそう気づくと、這うようにして水の湧き出す樹に向かい、革袋にそれを流し込んだ。また這っていって、メリルのところに近づく。
散らばった蛇の肉塊が気持ち悪かったが、それに構っている気持ちの余裕はなかった。
「これ、お水、飲んでください」
スウェナが差し出した革袋を、メリルは緩慢な動きで受け取ると、中の水を飲み始めた。
唇の端から水を零しながら、喉をごくごくと鳴らしている。やはり、そうとう喉が渇いていたらしい。
あっという間に大きな革袋いっぱいの水を飲み干したメリルのために、スウェナはもう一度同じように袋に水を入れて渡した。
その水の半分ほどを飲んでから、メリルが一度口を離し、スウェナを見下ろした。
「貴様も飲め」
スウェナは大きく首を振って、背にした荷物を下ろすと中から薬草の入った袋を探った。
「毒消しを……血も止めなくっちゃ……」
ハイドラスに噛まれたメリルの腕には大きな穴がふたつ空き、そこから真っ赤な鮮血が絶え間なく流れ出している。
メリルがとりあえず満足したらしいので、革袋を取り返し、スウェナは中の水を彼の傷口にかけた。沁みたのか、びくりとその腕が強張る。
スウェナはとにかくその血を止めるために、布で傷口の上の辺りをきつく縛った。それから毒消しと血止めの効果がある薬草を傷口に押し当てる。
「――おい。あんまり泣いていると、また涙を飲んでしまうぞ」
黙って傷の手当てをしながらぽろぽろ涙を零すスウェナに、脅すような口調でメリルが言った。
「いいです。それで、メリルが少しでもよくなるなら、構わないわ」
「……」
血はなかなか止まらない。きっと、彼本来の姿であったら、蛇の牙なんて、硬い皮膚のせいで大した怪我にはならなかっただろう。
それ以前に、ドラゴンに襲いかかるような命知らずの魔物はいないはずだ。
「ごめんなさい、わたしに魔法が使えれば、あなたの傷をちゃんと癒やしてあげられるのに」
薬草なんて、治癒の魔法よりも、医者よりも役に立たない。
メリルと旅を始めてから、今ほど自分に魔法が使えないことをスウェナが口惜しく、悲しく思ったことはなかった。
「……おまえを喰らおうという魔属に対して、泣くのか」
それでも何もしないよりましだと、泣く目を擦ったりせずメリルの治療を続けるスウェナの耳に、ぽつりと呟きが届いた。
「え?」
「何でもない。貴様が俺の怪我に対して責任を感じるなど、僭越だ。俺は俺の意志と判断でやっているのだから、俺の行動に貴様が罪悪感を覚えるなど不遜の極みだから覚えておけ」
「え、ええと」
一気に早口で偉そうに言われ、啜り上げていたスウェナにはメリルの言葉が聞き取れなかった。
「ごめんなさい、何ですか?」
「――ッ、好きで怪我をしたのだから放っておけと言ったんだ!」
言い切ったメリルの言葉に、スウェナは驚いてつい治療の手を止めてしまう。
「か……変わってるんですね、メリルって……」
好きこのんで怪我をする魔属など、初めて聞いた。
びっくりしているスウェナに、メリルが何か言おうとする仕種を見せてから、諦めたようにそれを飲み込み、苛立ち交じりのような息を吐いた。
「俺は少し休む。おまえは眠らないで見張りをしていろ」
スウェナが薬草の上から不器用に包帯を巻き終わったところで、メリルがスウェナの手を振り払うようにしながら立ち上がった。蛇の死骸から離れて、木蔭の方へ向かう。
スウェナは残った水を飲み干し、メリルがもう地面に横たわって目を閉じるのを確認すると、涌き水で汚れた手や顔や髪を洗った。ついでに服も着替え、汚れた服を洗って干す。
数日ぶりに汚れを落とし、生き返った気分になった。