【3】落ちこぼれ魔女、ドラゴンから旅の手解きをしぶしぶ受ける(1)
ひゃああああ、と情けない悲鳴が森の中にこだました。
それに被さるかのように、呆れたような、わざとらしい溜息がひとつ。
「そう大声を上げるから、次から次へと小虫が寄ってくるんだろうが。少しは学習しろ」
台詞の最後は欠伸で消えた。
黒いマントを着た背の高い男は、木を背にしてどっかりと地面に胡座をかき、偉そうに腕を組んでいる。
その斜め向かいの木には、太い蔦に片足を絡まれて逆さにつるされ、必死にスカートの裾を押さえている少女の姿。
「た、助けて、下ろしてくださいいい」
何もない地面に、ただ足をついただけだ。その瞬間、スウェナを四方から取り囲むように、蔦が土の中から飛び出してきてその体に取りついた。驚いて闇雲に手を振り回し、逃れようとしたものの叶わず、あっという間に右脚を取られて、高々と木に吊されてしまった。
下を見た途端、かけていた眼鏡が落ちていって、少しの間のあと地面にぶつかる音がする。それで地面までの距離がわかって、スウェナ半泣きになった。相当な高さだ。
蔦は太くて高い木の幹と枝にがっちりと巻きつき、スウェナが手を伸ばして叩いても、そんな彼女の必死さを嘲笑うかのようにびくともしない。
そう、蔦は、彼女を嘲笑っている。というか、おもちゃにして楽しんでいる。
「だから言っただろう、この森はたちの悪い生き物も植物もたくさんいるから気をつけろと」
また欠伸しながら、竜公爵が言った。
「き、気をつけ方は、教えてくれなかったじゃないですか……っ」
ジャニスのところに行くためのルートを選んでいるのは、もちろんその居所を知るらしいこの魔属だ。
旅立ってから三日、魔属はスウェナの歩みの速度や体力など一向に考慮せず進んでいる。
おまけに彼が選んだルートは、人里離れた、あたりまえのように魔物がわんさかいる薄暗い森。
そしてスウェナは逆さ吊りになった。
「下ろして、お願い」
泣きべそで頼むスウェナを、男は無視している。
この森に入ってからは二日経つが、その間スウェナがしょっちゅう魔を帯びた植物の罠にかかったり、何度となく下級魔属に襲われたりしても、決してスウェナを助けする様子を見せなかった。
森の中を進むほどに、スウェナにちょっかいをかける魔属のやり方は悪質になってくる。翼のついた蛇に髪を巻き取られたり、化け烏に耳許でひどい声を浴びせられたり、花粉をまき散らす草に追いかけ回されてくしゃみが止まらなくなるくらいではすまなくなってきた。
今だって、このまま蔦から逃れられなければ、スウェナはそれが枯れるまでずっとこの状態だ。
どんなに頼んでも人ごとのような顔で、居眠りまで始めようとしている色黒の魔物に、スウェナはさすがに腹が立ってきた。
「わたしを助けなさい、メリル・マディナータ・メレル!」
声を張り上げてみたが、しかし、魔物はうるさそうに眇でスウェナを見上げただけだった。
(ど、どうして)
ドラゴンの化身を、スウェナは宝珠の力を借りて支配下に置いたはずだった。
しかし家で父親を殺そうとした相手を止めた時以来、スウェナが契約に従わせようとしても、言うことを聞かせられた試しがなかった。
焦るうちにどんどん頭に血が上ってきて、意識が遠退きかけきたスウェナの方へ、森の木々の隙間を縫うように大きな影がものすごい早さで近づいてくる。
少し前に、這々の体でようやく振り切ってきたはずの、巨大な化け烏だ。
「……!」
悲鳴も嗄れてしまう。真っ黒な鳥の鉤爪が、まっすぐ自分に向かってくるのが見えた。あんな大きな爪と嘴に抉られれば、スウェナの命なんてひとたまりもない。
殺される、と思って咄嗟に目を瞑ったスウェナは、しかし自分のものではない甲高い悲鳴を間近で聞き、驚いてまた瞼を開いた。
断末魔の叫びを響かせながら、化け烏がスウェナの目の前で身悶え、地面に落ちていく。
「え……」
反射的に、スウェナは男の方を見た。男は気怠げに、烏のいたあたりに片手の掌を向けていた。
その手がまたいかにも面倒臭そうに軽く振られた時、スウェナの片足を締めつけていた蔦が唐突に水気を失い、収縮した。
「きゃ……きゃああああ!」
十メートル以上の高さから、先刻の烏のように、スウェナの身が地面に向けて落下を始める。
恐怖に悲鳴を上げたスウェナは、だが烏のように地面に叩きつけられることはなかった。
その寸前に、地面すれすれにバサッと黒いマントが広がり、守られたのだ。
「あ……ありがとう、メリル・マディナータ・メレル」
スウェナが地面に降り立つと、男のマントは元に戻った。男はまだ木に寄り掛かって座ったままだ。
「フルネームで呼ぶな」
目の前にやってきて頭を下げたスウェナに、魔物は不愉快そうな顔で吐き捨てた。
「おまえが俺の名前を全部呼ぶたびに、いちいち体が反応して腹が立つ」
では契約は失われたわけではないのだろう。相手の名前を呼ぶことで、その存在を縛ることはできているらしい。
だが、おそらくスウェナと相手の力に差がありすぎて、言うことを聞かせるまでには至らないのだ。
「じゃあ、ええと、メリル……さん」
スウェナの言葉に、魔物は何だか奇妙なものを見るような表情になった。
「呪縛した魔属に敬称をつけるなど、おかしな人間だな」
そういうものかしら、とスウェナは首を傾げる。そういえば学校や王宮で魔属を従わせる魔法使いたちは、自分と契約した魔属と、すべて命令口調で話していたような気がする。
そうやって押さえつけ、自分の立場の方が上であることを常に示しておかないと、契約が続かないのだ。
油断すれば契約を破棄され、縛られていたことに激怒した魔属に殺される魔法使いが、これまで何人もいたという。
「殊勝な心懸けに免じて、メリルと呼ぶ栄誉をやろう。もともと人間世界の敬称になんて、何の意味もないからな」
偉そうに言い放つと、メリルが立ち上がる。スウェナは慌てた。
「あの、少しだけ、休みませんか。夜もあんまり眠れなかったし、朝からずっと歩きづめで、疲れてしまって……それにあちこち傷だらけだから、手当てもしたいし」
「ふん、森を行くのにそんな軽装だから、簡単に怪我をするんだ」
スウェナは麻のワンピースに同じ素材の上着、履き潰しかけの革靴という、旅をするにはまったく向かない出で立ちだった。それで背中には大きな革袋を背負っているから、不格好なことこの上ない。荷物には慌てて詰め込んだ着替えや食べ物や水が入っていてとても重たいが、魔物が少しでもそれを持ってくれる素振りなど見せるわけもなかった。
(だって、ゆっくり支度する暇もなく、勝手に家を出て行ったのはメリルじゃない)
言いたい言葉を、しかしスウェナは言えずに呑み込んだ。
家を出てからというもの、もともと陽気とは言い難いメリルはますます不機嫌で、話しかけても素気ない態度を取られるばかりだ。
萎縮してしまう自分が情けないが、スウェナは自分の使い魔になったはずのこのドラゴンの化身に、反論するのが怖ろしい。
「別に俺は、おまえが勝手に壊れて死ぬならそれで都合がいいんだ。死ねば契約は終わるし、そうしたらおまえを喰らって宝珠を取り返してやるまでだからな。よし、そうだ、なるべく早く壊れろ。次は何があっても絶対助けない」
「……」
しかし相手の意地悪な言葉に、泣きべそをかき続けるのも口惜しくなってきた。
「ちょっと、待っててください」
スウェナはそう言うと、背負っていた荷物をどさりと地面に下ろした。
メリルは不審そうにスウェナを見ている。
スウェナはその視線を感じながら身を屈め、スカートの裾に両手をかけた。
「……!?」
ビリッと、景気よく布の破れる音に、メリルが驚く気配がした。
スウェナは構わずスカートの前と後ろ、二ヵ所に深く切れ目を入れて、それを片足ずつに巻きつけると、裾を中へ織り込んだ。スカートが、あまりに不格好ではあるが、ズボンのような形になる。少しは動きやすくなるだろう。
それからスウェナはぼろぼろにほつれたお下げをほどき、今度は頭の後ろでひとつにきっちり結い直した。これで行く手を阻む枝にも、飛びかかってくる小さい魔物の嘴からも、つついて遊ばれることもなくなるだろう。
スウェナはメリルのところに戻ると、荷物の中から薬草を採り出して揉みほぐし、靴を脱ぐと、肉刺だらけの足に貼りつけた。大きさの合っていないぶかぶかの靴を、ついでに紐で足にくくりつけて固定する。
治療を終えると、スウェナは黙ったまま固い干しパンを取り出し、ちぎって口に放り込んだ。珠を飲み込んでから一週間が経って、少しずつ空腹や喉の渇きを感じるようになってきている。パンをもぐもぐとかみ砕いて呑み込み、水で喉を湿らせてから再び荷物を背負い、スウェナはメリルのことを見上げた。
「いいわ。行きましょう」
メリルはスウェナの一連の動きを黙って見守っていた。何だか少し驚いているふうでもある。
それでも何も言わず歩き出したメリルの後について、スウェナも歩き出す。
メリルは相変わらずスウェナとの足の長さや体力を考慮せずに、どんどん先へ進んで行く。
スウェナは泣き言を言ってもどうせ無視されるか、馬鹿にされるかのどちらかなのだから、黙っていようと心の中で決意する。メリルの手助けを期待するだけ無駄だというのは、嫌というほどわかった。
スカートと靴を直したから、多少は歩きやすくなった。
こうして自分のことは自分で何とかしなくては、メリルの期待どおりそのうち自分の体は壊れてしまうかもしれない。思いどおりになってやるのは口惜しい。
それにこんなところで死ねば、自分のこの十六年の人生は何だったのか、考えるだに切なかった。あまりにみじめすぎる。
「……あら?」
メリルに遅れまいと草をかき分け、大股で歩いていたスウェナは、何気なく視線を向けた先にあるものを見て小さく目を瞠った。
立ち止まっても、メリルはもちろん振り向く気配もない。
だがスウェナは思いきって彼の進む方からは外れたところにある、樹齢の高そうな木へ小走りに向かう。
足許を見渡し、大きさな尖った石を拾い上げて、その石の先端を木の幹に打ちつけた。何度かその動きを繰り返すと、中から黄色く濁った、粘り気のある液体が滲み出てくる。
「やっぱり、そうだわ」
固い幹に触ってスウェナはひとり呟いた。
それから、自分の腕の太さと長さくらいある枝に手をかけ、思い切り体重を乗せる。鈍い音がして枝が折れた。
その枝の先に、ポケットに入れておいたマッチの火を当てる。火はずぶずぶと鈍い音を立てながらゆっくり木の枝に移った。地味に燃える枝の先端からは、灰色の煙がゆっくりと地面に向かい這うように落ち始める。
スウェナは火が消えずにいることをたしかめてから、メリルの後を追い小走りに進んだ。風が左側から吹いてくるので、煙を吐き出す枝を左手から右手に持ち替える。
どうにかメリルに追いつくと、スウェナは息を切らしながら彼の左側に並んだ。
少女の近づいた気配を察してうるさそうに視線を寄越そうとしたメリルの表情が、彼女が持つ松明を見てぎょっとしたようなものに変わる。
何か言おうとした口に煙が流れ込み、メリルが勢いよく咳き込んだ。
「きっ、貴様……! 何てものを持っているんだ……!」
「あら……結構、平気なのね」
げほげほと咳き込みながら怒り出すメリルを見て、スウェナはそんな感想を漏らす。
スウェナが松明の材料に使ったのは、魔物避けの力を持つ木の枝だった。
この森のほとんどの植物はスウェナの知らない種類だったが、これだけは覚えていた。
その樹液を口にすれば、弱い魔物ならあっという間に死んでしまうという。甘い香りで誘い、自分の足許で死んだ魔物を養分にして育つ魔を帯びた樹だった。
とはいえ人間には何の害もない。松明のように燃えて、その煙は強い魔物避けになるので、危険なところを旅する人間には必要な道具として有名だ。
「消せ、臭い!」
メリルが怒鳴りつけてきて、スウェナは身を竦ませながら首を振る。
「い、嫌です。だって、メリルはわたしのことを守ってはくれないんでしょう? だったら自分の身は自分で守らなきゃあ」
スウェナにとっては少し顔をしかめる程度の煙も、メリルにとっては鼻が曲がりそうな臭いを感じるものらしい。
メリルの抗議をスウェナは聞き入れなかった。こっちだって命がかかっている。必死だ。
スウェナにとっては運のいいことに、風向きが変わって、今度は進む方向の後ろから前に煙が流れるようになった。これでメリルはスウェナの真ん前を行くことができなくなり、不機嫌極まりない表情でその斜め少し前を歩き始めるしかなくなったようだ。
スウェナはさりげなくメリルの方に松明を向けて、それを取り上げられないよう注意した。
このおかげで、スウェナの旅はぐっと楽なものになった。歩くスピードを操れるようになったのだ。
それにしても、メリルの機嫌があまりに悪いようなので、隣を歩く間、スウェナは心臓が痛かった。
状況が状況、相手が相手なので楽しい旅なんて不可能なことはわかっていても、もう少し穏やかにいかないものだろうかと悲しくなる。
深々溜息をつきながら、癖で眼鏡をずり上げようとしたスウェナは、あるべきはずの感触がそこにないのに気づいて驚いた。
「そうだ、さっき落として……」
急いで振り返ったが、先刻蔦に絡まれて眼鏡を落とした場所は、ずいぶん遠くなってしまった。
それに。
「どうして、眼鏡がないのに、こんなにものがよく見えるの……?」
スウェナは小さい頃から視力が悪かった。生まれつきのものではなく、家の手伝いを追えた真夜中に、灯りを節約しながら本ばかり読んでいたせいだ。魔法学校に行く時、これでは勉強ができないだろうと父親が眼鏡を買ってくれた。
安物の眼鏡で度は合わなかったが、何もつけないよりはマシだったはずだ。だが今スウェナの目には、硝子を通した時よりもずっとくっきりはっきりと、森の中の様子が見えている。
「宝珠のせいだ」
スウェナの呟きを聞き止めて、メリルがいまいましそうに呟いた。スウェナは彼の方を見上げる。じろりと睨みつけられた。
「おそらくな。おまえがこのしばらく食事も排泄もいらない体になったように、眼鏡などという道具がなくても、ものがよく見えるようになった。ついでに疲れ辛くなっているし、睡眠がたくさん必要なわけでもなくなってるんじゃないのか」
言われてみればそのとおりだと、スウェナは思い当たった。
スウェナはどちらかと言えば非力で体力もないが、メリルとひどい旅を初めて三日経つのに、まだこうして自分の足で歩けている。
いつもの自分ならば、座り込んで一歩も動けないか、気絶したまま寝込んでしまうかだったろうに。
「あの宝珠は、俺が長い時間かけて力を与え続けて作り出したものだ。あそこまでの大きさにするのに何年かかったと思っている。それを、貴様はぺろりと平らげやがって……」
話すうちにまた怒りがこみ上げてきたのか、メリルは握った拳を震わせている。
「なんて喰い意地の張った女なんだ」
「わっ、わたしだって、食べるつもりなんてなかったんです。そもそも宝珠が食べられるなんて思わないわ、そりゃあ、すごくおいしそうだなとは思ったけど……」
スウェナだって、自分でも不思議なのだ。「宝石は食べ物じゃない」ことは知っている。石を食べる性質の妖魔はいるが、スウェナは人間だ。
自分があの時宝珠を口にしてしまった理由は、スウェナにもわからない。
ふん、とメリルが大きく鼻を鳴らす。
「とにかく貴様にはきちんと責任を取ってもらう。まったく、貴様のせいで俺がこんな姿で、わざわざ歩いて旅をするなんて苦労を味わわされているんだ。宝珠が戻った時は覚悟をしていろ」
「……」
口を開けば、メリルはこんなふうにスウェナを脅してくる。スウェナは、とにかく一刻でも早く魔女ジャニスのところまで辿り着いて助けを求めよう、とそれだけを心の頼りにする。
(ジャニスに教われば、メリルをきちんと従わせられるようになるかもしれない)
宝珠を自分の中から取り出す前に、何としても、ジャニスを味方につけてしまわなければならない。
(ジャニスのところに辿り着く前に、メリルを出し抜いて、自分ひとりで会えればいいんだけど……)
しかしそんなことが自分にできるのか、スウェナは不安で仕方がなかった。
魔法がろくに使えないというだけでなく、自他共に認めるほど不器用なこの自分に。
(でも何とかしなくちゃ。殺されるのなんて、嫌だもの)
それ以前に、果たして無事にジャニスのところまで辿り着けるかが、まず心許なく感じるスウェナだった。