【2】ドラゴン、宝珠を出せと箸と皿を持って押しかける(3)
しかし結果的には。
魔物が三日も家に住み着いて監視していたのに、その間、スウェナがその皿を使うことはできなかった。
「貴様……いったい、何のつもりだ」
四日目に、痺れを切らした魔物が、スウェナに詰め寄ってきた。
「なぜあれから一度も用を足さん!」
「わたっ、わたしだってわかりません!」
最初は怯えや羞恥が抵抗になって、体が反応しないのだと思っていた。
だがスウェナには食べたものを出したいという欲求だけではなく、食べ物も、水すら体に入れたい欲求まで失ってしまったのだ。
食事にまったく関心がなくなってしまった。空腹を塵ほども感じず、かといって栄養不足でふらつくこともない。むしろ、これまで非力でいつもよろめいていた体が、急にしゃんとして、いつもより元気なくらいだった。
四日目の夜が終わろうとしてもそんな調子のスウェナに、魔物が苛立ちを隠そうともせず、家族はハラハラとふたりのやりとりを見守っている。
スウェナとは逆に、魔物はやれ腹が減った、もっとうまいものを持って来いと好き放題命じていたが、裕福とはほど遠いスウェナの家で、余分な食料も肥えた魔物の舌を満足させられる料理も用意できるわけがない。
そう告げると、魔物は舌打ちひとつのあと、家を出て、家族がほっとしたのも束の間すぐに戻ってくると、両手に果物や獣の肉や穀物の袋を山ほど抱えて戻ってきた。
おかげでその恩恵にあずかって、家族は魔物が食べ残した高級食材にありつけたのだが、スウェナはそれを食べたいと一度も感じられなかった。
「全然そうしたいって思えないんです、わたしだって、こんなの早く終わらせたいのに……!」
「……そうか。自力で無理ならば、仕方がないな」
ぎらりと、魔物は四日前と同じように、身につけたままのマントから黒く尖った爪を抜き出した。
「感謝しろ、痛みもわからんくらいに一気に仕留めてやる」
腹に触れられそうになって、スウェナは悲鳴を上げると、逃げようとした脚をもつれさせ、床にひっくり返った。
固唾を呑んで様子を見ていた両親が、転んだ娘の上に覆い被さりながら、魔物のことを睨みつけた。
「スウェナを殺すくらいなら、あたしを殺しなさいよ!」
「貴様を殺してどうする、意味がないだろう」
泣きながら魔物を睨む母親の許に、息子たちも駆け寄って、姉を守ろうと身を挺している。
「じゃあ私を!」
「だから無意味だと言っている、この愚か者めが! よしわかった、そんなに死にたいのなら、全員まとめて八つ裂きにしてくれるわ!」
魔物の手が父親の喉元に延びる。その大きな口の端がさらに裂け、鋭い牙が鈍く光るのをスウェナは見た。
「駄目……!」
必死で、自分の上に覆い被さる家族の体をかき分ける。
自分を庇おうと死にもの狂いになっている家族の腕を、自分も死にもの狂いの力で振り払い、スウェナはその場から立ち上がった。
「やめなさい、わたしの家族に手を出さないで、メリル・マディナータ・メレル!」
自分でも驚くほど凛とした声が、部屋の中に響き渡る。
そしてさらに信じがたいことがスウェナの目の前で起こった。
「……な……に……?」
スウェナの以上に愕然としているのが、魔物、メリル・マディナータ・メレル公爵だった。
スウェナの一喝でその体が動きを止めた。
まるで、彼女の言葉に呪縛されたように。
絞り出した魔物の声は掠れている。
「お父さんから離れて。そして爪と牙をしまって。お願い」
懇願のつもりで言ったスウェナの言葉は、どうやら魔物にとっては命令になった。
魔物はよろめくように一歩下がると、両腕をマントの中にしまい、剥き出しの牙を納めた。
「……まさか……」
驚愕した顔でスウェナを見て、魔物は相変わらず掠れた声で呟く。
「支配下に置いたというのか、この、俺を……!」
「……え……」
魔物の力を自分の力で組み伏せ、自分の言葉が絶対になるよう命じる。
魔物よりも魔法使いの力が強い時に叶う、それが契約。
「わたしが……?」
この完璧な人型を保つ魔物を、支配した。
呆然と、スウェナは自分の使い魔となった魔物を見遣る。
相手も、どこか途方に暮れたような顔でスウェナを見ていた。
その表情が、やがてみるみる悔しげな、屈辱的なものに変わっていった。
「そうか、宝珠……! 俺の珠を呑み込んだからだ!」
スウェナはハッとして自分のお腹を押さえた。この一週間、いつもよりもずいぶん体温が高い気がする。
「あれは俺が作り出した、俺の力をさらに引き出すための道具だ。それを貴様が呑み込んで……取り込んだりするから……!」
魔物は頭を抱えてしまった。
「くそ、何てことだ、俺が、この俺が、人間の小娘などに支配されたなど……何という屈辱! 許し難い恥だ!」
「ご、ごめんなさ」
「謝るな、よけい惨めになる!」
やけくそ気味に、魔物が声を張り上げた。
「そうだ許すものか、何としても……」
ぶつぶつと、魔物がひとりごとを呟き始めた。
「スウェナ」
状況についていけずにぼんやりするスウェナの袖を、床で腰を抜かしたようになっている義母の手が引いた。
「あんた、ってことは、竜珠のおかげで魔法の力を手に入れたんじゃないの。あの竜公爵と契約しただなんて、それを王宮に報告すれば、国に取り立ててもらえるかもしれないわよ」
「え……でも……」
ぱっと顔を輝かせる義母の言葉に、スウェナは頷くことができなかった。
絶望的な顔で頭を抱えている魔物を見遣ると、何だか、自分がひどいことをしてしまったような、とても申し訳ない気持ちになる。
「でも、ええと……わたしなんかのせいでドラゴンの体に戻れないのなら、そんなに、すごい魔物っていう扱いにはならないだろうし……」
「何だと、貴様」
スウェナの言葉を聞き咎め、魔物が顔を上げて鋭く睨みつけてくる。
「たしかにその通りだが、誰のせいだと思っている」
「ごっ、ごめんなさい! あ、あのう、じゃあ、どうしたら元通りになるのかしら……その、出すのでも、八つ裂きにするのでもない方向性で」
「……」
魔物は再び、黙って考え込んだ。
そしてしばらくの沈黙のあと、心の底から、まったく気が進まないという素振りでしぶしぶ口を開く。
「魔女ジャニスは知っているか」
問われて、スウェナは頷いた。
「伝説の魔女、いえ、賢者のことですよね。三百年も前に生まれた不世出の魔法使い。国に請われて、このメルディアのどこかで自らの身を国の守護のために捧げて死んだ、っていう……」
「ジャニスは死んでいない」
「え?」
「人としての形を失ったという意味でなら、死んだと表するのが妥当だろう。だが彼女の意識は生きていて、この地上の知識を未だ貪欲に吸い込もうとし続けている」
スウェナにはピンと来なかった。
魔法使いの世界では、尊敬と憧れの存在である魔女ジャニス。
彼女のようになるべく生徒たちは日々勉強と修行を続けているが、三百年前の魔法使いは、すでに神格化されて同じ人間と思える存在ではなくなっていた。
「全然まったくもってこれっぽっちも気乗りがしないが、他に方法がないなら仕方がない。ジャニスの智慧を借りるしかないだろう」
「その、魔女は、どこに……?」
「ここから飛んで三晩――」
言ってから、魔物がじろりとスウェナを睨んだ。
「人間の足なら、その何十倍かかるか知るものか」
しかしスウェナにも、他にどんな解決策があるのか浮かばない。魔物の提案に従うのが一番だとすぐに決心した。
とにかく家からこの魔物を離してしまえば、少なくとも家族が危険な目に遭うことはなくなる。
(それに……もしかしたら、そんな立派な魔女に会って智慧を与えてもらえるのなら)
魔物に向かって頷きながら、ちらりと、スウェナはそんなことを考える。
(こんなわたしにだって、立派な魔法使いになるための秘策とか、聞けるかもしれない……)
「わ、わかりました、なら、ジャニスに会いに行きましょう」
震える声で、そう告げる。魔物はおもしろくなさそうな顔で、頷いた。
そうして、スウェナは魔物と共に、魔女ジャニスの許へ向かうことにしたのだった。
魔物が三日も家に住み着いて監視していたのに、その間、スウェナがその皿を使うことはできなかった。
「貴様……いったい、何のつもりだ」
四日目に、痺れを切らした魔物が、スウェナに詰め寄ってきた。
「なぜあれから一度も用を足さん!」
「わたっ、わたしだってわかりません!」
最初は怯えや羞恥が抵抗になって、体が反応しないのだと思っていた。
だがスウェナには食べたものを出したいという欲求だけではなく、食べ物も、水すら体に入れたい欲求まで失ってしまったのだ。
食事にまったく関心がなくなってしまった。空腹を塵ほども感じず、かといって栄養不足でふらつくこともない。むしろ、これまで非力でいつもよろめいていた体が、急にしゃんとして、いつもより元気なくらいだった。
四日目の夜が終わろうとしてもそんな調子のスウェナに、魔物が苛立ちを隠そうともせず、家族はハラハラとふたりのやりとりを見守っている。
スウェナとは逆に、魔物はやれ腹が減った、もっとうまいものを持って来いと好き放題命じていたが、裕福とはほど遠いスウェナの家で、余分な食料も肥えた魔物の舌を満足させられる料理も用意できるわけがない。
そう告げると、魔物は舌打ちひとつのあと、家を出て、家族がほっとしたのも束の間すぐに戻ってくると、両手に果物や獣の肉や穀物の袋を山ほど抱えて戻ってきた。
おかげでその恩恵にあずかって、家族は魔物が食べ残した高級食材にありつけたのだが、スウェナはそれを食べたいと一度も感じられなかった。
「全然そうしたいって思えないんです、わたしだって、こんなの早く終わらせたいのに……!」
「……そうか。自力で無理ならば、仕方がないな」
ぎらりと、魔物は四日前と同じように、身につけたままのマントから黒く尖った爪を抜き出した。
「感謝しろ、痛みもわからんくらいに一気に仕留めてやる」
腹に触れられそうになって、スウェナは悲鳴を上げると、逃げようとした脚をもつれさせ、床にひっくり返った。
固唾を呑んで様子を見ていた両親が、転んだ娘の上に覆い被さりながら、魔物のことを睨みつけた。
「スウェナを殺すくらいなら、あたしを殺しなさいよ!」
「貴様を殺してどうする、意味がないだろう」
泣きながら魔物を睨む母親の許に、息子たちも駆け寄って、姉を守ろうと身を挺している。
「じゃあ私を!」
「だから無意味だと言っている、この愚か者めが! よしわかった、そんなに死にたいのなら、全員まとめて八つ裂きにしてくれるわ!」
魔物の手が父親の喉元に延びる。その大きな口の端がさらに裂け、鋭い牙が鈍く光るのをスウェナは見た。
「駄目……!」
必死で、自分の上に覆い被さる家族の体をかき分ける。
自分を庇おうと死にもの狂いになっている家族の腕を、自分も死にもの狂いの力で振り払い、スウェナはその場から立ち上がった。
「やめなさい、わたしの家族に手を出さないで、メリル・マディナータ・メレル!」
自分でも驚くほど凛とした声が、部屋の中に響き渡る。
そしてさらに信じがたいことがスウェナの目の前で起こった。
「……な……に……?」
スウェナの以上に愕然としているのが、魔物、メリル・マディナータ・メレル公爵だった。
スウェナの一喝でその体が動きを止めた。
まるで、彼女の言葉に呪縛されたように。
絞り出した魔物の声は掠れている。
「お父さんから離れて。そして爪と牙をしまって。お願い」
懇願のつもりで言ったスウェナの言葉は、どうやら魔物にとっては命令になった。
魔物はよろめくように一歩下がると、両腕をマントの中にしまい、剥き出しの牙を納めた。
「……まさか……」
驚愕した顔でスウェナを見て、魔物は相変わらず掠れた声で呟く。
「支配下に置いたというのか、この、俺を……!」
「……え……」
魔物の力を自分の力で組み伏せ、自分の言葉が絶対になるよう命じる。
魔物よりも魔法使いの力が強い時に叶う、それが契約。
「わたしが……?」
この完璧な人型を保つ魔物を、支配した。
呆然と、スウェナは自分の使い魔となった魔物を見遣る。
相手も、どこか途方に暮れたような顔でスウェナを見ていた。
その表情が、やがてみるみる悔しげな、屈辱的なものに変わっていった。
「そうか、宝珠……! 俺の珠を呑み込んだからだ!」
スウェナはハッとして自分のお腹を押さえた。この一週間、いつもよりもずいぶん体温が高い気がする。
「あれは俺が作り出した、俺の力をさらに引き出すための道具だ。それを貴様が呑み込んで……取り込んだりするから……!」
魔物は頭を抱えてしまった。
「くそ、何てことだ、俺が、この俺が、人間の小娘などに支配されたなど……何という屈辱! 許し難い恥だ!」
「ご、ごめんなさ」
「謝るな、よけい惨めになる!」
やけくそ気味に、魔物が声を張り上げた。
「そうだ許すものか、何としても……」
ぶつぶつと、魔物がひとりごとを呟き始めた。
「スウェナ」
状況についていけずにぼんやりするスウェナの袖を、床で腰を抜かしたようになっている義母の手が引いた。
「あんた、ってことは、竜珠のおかげで魔法の力を手に入れたんじゃないの。あの竜公爵と契約しただなんて、それを王宮に報告すれば、国に取り立ててもらえるかもしれないわよ」
「え……でも……」
ぱっと顔を輝かせる義母の言葉に、スウェナは頷くことができなかった。
絶望的な顔で頭を抱えている魔物を見遣ると、何だか、自分がひどいことをしてしまったような、とても申し訳ない気持ちになる。
「でも、ええと……わたしなんかのせいでドラゴンの体に戻れないのなら、そんなに、すごい魔物っていう扱いにはならないだろうし……」
「何だと、貴様」
スウェナの言葉を聞き咎め、魔物が顔を上げて鋭く睨みつけてくる。
「たしかにその通りだが、誰のせいだと思っている」
「ごっ、ごめんなさい! あ、あのう、じゃあ、どうしたら元通りになるのかしら……その、出すのでも、八つ裂きにするのでもない方向性で」
「……」
魔物は再び、黙って考え込んだ。
そしてしばらくの沈黙のあと、心の底から、まったく気が進まないという素振りでしぶしぶ口を開く。
「魔女ジャニスは知っているか」
問われて、スウェナは頷いた。
「伝説の魔女、いえ、賢者のことですよね。三百年も前に生まれた不世出の魔法使い。国に請われて、このメルディアのどこかで自らの身を国の守護のために捧げて死んだ、っていう……」
「ジャニスは死んでいない」
「え?」
「人としての形を失ったという意味でなら、死んだと表するのが妥当だろう。だが彼女の意識は生きていて、この地上の知識を未だ貪欲に吸い込もうとし続けている」
スウェナにはピンと来なかった。
魔法使いの世界では、尊敬と憧れの存在である魔女ジャニス。
彼女のようになるべく生徒たちは日々勉強と修行を続けているが、三百年前の魔法使いは、すでに神格化されて同じ人間と思える存在ではなくなっていた。
「全然まったくもってこれっぽっちも気乗りがしないが、他に方法がないなら仕方がない。ジャニスの智慧を借りるしかないだろう」
「その、魔女は、どこに……?」
「ここから飛んで三晩――」
言ってから、魔物がじろりとスウェナを睨んだ。
「人間の足なら、その何十倍かかるか知るものか」
しかしスウェナにも、他にどんな解決策があるのか浮かばない。魔物の提案に従うのが一番だとすぐに決心した。
とにかく家からこの魔物を離してしまえば、少なくとも家族が危険な目に遭うことはなくなる。
(それに……もしかしたら、そんな立派な魔女に会って智慧を与えてもらえるのなら)
魔物に向かって頷きながら、ちらりと、スウェナはそんなことを考える。
(こんなわたしにだって、立派な魔法使いになるための秘策とか、聞けるかもしれない……)
「わ、わかりました、なら、ジャニスに会いに行きましょう」
震える声で、そう告げる。魔物はおもしろくなさそうな顔で、頷いた。
そうして、スウェナは魔物と共に、魔女ジャニスの許へ向かうことにしたのだった。