【11】愛しているから、ドラゴンは魔女を食べた
今度は、先刻までのように、浅すぎて不安になるような呼吸ではなく、規則正しい呼吸を繰り返して胸が上下している。
苦しげに眉を寄せることも、掠れた呻き声を零すこともなく、安らかな表情で目を閉じていた。
「……」
メリルのそばに座ってその姿を見守りながら、スウェナは今さらひとりでどっと赤くなっていた。
(……キスしちゃったんだ、わたし。この人と)
あんなふうに、触れるだけではない口づけを、その上自分からも進んで。
(は、はしたないことをしてしまった……)
感触を思い出すと、そのまま地面に突っ伏したくなった。
病気のように心臓が早鐘を打って、その必要はもうなくなったはずなのに、自分が勝手に死んでしまうのではないかと不安になる。
(で……でも、あれは、メリルを助けるためだから)
自分を落ち着けるために言い訳をしてみたが、その途端、今度はずしんと胸が重くなった。
(そうだわ、メリルはただ治療のためにわたしにそうしたんであって……他に、理由はないのよ)
彼の想い人が誰なのか、スウェナは知っている。
(……ばかね、わたし。他に想う相手のいる人に、好きだなんて)
勢いに任せて口にしてしまった本心を、スウェナは自分で嗤った。
好きだから助かってほしい、なんて。とても傲慢だ。
メリルはジャニスを想う心のために、人間を殺せない。そんな彼に、辛い選択をさせようとしてしまった自分を、スウェナは悔いた。
「……でも、よかった」
ぽつりと、眠っているメリルを見下ろしながらスウェナは呟く。
何にせよメリルは助かった。それだけで、スウェナは他に憂えることは何もない。
「あとはジャニスに、珠の取り出し方を聞いて……それでおしまいよ、スウェナ」
もしかしたら、メリルはそのままジャニスのそばに居続けることを選ぶかもしれない。二百七十五年ぶりに会えた彼女と、もう離れたくないと願うかもしれない。
(……そうしたら)
せめてメリルを煩わせないように、ひとりで帰ろう。
辛くて悲しくて寂しくて死んでしまうとしても、それはメリルから離れた場所で、勝手にそうなろう。
決意を無理矢理胸に押し込んで、スウェナは今だけの幸福を噛み締めるつもりで、静かに眠っているメリルの姿を眺めた。
◇◇◇
メリルが次に目覚めた時には、見違えるように元気になっていた。
「寝過ぎて体が痛いな」
ボキボキと首や肩の骨を慣らしてぼやいているが、自力で起き上がって、腕を振り回したりできるのだから、相当な回復だ。
「ずいぶん時間を無駄にした。行くぞ」
「はい」
メリルが歩き出せるようになった頃、スウェナは彼と一緒にジャニスを探して旅を再開した。
「ジャニスは、この森のどこに、どうやっているのかしら」
清涼すぎる空気に、またメリルの具合が悪くなるのではと心配しながら、スウェナは呟いた。
「さあ、見当もつかん。会えば――わかるんじゃないかと思っていたが」
だが一日歩き回っても、それらしき場所には辿り着けなかった。
ただ綺麗な花と、健やかな木々が並ぶ中をいたずらに進んだだけだ。
「……迷ったか?」
メリルの呟きに不安を覚えて、スウェナは無意識にその服の袖を掴んだ。
スウェナも歩いている途中から、自分たちがどこから来たのかわからなくなっていた。
転移門前の森と違い、向かう場所がはっきりしないから、迷っているのか、そうでないのかすらわからない。
「暗くなってきたし、もう休みましょう」
魔物に襲われる心配がないらしいことだけが、スウェナを安堵させた。森を歩くたびにメリルの体はまた消耗しているように感じられる。
もう辛そうなメリルの姿は見たくなかった。
「そうだな」
頷いて、メリルが自分の袖を掴むスウェナの手に触れた。
スウェナはびくりと手を震わせ、反射的に逃げ出しそうになる気持ちを抑えるため、さらにメリルの服をきつく掴む。
「……つ、疲れたのなら、また、癒やさないとね」
「……ああ」
メリルが身を屈め、スウェナがぎゅっと目を閉じる。
朝、昼、晩と、スウェナは立ち止まってメリルのために竜珠の力を渡した。
そんな旅を続けて三日目、まだジャニスの居所は掴めない。もしかしたらジャニスなんてもうこの世には存在しないのかもしれない、そんなことをふと思いついてしまったが、スウェナはとてもそれを口にすることができなかった。
(もし、いないのなら、もっとメリルと一緒にいられる)
いつかスウェナの呑み込んだ竜珠の力が尽きる時が来るのかもしれない。
それまではメリルと一緒に、ふたりきりで、この森の中を歩き続けられれば、他に何も要らない気がする。
(今だけでいいから……)
三日目の夜もまた、スウェナは休むために適当なところで腰を下ろし、メリルと向かい合って口づけていた。
まだ恥ずかしさはあるけれど、メリルの体のためだと思えば、堪えられた。
そして恥じらいながら、触れ合うことを喜んでいる自分に気づかれたくなくて、その気持ちを精一杯押し隠した。
「あ……の、メリル……?」
長く深い口づけの後も、今日のメリルはスウェナを抱き締めて離さなかった。
触れ合うたびに、メリルと自分の距離が近づいている気がして、スウェナはその幸福にうろたえる。
「どうしたの? もう少し力が必要なら、その、もう一度……」
「あとちょっと足りないだけだ。そんなには必要がないから、こうしてると適度に力を感じて」
メリルの口調は何だか言い訳のような早口だったが、そうか、とスウェナは納得して体の力を抜いた。座ったまま、背をメリルの体に預ける。
たしかに自分の中に竜珠の力が宿っているのなら、離れているよりも、くっついている方がメリルのために役立つのだろう。
(この格好なら、顔が赤いのも、嬉しいのも、メリルにはわからないわ)
両腕で腹を抱かれる格好は本当に恥ずかしかったが、同じくらい安心もしていた。
「……気持ちいい」
だから油断してしまったのだ。あまりにメリルに抱かれているのが心地よくて、つい、その本音が唇からこぼれ落ちてしまった。
メリルの両腕に力が籠もったことで、スウェナは自分の失言を知る。
「やっ、やだわたし、メリルは重くていやでしょう、ごめんなさい寄りかかって」
慌てて、スウェナは地面に手をつき、すっかりメリルへ預けていた体を起こそうとした。だがメリルの腕は離れない。離れようと身じろぐスウェナと、離すまいとするようなメリルが、もみ合う格好になる。
「きゃ……っ」
弾みで体がどうなったのか、気づいた時には地面に背中がついていた。
「痛……」
「す、すまん」
スウェナが顔をしかめると、狼狽したようなメリルの声が降ってきた。
メリルはスウェナの体の上に覆い被さるようにして、彼女に怪我をさせたのではと心配して、焦っている。
そんなメリルの顔を初めて見た。スウェナは急におかしくなって、小さく吹き出す。
笑われて、メリルがむっとした顔になる。その顔すらもスウェナにはおかしくて、くすくすと笑い続けてしまう。
(駄目、好き……)
笑いながら、スウェナは衝動的に泣き出したくなった。
そんなスウェナの目を、メリルがじっと覗き込んでいる。
スウェナがその視線から逃れられないうち、メリルの顔が近づいてきた。
「……」
目を閉じて、スウェナはそっとメリルの背に両腕を回した。
唇同士がまた触れる。口腔にメリルの舌が潜り込んでくることに、スウェナはもう何の違和感も覚えていなかった。
(気持ち……いい……)
メリルの指先は優しくスウェナの髪を撫で、頬を撫で、首筋に触れる。
そしてその唇が、指先と同じところに触れる。
「もっと……深く」
唇からだけでなく、メリルはスウェナの中にある宝珠の力をもっとたくさん欲しがっているようだった。
耳許で囁かれた低い声に、スウェナはぞくりと体を震わせた。
怖いわけじゃない。なのに体の震えを止められない、不思議な感覚。
「うん……」
メリルに身を任せて、頷く。
スウェナはこのままメリルに食べられてしまっても、後悔しないとわかっていた。
だから何もかもメリルに任せて、ただ目を閉じる。
メリルの唇は、スウェナの体のあちこちに触れていった。
その指も、優しく、スウェナの深いところまでに触れ、スウェナの中を浸食していく。
長い時間、濃密な空気の中、スウェナはずっとメリルの存在だけを体中で感じ続けた。
◇◇◇
自分のくしゃみで目が覚めた。
「ん……さむ……」
決して寒くはなかったのに、なぜか心許ない感触を全身が覚えている気がして、スウェナは無意識に呟いた。
(ちくちくする……)
素肌を、直接何かが撫でている感じ。湿っていて、ちょっと青臭くて、あまり寝心地がよくない――
「……?」
ぼんやりしたまま、スウェナはゆっくりと目を開いた。
しばらく、自分の置かれている状況がわからずにいる。
目の前にあるのは空。青い空。木々の隙間から見えるよく晴れた天気。
寝ていたんだ、とやっと把握して、スウェナはのろのろその場で身を起こした。
と、体に乗っていた布きれが落ち、咄嗟にそれを捕まえながら自分の体を見下ろし――愕然とした。
裸だった。何も着ていない。身にまとっていたはずの服が体の上に乗っていただけの格好で、草の上に寝転んでいた。
(そ……そ、そ、そう……だ、わたし……)
すっと、血の気が引いた直後、逆に体中の血が頭に上ってしまったかのように、赤くなる。
あれはまるで夢の中のできごとのようだった。
でも夢じゃなかった証拠に、スウェナの体の、あらぬところが、鈍く痛んでいる。
(わ、わた、わたし、メリルと……)
スウェナは裸の自分の胸に、くしゃくしゃになった上着を押しつける。
――これまで体験したことのない、噂にだけ聞いていた、男女の密接な行為。
それを、メリルとしてしまった。
キスだけじゃ止まらずに、もっと体の深いところで繋がり合ってしまった。
呆然と身動きも取れずに座りこけていたスウェナの視界に、向こうから歩いてくる黒ずくめの姿が映った。
メリルはスウェナより先に起き出し、森の中を歩き回っていたらしい。旅立った最初の頃のように、力強くて、軽い足取りだった。今日はすっかり体調がいいのだろう。
大股にスウェナの方へ歩み寄りながら、メリルがふいとその体から目を逸らした。
「何だ。早く服を、着ろ」
褐色の肌を赤く染めて、ぶっきらぼうに言われた瞬間、スウェナは呆然とメリルを見上げたまま、ぼろぼろ大粒の涙を零した。
そっぽを向いていたメリルが、スウェナから返事も衣擦れの音も聞こえないことを不審に思ってか、おそるおそるという様子で再び視線をスウェナに戻す。
「な……っ、何だ、どうしたんだ!」
泣いているスウェナに、これ以上ないというほど狼狽して、メリルが声を上げた。
「ひ……ひどいわ、メリル……」
あんまりな、仕打ちだと。
スウェナは悲しくて悲しくて、悲しすぎて泣かずにはいられなかった。
「竜珠の力が欲しいだけなら、こんなことまでしなくていいじゃない」
「いやっ、え……りゅ、竜珠?」
「わたしがあなたのことを好きだって知ってるのに、どうして好きでもないわたしのこと、こんなところで、あんなふうに……」
メリルにとってはただ力のチャージのためであっても、スウェナには――少女には、もっと深い意味のある行為だった。
しかもよりによって、彼の想い人がいるというこの森で、そんなことに及んだという事実が、スウェナをひどく傷つける。
メリルは、ジャニスのことを思い出しながら自分に触れたかもしれない。
そう考えるだけで、スウェナは悲しみに胸が引き裂かれそうになった。
「ま、待て、いや、待て」
メリルが、スウェナの前に膝をつき顔を覗き込んでこようとする。
スウェナは服で身を隠しながら、いっぱいに顔を背けた。
「違う、そうじゃない、俺は」
冷たい手に、剥き出しの腕を掴まれた。
「おまえから竜珠の力を分けてもらうために必要なことも、あったが、そうじゃなくて、ゆうべのあれは、あ、あれは」
舌をもつれさせながら、メリルがスウェナに言い募る。
あまりに一生懸命な様子だったので、スウェナはそっと、視線を彼の方へ戻した。
「あれは、おまえを……あ、あ、あ、あ」
「……?」
吃音を繰り返すメリルに、また具合が悪くなったのかと不安になって、スウェナは首を傾げる。
両腕を、さらに強い力で掴まれた。
「スウェナを、愛しているからやったんだ!」
「――」
「……って、何でこんな恥ずかしいことを、この俺が!」
これ以上はないというほど、目と口を大きく開けるスウェナから、メリルは耳まで真っ赤になって顔を逸らした。
「……ほんと……う……?」
うまく言葉がみつからない。すぐには信じられず、ふわふわした気分になってスウェナは訊ねた。
「本当だ!」
怒った声でメリルが言う。メリルは嘘をついて人間を騙す魔物じゃない。
「でも……だって、あなたは、ジャニスが」
好きなんじゃないの?
問いかけようとしたスウェナの言葉は、途中で途切れた。
何となれば――自分の腕を掴むメリルの肩越し、じっと興味深そうにこちらを見ている痩せた女の人の姿が目に入ったからだ。
「え……え?」
「あらやだごめんなさい、タイミング、間違ったみたい」
スウェナの目が合って、相手が、困ったような、けれど明るい笑い顔でそんなことを言う。
「――!?」
あまりに唐突な出現に驚き、言葉を失くすスウェナの視線を追って、メリルも背後を振り返った。
そのまま、腰を抜かしそうな勢いで、彼女の方から飛び退る。
「ジャ……ジャニス!?」
そしてスウェナが今まで聞いたことのないような、うろたえきった叫び声を上げた。