【10】殺してほしいと魔女が言い、涙は甘いと竜が言う

「メリル」
 瞼が震えるのを見た時、スウェナは耐えきれずにぱたぱたと涙を落としてしまった。
「気がついた、メリル?」
 二日間、一度も開かなかったメリルの瞼がゆっくりと動き、赤い瞳が覗く。
 メリルの片手が、何かを捜すように宙に浮く。スウェナはすぐにその手を両手で握った。
「……スウェナ」
「わたし、ここよ。ここにいるわ、メリル」
 目を閉じ続けたメリルは、ずっと苦しそうだった。ときおり呻き声が聞こえた。悪い夢――悲しい夢でも見ているかのように。
 二度と目覚めないのではと思うと怖くて、スウェナは必死にその名前を呼び続けていた。
「お水を飲みましょう、果物もまた取ってきたわ」
 スウェナは用意しておいた水や食料をメリルの口許へ運んだが、メリルは力なくまた瞼を閉じてしまい、動かなかった。
(どうしよう……)
 もう何かを口に入れる体力もないらしい。
(どうしたらいいの?)
 このままではメリルは死んでしまう。
 死ぬ、という言葉が頭に浮かぶたび、スウェナは叫び出したいくらい恐ろしい心地になった。
 メリルが眠っている間に、森の中を歩き回ったのに、ジャニスのところには辿り着けなかった。
 そもそもジャニスがどのように存在しているのか、スウェナは知らない。
 人としての形骸を失くしてしまったとメリルは言った。ではどこを捜せば彼女に会えるのか。
 声を振り絞って名前を呼んでも、魔女が応える気配もなかった。
(魔女――賢者ジャニスは、メルディアに住む人間を守ってくれているんじゃないの?)
 それともメリルが人ではないから、ジャニスは守ってくれないのか。
「メリル……目を開けて、起きて……わたしを見て……」
 再び目を閉じてしまえば、もうそれが開くことはないのかもしれない。そんな不吉な予感ばかりがスウェナの心を占める。
 胸が潰れてしまいそうだった。
「……メリル……聞いて、わたし、あなたにお願いがあるの」
 ぎゅっと握り締めた手が、かすかに動く。反応がある。メリルはまだ眠っていない。
「わたしを殺して」
 ぴくりと、メリルの瞼が動いた。辛そうに、ゆっくりと目を開けている。
「……な……に……?」
「わたしを殺して、わたしの中から竜珠を取り出して。そうすればあなたは治るわ。お願い、そうして」
「……馬鹿、な、ことを」
 メリルの声は、耳を澄ましてもうまく聞き取れないほど小さく掠れている。
「そんなこと……できるわけが」
「だってこのままじゃあなたが死んでしまう。今だってもう、起き上がれもしないじゃない」
 メリルは拒むように、スウェナから顔を背けた。
 スウェナはメリルの冷え切った手をさらにきつく握った。
「あなたが死んでしまったら、わたしも生きていけない。メリルがいない世界なんていや。あなたがいないところで、ひとりでなんて生きていたくない」
「……」
「あなたが好き……大好きよ、わたし、あなたを死なせたくない。守りたい」
 嘘偽りのない言葉をスウェナは連ねた。
 メリルが生きていてくれるのなら、自分の命なんてなくなったって構わない。
 ひとり助かって、それでのうのうと生きていけるなんて思えなかった。
「だから殺して。竜珠を取り戻して」
「……嫌だ」
 思いのほか強い語調で、メリルがはっきりとそう答える。
「できるわけが、ない」
「最初にわたしがいけなかったの。わたしが勝手にあなたの大切な宝珠を食べたから。そんなことをしなければ、あなたは今こんなに苦しまなくてもすんだのに」
「……」
「なら命令よ、メリル・マディナータ・メレル」
 できうる限りの厳しい口調で、スウェナはメリルに言い放った。
「契約者としてあなたに命じます、メリル・マディナータ・メレル、わたしを殺しなさい。もしあなたが殺さないのなら……わたしが、自分で」
 スウェナはそっと自分の背後へ手を遣った。指先に堅い棒が当たる。メリルが眠っている間に削り出しておいた、木の枝で作ったナイフ。
 それで自分のどこを突けばいいのか、スウェナにもわかる。
「……やめろ」
 メリルが片手をスウェナに伸ばす。
 スウェナはメリルの手を握っていた方の腕でそれを押さえようとするが、逆に、その手もメリルに捕らえられてしまった。
 苦痛に満ちた顔で、メリルが力を振り絞りスウェナの腕を引く。強い力で引っ張られて、スウェナは横たわったメリルの上に倒れ込んだ。
 逃げようとすると、強い力で今度は背中を抱き締められた。片手に首の後ろを掴まれ、引き寄せられる。
「――」
 堅くて冷たくてかさかさの唇の感触を、自分の唇で味わった。
 抱き締められて、口づけられている。
 その事実に、こんな時なのに、スウェナは全身で幸福を感じてしまった。
(本当に、殺されてもいいの、メリル)
 今メリルの手によって命を絶たれるのなら、スウェナは人生で一番倖せな時に死ねることになるだろう。
「……」
 しばらく唇を合わせ、スウェナは少し息苦しくなってきて、自然と身を引いてしまった。
 名残惜しく、間近なメリルの顔を覗き込む。
 メリルもスウェナのことをみつめていた。
「涙と同じ味がする」
「……え?」
 ぽつりと呟いたメリルの言葉の意味がわからず、問い返そうとしたが、答えを聞くより先にスウェナは再び抱き寄せられ、今度は自分からもメリルの唇に自分の唇を寄せた。
 メリルの唇が、何かを囁くように動いている。その動きに合わせるように、スウェナも唇を動かした。
 冷たく濡れたものが唇に触れる。スウェナよりも体温の低いメリルの舌。
「……んっ」
 驚いて身を引こうとするスウェナの背を、メリルの強い力が押さえ込む。
「ん、ん……ぅ……」
 あえかな呻きを漏らし、スウェナは必死に恥ずかしさを堪えてメリルのされるままになった。
 初めて誰かと口づけた。こんなふうに触れられた。
 どうしていいのかわからず、スウェナは縋るようにメリルの服を握り締める。
「……なるほど」
 長い間スウェナの口中を探っていたメリルが、何かを納得したようにそんな呟きを漏らした。
 メリルの声には、先刻よりもずいぶんと力が戻っているように聞こえる。
「え……?」
「おまえが宝珠か」
「わ、わたし?」
 頭に血が上り、ぼうっとしていたスウェナは、メリルの言葉の意味がやはりわからずにただそう問い返した。両手で自分の体重を支え、メリルの顔が見えるように少し体を起こす。
 メリルはそんなスウェナの腰に手を当て、じっと顔を見上げている。
「おまえの体の中から、宝珠の力を間近に感じた。……殺さなくても、こうすれば、俺はスウェナから力をもらうことができる」
 スウェナは目を瞠った。
「本当に? メリル、元気が出たの?」
「さっきよりもずっと気分がいい」
 頷いたメリルに、スウェナは嬉しさと安堵のあまり、また涙が出てきた。
 メリルが指先でスウェナの目元に触れ、涙のしずくを拭い取る。
 その指先を自分の唇に運んでいた。スウェナはメリルの仕種に赤くなりながら、その様子を見守る。
「……そうだ、この味だ」
 メリルの褐色の肌に、血の気が戻ってきているように見えた。
 濁りかけていた瞳が、また綺麗な赤に変わっている。
「前にスウェナの涙を舐めた時、こんな味がした。ピクシーのミルクなんぞよりもよっぽど甘く――これまで食べたどんなものよりも美味だった。そうか、竜珠の味だったんだ……」
 スウェナは呟くメリルの頬に掌を寄せた。
「もう、辛くないの?」
「……もう少し」
「……」
 スウェナは目を閉じて、再びメリルと唇を重ねる。
 体中から溢れるようなこの暖かさは、竜珠の力なのか。
 それとも、竜珠の力を借りて、メリルを癒やしたいと願う自分の魔法なのか。
 それとも――その両方なのか。
 スウェナは長い間、メリルのことだけを想いながら、彼と深く口づけを交わし続けた。

失恋竜と契約の花嫁

Posted by eleki