ありがとう「いだてん」
毎週楽しみにしすぎていた「いだてん」が終わってしまった。
大河ドラマを見るのはずいぶんと久しぶり、実家にいた頃や居候時代はその家の人が見ていたのでなんとなく一緒に眺めることもあったけど、一人暮らしするようになってからは、そもそもテレビ自体をあまり観なくなっていた。
しかし今年の大河の主役は「金栗四三」だったので、俄然観る気になった。
中学高校時代のすべてを陸上競技に捧げていた私なので、陸上関連の人物が大河で取り上げられるなど、観ないでいられるわけがない。
「幻のオリンピック」を扱うらしいのも楽しみだった。
おまけに脚本が宮藤官九郎なのが駄目押しだった。
テレビドラマというものにさほど興味のなかった私が、唯一円盤を買ってまで観た作品が「木更津キャッツアイ」で、他にも「マンハッタン・ラブストーリー」「タイガー&ドラゴン」「吾輩は主婦である」「流星の絆」「あまちゃん」など、最終回まで見届けられたドラマのほとんどがクドカンの脚本作品だったからだ。
(最近は野木亜紀子さんも好きで、ひさびさにドラマが楽しいなと思ったのが、「逃げるは恥だが役に立つ」「アンナチュラル」のおかげだった。そこからまたドラマを観る習慣ができて、「まんぷく」「いだてん」、今は「スカーレット」「ゲゲゲの女房(再放送)」を楽しく視聴している)
ものすごく楽しみに初回を待って、予想を裏切らないドラマの描き方にがっしり心を鷲掴みにされて、最終回まで走り抜けた。
本当に楽しくて楽しくて、毎回笑ったり泣いたり、すさまじい情報量と感情の振れ幅で疲れ果てて、録画が溜まっていてもいっぺんに二話以上が観られないほどだった。
心底楽しませてもらったけど、番組以外のところで、どうしても心が翳ることがたびたびあった。
視聴率のことだったり、俳優の交代だったり、問題を起こした役者の出演シーンを編集する話だったりだ。
閲覧数稼ぎのために根拠もなくセンセーショナルな見出しで打ち切りについて喧伝するメディアには心底うんざりしたし、それに乗っかって観もしないのに騒ぎ立てる人にも嫌気がさした。
それでも「打ち切りとかあるわけがないのに、何言ってんだ?」と、囃し立てる人たちにイライラしながらも番組存続自体に対する危機感を一度も覚えずにすんだのは、「いだてん」が間違いなくおもしろい作品であることと、何より「NHKが放映している」という安心感のおかげだった。
いや、だって、クドカンですよ。
クドカンって特に数字持ってる脚本家というわけじゃないじゃないですか。
放映時には視聴者の熱さに対して視聴率がびっくりするくらい低くて、円盤が売れてもカルト的な人気で、でもカルト的なものが好きな人には激しく評価されていて、でもそれ以外の層、特に年配の人には嫌われがちな(というか理解されない)作風の宮藤官九郎じゃないですか。
まさか「年々低下している視聴率を上げるためだけに雇った」というわけがないでしょう。
ということは、新しい大河を作ろう、視聴者の層を拡げていこう、みたいな気概が軸にあったはずなんですよ。
既存の視聴者には(ある程度)叩かれることは想定内で、そのリスクは承知の上で、クドカンだからこそできるおもしろいものをという調子でNHKが依頼したんじゃないかと想像するわけですよ、勝手に。
そして実際、NHKは最後まで「いだてん」を守ってくれた。
これが民放だったら、スポンサーの問題があるから、三話くらいでもう畳む準備を始めたり、てこ入れのために脚本とまったく関係ない話題の人をぶち込んだんじゃないだろうか。ドラマ詳しくないから知らんけど。伝説の「ピーマン白書」とかみたいに。
元々の脚本なりプロットなりを知らないからやっぱり想像でしかないけど、少なくとも視聴者が不自然に感じるような形でのてこ入れはなかったと思うから、それだけでもう「受信料を払っていてよかったなあ!」と思うしかない。
まーちゃんは煙草を吸い続けて、鬼の大松は最終回まで姿を見せて、それが今のご時世どれほどの奇蹟なのか。
私は「いだてん」を手放しで絶賛するけれど、視聴率が低い理由は、観ているとすごくよくわかる。
私がシナリオの学校に通っていた頃、講師から散々言われたのは、「テレビはみんな片手間に観ている、一箇所にじっと座って最初から最後まで観てもらえる映画と違って、飛び飛びでも意味がわかるように作らないと、視聴者はついてきてくれない」ということだった。
番組の途中にちょっとトイレに行く、食後にお皿を洗いながらちらちら眺める、家族とお喋りして登場人物の会話を聞き逃す、一話うっかり見忘れる、始まっているのに気づかず10分後にチャンネルを合わせる、途中でお風呂沸いたから席を立つ、意識の半分がスマホに向いている、そういう人たちでも楽しめるものを作りなさいと言われた。
それに自称ドラマ好きのうちの母など、いろんな番組を録り溜めて、すべて倍速で観ている。この「ドラマ好き倍速派」は、結構な割合で存在する。
一瞬でも見逃すと大事な伏線を取りこぼしてしまうようなクドカンの脚本を、最初から最後までクライマックスというようなドラマを、「テレビの前に45分座り続けて、取りこぼしがないよう真剣に、じっくりと、集中して観る」ような人は、そうそういないのだ。
日本人の大多数は、そういうテレビの楽しみ方をしていないのだ。
だから、ドラマを息抜きの娯楽として気軽に楽しみたい、もしくは大河ドラマっていうのはもっと古い時代の誰もが知っている題材を端整に重厚にお約束通りに作るもの、と認識している層にとって、「いだてん」はとんでもない駄作で、意味不明で、視聴者の方を向いていない、大河失格のドラマなんだろうと思う。
それはそれで間違っていないというか、仕方ないというか、妥当な評価だと思う。
「いだてん」は、「大勢の、受信料を払ってくれている人の大多数の視聴者が楽しめる作品作り」という部分の優先順位が極端に低く感じる。
いや勿論、最初から視聴率が低くてもいいからやるぞなんてことは、さすがになかったと思うんですけど。
「観てもらえればわかってもらえる、わかってもらえれば受け入れてもらえる」と思ってた予想が、思ってたより全然低く外れてしまったんだろうなあと、これも想像でしかないけど。
作り手は「絶対おもしろい」っていう自信があったと思うんですよ、間違いなく。
おもしろいものを視聴者に届けたいという真摯な情熱がなければ、こんなドラマは作れない。
でもだからこそ、放映数回で大勢の人にそっぽを向かれる、もしくは「受信料を払ってやってる俺を大事にしないけしからん番組」と怒らせてしまう作品であるとわかってしまった後も、最後まで曲がらず「いだてん」を放送しつづけたNHKには感謝しかない。
何が感謝って、私にとってはとてつもなくおもしろい作品で、観ている間、次話を待つ間、ものすごく元気になれたからです。
こういう作品がこの時代のこの世にあるという事実、一億二千人のうちの8パーセント以上が、このドラマをおもしろいと思って見続けたという事実にだって、言葉に尽くしがたく勇気づけられる。
いや調査世帯が限定されているのは知っているけどあえて一億二千人、8パーセントと言わせてくれ。
そのうえ最後まで見続けた人たちの中に、細かな伏線を最終回に向けて鮮やかに余さず回収して昇華させるという気の遠くなるような作業をきちんと受け止め、絶賛する層が少なからずいたなんて、なんと希望に満ちた世界なんだろうと、目の前と胸の中がキラキラする。
長丁場の連続ドラマだからできたことであり、潤沢な予算と資料と人材があるから叶った、夢のような時間でした。
いろいろあっても、やっぱりこういうのを作れるのはNHKしかない。
ありがとう受信料を払っている国民たちよ。
受信料というのはおもしろい番組に対して払う対価ではないので、たとえもう二度とこういう番組が現れないとしても、私はこの先も受信料をちゃんと払い続けるよ。
そしてこんなにおもしろいものを大勢の人は評価していないんだから、全然売れてない私の本だっておもしろいかもしれないぞという、作家的にも勇気を与えられるドラマでした。
売れない本の中におもしろいものがあるとしても、おもしろい「から」売れないということではない現実は知っているので、何も言わなくていいです。
ここから自分語りだぞ気をつけろ。
私の小説は、読んだ人によって割と極端に評価が分かれる(気がする)。
これはもうデビューしたての頃からそうで、人によっては「丁寧な描写、よく練られた話」と言ってもらえたり、別の人には「浅すぎてつまらない、何も引っかからない。さらっと読んですぐ売った」と言われたりする。
多分「浅すぎてつまらない」という人向けに、もっとわかりやすくて、ドラマティックで、ダイレクトに人の感情に訴えかけるような丁寧な話が書ければ、もうちょっと売り上げがよくなるんじゃないかと、しょっちゅう考える。
どのくらいわかりづらいかという説明をすれば、私のデビュー作は恋愛ものだったにも関わらず、「絶対に登場人物の誰にも【好き】や【愛している】の言葉を言わせないまま、お互いをどう思っているのかを表現する」ことにこだわっていたくらいですよ。
誰がどう見たってわかり辛いに決まっている。丁寧に描いてるつもりだけど、大事な部分をすっとばした雑な物語に見えるだろう。
でも私はそう書きたかった。
結局大多数の人に見向きもされなかったけど、私の書きたかった部分を予想以上に丁寧に汲み取ってくれる読者もいて、長年この作品を大事に思っているのだと私自身に伝えてくれたりする。
そういう読者の存在と、何とか商業作家として喰っていける程度には仕事があるという事実だけで、かろうじて「小説家」と名乗り続けている。
仕事として、自分以外に利害に関わる人がいるのに、自分のこだわりを押し通すのはどうなんだろう…としょっちゅう迷って、時々は「読んだ人にできるだけ喜んでもらえそうな小説」に挑戦することもある。
どちらが、というか何が正しいのかはわからない。
そもそも私が下手すぎて伝わってないだけという部分も大きい気がして、どちらに向かえばいいのか決められない。
そういう中で、「92パーセントの人には理解されないけれど、最後まで走りきったドラマがあって、それを自分が最高に楽しいと感じた」ことは、果てしない希望になる。
だから「いだてん」ありがとう、「NHK」ありがとう。
自分が92パーセントの方に入れればもっと楽しい人生を過ごせた気がするので、地獄も感じてしまったけれどありがとう。
この先も8パーセントの地獄で生きていきます、ありがとう。
私の地獄はともかく、ひとつひとつは些細な台詞、仕種、演出、それが次第に繋がって大きな感情が湧き上がるような仕掛けを、一年間味わわせてもらえたことが、本当に幸福だった。
こんなに気持ちのいい体験は、近年、そうなかった。
そうだよ、たった一年なんだよ、と思うと気が遠くなる。
小さい四三君が山道を走っていた頃から、ずいぶん遠くまで来たなあ。
老年の金栗さんが聖火の最終ランナーになれずに嘉納先生の像の前で頽れて泣いた時、史実とはいえなんて残酷なことを描くんだとやり切れない気持ちになったけれど、クドカンなんてところを拾いやがると罵りたくなったけれど。
違った、金栗さんはあの時だって現役のマラソン選手だったのだ。
走り続けていたから、選手ではない人が走る聖火リレーランナーと、役割が違ったのだ。
初めてのオリムピック、ストックホルムのマラソンを、まだ走り続けていたから。
この(私の中で)有名な逸話を最後にあんなふうにぶち込んで来るとかさ。ずるいじゃんね。
ずるいずるい言って嗚咽しながら、私も「いだてん」をゴールした。
来週からもう「いだてん」がないのだと思うと、さみしくてさみしくて、取り返しの付かないものを失くしてしまったような気持ちにさえなる。
でも大丈夫だ美川がいる。
総集編も楽しみです。
ありがとう「いだてん」。