災害の時、被災していない人間がエンタメに没頭していいのか

エッセイ

東日本大震災の時、数人のクリエイターが

「こんな時に、娯楽作品を書いていていいのか悩んで、筆が止まってしまう」

ということをTwitterで呟いていて、衝撃を受けた。

「どこかで辛い目に遭っている人がいるのに、自分だけ楽しんでいていいのか」

いいんじゃない、としか思えなかった。

別にいいんじゃない。安全なところにいる人が、好きなこと、楽しいことを味わってはいけない理由が、よくわからないよ。

「あなたが辛そうだから、私は楽しみを我慢していますよ」と言われたら、私ならちっとも嬉しくない。
「あなたは辛そうだけど、私は楽しみを享受しますよ」とわざわざ言われたら、「好きにすればいいけど、こっちに向かって言わないで」と思うだろうけど。
被災した人とおなじくらい辛い目に遭えば、相手の辛さが目減りするかといえば、そんなことはない。

…というのは屁理屈だろうし、心情的に、うしろめたさを感じる人がいるのもわかる。
それは多分人としてはまっとうな感情なんだろう。

でも、あなたはそうしようと決めていても、楽しくやってる他人を責めないでほしいとも思う。
自分が非日常に置かれてしまった時、どこかに日常があることで安心する人も間違いなく存在するんだから。

阪神淡路大震災の頃は、まだあたりまえのように同人誌サークルが自家通販(自分の作った本を、直接相手の住所に郵送する)を行っていて、私の手許には「仮設住宅」と書かれた住所から小為替の入った封筒が届いた。
何年も、新しい本を出すたびに通販を申し込んでくれる人の名前と町名は、自然と覚えている。だからいつもと違う住所から手紙が届いた時は、ものすごく生々しく「本当に大変なことが起こったんだ」と感じた。私にとっては、テレビで映し出される景色や人の泣き顔を見た時より、その手紙を受け取った時が一番ずしんときた瞬間だった。

小為替に添えられた手紙には、
「こっちは大変だけど、いつも通りの好きな本が読めるのが嬉しい。仮設住宅にもちゃんと届くので、通販よろしくお願いします」
という感じのことが書いてあった。
それから数年間、ぽつぽつと、その人以外にも仮設住宅とついた住所から、通販申し込みが続いた。
早く元の住所に届けられるといいなと願いつつ、同人誌を送った。

「いつか元どおりの生活が送れる」と感じられることが、一部の人には、ものすごい望みになるんだろうなと思う。

当時、同人誌を送る時に、「頑張れ」みたいな手紙をつけようかと思ったけど、何か違う気がしたので、「同人誌はずっと作って、ずっと売ります」みたいな返事をした。
二次創作みたいに流行り廃りがあるわけじゃない創作小説だから、実際十年単位で売ってる本もある。
今思い返したら、そうしようと決めたのは、この時の経験があったからかもしれない。

自分が好きでやっていることが、誰かの希望…というと大きすぎるけど、息抜きになるなら、すごく嬉しいなと思った。
そして大変な状況の中でも、自分の好きなものを求める人の気持ちを頼もしく感じたりもした。

その時のことがあるから、余計に、「安全なところにいる人間がいつもと同じ行動を取る」ことを後ろめたく思えない。
「趣味のtwitterでくらい震災のことを見たくないから、萌え話をしているフォロワーを見ているとほっとする」と言っている人もいた。
世の中には、防災アカウントやニュースアカウントをフォローして日常に役立てる人もいれば、好きなアニメやゲームや作家をフォローして、そのタイムラインを眺めている時だけは非日常の世界を楽しく過ごしたいという人も存在する。

震災を機に、「もっとメッセージ性のある作品を書かなければ」と言うようになったクリエイターもみかけたけど、私にはそれができないので、いつもと同じくひたすら好きなものを、もっとうまいこと伝わるように研鑽してこうと思う。
たとえばだけど、サバイバルで生き抜くノウハウやメッセージの詰まった作品より、生き抜くための気力を貯めたり余計な力を抜いたりする作品を作りたい。

たぶんどちらも必要なものだと思う。向いてる方をやりたい。

無事を祈ったり、復刻を願ったりする気持ちと、自分の好きなことをやりたい気持ちは、同居できる。
どちらかが強ければどちらかが消えてしまうというようなものでもない。
好きなもの書いて、好きなことやって、それと並行して募金とかボランティアをやることで回る世界だと、嬉しいなあ。

エッセイ

Posted by eleki