「小説家になってカフェで(修羅場)原稿を書くのが憧れ」
いろんな作業に行き詰まってしまったので、気分転換にタリーズに行って今日発売のコップのふちにぶら下がる熊を買おうとと思ったら「開店直後に売り切れた」と言われて、しんなりする。
リンクを貼ってみたけどキャンペーン終わったらnot foundになるのだろうか。
タリーズとかスターバックスに行くと、半分くらいの人がノートパソコンを使っている。特にタリーズの作業人口の高さには目を見張るものがある。座席に電源がついているので、お店の方も作業歓迎なんだろうと思う。
私は最近あまりカフェで執筆をしていなくて、なぜかというと家に猫がいる生活になったら、猫とちょっと離れていると「ダメだ…猫に会いたい…!」と辛くなってまったくもって集中できなくなってしまったから。
猫と暮らすようになるまでは、カフェやファーストフードで作業をすることも多かった。
やっぱり周りに人の目があると緊張感が出てきて、あとは「あまり長居はできない」というプレッシャーで、集中できる。気がする。
たまに集中しはぐって、単に優雅なカフェタイムを過ごして帰るだけの時もあったけど。
カフェで原稿することに関して考ると、たまに思い出すのが、小説家志望の人が口にした「カフェで修羅場原稿をやるのが憧れ」という台詞です。
それを聞いた時、まったくもって意味がわからなくて、「なぜそんなことに憧れる…!?」と首を捻った。
大体「修羅場に憧れる」というのがよくわからない。そもそも修羅場などというものはない方がいいものだし、〆切が迫って(あるいは過ぎて)なお外で執筆をしなくてはならないほど追い込まれている状況など、想像するだけで胃が痛くなる。
(ここで言う修羅場というものは、アスラとインドラの戦いの場のことではなく、男女間の痴情の縺れが発生することでもなく、小説家や漫画家の納品直前の壮絶な執筆状況のことを指します)
これが、「カフェに優雅に執筆するのが憧れ」なら、わからなくもない。私も、カフェでMacBookを使う人に憧れるし(私のMacBook Airはバッテリーがへたりすぎて電源なしでは一時間と持たない)、ほぼ日手帳を開いて手帳タイムを過ごす人にも憧れる(私のほぼ日手帳は大きいカズンなので、重たくて持ち歩きたくない)けど、何で好き好んで修羅場をカフェで…?
多分そういうのに憧れる人は、修羅場を迎える必要のない、きちんと計画性を持って執筆を進めるタイプの人なんだろうなと思う。
そして、「作家たるもの、破天荒な方がいいものが書ける」という信仰を持っている人でもあるのではと邪推する。
私はこの通説に真っ向から反対意見を持っていて、結局のところ「破天荒な上につまらないものを書く作家なんてあっという間に干される」というだけの話なのではと思っている。
破天荒なことをしてみる、既成概念を破壊して羽目を外してみる、そうしたらいいものができる…ということが、まったくないとは思わないけど。
その場合は「破天荒なことをした」ではなく、それをしたことによって得た経験が創作に生かされるというだけで、品行方正に正しいことをし続ける人がつまらない話しか書けないということはない。はず。
逆に言えば、「ここまでいい作品を作らなければ、この奇行は許されないのだ」と、世の破天荒な作家先生たちを見て思う。
作品と人柄について考えた時、どちらかといえば、私生活が清く正しく他人に優しく過ごしている人が、突き抜けた話を書いている場合の方が、どうもぐっと来る。
さっきずいぶん前に録画したままにしてあった「漫勉」の浦沢直樹の回を見て、浦沢先生が「死体を書く時は丁寧に、その人の人生を思って書く」というようなことを言いながら死体の山を描いているのを見て胸が震えた。
人の命は大切で、死はただの死ではなく、その後ろに本人の人生や関わった家族、友人の人生が積み重なっているのだなと、そういう想いが伝わってきた。
そうか、そんなことを考えながら、あんなにたくさんの死体を描いてきたのか。
残虐な死を描いてやるという意気込みを持った人より、人を愛する人が書く死の方が、より残酷で悲惨なものであるのだなと、浦沢漫画に思いを馳せる。
漫画家じゃなければただのサイコパスやんけ…。
そんな感じで、修羅場原稿に憧れる人は、たぶんずっと修羅場原稿に無縁なんだろうな、と思いながらロイヤルミルクティを飲んでいました。
ふちベアフル欲しかったなあ。