東宝「マリー・アントワネット」
マリー・アントワネット
二回目。今回もマルグリットは新妻さん。
今回は二階席だったので、全体が見渡せたせいか、もうちょっとカリオストロの存在意義がわかった…全体の流れが掴みやすかったというか。
でもやっぱりいらないよなあという結論は変わらず…。
何でだろ、何がこんなに気に喰わないんだろ、と考えて、思い至ったのは、わたしはすごくマルグリットが好きなんだな〜ということです。
マルグリットが自分で選んで自分で立ち上がったことに、彼女への愛しさを覚えるのに、それがカリオストロのお膳立てだったらイヤだなあってことかも。かもか。
結局カリオストロの位置づけがいまいちよくわかんないままなので(単なる暇つぶしの歴史傍観者なのか、絶対的な力を持つ魔物なのか)、観てて落ち着かなかった。
別にカリオストロがいなくても、時代に翻弄された人たちの群像みたいのは書けたと思う。全員が立場や生まれや暮らしに流されて、悲劇が起きて、少しずつ何かに気づいていくっていう、それは生きてく上で当然あることなわけだし。「何という運命のいたずら」っていうほどのことじゃない。
それを、カリオストロが大仰に操ってたっていうより、ひとりひとりの思惑が思わぬ結果を…みたいな方がしっくりくるなあ。
結局マルグリットはカリオストロの錬金がまの中でぐつぐつ茹でられて掻き回されただけなのか、それとも立ち向かってカリオストロの意に反したところに行ってしまったのか、結局カリオストロの意図は何だったのか、その辺も観ててはっきりしなかったのが消化不良だわい。
どうせやるなら、カリオストロをもうちょっと話に絡ませるか、ボーマルシェがいなければよかったのに。狂言回しが三人もいるのが、散漫な印象を与える原因じゃないかな〜。
もしかしたら原作読めばもうちょっとスッキリするのかな。ちょっと読んでみようかと思います。
物語にはまりこんで観てる時にカリオストロが出てくると、逆に現実に立ち返ってしまって、集中できないのが辛かったです。山口さんには、いてもいなくても「山口さん」ってだけでいる理由になる役はもうやらないでほしいな〜。
帝劇でやらずに、色物としてコマあたりでやるなら、もうちょっとスッキリしたかも。とかも思った。
ぶつぶつ言いつつ、春公演は綜馬さんがオルレアン侯というので、それはそれで観たいとか思っている。
それにしても井上フェルセンは可憐でした。あんなに可憐でいいのかしらあの人。フェルセンが町にいると、酷い目にあいやしないかと心配です…。