連続する世界
こないだ人と話していて、で、他の人はどうなのかなあと気になったことなんですけど。
思考する時、言葉で考えてますか?
たとえば「あったかいな」って感じてる時、「あったかいな」って言葉で考えてますか、という。
わたしは半分くらい言葉で考えて、半分くらいは考えてないような気がする。
そもそも「言葉で思考する」という技術(技術…?)が身に付いたのって、物心ついた後なんです。で、わたしが物心ついたのって、高校生の時なんです。
中学生の頃までは、世界と自分の間に境界線がなくて、いつもぼんやりしていて、具体的に何かについて考えるということがなかった。すべてイメージの世界だったという。
ある時急に、「言葉で物事を考える」ということができるようになって、そこで自分と世界、他人と自分の境界が明確に生まれたみたいな。覚えが。おぼろげに。
それまで、小説やまんがを書いてはいたんだけど(まんがは、らくがきに遡るなら幼稚園に入る前から、小説は小学校五年生の時から)、ぼんやり書いてるから、全然お話になってなかった。
で、その「言葉で思考する」という技術を体得してから、急にお話が書けるようになりました。
今でもあの時の感じをすげー覚えている。自分の中で、物語やキャラクターが生まれる感じ。自分の手を離れて、ああ、何かを作るっていうのはこういうことなんだなーとやけに実感した。
それができるようになってから、しばらく(三年くらいかなあ)、自分が行動するたびに頭に文章が浮かんで困りました。
一人称で、「あたし、ドアを開ける。車に乗る。そして考える」。
文章が素子姫っぽいのは素子姫の真似して小説を書いていたからです…。
今だったら、「モニタに向かっている。椅子に座ってキーボードを叩く。そして言葉で思考するということについて、考えている。それを文章にしている」と、いちいち頭に浮かべながら行動しているわけです。
しばらくの間発狂しそうでした。
そうすっと、現実のことについて文章で考えていながら、文章を作ることに没頭しているから、現実世界がおざなりになってくるんですね。
そしてやがて現実と自分との間にものすごい溝ができはじめて、人と話していても、それが自分じゃない気がしてくる。「誰かと話している自分」を、本当の自分が思考して生み出しているから、「他人と(現実世界と)接触している自分」が物語の人物になっていくのです。
人と話している間に、おかげで自分が本当はどこにいるのかわからなくなって、パニック状態になって倒れたこともあった。
…おかしいなこれ、何か病名つきそうじゃないですか。今気づくなよ。
ええと何の話だっけ。
今では、さすがに文章にして日常生活を過ごすことは、滅多にありません。
しかし一年のうちのある時期、どうしてもこれをやらずにはいられない時があって、それが春先です。つまりこの時期です。
特にあったかい日。おひさまが照っていて、緑の匂いなんかが漂っている日はいけません。
現実の自分と物語の自分がバッキリ別れ始めて、どんどん気が遠くなってくる。延々と頭の中で文章を作り始めるので、それを吐き出すすべがなくて気分が悪くなってくる。
で、疑問に思ったわけです。他の人は、何かを考える時言葉で考えるのかなって。
基本的に、わたしは(春以外)言葉で物事は考えないです。ぼーっとしてる時はホントぼーっとしてるのね。頭の中に、いろんな世界があって、そこに住んでる人(まあ自分の作ったキャラクターです)を適当に引っ張り出して会話させたり、何かさせたりして遊んでる。それについて考えている時も、文章では考えないです。ひたすらイメージ。台詞もない。「台詞を言ってる感じ」はあるんだけど。これ、上手く説明できないなあ。絵や映像で考えてるのとも違うんです。全体のイメージ。音や色や感触でもない。五感以外のところで漠然とうごめいてる何か。何だか自分でもわからん。それをひたすらいじくり倒す。
これやってる時が一番楽しい。
たまに言葉で文章を考える時もあります。大抵、自分のイメージでは捕らえられない、未知のできごとや人の行動に対して「なぜなんだろう」という理由を捜す時です。
これも最初はイメージから始まって、だんだん集中してきて、言葉になる感じ。
うむ、やっぱり説明し辛い。
この作業がものすごく下手なので、わたしは人と話すのがとても好きです。ディスカッションみたいなことが大好き。だから人と一緒にいるときは、のべつまくなしにひたすら喋ってます。で、人がどう考えてるのか聞くのも好き。
人と話す時は、当然コミュニケイションの道具は言葉になりますから、言葉で会話するために、思考も言葉になります。だから人といる時が一番いっぱい物を言葉で考えてる。
そのせいか、何かを考えると、他人に話さずにはいられない。話すことによってやっと形になるから。あと、大抵の人はわたしより経験があってたくさんものを考えているので、自分には「何でそうなるのか」わからないことも知っていて、教えてくれるので嬉しいです。
わたしはものすごく世界が狭くて、過ごしてきた環境も特殊なので、知ってることがものすごく少ない。ので、人と話してると「うわ、この人すげー賢い!!」と驚くことが結構あるんですが、驚いてることに驚かれてちょっと恥ずかしい。
みんなちゃんといっぱいものを考えていて、いろんなことをやっていて、すげーなと思います。
人と話す時以外で文章で考えるのは、もちろん小説を考えている時ですが、これは人と会話するために(思考するために?)言葉を考えているのとちょっと違うんだよな〜。
書く時に、あんまり文章を考えて書いてるわけじゃないんです。勝手に手がキーボードを叩く。
別に神さまが降りてるとかそういう話じゃなくて、あれだ、たとえば陸上競技で高跳びをやる時に、跳んでる時っていちいち物を考えてないんですね。走ってる時もそうだけど。100Mなんてわたしでも12秒くらいしかないわけだし、その中で「スタートではここを気をつけて、ここはこう気をつけて」とかやってると、その分時間ロスしますから。
だから本番の時は何も考えないで、でもそれまでの練習で体が覚えたことを自然と踏襲してる感じ。
文章を書く時も、こんな感じで、こういう文章を書こう、っていうんじゃなくて、これまでのいろんな経験(読んだり書いたり考えたり思ったり)の中から言葉を探して、それを指で書いてる感じ。うーんと、何かの真似をしてるとかじゃなくて、自分の中にイメージが浮かんでて、そのイメージを言葉に変換する作業を指が(まあ脳がなんだろうけど)こなしてるっていうか。
最近この「イメージを言葉に変換する」作業がすごく億劫で、お話やキャラを頭で捏ねてる時はすげー楽しいんだけど、それをアウトプットすることが不得手になってしまいました。
多分、仕事で文章を書くようになって、「イメージを文章にする」じゃなくて「文章を考える」ことが必要になってしまったからだと思う。仕事用の話って、仕事用に考えないと、自分の中にあるもんだけじゃ使えないから。
大体プロット切るのが苦手で、今まではそうやって漠然としたイメージだけを考えていればよかったのを、他人に見せるために形にしなきゃいけないのがどうにも苦痛です。プロットに当たる作業の部分が多分その「イメージ」なんだけど、それをそのまま取り出して「ハイ」って人に見せるわけにいかんし。
話を考えている時(思っている時、という表現の方が現実に近いかも)、仕事用じゃなければ、ページ数の区切りとか、ジャンルの縛りとかは当然なくて、たとえばひとりのキャラクターについてだったら、その人の生い立ちや死ぬまで、その間にあったこと、その親や子供に関するところまでバーッと考えています。一個一個の話じゃなくて、連続した世界になってるの。それを切り取って物語、作品として人に見せられる形にしている。
仕事の時はそこじゃない世界から話を作ります。でっち上げるっていうか。だから話やキャラクターが薄っぺらい。(あ、でも、応援団のとか、探険隊のとか、マックおたくの話とかは、もともと頭にあったやつなので、連続している方の世界にある話です。同人誌で書いてる話も)
バンバン話が飛んですみません。
最近、お話を作ることを生業にしている人と会話していた時、「作品には自分の言いたいことを組み入れるべき、そのために物語を作っている」ということを言われたんですね。
自分が主張すべきテーマを人に納得させるために、物語を作っていると。たとえば「メガネ萌え!」ということを主張する時に、ただ「メガネ萌え!」ということを叫んだだけでは、メガネ萌え属性のない人には「ふーん」ですまされてしまう。
だからいかにメガネが萌えであるのか、よしんばメガネ萌えについて理解してもらえなくても、メガネをすばらしいと思っている人種が存在することを納得してもらうことが必要であると。
そう言われて気づいたんですが(いや前々から、別の人と話していてもわかっていたんだが。改めて)わたしにはテーマが存在していない…。
頭にある世界を書きたい。それはテーマだと思う。多分。協議の結果そうなった。
でも、世界じゃない部分を書く時、そこにテーマが存在していないのです。
ここが自分の話のつまんねー部分なんだな、ということに気づいた。
こう、わたしの話って、何かぼんやりしてるじゃないですか。特に商業誌。いやですかって言われても困るか。まあしてると思うんですよ。
人に「訴えかけたい」って部分がないの。
だからわたしの話はおもしろくないんだなー。
「ここに萌えて欲しい!」っつーのもないし。
やっぱね、ボーイズラブを書いてるからには、萌えてもらわないといけないと思うんですよね。萌えられないボーイズ小説なんて便所紙以下です。
あと文章が下手だったり、日本語が崩壊している理由もここあると思う。考えて書いてないから読み辛い。あと誤字脱字が多い。設定がまとまってない。
受と攻の名前をよく間違えるのも、イメージでものを捉えているからな気がします。名前でキャラの区別をつけていないので。記号だから間違っちゃう(それもどうかと)。
ぬあー、日本語が上手くなりたいよう!!
それでもわたしの話を好きだと言ってくれる人に、誤解されるのは嫌なので、はっきり書いておきますが、仕事の原稿を書く時も、おもしろいものを書こうと思って、自分がおもしろいと思うものをがんばって書いてます。特に最近は、なるべく自分の中のイメージを文章にする方法で話を作ろうと試行錯誤しています。
だから頑張って書いた文章を、好きだと言ってもらえるのはすごい嬉しいです。作品について、「今まで読んだボーイズの中で一番好き」って言われたことがあって、ホント、泣きそうになりました。瞬間最大風速でも、今この瞬間だけでも(だって絶対もっとおもしろいものはいくらでもあるし、これからも生まれるし、一番は変わるもんだと思う。変わらなくちゃいけない)そんなに好きだって言ってもらえてすごく嬉しかったです。
で、何の話だっけ。
そうそう、言葉でものごとを考えることね。
今も、漠然と考えていたことを、日記に書くために文章に変換しているので、「あ、わたしこんなこと考えてたんすか!」とびっくりしたりしています。で、納得したりもしている。
やっぱり言葉になると説得力があるなあ。いやわたしの言ってることに説得力があるっていうんじゃなくて「ああこういうイメージがあのイメージだったのか」と腑に落ちるっていうか。
説明し辛い。
何でこんなことを書いてるかというと、まあ春だからだと思うんですけどね。
いっぱいものを考えるので疲れます。変なスイッチが入ると、いつもならボウヨウと生きているのに、ガーッと、イメージや、それに文章も、頭から漏れてきて死にそうになるのです。
この感覚が、高校生の頃、世界と自分が乖離していた時のイメージにソックリで、その高校時代がものすごく辛かったから、その疑似体験をしてしまって今のわたしも辛くなります。
いい年して何やってんでしょうか。
ああ思考が止まらないよう。
形にするとある程度落ち着くので、このような日記を書いております。
あ、まじめに読む必要ないですから。
頭の中の世界もでっかくなって、ぽろぽろ話が浮かんで来るんですが、こういう時浮かぶ話って仕事には使えないようなものなので、どうしようもねえなあ。
人と話していると文章で考える、と言いましたが、文章で考えてる時って創作モードのスイッチも入ってるから、人と話しながら全然違うことを同時に考えていたりして、気づかず沈黙していることもある。
そしてそれが萌え系の話だったりすると、黙り込んで赤くなってにやにやして相当恥ずかしい。よく式部さんに顔を覗き込まれて、「今なんか考えてたでしょ」と言われる。そしてそれを話す。
いい迷惑だなあ。
この日記を読んでる人もいい迷惑ですね。
ああ思考が止まらないよう。
今書いたようなことを、別にいつも考えているわけじゃなくて、イメージが一瞬掠る感じです。一瞬で思ったものを、文章にしてみたらこうなりましたと。
話を書く時も、プロットのない時は大抵こんなで、一瞬浮かんだイメージを、逃さないように、頭の片隅でずっと捕まえてて、そのイメージを言葉に直す――あるいはイメージに近づく言葉を探す、その両方の作業をしている。
この作業をしないと、気持ち悪くて死んじゃいそうなんです。
…ということがここ数年なかったんだけど、春なのでそういう感覚に襲われているゥ〜。
ちょっとお話でも書いてきます。
何か恥ずかしくなって明日にも消しそうな日記だな。