こころなんてしりもしないで・第3話
昼休み、大抵佐山は社員食堂を使った。安くてメニューも豊富だし、割合美味い。コンビニ弁当よりは体にもよさそうだ。
それで佐山が日替わり定食を手に空いた席を捜していると、先に座っていた秋口に声を掛けられた。
「あれ、佐山さんも今飯ですか。よかったらこっち、来ません?」
まるで昔からの知人のように親しげに話しかけてくる秋口の周りは、おそらく営業部だけではない、あちこちの部署の女子社員が取り囲んでいる。まるで餌に群がる蟻のようだとぼんやり感想を浮かべつつ、佐山は苦笑して首を横に振った。
「いや、向こう、空いてるから」
佐山は窓際の方の席を指さした。秋口たちは食堂の真ん中辺りを占拠していて、実に目立つ。この中に入っていく度胸は佐山にはなかった。
逃げるように秋口のそばから離れ、隅っこの席に落ち着くと、佐山はほっと息を吐いた。どんな顔をして、秋口のそばを取り囲む女子社員と一緒に、秋口の近くで食事などすればいいのか。
ややもすれば、競って楽しげな女子社員の笑い声が、佐山のいる席まで届く。
秋口には入社以来、決まった恋人はいないようだった。誰それと最近親しいと噂が流れ、それが噂に疎い佐山の元にも届く頃には、別の相手と懇ろになっているという塩梅だ。それで親しくなった相手と疎遠になることはないから、秋口の周りをうろうろする女性は増える一方だった。秋口航という男に目を掛けられることが、女子社員内で一種勲章のようなものになっているらしいと、佐山も気づいている。
(俺が女だったら)
割り箸を割りつつ、佐山は眉根を寄せた。
(やっぱり、秋口の周りでうろうろするうちのひとりになるのか?)
そんなことを考えてしまい、佐山は一気に食欲の失くなる思いだった。くだらない想像。自分が女だったら、などと考えること自体が正気の沙汰じゃない。
「気持ち悪ィ……」
「佐山さん、具合悪いんですか?」
唸るように呟いた時、真横から声をかけられた。その声にぎょっとして見上げれば、定食の載ったトレイを手にした秋口がそこに立っていて、佐山はさらに驚く。
「あれ……どうかしたのか? 向こうにいたのに」
みっともなく仰天している様子を表に出すまいと、佐山はつとめて平静な口調で秋口に問いかけた。
秋口は佐山の了承も取らず、佐山の向かいの席へ回り込むと、その椅子に座ってしまった。
「人が増えちゃって収拾つかないんで、置いてきました」
佐山が振り返ると、女子社員たちが数人、不満げに秋口の方を見ている。
「でも、向こうと約束とかしてたんだろ」
「してませんよ、約束なんて。食堂に来る間に勝手についてきたのと、食堂で俺の姿見て勝手に集まってきたのと」
秋口の口調は自慢げでも、面倒げでもなく、まるで『蛇口を捻ったから水が出た』というようなあたりまえのことを語る感じだった。
「面倒だから、プライベートで約束はしないんです。タイミングですからね、顔を合わせて時間があれば一緒に飯なり飲みに行くなり、その後なり。タイミングとかフィーリングって大事だと思うんです」
「はあ」
秋口は佐山の向かいで食事を始めた。佐山はどうして秋口が自分の前に来るのかわからないまま、しかし追い出す理由もないので、仕方なく自分も定食をつつき始める。
「向こうに営業の人いるけど、あっちには行かないのか?」
秋口と向かい合わせで食事を摂るというのが、どうしても居心地悪く、佐山は食堂を見回してそう言った。佐山や秋口たちから少し離れたところで、秋口と同じ部署の社員が数人固まって食事を摂っている。
「メシの時まで、上司でもない年上の同僚と一緒にいたくありませんから。入社の早い遅いだけで、やれ茶を取ってこいだの醤油を渡せだの言われんの、面倒なんですよね」
課が違うとはいえ、自分だって同じような立場なのに……と佐山が疑問に思いつつ向かいを見遣り、目が合った秋口がにっこり笑う。
「その点、佐山さんなら気ィ遣わなくてすみそうだし」
どういう意味だ、とさらに疑問に思ったが、佐山はあえて聞かずにおいた。あまり嬉しい返事が来そうにもない雰囲気だ。
「それに一課のセンパイたちも割と顔広いから、ほら、結構いろんな人が寄って来るでしょ」
秋口に釣られて佐山が一課の面々を見遣ると、たしかに男女問わず、彼らに次々声を掛けたり、その近くで食事を始めたりしている。
「それもまた面倒。佐山さんの近くなら、別に人が集まって来るわけじゃないだろうし、楽かなーって」
どう相槌を打ったものか、佐山は曖昧に頷きながら定食に視線を落とした。
「あんまり群れられるの、そろそろ鬱陶しくなってきたんですよね。仕事でもないのにその場にいる全員に気遣えるタイプじゃないし、全員が物分かりがよければ楽なのに、自分が一番じゃないと嫌だって相手同士が揉めると、こっちにアタリがきつくなるし。――あ、すみません、こんなこと佐山さんに言っても、わからないですよね」
明るく笑い声を立てる秋口の前で、ますます佐山の食欲は減退していく。
「そうだな、もうちょっと、わかりそうな相手に話した方がいいんじゃないか?」
辛うじてそれだけ佐山が返すと、秋口が「わかってないなあ」と大きく頭を振る。
「恋愛に多少通じてそうな相手に言ったら、やっかまれるだけですよ。佐山さんならほら、サッパリわからなくて適当に流すしかないでしょ?」
いよいよ食欲が失くなって、佐山は半分も食べていない定食の盆の上に箸を置いた。
「あれ、佐山さん、もう食べないんですか」
「あー……もう、腹一杯」
「全然減ってないじゃないですか。そんなんで保つんですか、午後」
「もともとそんなに食べる方じゃないから」
「だからそんな、チ……細身なんじゃないですか? ダイエット中の女の子みたいだ」
佐山は口に入れた白飯が飲み込みきれないような、息苦しい感じになりながら笑った。テーブルの上のポットからお茶を注ぎ、冷まし冷まし湯呑みを手に取る。
「体質なんだよ、そういう」
秋口は佐山の様子に気づいたふうもない。
「じゃ、この唐揚げとサラダもらっていいですか」
「どうぞ」
「あ、俺にもお茶下さい」
「……」
佐山は無言で、秋口のためにもお茶を注いでやった。湯呑みを秋口の前に押し遣ると、「どうも」と簡単なお礼が返ってくる。
佐山は秋口が食べ尽くした自分の分のトレイを持って、立ち上がった。
「じゃあ、俺は戻るな」
「俺も行きます」
お茶を飲み干し、秋口も一緒になって立ち上がった。別に自分につき合ったわけではなく、ひとりで食堂に残れば他の人に話しかけられて『面倒』なのだろうと、佐山は察しをつけた。
トレイをカウンタへ返し、秋口と並んで食堂から出た時、ちょうど廊下を御幸が歩いてきた。
「よう、もうメシ終わったのか?」
御幸の顔を見て、佐山は思わず大きく安堵の息を吐き出してしまう。
秋口がそんな佐山の様子をちらりと一瞥してから、御幸に軽く頭を下げた。
「今な。御幸は、これからか」
「外回りだったから、ついでに外で食べてこようと思ったんだけど、店が混んでてさ。腹減った」
笑いながら、御幸が腹を押さえている。
「あ、そうだ佐山、これやるよ。N工業行ったらくれたんだけど」
ポケットから取り出した小さなチョコレートの包みを、御幸が佐山に手渡した。受け取りながら、佐山はちょっと笑う。
「またもらったのか、あそこの事務の子から」
「最初に受け取ったのが不味かったよな、今さら甘いもの苦手なんて言い出せないし」
困ったふうに笑い返しながら、御幸が秋口に目を移す。
「秋口も、食べるか?」
「いえ、俺も甘いもの嫌いなんで」
そう言って秋口が首を振った。
(そうか、秋口も、甘いもの嫌いなのか)
秋口の答えを、佐山は無意識に頭の中で反芻してから、少し恥じ入る。相手の些細な趣味嗜好を知って嬉しいなんて、まるで高校生の女の子みたいだと思った。
「それじゃ、俺はこれで」
恥じ入りつつ、佐山が御幸にもらったチョコレートをポケットに突っ込んでいると、秋口がそう言ってふたりのそばから離れていった。
あっさりした退場に、佐山は何となく、秋口は御幸のことも好きではないのだろうかと感じた。
ただそれは、自分に向ける感情とかなり違う方向性だと思える。どっちにしろ秋口は『男が嫌い』らしいが、少なくとも御幸に対しては、自分に向けるような軽口を叩いたりしないだろう。そんな気がする。
「佐山? どうした、しかめっ面して」
秋口の後ろ姿を見送りながら考え込んでしまった佐山の顔を、御幸が横から覗き込む。
佐山は慌てて首を横に振った。
「いや、別に」
「秋口にまた苛められたか?」
勘のいい御幸に、佐山はちょっとぎくりとした。
「苛められたって、そんな、学生でもあるまいし」
「ならいいけどさ」
それじゃ俺も食堂行くからと行って、御幸も佐山のそばから去っていく。
ともかく佐山は、秋口との仕事が終わって、また安心して遠くからその姿が見られるよう何かに向けて祈った。
そう、小馬鹿にされていても、構われているのが嬉しいなんて気持ちが、これ以上膨らんでいかないうちに――。