きまずいふたり・第5話<完結>

 風呂場でぼんやり考えごとをしていたら、すっかり長湯になってしまった。
 ゆだりかけた体を持て余しながら、腰タオル一枚で散らかったキッチンの床を乗り越え、冷蔵庫を空ける。中はほぼ空だった。こういう時に酒でも飲めれば格好がつくし余分なことも考えずに済むのに、と苦笑いで、昨日賞味期限の切れた牛乳をパックのまま直接飲んだ。
 空になったパックをゴミ箱に放り投げ、寝室に向かう。脱ぎっぱなしの部屋着を着て、そのままベッドに転がった。今日中に目を通しておきたい仕事があって持って帰ってきたのに、資料の入った鞄に触れる気も起きなかった。
『あんた一体、何なんだ?』
 目を閉じると、すぐに秋口の声が浮かんだ。
『じゃあ結局、佐山さんが俺を好きだなんて言ったのは嘘じゃないか』
 どうやったら、嘘なんかじゃないということを、まともに秋口に伝えることができるのか。
 あれから一週間、佐山は会社で秋口の姿を見かけることすらなくなってしまっていた。おそらく秋口が、故意に佐山の視界へ入らないよう動いているのだ。そうでなくては、同じフロアで働いているのにまるっきり見掛けないなんてことがあるはずない。
 もちろん電話もメールもないし、佐山からするつもりもなかった。
「どこが好きなんだろうなあ……」
 最初に秋口を好きだと思ってから、何度も自問した。これに明確に答えられないのが、そもそも問題なんじゃないかと思う。秋口と自分との間にあったことひとつひとつを考えてみれば、その理由になることなんて何もありはしなかった。
 なのに、どこ、なんて部分を考えさえしなければ、やっぱり佐山は秋口のことを考えるだけで胸が痛くなるような始末だった。最初の頃、ただ食事をして、他愛ない会話を交わしていれば幸福だった時期が懐かしい。自分だけが想いを隠していれば、それでうまくいくような気がしていた頃。
(……いっそ、俺への執着なんてなくなればいいんだ)
 会わなくなったことが関係の終わりとは佐山には思えなかった。秋口が自分に興味をなくしたのなら、細心の注意を払ってこちらと顔を合わせない努力なんて、する必要はないのだ。過剰に気にしているからこその結果だ。
(こっちから頭下げるの、待ってるって辺りかな。で、自分で逃げてる割に、捜して会いにこなかったら、俺が秋口のこと大して好きじゃないって責めるんだ。きっと)
 まともなつきあいを邪魔をする中途半端なプライドや独占欲なんて、秋口に持って欲しくはなかった。
 いっそ前みたいに偶然会社の廊下で姿を見られればその日は何となくいい気分になるとか、そんな時期まで戻ってしまいたい。
「……」
 真剣にそう願ってから、佐山は大きく溜息をついた。
 秋口の自分本位さも自尊心の高さも尋常じゃないが、自分のこの感覚だって到底まともではないのかもしれない。こんなことを何度も願ってしまうなんて。
 眠ることもできずに悶々とそんなことを考えていると、不意にしんとした部屋の中にドアチャイムの音が響いて、佐山は飛び上がりそうになるほど驚いた。慌てて眼鏡を引き寄せて時計を見たら、午前二時近く。こんな時間に一体何だ、と警戒しながらベッドを降りて玄関に向かう。
 悪戯だったら無視してしまおうと、玄関のドア、魚眼レンズから外を窺った佐山は、驚いて声を洩らした。
「秋口……!?」
 マンションの廊下の壁に凭れるようにして立っていたのは、秋口だった。佐山は慌ててチェーンを外し、ドアを開ける。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「仕方ないだろ」
 こんな時間に、連絡もなく訪れた非礼を詫びるでもなく、秋口は口を開くなりそう言った。背中で後の壁に凭れたまま、顔を伏せ、呂律が少々怪しい。酔っぱらっているのは佐山にも一目でわかった。
「あんたが、他人と一緒にいるのが、気に喰わないもんは気に喰わないんだから、仕方ないだろ」
「……」
 またその話か、と佐山は落胆した。また同じ会話の繰り返しになってしまうのだ。
「もういいよ、そういう話は」
 廊下で話していたら近所迷惑になってしまうと、佐山は秋口に近づいて、その崩れかけた体をどうにか腕で支えた。
(うわ、酒臭い)
「よくないから来たんだよ」
 秋口の言葉を無視して、佐山はその腕を肩に担ぎ、玄関の中まで引っ張っていく。秋口の足取りは覚束なくて、佐山が手を離すと、靴を履いたまま廊下に座り込んでしまった。
 その秋口の手が、佐山のシャツの裾を掴む。
「……どうしたらいいのかわからないんだ。助けてくれよ」
 秋口は顔を伏せていたから、どんな顔をしてそんな台詞を言っているのか、佐山にはわからなかった。
 ただ、その口調が心細くて仕方がない子供のようで、知るか、と思いつつ、佐山は何だか胸を突かれたような心地を味わってしまう。
「自分で考えろよ。 前と何も変わってないじゃないか、秋口はただ自分が辛いのが嫌なだけだろ」
 ここで頷いたって何が変わるわけでもない。佐山はそっと秋口の手を外させた。
「……」
「俺は、多分秋口にとっての便利な人間にはなれないよ。誰かひとりだけを見て、それだけにのめりこんで、他の全部を捨てるようなことしたくない。言いたいことは変わらないよ、だから、それが無理ならもう全部やめよう」
「全部?」
「秋口は、他にそういうことをしてくれそうな相手をみつければいい。おまえはそんなに格好よくって、仕事もできるんだ。すぐに、もっといい相手が――」
 言い掛けた佐山の言葉を、秋口が力任せに床を叩く音が遮った。
「……秋口、夜中だから、もう」
「本気で言ってるのかよ」
「……割と」
 いっそこれで秋口の方から愛想を尽かせてくれればいいと、佐山は頷いたとおりの気分でいた。
 秋口は、片手で頭を抱えてしまっている。
「やっぱり、佐山さんは俺のこと好きじゃないんだ」
「好きだよ」
「じゃあどうして!」
「でも、こんなことばかりで嫌になる」
「……」
「全然一歩も進んでない。気づいてるか? 俺たち、一ヵ月以上も経って同じこと繰り返してるんだぞ。同じ会話ばっかり何度も何度も繰り返して、さんざん気まずい思いして、そんな状態だけ続いてるのが俺にも秋口にもいいことだなんて思えないんだ」
「……好きだけど嫌いになった?」
 一瞬激昂しかけたはずの秋口の声は、掠れるような、小さな囁きになった。
 佐山も何だか泣きたくなってくる。
「嫌いになりたい」
「……」
「秋口のこと好きで、今までたくさん、本当にうんざりするほど嫌なことばっかりで、傷ついて、泣き喚いて、それでもあの時俺が秋口と一緒にること選ぼうとした意味、本当にわからない?」
「……」
「だったら俺はもう、秋口のこと嫌いになって、それで離れておしまいにしたいよ。秋口だって、ただ俺に執着してるだけで、好きだってことじゃないんだろうし……気に入ったおもちゃを他人に取られるのが嫌い、っていうだけで」
「……好きとか、わからないんだから、仕方ないだろ」
 また、以前と同じ言葉を秋口は繰り返す。
「……開き直るなよ……」
 それが免罪符になるなんて秋口が信じている限りは、やっぱり何も変わらない。
「今まで誰かを好きになったことなんてないんだよ、俺」
 秋口の言葉に、佐山は泣き笑いのような息を吐いた。
「いっぱい女の子とつき合ったくせに」
「美人だとか、胸がでかいとか、そういう基準でしか見たことない、女なんて」
「最低だな」
「だから俺のこと嫌いなのか?」
 顔を下に向けたまま、秋口が低く訊ねる。最初よりも少し口調はしっかりしていたが、玄関先はすっかり酒臭くなってしまっている。
「もう、シャワー浴びて寝ろよ、酔っ払い」
 そう呼びかけても、まったく動こうとしない秋口に業を煮やして、佐山は再びその腕に手を伸ばした。
 抱え上げようとする佐山の手を、秋口が両手で掴む。
「佐山さんが他の奴と一緒にいるの、嫌なんだ」
 見上げてくる秋口の表情は、苦しそうで、どうしても佐山の胸に痛い。
「俺といる時より楽しそうにしてるの、ムカつく」
「……」
「俺のこと嫌いになるなんて言うなよ。雛川さんとか御幸さんとかといて、俺といるより楽しそうになんてするなよ」
「だから……そういうの、無理だって言ってるだろ。前からのつき合いだってあるんだし、秋口のためにそれを手放す気にはなれないよ」
「俺よりあいつらの方が好きってことか?」
「……もう……だから……」
 佐山も頭を抱えたくなったが、両手は秋口に押さえられていて、この場から逃げ出すことも適わない。
 必死の顔を、秋口はまだ佐山に向けている。
「いいよ、じゃあ御幸さんたちはいいよ、俺より先に会ったんだから仕方ない」
「勘弁してくれよ、酔っ払いが……」
「何で亮人なんだよ。亮人なんて最近会ったばっかで、顔も声も俺と似てるのに、どうしてあいつといる方が楽そうなんだよ、佐山さん」
「……そんなの」
 答えようとして、言葉が詰まった。
 佐山にだって、秋口へ素直に言えなかったことはあるのだ。
「……縞さんに優しくされると、秋口にそうされてるみたいで嬉しいからに決まってるだろ」
「――」
 秋口が声を失くして佐山を見上げる。
 今度は佐山が顔を逸らす番だった。
「縞さんが本気じゃなく俺のこと口説いてるのなんてわかってるよ、口癖みたいに言うんだろ、ああいうこと。でも俺は、それが嬉しかったよ。秋口の声で優しい言葉かけられて、秋口の目で優しく見られて、それが嬉しいんだよ。悪かったな、おまえが嫌いな女々しい奴だよ」
「……佐山さん……」
「なあ、俺たちやっぱりちゃんと距離置かないか? 秋口と一緒にいられるようになって、それで俺も少し欲が出たんだ。おまえに不信感持ってる時に、別の、おまえに似てる人に優しくされて、よろめきそうになるくらい弱ってるんだよ。放っておいてくれたらちゃんとひとりで立ち直るし、おまえだって少し冷静になるだろ。このまま変なことで揉めて、全部終わりになるよりも、いっそただの先輩後輩とか」
「……佐山さん……俺に優しくされたかったの……?」
「……」
 腕を掴んだままの秋口に問われ、佐山はすぐには言葉が出てこずに、きつく歯噛みした。
(こんなところから、始めないといけなかったのか)
「……あたりまえだろ」
「佐山さん」
 低く震える佐山の声に、返る秋口の声がどこか狼狽している。
 その動揺に、佐山は抑えようと思った感情が溢れ出し、気づくと今までにないほど秋口の前で声を荒らげていた。
「あたりまえだろ、そんなの! 誰が好きな奴に冷たくされて嬉しいもんか、マゾでもあるまいし! 俺だっておまえに甘い言葉のひとつも言われて、べたべたに甘やかしたり甘やかされたりしたいよ、好きなんだから好きだって言いたいよ、あたりまえみたいに! でもできないんだ、こういう状態辛いんだよ本当に!」
 激昂してさらに言葉を継ごうとした佐山は、不意に体を引き寄せられて秋口の方へ倒れ込み、抱き締められて、声を飲み込んだ。
「どうすればいいのか教えて下さい」
「……」
「他の女にしてきたみたいにするんじゃ、駄目な気がするんだ。そういう上っ面の言葉言いたくない、だから、どういうふうにすればいいのか、教えて下さい」
 切実な、まじめな声で、秋口が言う。
 素直に凭れることができず、佐山はその体に両手を当て、自分の体重を支えた。
「……馬鹿……」
 自分でわかるほど、もう泣き声になっている。
「俺が答えたんじゃ、意味ないだろ」
「泣くなよ」
 佐山の背中を抱く秋口の腕に少し力が籠もる。
「泣くよ。あんまり情けなくって泣けてくる」
「……嫌いになった?」
 佐山はまだ秋口に寄りかかることができない。
「嫌いだよ、秋口なんて」
「……」
 佐山の答えに、秋口が黙り込む。佐山はそっと秋口の顔を窺って、その表情が悲しそうに歪んでいるのを見て、ちょっと笑った。
「嘘だよ、馬鹿」
 笑った佐山に驚いたように秋口が目を上げ、その表情が可哀想で、可愛くなって、佐山は自然とその唇にキスをしてしまった。
 近づく佐山に秋口も自然と目を閉じ、おとなしくキスを受けている。ただ、佐山の背に回した腕にはさらに力が籠もった。
 少しの間唇を合わせ、そうした時と同じく、佐山の方から顔を離す。
 離れる佐山の目を、秋口が惹かれるように追いかけて覗き込んだ。
「愛してる」
 まるで思わずのように秋口の口から零れ落ちた言葉に、佐山は驚いて大きく目を瞠る。
 佐山の反応に、秋口がまた狼狽したように目を逸らした。
「……びっくりした」
 佐山もついそんなことを洩らすと、俯いた秋口が小さく息を吐く。
「……言わなきゃよかった」
 言葉どおりの後悔が滲む声音。佐山は秋口の頬にそっと片手の掌を当てた。
「どうして?」
「呆れてる……」
「驚きすぎて、言葉が出なかったんだ」
 正直な心境を佐山が述べたら、目を逸らしたままの秋口の顔が、ただ酒に酔っただけではなく赤くなった。
「……好きだよ、秋口」
 今さら緊張しながら佐山が言うと、秋口がぼそぼそと何か小さく呟きを返している。
 聞き取れず、佐山は秋口の方へまた少し身を近づけた。
「秋口?」
「……俺も」
「……」
「俺も、佐山さんが好きです」
「……」
 佐山は急に体から力の抜けたようになって、そのまま、秋口の方へと凭れた。肩口に額を押しつける。
「……佐山さん?」
 不安そうに問いかける秋口に何も応えられず、佐山は小さく啜り上げた。
「佐山さん……」
 泣いている佐山に気づいて、秋口の声音はさらに困惑を深めたが、佐山は何も言葉が出ない。
「また俺、何か傷つけるようなこと言いました?」
「……嬉しいんだよ」
 絞り出すように、佐山は言葉を綴った。
「俺は、秋口のこと好きだから、秋口がもし同じ気持ちだったら、嬉しいんだ」
「……同じ気持ちです」
「……ん」
「抱いても、いいですか?」
 慎重に訊ねてくる秋口に、佐山は小さく笑う。今だってもう、秋口の腕は佐山の背に回っているのに。
「許可なんて取ったことあったか?」
「……離れるって言ったから」
「困ったな……」
 呟いた佐山の言葉は、本当に、心底から困ったような響きになった。
「え?」
「離したくないんだ」
「……」
 きつく、秋口が佐山の体を抱き締める。佐山は小さく身じろぎして顔をずらし、秋口の唇を捜した。秋口の手が伸びて佐山の眼鏡を外させる。先刻よりも長く唇を触れ合って、また離れ。
「……酒臭い」
 笑って言った佐山に、秋口も苦笑を洩らした。
「御幸さんと飲んでたから」
 秋口の言葉は少し歯切れ悪い。御幸と親しくすることにも腹を立てていたのに、自分は彼と一緒に飲んでいたというのだ。居心地も悪くなるだろう。
 そんな矛盾を、今の佐山に責める気持ちはまるで起きなかった。
「そっか。御幸も気の毒だな、俺からも秋口からも泣きつかれて」
「……御幸さん、大人だから……」
「でも俺は、秋口が好きだよ」
 秋口の苦笑いが消える。喰い入るように佐山を見ていた。
「御幸も、縞さんも、沙和子も、他の人もたくさん好きだけど、でもこうやってそばにいたいのは秋口だよ。好きとか……愛してるって、言って欲しいのは秋口だけだ。それじゃ駄目なのか?」
 黙って、秋口は首を横に振った。
「秋口以外とキスしたり、それ以外のこととか、絶対に俺はしない。俺がそういうの嫌だから、無理」
「……あの」
「え?」
「俺も佐山さん以外とそういうことしなければ、佐山さんは嬉しいですか」
「……」
「他の奴と俺がそういうことするの、佐山さんは嫌ですか?」
「……嫌だよ」
 ここで、秋口がしたければ仕方がないとか、そういうことを答えるのは違う気がした。
 正直に佐山が頷くと、秋口が吐息を零す。
「何だ……」
「『何だ』?」
「嫌じゃ、ないのかと思ってた」
「……」
「俺だけ嫌なのかと思ってた」
 真剣な顔で呟く秋口に、佐山も溜息をついて、肩を落とした。
 秋口がばつの悪そうな顔になる。
「……言わないから」
「言わなくても、嫌なんだよ。普通は――いや、普通は置いておいて、俺は、嫌だよ。秋口が他の人と……」
 言いながら、佐山は再び秋口に顔を近づけ、掠るようなキスをしてからすぐに離れた。
「――こういうことしたりするの、すごく嫌だし、傷つくよ」
「……知らなかった」
「……殴っていいか?」
「そ、それはちょっと」
 慌てる秋口に、佐山はまた盛大な溜息を吐く。
「言わなかったのは、最初に秋口が『女々しいこと言うな』って言ったからだろ。秋口が俺のこと好きなんじゃなかったら、仕方ないっていうのもわかってたし。……好きだなんて言われることもなくて、でもそこで不満がられるのは、俺の立つ瀬がない」
「……すみません……」
「謝るだけか?」
「え?」
「俺がそういうの嫌だってわかって、秋口は、どう思う?」
「……俺も、しない」
 じっと、佐山は秋口を見遣った。
「他の奴と寝たりしない。佐山さんが嫌なことは」
「そういうのも、嫌だな」
「え?」
「俺が嫌だから、っていうの。秋口がしたかったら、していいよ。俺に止める権利はないから」
 秋口が小さく首を振る。
「でも俺、佐山さんじゃないと駄目だから」
 佐山は笑みを零した。
「じゃあ、同じだな」
「……」
 笑った佐山の顔をまじまじみつめてから、今度は秋口が力の抜けたようにぐったり肩を落とした。その様子に佐山はもっと笑って、それから、ふとまじめな顔になる。
「秋口が他の人とそういうことをしたいと思った時は、隠し通すか、はっきり言って別れてくれ。駆け引きみたいなことはできないんだ、俺。そういうのがわかった時点で、多分、秋口が望むような状態ではいられなくなるから」
「……。わかった」
「うん」
「でも、当分――今は全然、そういう気ないから」
 やっとだ、と。
 そう思いながら、佐山は秋口の背中を抱き締め、ぎゅうぎゅうと力を籠めた。
「それは、何より」
 秋口が身じろいで、佐山に唇を寄せる。仕種に気づいて、佐山も同じように近づいた。唇が触れ合ってすぐ、秋口の舌の感触もして、佐山は積極的にそれを自分の口中に迎え入れた。
 秋口に凭れかかった不安定な体勢のまま、熱心に深い接吻けを味わう。秋口の掌が背中から脇腹へと探るように位置を変え、佐山は震えを堪えながら相手の上着を脱がせ、だらしなく緩まっていたネクタイに手を伸ばす。
 こんな玄関先で、と思う気持ちはあったのに、じゃあベッドに行こうとか、そんな提案をする余裕もないほど秋口とキスを貪り合いながら、互いの体に触れ合って行く。
「ん……」
 シャツの裾から直接潜り込んできた掌に脇腹を撫で上げられ、胸の先を指で摘まれ、息苦しくなった佐山は秋口から顔を離して空気を吸い込んだ。お互いの唾液で濡れた秋口の唇が佐山の首筋に埋まる。身震いしながら、佐山も秋口のネクタイの結び目をほどき、シャツをはだけた首筋に顔を擦りつける。少し汗ばんだ秋口の肌にくらくらした。
 触れ合うことが久しぶりで、佐山も秋口もすぐそれに夢中になった。
「……あッ、……たくさん飲んだなあ……」
 たくし上げられたシャツの中に半ば頭を突っ込んだ秋口に胸の辺りを吸われ、つい上がった声を誤魔化すように、佐山はそう口を開く。
「酒臭いですか?」
「ん……ッ、うん」
 先端に歯を立てながら問い返され、秋口のシャツを掴んだ佐山の指先に力が籠もる。
「俺も酔いそう」
 佐山が呟くと、秋口が屈めていた身を起こしてまた佐山に接吻ける。酔わせるつもりか、と佐山は小さく笑い声をたてた。秋口も笑っていた。
「酔いが醒めたら忘れたりして……言ったこと」
 佐山の言葉に、秋口がちょっと困った顔になる。
「素面の時に、また言います。気持ちは、酔っててもそうじゃなくても変わらないし――」
 少々意地の悪いことを言ってしまったか、と反省して、佐山は丁寧な動きで秋口の唇に軽く歯を立てる。唇の端にもキスしながら、片手で秋口の下肢の間を探った。手の甲で意図せず触れたところが、硬く持ち上がりかけている。布越し、その膨らみに触れながら、反対の手で佐山は秋口のベルトを外した。
「……」
 秋口がじっと自分を見下ろしているのがわかった。何か言うのは気恥ずかしいので、佐山は黙ったまま秋口のズボンを寛げ、下着を少し下ろして、その中心を取り出した。
 悠長に触っている気分ではなかったので、両手で根本を支えながら、そのまま先端を口に含んだ。秋口が軽く息を呑むのがわかる。伸びた片手が佐山の頭に触れる。撫でられる心地よさを感じながら、佐山は熱っぽい動きで秋口の昂ぶったものを口や舌で愛撫した。夢中になっている自分を浅ましいと思うより、口腔で硬さを増す秋口の反応に嬉しさを覚える。
「ちょ……と待って、佐山さん、もうやばい……」
 秋口の吐息はとうに乱れている。小さく震えて逃げる腰を押さえつけ、佐山はきつく秋口の中心を吸い上げる動きを繰り返した。
「……く……ッ」
 少しの間の後、低く声を洩らして秋口が胴震いした。刹那、佐山の口中に熱い体液が注ぎ込まれる。思いのほか早い絶頂に、少し驚きながら、佐山はその迸りを全部口の中で受けた。むせ返らないよう少しずつ喉に流し込み、根本をまだ擦り上げながら、最後まで滴りを舐め取っていく。
「待って……佐山さん、やらしすぎ」
 先端を舌でまだ触れていると、息を乱したままの秋口に頭を押し退けられた。何となく不満に思って身を屈めたまま佐山が見上げると、秋口は片手で自分の顔も押さえていた。
 指の間から覗く顔も、耳の方までも、赤くなっている。
「っていうか……いや、最近、全然してなかったから」
「え?」
 驚いて佐山が見上げる先で、秋口の顔はまだ赤い。
「他の子と会ってただろ?」
「……その説明を今したら多分俺は死ぬので」
 よくわからない前置きの後、秋口は少し強引な動きで佐山の体を自分の方へ引き寄せ、座った自分の足の上へ座らせると、片手を後から佐山のズボンの中に滑り込ませた。
 佐山はおとなしく秋口に凭れ、息を詰めながら指先が尻の狭間を辿り、窄まりまで辿り着く動きを感じる。
「……俺、靴も脱いでなかったんだ」
 今さら思い至ったように、秋口が呟く。玄関先で、靴も履いたまま、お互い余裕なんて少しもなしにお互いの肌の感触を貪ろうとしている。
「すみません、人の家に、土足で」
 言いつつ、秋口は靴を脱ごうとはしない。佐山は秋口の首筋に顔を埋めながら、手探りでその革靴を脱がそうと試みる。
「まあ、今さら汚れるのなんて気にする家でもないけど……」
 そんなことを気にして動きが制限されるのが嫌で、という本音は飲み込んだまま、佐山はどうにか秋口の靴を脱がせた。その間も、秋口の指先は佐山の窄まりの辺りをうろうろと彷徨っている。
「……ええ、と、あの、秋口……前使ったのみたいなやつなんて、持ってない、よな」
 秋口と肌を合わせたことは何度もあるが、後ろを使ったことは、以前にたった一度しかない。慣れない場所でする行為に不安を感じて佐山は訊ねた。最初の時、秋口は濡れない場所を濡らすローションを用意していた。佐山の部屋にはそんなものは置かれていない。
「――ああ」
 おずおずと訊ねた佐山に、秋口が思い出したような声を漏らした。
「そういえば」
 秋口が身じろぎして手を伸ばし、佐山を膝の上に乗せたまま、沓脱に落ちている自分の鞄に手を伸ばした。そこから前に見たローションの容器が出てきたので、佐山はつい吹き出す。
「何で、今日も持ってるんだよ?」
「いや……まあ、何となく……何かあった時に備えがないのも何だし」
 肩を揺らして笑い、佐山は秋口の肩に凭れ直した。たった今まで、まともに言葉を交わすこともできないような状況だったのに、準備を怠らない秋口がおかしくて、嬉しかった。
(考えてくれてたんだ)
 ――時おり佐山が秋口に触れられ、触れることを考えて、ひとりで体を熱くしてしまう夜と同じ時間が、秋口にもあったのだ。佐山はそれに、震えるような喜びを感じた。
「こっち……大丈夫ですか?」
 問いながらも、秋口の指はもうローションで濡れて、再び佐山の後口を探っている。
「多分……」
 秋口以外とはしたことのない行為だ。不安を感じないと言えば嘘になるが、今秋口と深く触れ合わないことなんて、佐山には考えられない。
「……今度は、優しくするから」
 耳許で言って、秋口が佐山の目許に接吻ける。前の時、秋口は強引で乱暴で、おまけにひどい言葉まで吐き出して、あの時のことを思い出せば佐山も、それをした秋口自身も苦い気分になってしまう。贖罪のように、言ったとおり秋口の指先は優しく佐山の中に侵入してきた。
「……ッ」
 片手で腰を上げさせられるまま、佐山は膝立ちで秋口の首へ縋るように腕を回し、その違和感に耐えた。
「……痛い?」
 問われて、佐山は首を振る。探る指がたっぷりと濡らされているせいか痛みはまだなかった。
 下衣は片脚に引っかかったまま、外気に肌が晒される感触に佐山は心許ない気分になる。
 試すように佐山の中を探ってきた秋口の指はすぐに抜き出されて、次にまた入り込んできた時には、さらに濡らされ、二本に増えていた。
「……んん」
 押し広げられる感じに、佐山はきつく眉を顰めた。秋口の首を抱く腕にも力が籠もる。秋口は片手で宥めるように佐山の背中を抱き、髪に接吻けながら、慎重に指を深くまで埋めていく。佐山に拒む気配がないことを察して、指がゆっくり中で蠢き始めた。内壁を擦り、向きを変えながら出し入れが始まって、その動きが少しずつ速度を増していく。くちゅくちゅと濡れた音が小さく響き、佐山はその羞恥をやり過ごすため、秋口の下肢にまた手を伸ばした。
「……佐山さん」
 微かな声が佐山の名を呼んで、秋口の指の動きはさらに熱心なものになる。佐山が秋口の中心に触れると、さっき達したばかりなのに、もう硬さを取り戻し始めていた。
 お互いの吐息が次第に乱れ始め、どちらの洩らす息か、声か、わからなくなるほどの距離まで唇が近づいて、触れ合う。
 あとはもう夢中になって違いの快楽を引き出そうと手を動かし、舌を絡め合った。
 さらに増えた秋口の指が、佐山の中を恣意的に掻き回す。腰を浮かし、びくびくと痙攣するように体を震わせ、佐山は与えられる感触に思考を奪われていく。きつく抱き締められていると、立ち上がりかけた中心が秋口の体に当たり、みっともないとおぼろげに思いながらも、佐山はどうしてもそれを擦りつけるような動きをしてしまう。
「あ……、あ、……ッ」
 堪えようもなく短い声が零れ落ちていく。休みなく掻き回される内側の感触は、快楽には至らず、むしろ苦痛に近い。前への刺激は思うようにいかずたどたどしくなり、もどかしい。
 もっと快感が欲しくて、焦れて焦れて佐山はぐずるような泣き声になっていった。
「秋……口……秋口、辛い……」
 もう秋口の昂ぶりに触れる余裕もなく、佐山はその体に縋って切れ切れの声を絞り出した。
「……やめたい?」
 窺うように問いながら、秋口が手の動きを止めてしまう。きつく目を閉じて首を振ると、佐山の両目から堪えきれない涙が零れた。
「……きたい……」
 もう一度手を伸ばし、佐山は硬く張りつめた秋口自身に触れた。微かに、秋口の体が揺れる。
「……秋口ので、いきたい」
「……」
 秋口がゆっくりと、佐山の中から指を抜き出した。擦られる感触に佐山は身震いする。
「じゃあ……挿れて、いい?」
 囁くような問いに肌を粟立て、佐山は小さく頷いた。
 秋口が佐山の腰に両手をかけ、その体重を支えながらさらに自分の方へと引き寄せる。
 左右から、指でさんざんに嬲られた場所を開かれる感じ。佐山はぎゅっと目を瞑り、少し身を固くした。促されて少し持ち上げた腰を落としていくと、熱の塊に触れた。
(無理……かも)
 強引にその熱を体に受け入れさせられた時の苦痛が蘇り、咄嗟に佐山の身と心が竦む。
「佐山さん……大丈夫ですか?」
 だが、そのタイミングで秋口の気懸かりそうな声が聞こえ、ふと体から力が抜けた。瞼を開くと、声音どおり心配げな秋口の表情。佐山はもう一度頷いて、自分からまた腰を落とし始めた。
「……ん……ッ」
 張り出した先の方を、狭い場所に受け入れるひどい苦痛。佐山は自然と逃げそうになる体を、どうしても秋口と繋がりたいという気持ちで押さえつける。秋口も眉を顰めながら、きつい締めつけに耐えるような表情をしていた。
「ふ……、ッく……」
 途切れ途切れの息を吐き出しながら、佐山はじわじわと中に秋口を受け入れていく。体の内側をかさの張った部分が擦り上げていくのがわかった。時間を掛けるのが余計に辛くなって、半ばから性急に秋口の全部を佐山は受け入れきった。
「……佐山さん……」
 ぎゅっと、秋口に背中を抱き締められた。佐山も両腕をその背中に回して力を籠める。
 痛みとか快楽とか、そんな感覚とは関わりのないもののせいで、佐山は涙が止まらなくなった。
(やっと、近くなった)
 佐山の中で、秋口の脈打つ感じがする。熱くて大きい。汗ばんだ肌も心臓の音も近くて、佐山はこれまでにこんなに倖せになる行為があっただろうかと、眩暈がした。
「好きだ……」
 秋口が呟くように微かな声を漏らして、自分の体に縋ってくるから、佐山は泣き声を漏らしながら頷いた。
「佐山さんだけ、ずっと好きだ」
「……」
 キスをしたくて身じろいだら、繋がったところが少し擦られて、佐山は背筋を揺らしてしまった。その刺激で秋口も体を小さく強張らせ、そのまま、ゆっくりと佐山の体を揺さぶるように動き始めた。
「……ッ……」
 指で触れる時、秋口は佐山が強く反応する場所をみつけると、そこばかり重点的に責めていた。
 同じ部分を刺激しようとして、秋口が佐山の腰を掴んで前後に揺さぶる。佐山もその動きに合わせて体を動かした。
「は……、……あ、あ……っ……あ……」
 佐山の中で反り返った秋口のペニスが何度も内壁を擦り、佐山に声を上げさせる。ときおり強烈な快感を感じることもあるのに、苦痛もひどくて佐山はその快楽を追うことができない。苦しげな呻きにも聞こえる声を短く上げ続けていると、腰をきつく掴んでいた秋口の指が互いの体の間に移動して、佐山の中心を握り込む。
「んっ……!」
 擦り上げられ、目が眩みそうな快感が佐山を襲う。秋口の片手が外れて不安定になった体を、壁に片手をついて支え、佐山は体の命じるまま自分でも動き続けた。秋口に強く握られた部分の先端から、少しずつ体液が滲み出してくるのが自分でもわかった。
「あ……きぐち、……キツ……」
 感覚が強すぎて怖くなり、咄嗟に体を浮かすと、意図せず弱い場所をさらに刺激される羽目になった。佐山は声もなく体を震わせ、大きく背筋を逸らせる。
 強張る佐山の体を追いかけた秋口の唇が乳首に触れて、軽く歯を立てた。
「……ッ……あ……あ、ぁ……っ!」
 悲鳴じみた掠れ声を洩らし、佐山は体の中から突き上げる快感に身を委ねると、震えながら秋口の手の中に射精した。止まらず中を擦り上げてくる秋口に体を揺らされながら、何度も白濁した体液を吐き出す。
 あとは自分でもう動くこともできず、秋口に揺さぶられるままになった。ただ荒い呼吸を繰り返しながら、秋口も自分の中で果てたことを知る。
「……ん……」
 嵐のような感覚はすぐには醒めやらず、お互い吐精した後も荒い息をつき、抱き締め合う。
 頭ではもう何も考えられなくて、佐山はただ体中支配する痛みと、快楽の余韻の気怠さと、どうしようもない幸福な気分に酔った。
 閉じていた目を開くと、熱っぽい秋口の視線とかち合う。どちらからともなく唇を合わせた。深く、でもどこかじゃれ合いのようなキスをしばらく続ける。途中で秋口が佐山の体を持ち上げ、中からやっと萎えた性器を抜き出した。秋口と一緒になって、中に放たれたものも佐山の脚を伝い落ちる。中途半端に脱ぎかけの服は、佐山のものも秋口のものも、このままクリーニングになんて出せないほどの有様だった。
「もう……どろどろだな」
 気が済むまで接吻け合ったあと、佐山はやっと落ち着きかけた息を吐き出し、苦笑した。
「……ごめん、中」
 殊勝げに秋口が言う。寸前に抜き出す余裕もなかったのか、それともそもそもそのつもりもなかったのか、秋口は佐山の中に深く自身を差し込んだまま達したのだ。
「俺、風呂入ったんだけどなあ……」
 ぼやくように言ってはみるが、佐山の口調はどう聞いても笑っている。それで秋口はいくらかほっとしたようだった。
「ちゃんと最後まで、責任持つから」
「責任?」
 すぐには意味がわからず首を傾げる佐山の耳に、秋口がそっと唇を寄せる。
「全部掻き出して、綺麗にする」
「……え……、……」
 何と答えていいものか、佐山は一瞬絶句した。まじめな顔で自分を覗き込んでいる秋口から、思わず視線を逸らす。
「いや……あの、後でもう一回シャワー浴びて、自分で……」
「全部させてください。……何か、まだ収まりつかないし」
 汗で濡れて額に張り付いた佐山の髪を指で剥がしながら、秋口が言う。
「え……まだ……、って」
「佐山さんに会わない間――触れなかった間、何度もこうするの想像してた。すごいことばっかり考えてたよ、俺」
「……」
 何と答えていいのかわからず、佐山は顔に血を昇らせて赤くなり、まともに秋口の方を見ることができなくなってしまった。
「もっとしたい」
「……」
「ここは、佐山さんが嫌だったらやめるっていう意見が駄目、っていう場面じゃない……だろ?」
 秋口の言葉はますます佐山を困らせる。
「……嫌がってると思うか?」
 困り果てた挙句、佐山は目を逸らしたまま言った。秋口が笑うのがわかった。
「思わない」
 音を立てて目許に接吻けられ、佐山は何か文句を言いたいような気分にもなったのに、諦めて困り顔で笑う。
「とりあえず、どっちにしろ風呂」
 秋口に支えられながら佐山は身を起こし、乱れた服を直しながら自分でも立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまって力が入らない。様子に気づいた秋口が、佐山に手を貸してくれた。佐山は遠慮なく秋口に凭れる。
 全部責任を持つと言ったのだから、その通りにしてもらうしかない。
「何だかまだ、すごく酔っぱらってるみてぇ」
 ほとんど佐山の体を抱き締めるようにして風呂場に向かいながら、秋口が独白のような言葉を呟く。
「……俺も」
 酒を飲んだわけでもないのに、力を入れすぎて言うことを聞かなくなった体のせいでもなく、佐山はふわふわした気分を味わっている。
 多分秋口も、同じような状態なのだろう。
 佐山にはそれが言葉では言い表せないくらい嬉しい。
 秋口に凭れながら、佐山は彼と一緒にそう広くはない浴室へと入った。

きまずいふたり

Posted by eleki