きまずいふたり・第4話
「縞さん」
呼び止めると、縞はすぐ後ろに御幸がいることなんてお見通しだったかのように、あたりまえの顔で振り返った。
「はい、何でしょう」
そして、胡散臭いほどの笑顔。
御幸はどうやってもこの男のことは信用ならないと、一目相手を見た時から抱いていた警戒心をさらに強くした。
愛想のいい笑顔、過剰なリップサービスの連続、まるで詐欺師だ。どうして佐山が縞に懐いているのか理解に苦しむ。
いや――
(あたりまえって言ったら、あたりまえか)
初対面で驚いたのは、まずその胡散臭い愛想のよさと、それ以上に、秋口とあまりに似ていることだった。佐山が秋口以外に男性を恋愛対象に見る性癖ではないと理解している御幸だって、一瞬、『佐山はこういうタイプの好きな面喰いなんだな』と納得しそうになるくらい。
「呼び止めておいて黙り込むとは、どういう手管かな」
手洗いへ続くひとけのない廊下で、咄嗟に後を追ってきたはいいが、何をどう言うべきか考えあぐねてしまった御幸のそばに、気づくと縞が歩み寄っていた。
(近い)
まったくこの縞という男の他人に対する距離感は、近すぎる。物理的に。
佐山にもやたら顔を近づけたり手を触れたり、アピールはあからさまで、御幸が「もし勘違いだったら失礼だ」などと不安すら抱けないほどだった。
「縞さんは、どういうつもりで佐山に近づいてるんですか」
この男相手に遠回しに切り出してものらくらと躱されるだけで話にならないだろうと判断して、御幸はやんわりした笑みをたたえながら、そう訊ねた。
縞は、おもしろそうな顔で目を見開き、御幸を見遣る。
「どうもこうも、気に入ったから仲よくしたいという、純粋で素直な気持ちですよ」
「秋口が同じ会社って、本当に知らなかったんですか」
「はい?」
縞が小首を傾げる。御幸は愛想笑いのひとつも出す気がもう起きず、それを見返した。
「自分の従弟をネタにしてまで佐山と『仲よく』なろうっていうのなら、ずいぶん手が込んでますよね」
「知らなかったのは本当ですよ、まあ、好都合だと思ってるのも本当ですけど」
答えてから、縞はますます興味深そうな顔になって、御幸を見遣った。
「それで、御幸さんは、大事な佐山さんが俺なんかにちょっかいかけられないように、わざわざ牽制に来たってわけですか」
「個人的に、そうだったらやり方に品がないと思って聞いただけですよ」
さりげなく、御幸は半歩後ろに下がった。縞はそばの壁に片腕で寄りかかって、何となく、御幸の方へさらに身を寄せるような格好になっている。
「恋愛の駆け引きなんて、どうやってもお上品になるもんじゃないでしょう?」
恋愛、と臆面もなく言った縞に、やっぱりこいつは始末に負えないタイプの人間だと、確信を深めて御幸は溜息を押し殺す。
「まあ、お好きに。縞さんは他人が何を言っても往く我が道を変えないタイプでしょうから、俺からあなたに言うことはもうありませんよ」
身を避け、御幸は縞を追い越すと手洗いの方へ向かった。
「御幸さんて、佐山さんのお母さんみたいですね」
背中から聞こえた笑いを含んだ言葉に、御幸は腹を立てるでもなく、小さく肩を竦めた。
「そうだったらいっそ、頭ごなしにできて楽ですよ」
縞の笑い声が、すぐ後ろから聞こえた。
「御幸さんて、俺のこと嫌いですか」
「好きか嫌いか判断できるほど親しいわけじゃないでしょう」
御幸が手洗いのドアを押し開けると、すぐにそのドアを縞が引き継いだ。割合広い手洗いの中に、他の客の姿は見あたらない。
「大事な大事な佐山さんに手を出す相手は、誰も彼も悪者だとか――」
この男といい、従弟といい、発想が同じだ。御幸はゆるく首を振って鏡の前の水道で手を洗った。一応用足しするつもりでここへ来たのだが、何となく、縞と並んで――という状況に気が進まない。
縞の方は、さっさと朝顔の前で用を足している。
「ってわけでも、ないのか」
縞がそう続けたので、御幸はつい彼の方を見遣ってしまった。
縞はちょうど衣服を直していることろだった。
目が合って、にやっと、縞が口許で笑う。
そこで御幸は、相手が思っていた以上にタチのよくない人間なのではということに気づいた。佐山に向けていた屈託のない笑顔とは、まったく質の違う表情だった。
「ええ。俺は親友にその気になれるほど、幅の広い人生を送ってませんから」
「でも口出しはするわけだ」
「佐山が傷つけるような真似をして欲しくないだけです。本気なら止めないって言ったでしょう」
普段だったら、佐山に害のありそうな人間を牽制するなんてことを、決して御幸がするはずがないのだ。秋口の時だって黙って成り行きを見守っていた。どんなに歯がゆい思いをしていたとしても、佐山なら自分の力で解決するだろうし、もし助けを求められればすぐにでも手を貸すつもりで、それまでは静観するのが自分の役割だとわきまえていた。
ただ、今は、時期が悪すぎる。
佐山本人は気づいているのかいないのか、すっかりと草臥れ果て、消耗しきっている。
佐山が弱い人間ではないと信じていても、縞がよりによって秋口の血縁関係者だとわかってしまっては、御幸には黙っていることができなくなってしまったのだ。
(単に秋口に似てるだけっていうのなら、まあいいさ)
秋口に似た、秋口よりはいくらか性格がましな相手に佐山がよろめくのであれば、それはそれで構わないと思う。一時的にでも佐山の気が休まるのならそれでいい。
だが、縞と秋口の間に繋がりがあるのなら、佐山はきっとそのうち辛くなるばかりだ。
今以上に。
(まあ……多分、どうあったって、言って聞くってタイプじゃないだろうけど)
自分の隣に来て手を洗う縞を鏡越し横目で見つつ、御幸は思った。いくら自分が気をもんで佐山にちょっかいかけるなと脅したところで、縞はどこ吹く風だろうし、むしろ、障害があるほど燃えるなどと言い出しかねない気がする。
今日この場に秋口まで現れた都合のよさに、黙っていられずつい縞を追いかけてきてしまったが、もしかしたら早まったかもしれないと御幸は後悔した。
「せっかくひさびさにみつけた上玉なのに、不戦敗なんて俺の男がすたるなあ」
案の定、縞は薄笑いのとぼけた口調でそんなことを言っている。
上玉、と佐山を評したところだけは褒めてやっていいと思ったが、やはりさんざんしていたアプローチは遊びでしかなかったのだと確認して、御幸は気持ちが冷えた。鏡の縞から目を逸らす。
「佐山はあなたの暇つぶしのおもちゃじゃありませんよ」
「じゃ、あんたが相手してくれんの、御幸ちゃん?」
「え?」
驚いて再び顔を上げた時、ごくごく間近に相手の顔があることに気づいて御幸はぎょっとする。気配を感じなかった。
咄嗟に横へ逃げようとした御幸の腕を、縞が素早く掴んだ。
笑ったまま、さらに御幸へ顔を寄せる。
「離してくれませんか」
怯んだら負ける気がして、もう逃げようとはせず、御幸は冷淡な目で相手を見返した。
蔑むような御幸の表情を見て、縞は愉快そうに肩を揺らしている。
(本当に、タチが悪い――)
さすが秋口の血縁だ、と御幸は腹が立った。
「佐山さんも可愛いけどおたくも相当ですよ、ふたり並んでるのは奇蹟だと思ったね……っていうか」
にこっと、今度は邪気のない笑顔で縞が笑う。もちろんそれで御幸が安心できるはずもなかった。
笑いながら、縞が御幸の鼻先へ人差し指を向ける。何となくこのまま走って手洗いから逃げ出したい気がしてきた御幸の、しかしその腕は縞が相変わらず強い力で掴んでいる。
「本命、こっち」
「はあ?」
紛れもなく縞の指は御幸を指さしていた。
「だから御幸ちゃん、飛んで火に入る夏の虫」
じわっと、背中を嫌な汗が伝うのを、御幸は感じた。
縞はただただ、楽しそうだった。
呼び止めると、縞はすぐ後ろに御幸がいることなんてお見通しだったかのように、あたりまえの顔で振り返った。
「はい、何でしょう」
そして、胡散臭いほどの笑顔。
御幸はどうやってもこの男のことは信用ならないと、一目相手を見た時から抱いていた警戒心をさらに強くした。
愛想のいい笑顔、過剰なリップサービスの連続、まるで詐欺師だ。どうして佐山が縞に懐いているのか理解に苦しむ。
いや――
(あたりまえって言ったら、あたりまえか)
初対面で驚いたのは、まずその胡散臭い愛想のよさと、それ以上に、秋口とあまりに似ていることだった。佐山が秋口以外に男性を恋愛対象に見る性癖ではないと理解している御幸だって、一瞬、『佐山はこういうタイプの好きな面喰いなんだな』と納得しそうになるくらい。
「呼び止めておいて黙り込むとは、どういう手管かな」
手洗いへ続くひとけのない廊下で、咄嗟に後を追ってきたはいいが、何をどう言うべきか考えあぐねてしまった御幸のそばに、気づくと縞が歩み寄っていた。
(近い)
まったくこの縞という男の他人に対する距離感は、近すぎる。物理的に。
佐山にもやたら顔を近づけたり手を触れたり、アピールはあからさまで、御幸が「もし勘違いだったら失礼だ」などと不安すら抱けないほどだった。
「縞さんは、どういうつもりで佐山に近づいてるんですか」
この男相手に遠回しに切り出してものらくらと躱されるだけで話にならないだろうと判断して、御幸はやんわりした笑みをたたえながら、そう訊ねた。
縞は、おもしろそうな顔で目を見開き、御幸を見遣る。
「どうもこうも、気に入ったから仲よくしたいという、純粋で素直な気持ちですよ」
「秋口が同じ会社って、本当に知らなかったんですか」
「はい?」
縞が小首を傾げる。御幸は愛想笑いのひとつも出す気がもう起きず、それを見返した。
「自分の従弟をネタにしてまで佐山と『仲よく』なろうっていうのなら、ずいぶん手が込んでますよね」
「知らなかったのは本当ですよ、まあ、好都合だと思ってるのも本当ですけど」
答えてから、縞はますます興味深そうな顔になって、御幸を見遣った。
「それで、御幸さんは、大事な佐山さんが俺なんかにちょっかいかけられないように、わざわざ牽制に来たってわけですか」
「個人的に、そうだったらやり方に品がないと思って聞いただけですよ」
さりげなく、御幸は半歩後ろに下がった。縞はそばの壁に片腕で寄りかかって、何となく、御幸の方へさらに身を寄せるような格好になっている。
「恋愛の駆け引きなんて、どうやってもお上品になるもんじゃないでしょう?」
恋愛、と臆面もなく言った縞に、やっぱりこいつは始末に負えないタイプの人間だと、確信を深めて御幸は溜息を押し殺す。
「まあ、お好きに。縞さんは他人が何を言っても往く我が道を変えないタイプでしょうから、俺からあなたに言うことはもうありませんよ」
身を避け、御幸は縞を追い越すと手洗いの方へ向かった。
「御幸さんて、佐山さんのお母さんみたいですね」
背中から聞こえた笑いを含んだ言葉に、御幸は腹を立てるでもなく、小さく肩を竦めた。
「そうだったらいっそ、頭ごなしにできて楽ですよ」
縞の笑い声が、すぐ後ろから聞こえた。
「御幸さんて、俺のこと嫌いですか」
「好きか嫌いか判断できるほど親しいわけじゃないでしょう」
御幸が手洗いのドアを押し開けると、すぐにそのドアを縞が引き継いだ。割合広い手洗いの中に、他の客の姿は見あたらない。
「大事な大事な佐山さんに手を出す相手は、誰も彼も悪者だとか――」
この男といい、従弟といい、発想が同じだ。御幸はゆるく首を振って鏡の前の水道で手を洗った。一応用足しするつもりでここへ来たのだが、何となく、縞と並んで――という状況に気が進まない。
縞の方は、さっさと朝顔の前で用を足している。
「ってわけでも、ないのか」
縞がそう続けたので、御幸はつい彼の方を見遣ってしまった。
縞はちょうど衣服を直していることろだった。
目が合って、にやっと、縞が口許で笑う。
そこで御幸は、相手が思っていた以上にタチのよくない人間なのではということに気づいた。佐山に向けていた屈託のない笑顔とは、まったく質の違う表情だった。
「ええ。俺は親友にその気になれるほど、幅の広い人生を送ってませんから」
「でも口出しはするわけだ」
「佐山が傷つけるような真似をして欲しくないだけです。本気なら止めないって言ったでしょう」
普段だったら、佐山に害のありそうな人間を牽制するなんてことを、決して御幸がするはずがないのだ。秋口の時だって黙って成り行きを見守っていた。どんなに歯がゆい思いをしていたとしても、佐山なら自分の力で解決するだろうし、もし助けを求められればすぐにでも手を貸すつもりで、それまでは静観するのが自分の役割だとわきまえていた。
ただ、今は、時期が悪すぎる。
佐山本人は気づいているのかいないのか、すっかりと草臥れ果て、消耗しきっている。
佐山が弱い人間ではないと信じていても、縞がよりによって秋口の血縁関係者だとわかってしまっては、御幸には黙っていることができなくなってしまったのだ。
(単に秋口に似てるだけっていうのなら、まあいいさ)
秋口に似た、秋口よりはいくらか性格がましな相手に佐山がよろめくのであれば、それはそれで構わないと思う。一時的にでも佐山の気が休まるのならそれでいい。
だが、縞と秋口の間に繋がりがあるのなら、佐山はきっとそのうち辛くなるばかりだ。
今以上に。
(まあ……多分、どうあったって、言って聞くってタイプじゃないだろうけど)
自分の隣に来て手を洗う縞を鏡越し横目で見つつ、御幸は思った。いくら自分が気をもんで佐山にちょっかいかけるなと脅したところで、縞はどこ吹く風だろうし、むしろ、障害があるほど燃えるなどと言い出しかねない気がする。
今日この場に秋口まで現れた都合のよさに、黙っていられずつい縞を追いかけてきてしまったが、もしかしたら早まったかもしれないと御幸は後悔した。
「せっかくひさびさにみつけた上玉なのに、不戦敗なんて俺の男がすたるなあ」
案の定、縞は薄笑いのとぼけた口調でそんなことを言っている。
上玉、と佐山を評したところだけは褒めてやっていいと思ったが、やはりさんざんしていたアプローチは遊びでしかなかったのだと確認して、御幸は気持ちが冷えた。鏡の縞から目を逸らす。
「佐山はあなたの暇つぶしのおもちゃじゃありませんよ」
「じゃ、あんたが相手してくれんの、御幸ちゃん?」
「え?」
驚いて再び顔を上げた時、ごくごく間近に相手の顔があることに気づいて御幸はぎょっとする。気配を感じなかった。
咄嗟に横へ逃げようとした御幸の腕を、縞が素早く掴んだ。
笑ったまま、さらに御幸へ顔を寄せる。
「離してくれませんか」
怯んだら負ける気がして、もう逃げようとはせず、御幸は冷淡な目で相手を見返した。
蔑むような御幸の表情を見て、縞は愉快そうに肩を揺らしている。
(本当に、タチが悪い――)
さすが秋口の血縁だ、と御幸は腹が立った。
「佐山さんも可愛いけどおたくも相当ですよ、ふたり並んでるのは奇蹟だと思ったね……っていうか」
にこっと、今度は邪気のない笑顔で縞が笑う。もちろんそれで御幸が安心できるはずもなかった。
笑いながら、縞が御幸の鼻先へ人差し指を向ける。何となくこのまま走って手洗いから逃げ出したい気がしてきた御幸の、しかしその腕は縞が相変わらず強い力で掴んでいる。
「本命、こっち」
「はあ?」
紛れもなく縞の指は御幸を指さしていた。
「だから御幸ちゃん、飛んで火に入る夏の虫」
じわっと、背中を嫌な汗が伝うのを、御幸は感じた。
縞はただただ、楽しそうだった。