きまずいふたり・第3話

 ひとりになりたくて、なるべく早く総務部の女子社員との食事を切り上げてきたというのに、玄関のドアを開けた秋口は沓脱にまた自分のものではない靴を見つけて溜息をついた。
「何だおまえ、また来てたのか」
 部屋に入ると案の定、従兄の姿がソファにある。だらしなく足を投げ出して、家主の姿に気づくと、手にした缶ビールを振って見せている。テレビで放映しているのか、借りてきたのか、ブラウン管から古い映画のシーンが流れていた。
「よー、お帰り航ちゃん」
「ちゃんとか言うな、気色悪い」
 秋口は不機嫌さを隠そうともせず言いながら、上着を脱いで頭から縞にかぶせた。
 縞はげらげら笑いながら、上着をソファの背もたれに掛ける。秋口は従兄の手からビールを取り上げてそれを呷った。
「なーんだよ、また、仏頂面しちゃってさあ」
 質問なのか感想なのかわからない酔っぱらいの言葉を、秋口は無視した。
「何でまた勝手に入ってるんだよ、人の部屋」
「近くまで来たから遊びに寄ってやったんだよ」
「頼んでない」
「思ったより便利いいんだよな、この部屋。いい別宅を見つけた……」
「鍵返せよ、おまえがどうしても仕事明けに一眠りしたいって言ったから、あの時だけ預けたんだぞ」
「合い鍵もう作っちゃった」
 縞がにやにやしながら手に取った鍵を、秋口はひったくった。
「それがおまえに借りたやつ。こっち合い鍵」
 もうひとつポケットから取り出された鍵を奪おうと秋口は手を伸ばしたが、縞はさっとそれを自分の背中に隠してしまった。
「返せ」
「イ、ヤ」
 秋口が腹を立てて縞の背中に手を突っ込むと、縞が黄色い奇声を発した。
「いやあー! 航ちゃんに犯されるぅ!」
「……」
 秋口は深々と溜息をついて、縞から離れた。あとで鍵ごと変えてしまおう、と決意する。
 まったくこの従兄には昔から敵わない。正直言って苦手な相手なのに、どうして家に居座られなくてはいけないのか、秋口は腑に落ちなかった。
「航ちゃんさあ」
 合い鍵をポケットにしまい直し、縞はテーブルに置いてあった新しいビール缶に手を伸ばした。プルタブを開けながら秋口を見遣る。秋口はネクタイを緩め、床に並んだ空き缶数個をキッチンに運んだ。中をゆすいで、収集日にゴミ捨て場に持って行かなければならない。
「だからちゃんって呼ぶな。いい年して、気持ち悪い」
「おまえ、欲求不満なんじゃない?」
「……」
 乱暴に、秋口はシンクに空き缶を投げ出した。怒って叩きつけたわけではない。動揺して取り落としたのだ。
「やーっぱりなあ、何だよ、女と会ってたんじゃないの? 逃げられたのか? 例の彼女に」
 答えず、秋口は空き缶を水で洗った。
 縞は従弟の『本命』が彼女ではなく彼だということを知らない。秋口には言うつもりもなかった。何しろ物心ついた時から筋金入りの両刀遣いである縞と違って、秋口は完全なるヘテロ、男に欲情する従兄の気が知れない鉄壁の女好きだったのだ。今さら男に恋をしましたなんてどの面下げて言えばいいのか、わからなかった。
「可哀想になあ、貧しい恋をしてるんだな」
「よけいなお世話だ」
 秋口は缶を洗い終え、乱暴に蛇口を閉めた。振り返って、何か言い返してやろうと口を開きかけた秋口は、縞がやたら楽しそうな顔で鼻歌まで歌っていることに気づき、毒気を抜かれてしまう。こんな相手に、文句や嫌みを言うだけ無駄だ。どうせ小さい頃から、この従兄に秋口が言葉で勝った試しがない。
「……おまえはずいぶん楽しそうだな、亮人」
 代わりに、呆れるような、もしかすると羨ましげな呟きが秋口の口から洩れる。
「楽しいよー、って言うか最高。今日、この間の人にまた会ったんだ」
「この間って、ひったくりだかを一緒に捕まえたとかいう?」
 秋口は縞の隣に腰を下ろし、もう一本ビールに手を伸ばした。明日も出社だから、そろそろ風呂に入って寝た方がいいとは思うが、ちっとも眠たくないし、飲まずにはいられない気分でもあった。
「そっ、何となく、暇だから連絡するってタイプじゃないみたいだから、こっちから押しとこうと思って」
 上機嫌に、縞はまたビールに口をつけた。
「ちょうどいいタイミングで、向こうも店にいるって言うから、友達といるとこに合流してさ。メシはうまいし、相手美人だし、最高」
 気楽なもんだよ、と秋口もまたビールを呷った。
「いやほんと、いい夜だった。向こう会社勤めだからって先に帰られたけど……あれはやっぱり、警戒されてんのか?」
 縞は秋口へ質問というより、自問の調子で言って首を傾げている。
「何だ、おまえも逃げられてるんじゃないか」
「最初から簡単に股開くような尻軽は好みじゃないからいいんだよ。多少お堅い方が、楽しみも増えるし」
 縞の言葉が負け惜しみでないことは、今までの経験上秋口にもわかっている。縞は遊んでいるふうであって、本気なら割合まじめな恋をする。身持ちの堅いタイプが好きで、自分も恋人がいる間は決して他の相手に目をくれることがなく、一途に相手のことを大事にし続ける。
 それまで色恋沙汰なんてくだらないと言わんばかりに四角四面な心持ちと見てくれだった人間が、縞に大事に甘やかされて、信じられないくらい色気のある様子になっていく奇跡を秋口も見たことがあった。
 ただし、フリーの時はちょっと気に入った相手でも口癖みたいに熱心に口説くから、やっぱり遊んでいると言わざるを得ない辺り、自分と同類だと秋口は思う。
「何つーか、容姿も表情も言動も、いちいちこっちのツボ突いてくるんだよな。どうにかしてやりたいの抑えるのに必死だったよ、本気で。最初は当たり柔らかそうな印象だったのに、実は気が強そうな感じがするとこなんてもう」
 縞はアルコールで上気した頬、軽く潤んだ瞳で、うっとりと溜息をついた。
「ああいう相手を泣かせたら、気持ちいいだろうなあ……」
「その相手と会うところが、俺の家に近いってことか」
 酔っぱらいの戯言を本気で聞くまでもなく、秋口は相手の言葉を遮るようにそう訊ねた。
 秋口が就職してからここ数年、法事以外でまともに顔を合わせたこともなかった縞が今ここに居座っているのは、今後もここを拠点に置いて、意中の相手を口説こうとしているからだ。秋口はそう理解した。縞が『便利がいい』と言ったのはそういう意味だ。
「そう。この辺から家に帰るの面倒だし、タクシー代も馬鹿にならない」
「間違ってもホテル代わりに使ったりするなよ、相手連れ込んだらすぐおばさんに電話して、実家に連れ帰らせるぞ」
「やなこと言うねえ、おまえ」
 縞は大袈裟に鼻の頭へ皺を寄せた。定職にも就かずに物書き仕事で生計を立てている縞が、未だに親からその仕事に反対されていることはもちろん秋口も承知の上だ。縞の両親は実直で厳しい人たちだったから、とっくに成人した息子を本気で家に連れ戻そうとするだろう。実際そうはならなくても、間違いなく何時間も説教を喰らう。縞がそのお説教を大の苦手としていることも、秋口は熟知していた。
「あれか、彼女に冷たくされて、意地悪になってるのか」
 そして縞の逆襲だ。今度は秋口が眉間に皺を寄せる羽目になった。
「おまえも、そんな暴力的で冷たい恋人のことなんて忘れて、そうだ、今度一緒にメシでも行こうぜ。向こう、仲のいい友達同士なんだ。一対一で会ったらよけい警戒されそうだし、おまえ、来いよ」
「何で俺が。相手って男だろ」
 たしかに今秋口の心を惑わせている相手はれっきとした男性だが、何も他の男まで恋愛の範囲内に入ったわけではないのだ。秋口は今も男のことがちゃんと嫌いだった。そういう対象になるという意味では。
「だからだよ、バーカ。惚れた女ができて、これからゆっくり愛をはぐくんで行きましょうって段階だったとしたら、おまえなんかと死んでも会わせるもんか。五秒でホテルに連れ込まれる。男ならおまえの食指も動かないだろ」
 縞も、たまにしか会わない割に、従弟の恋愛観はよく理解している。
「頭数合わせだ、今度連絡してやるから、呼ばれたら絶対来いよ。もし来なかったら……」
 言いながら、縞がソファの隙間に手を突っ込んだ。そこから、女物のストッキングをずるりと引っ張り出す。ガーターベルト用の黒い網模様だ。
「秋口さんちの可愛い航ちゃんが、こーんなエッチなものつける女を部屋に連れ込みまくりですって、聖絵と美里に電話してやる」
「……」
 聖絵と美里は、昔から何かと弟の世話を焼きたがる秋口の姉だ。そんなことが知れたが最後、彼女がいるなら家につれてこいだの、掃除しに行ってやるから鍵を寄越せだの、うるさく言われることだろう。
 黙り込んだ秋口を見て、縞がにっこりと笑顔になる。
「決まりな。ま、残業なさそうな日教えてくれたら少しは考慮してやるから。逃げんなよ」
 駄目押しのように縞が言って、秋口は反論することもできなかった。本当に、昔からこの従兄のことは苦手だった。

きまずいふたり

Posted by eleki