きまずいふたり・第3話
縞が指定したのは、駅から歩いて少しの蕎麦屋だった。駅で待ち合わせをして店まで歩き、向かい合って座る。そう広くはない店内はほぼ満席だったが、ひとつひとつの席がついたてで仕切られているし、落ち着いた上品そうな雰囲気の店だから騒がしくもない。
「静かで、いいお店ですね」
鴨南蛮を注文し、お手拭を使いながら、佐山は心から言った。
「でしょう、俺は昼しか来たことがなかったんですけど、夜も酔っぱらいとか学生のたまり場なんかにはならないから、ゆっくり食事するにはいいって聞いて」
縞はヘンリーネックのカットソーにデニムパンツと、よく似合っているが、やはり堅気の会社員には見えない格好をしていた。細見でとてもセンスがいい。見た目も結構な男前だったが、それよりも彼の持つ明るく人好きのする雰囲気に、佐山は好感を持った。
「ご自宅は神奈川の方みたいですけど、この辺はお仕事で?」
もらった名刺のことを思い出しながら、佐山は訊ねてみた。煙草が吸いたかったが、生憎この店は終日禁煙だ。
「ええ、納品先がここら辺で。作業自体は自宅でやってるんですけどね」
「じゃあ、自営業の方ですか。アパレル関係とか……」
彼の服や持っているもののセンスのよさから、佐山がそう訊ねてみると、笑って否定された。
「そう見えてるんだったら嬉しいなあ、実はオタクなんです。フリーのライター兼グラフィックデザイナーみたいなことやってて」
「じゃあ、近いのは出版社」
「そうです。この間はやっと仕上げた雑誌の企画ページを持って届けにいくところで」
「徹夜明けっておっしゃってましたよね、そういえば」
佐山は心底から縞に同情した。警察から事情を聞かれる間はともかく、被害者のおばあさんが何しろけたたましく、涙混じりのお礼から始まって、最近の若者には珍しく勇敢だ、うちの子供や孫なんて……と身の上話が続き、その間縞はたまに眠たそうに目を擦りながらも、根気よく彼女の相手をしていた。
佐山も同じだけつき合わされたのだが。
「でも何でも経験すれはメシの種ですからね。何にでもなるべく首突っ込もうってやっかいな癖があるんです」
「すごいなあ、プロ根性ってやつですね」
「いやそんな大袈裟なもんじゃ全然ないですよ」
照れたように笑った縞の表情が好ましくて、佐山はつられてにっこりした。
そんな佐山を、縞がしげしげと眺める。表情に気づいて、佐山は少し首を傾げた。
「何か?」
「いやね。この間、あの引ったくり犯を捕まえたのがここにいる人だって言うのが、いまいち信じられないんですよ。あの時、咄嗟に俺も手を出しちゃったけど、完全に力負けしてみっともなく転がされるし。でも佐山さん、結構あっさり相手のこと、やっつけてたでしょう」
佐山は自分が決して立派な体格とは言えないことを承知している。縞の驚きはもっともだと思った。
「たまたま、運がよかったんですよ」
ほぼ初対面の人の前で、実はよく通りすがりに因縁をつけられますとか、昔いじめっ子と戦っていたら喧嘩のコツを覚えましたなどと説明するわけにもいかず、佐山はそう言い訳した。
「格好よかったなあ、あの時の佐山さん。暴漢をよろめかして、顔面に一発! 自分がやられて地面に倒れてるってのに、つい見とれてしまいました」
「野蛮で……お恥ずかしい」
「勇猛果敢と言っておきましょうよ。だからね、あんなに大立ち回りをした勇敢な人が、こんなに可憐だなんて、そのギャップがおもしろい」
佐山は飲みかけのお茶を吹きそうになった。
「可憐……って、あんまりいい年の男に使う言葉じゃありませんよね」
「性別にはこだわらないタチなんです」
「はあ」
物書きをしているというから、言語センスが常人と違うのだろう、と佐山が自分を納得させた時、お互い注文した蕎麦がテーブルにやってきた。縞が頼んだのはあなごの天ぷら蕎麦だ。
「おもしろそうな人だなと思って、声かけたんですよ。穏やかそうな優しい笑顔の下に、どんな心が隠れてるのかなって」
割り箸を割りながら、縞が言う。佐山もそれに倣いながら、苦笑した。
「ごく平凡なサラリーマンですよ。とりたてて人に誇るような部分もないし」
「俺の知り合いには、暴漢をふたりのしちゃえるような平凡なサラリーマンはいませんから。いろんな人つき合って見識を広めるのも、俺の仕事と趣味なんです」
サンプル扱いされているようなものだったが、人なつこい縞の態度のおかげか不快感はまるでない。佐山も一緒に笑った。
「俺も男に可憐っていう言葉を使うライターさんの知り合いは初めてです」
「仲よくしてやってください」
言われるまでもなく、佐山はこの会って二回目の男に、好感を抱いていた。
(何だろう、やっぱり、縞さんといるのは楽しいな)
アルコールはもちろん入っていないのに、佐山の心臓が少し早い。慣れない相手に緊張している感じとも違った。
蕎麦は美味く、食事も会話も進む。縞はあちこち出かけたり人と会ったりを生業にしているようなものだと本人が言うだけあって、話題は多彩だし、何より話し上手で、佐山はとても楽しい時間を過ごすことができた。
待ち合わせたのが佐山の都合で八時頃、のんびり食事をして、お茶を飲みながら気づけば二時間近く、お互いの仕事の都合で、河岸を変えることもなく十時過ぎに店を出て、佐山は縞と並んで駅に向かった。
会計の時、縞は助けてもらったお礼に奢ると申し出たのだが、佐山が遠慮して、結局折半になった。
「その代わり、また食事つき合ってもらえますか?」
縞の言葉に、佐山は笑って頷いた。週に一度は都内に出るが、仕事相手とのつきあいでの飲み食いは煩わしい、断る口実がほしいのだと説明されて、断る理由もない。奇妙な出会いではあったが、食事を終える頃には、佐山は最初の印象よりもっと縞に好感を持った。
ここのところ、仕事絡み以外で知り合いができることなんて滅多になかったから、こういうのも悪くないよなと思った。
「そういえば今日電話した時、もしかしなくてもお仕事中でしたよね。すみません、お邪魔してしまって」
並んで歩道を歩く縞が、思い出したように佐山に言った。
「ちょうど手の空いた時だったから、大丈夫でしたよ」
「自分が不規則な仕事してるもんだから、時間の感覚がおかしくなってるんです。次連絡するなら、メールの方がいいかな。佐山さん携帯同じ会社ですよね、直通メール入れてもいいですか?」
どうやら社交辞令ではなく誘ってくれているらしい。
「構いませんよ、すぐには返事できない時もあるかもしれないけど」
「都合あった時で全然。割と思いつきで動くタチなんで、急に連絡することも多いだろうから、気にせず返事下さい」
「わかりました」
駅の近くまで来た時、それまで車通りは多いが混み合うわけでもなく、クラクションで煽る者もいなかったから静かだった隣の車道が、不意に騒がしくなった。事故でもあったのか、病院の救急車輌がサイレンを鳴らしながら信号を渡ろうとしている。道を開けるよう救急隊員が放送する声に、しかしいくつかの乗用車は従わず、青信号を平然と渡っていった。
「マナー悪いなあ」
様子を見ていた縞が、憤った声を上げる。
「本当に。救急なんだから、少しくらい待てばいいのに――」
頷きながら縞の方を何気なく見上げた佐山は、瞬間、小さく目を瞠った。
今日会った時から終始明るい笑みを浮かべていた縞の、初めて見る曇った表情。
その顔に、佐山はぎくりとしてしまった。
(秋口に、似てる……)
声が似ているとも思っていた。だが、顔立ちまで似ているとは気づかなかった。顔の造りのどこが似ているというわけでもない。秋口は涼しげな切れ長の目をしていたが、縞は目尻に笑いじわの寄る優しい顔立ちだったし、秋口の唇は少し薄情そうに薄いけれど、縞は妙に色気のある、厚みを持った尻上がりの唇だ。
タイプはまったく違うのに、ふとした表情と角度で、驚くほどふたりが似ていて、佐山は思わず絶句した。
「ん?」
目を瞠って自分を見ている佐山の視線に気づき、縞が不思議そうに首を傾げた。
明るい笑い声もあまり似ていない。少しひそめて低くなった時や、冗談めかしてまじめな声音になった時は、心臓が止まりそうなくらいそっくりだった。
「佐山さん? どうかしましたか?」
間近で顔を覗き込まれ、佐山はぎょっとして軽く身を引いた。縞がますます怪訝そうな顔になる。さすがに失礼な反応だと、佐山は慌てた。
「す、すみません……あんまりいい男だから、見とれちゃって」
冗談で誤魔化そうと、佐山は初対面の時と同じ言い訳をして、しかしその言葉の気恥ずかしさにひとり赤くなった。
縞はそんな佐山の反応を興味深そうに眺めて、変に思われたに違いないと佐山がいたたまれない気分になる半歩手前のタイミングでにっこり笑うと、
「よく言われます」
とてらいもなく答えた。
「静かで、いいお店ですね」
鴨南蛮を注文し、お手拭を使いながら、佐山は心から言った。
「でしょう、俺は昼しか来たことがなかったんですけど、夜も酔っぱらいとか学生のたまり場なんかにはならないから、ゆっくり食事するにはいいって聞いて」
縞はヘンリーネックのカットソーにデニムパンツと、よく似合っているが、やはり堅気の会社員には見えない格好をしていた。細見でとてもセンスがいい。見た目も結構な男前だったが、それよりも彼の持つ明るく人好きのする雰囲気に、佐山は好感を持った。
「ご自宅は神奈川の方みたいですけど、この辺はお仕事で?」
もらった名刺のことを思い出しながら、佐山は訊ねてみた。煙草が吸いたかったが、生憎この店は終日禁煙だ。
「ええ、納品先がここら辺で。作業自体は自宅でやってるんですけどね」
「じゃあ、自営業の方ですか。アパレル関係とか……」
彼の服や持っているもののセンスのよさから、佐山がそう訊ねてみると、笑って否定された。
「そう見えてるんだったら嬉しいなあ、実はオタクなんです。フリーのライター兼グラフィックデザイナーみたいなことやってて」
「じゃあ、近いのは出版社」
「そうです。この間はやっと仕上げた雑誌の企画ページを持って届けにいくところで」
「徹夜明けっておっしゃってましたよね、そういえば」
佐山は心底から縞に同情した。警察から事情を聞かれる間はともかく、被害者のおばあさんが何しろけたたましく、涙混じりのお礼から始まって、最近の若者には珍しく勇敢だ、うちの子供や孫なんて……と身の上話が続き、その間縞はたまに眠たそうに目を擦りながらも、根気よく彼女の相手をしていた。
佐山も同じだけつき合わされたのだが。
「でも何でも経験すれはメシの種ですからね。何にでもなるべく首突っ込もうってやっかいな癖があるんです」
「すごいなあ、プロ根性ってやつですね」
「いやそんな大袈裟なもんじゃ全然ないですよ」
照れたように笑った縞の表情が好ましくて、佐山はつられてにっこりした。
そんな佐山を、縞がしげしげと眺める。表情に気づいて、佐山は少し首を傾げた。
「何か?」
「いやね。この間、あの引ったくり犯を捕まえたのがここにいる人だって言うのが、いまいち信じられないんですよ。あの時、咄嗟に俺も手を出しちゃったけど、完全に力負けしてみっともなく転がされるし。でも佐山さん、結構あっさり相手のこと、やっつけてたでしょう」
佐山は自分が決して立派な体格とは言えないことを承知している。縞の驚きはもっともだと思った。
「たまたま、運がよかったんですよ」
ほぼ初対面の人の前で、実はよく通りすがりに因縁をつけられますとか、昔いじめっ子と戦っていたら喧嘩のコツを覚えましたなどと説明するわけにもいかず、佐山はそう言い訳した。
「格好よかったなあ、あの時の佐山さん。暴漢をよろめかして、顔面に一発! 自分がやられて地面に倒れてるってのに、つい見とれてしまいました」
「野蛮で……お恥ずかしい」
「勇猛果敢と言っておきましょうよ。だからね、あんなに大立ち回りをした勇敢な人が、こんなに可憐だなんて、そのギャップがおもしろい」
佐山は飲みかけのお茶を吹きそうになった。
「可憐……って、あんまりいい年の男に使う言葉じゃありませんよね」
「性別にはこだわらないタチなんです」
「はあ」
物書きをしているというから、言語センスが常人と違うのだろう、と佐山が自分を納得させた時、お互い注文した蕎麦がテーブルにやってきた。縞が頼んだのはあなごの天ぷら蕎麦だ。
「おもしろそうな人だなと思って、声かけたんですよ。穏やかそうな優しい笑顔の下に、どんな心が隠れてるのかなって」
割り箸を割りながら、縞が言う。佐山もそれに倣いながら、苦笑した。
「ごく平凡なサラリーマンですよ。とりたてて人に誇るような部分もないし」
「俺の知り合いには、暴漢をふたりのしちゃえるような平凡なサラリーマンはいませんから。いろんな人つき合って見識を広めるのも、俺の仕事と趣味なんです」
サンプル扱いされているようなものだったが、人なつこい縞の態度のおかげか不快感はまるでない。佐山も一緒に笑った。
「俺も男に可憐っていう言葉を使うライターさんの知り合いは初めてです」
「仲よくしてやってください」
言われるまでもなく、佐山はこの会って二回目の男に、好感を抱いていた。
(何だろう、やっぱり、縞さんといるのは楽しいな)
アルコールはもちろん入っていないのに、佐山の心臓が少し早い。慣れない相手に緊張している感じとも違った。
蕎麦は美味く、食事も会話も進む。縞はあちこち出かけたり人と会ったりを生業にしているようなものだと本人が言うだけあって、話題は多彩だし、何より話し上手で、佐山はとても楽しい時間を過ごすことができた。
待ち合わせたのが佐山の都合で八時頃、のんびり食事をして、お茶を飲みながら気づけば二時間近く、お互いの仕事の都合で、河岸を変えることもなく十時過ぎに店を出て、佐山は縞と並んで駅に向かった。
会計の時、縞は助けてもらったお礼に奢ると申し出たのだが、佐山が遠慮して、結局折半になった。
「その代わり、また食事つき合ってもらえますか?」
縞の言葉に、佐山は笑って頷いた。週に一度は都内に出るが、仕事相手とのつきあいでの飲み食いは煩わしい、断る口実がほしいのだと説明されて、断る理由もない。奇妙な出会いではあったが、食事を終える頃には、佐山は最初の印象よりもっと縞に好感を持った。
ここのところ、仕事絡み以外で知り合いができることなんて滅多になかったから、こういうのも悪くないよなと思った。
「そういえば今日電話した時、もしかしなくてもお仕事中でしたよね。すみません、お邪魔してしまって」
並んで歩道を歩く縞が、思い出したように佐山に言った。
「ちょうど手の空いた時だったから、大丈夫でしたよ」
「自分が不規則な仕事してるもんだから、時間の感覚がおかしくなってるんです。次連絡するなら、メールの方がいいかな。佐山さん携帯同じ会社ですよね、直通メール入れてもいいですか?」
どうやら社交辞令ではなく誘ってくれているらしい。
「構いませんよ、すぐには返事できない時もあるかもしれないけど」
「都合あった時で全然。割と思いつきで動くタチなんで、急に連絡することも多いだろうから、気にせず返事下さい」
「わかりました」
駅の近くまで来た時、それまで車通りは多いが混み合うわけでもなく、クラクションで煽る者もいなかったから静かだった隣の車道が、不意に騒がしくなった。事故でもあったのか、病院の救急車輌がサイレンを鳴らしながら信号を渡ろうとしている。道を開けるよう救急隊員が放送する声に、しかしいくつかの乗用車は従わず、青信号を平然と渡っていった。
「マナー悪いなあ」
様子を見ていた縞が、憤った声を上げる。
「本当に。救急なんだから、少しくらい待てばいいのに――」
頷きながら縞の方を何気なく見上げた佐山は、瞬間、小さく目を瞠った。
今日会った時から終始明るい笑みを浮かべていた縞の、初めて見る曇った表情。
その顔に、佐山はぎくりとしてしまった。
(秋口に、似てる……)
声が似ているとも思っていた。だが、顔立ちまで似ているとは気づかなかった。顔の造りのどこが似ているというわけでもない。秋口は涼しげな切れ長の目をしていたが、縞は目尻に笑いじわの寄る優しい顔立ちだったし、秋口の唇は少し薄情そうに薄いけれど、縞は妙に色気のある、厚みを持った尻上がりの唇だ。
タイプはまったく違うのに、ふとした表情と角度で、驚くほどふたりが似ていて、佐山は思わず絶句した。
「ん?」
目を瞠って自分を見ている佐山の視線に気づき、縞が不思議そうに首を傾げた。
明るい笑い声もあまり似ていない。少しひそめて低くなった時や、冗談めかしてまじめな声音になった時は、心臓が止まりそうなくらいそっくりだった。
「佐山さん? どうかしましたか?」
間近で顔を覗き込まれ、佐山はぎょっとして軽く身を引いた。縞がますます怪訝そうな顔になる。さすがに失礼な反応だと、佐山は慌てた。
「す、すみません……あんまりいい男だから、見とれちゃって」
冗談で誤魔化そうと、佐山は初対面の時と同じ言い訳をして、しかしその言葉の気恥ずかしさにひとり赤くなった。
縞はそんな佐山の反応を興味深そうに眺めて、変に思われたに違いないと佐山がいたたまれない気分になる半歩手前のタイミングでにっこり笑うと、
「よく言われます」
とてらいもなく答えた。