きまずいふたり・第2話
(そうだ、金下ろさないと)
忙しさにかまけていたら、財布の中身がすっかり寂しくなっていた。
珍しく、奇蹟的に定時に仕事を終えて会社を出た平日の夕方、佐山は自宅に戻る前に途中の駅で電車を降り、銀行に向かった。そろそろ同じスーツやシャツばかり着続けているのはどうかと、昼間顔を合わせた御幸に言われ、そういえば最近服なんて買ったことがなかったと思い出したのだ。
土日に混み合う店をうろうろするのに気が進まず、延ばし延ばしにしていたが、時間ができたので、金を下ろして気晴らしにぶらぶらすることにした。
秋口と、当分会わずにすむよう仕向けてから、今日で五日。
これで少しは気分が落ち着くかと思ったのに、どうしたって秋口のことを考えては憂鬱な気分になってしまうのだから救いようがない。
(遠くから見るってのも、やりづらいしなあ)
会社でお互いの姿をみつければ、無視するわけにも行かずにこっちからちょっと笑いかけたり、向こうが小さく会釈を返したり、ぎこちないことこの上ない空気だ。喧嘩をしたわけじゃない。気軽に声を掛け合うこともできない。この中途半端さが佐山の気をいよいよ重くさせる。
(……俺は、どうしたいんだ? 結局)
ぼんやりと、答えを本気で出すわけでもなく考えつつ、佐山はATMで金を下ろした。もう窓口は閉まっているが、数人の客がATMを利用するため店の中にいる。下ろした金とカードをを財布にしまい、服屋のあるビルへ歩き出した佐山は、背後で女性の悲鳴を聞き、驚いて振り返った。
「だ、誰かぁ、ひったくり――」
駅前だが、コンコースから外れた人通りのまばらな道だ。佐山から少し離れた場所で初老の女性が歩道に倒れ込み、彼女の手を伸ばす先――佐山の方へ、若い男ふたりが慌ただしく走ってくるのが見えた。通りすがりのOLふたりが彼らに突き飛ばされかけ、慌てて道を避けていた。他にサラリーマンふうの男が佐山と逃げてくる男たちの間にいたが、迷惑そうな顔で立ち止まるだけだった。
「捕まえて、誰かぁ」
甲高い女性の悲鳴を聞きながら、佐山は考えるより先に、走ってくる男たちの進路を阻む位置に移動していた。
「どけ!」
怒声を聞いてももちろん道は譲らず、先を走る男の足先に自分の足を差し出す。
佐山の足に引っかかって、男が派手に地面へ転がった。だが、後から来た男が相棒の醜態には目もくれず、地面に落ちたバッグを素早く拾い上げる。
佐山も手を伸ばしたが、間に合わず、男は道の先を行ってしまった。追いかけようとした佐山の足を、地面に転がったままの男が掴み、佐山も転びかけたが、すぐそばのガードレールに捕まってこらえた。
「てめぇ」
転ばされた怒りにまかせ、男が佐山の肩を掴み、自分の方へ体を向けさせる。振り上げられた拳が降りてくる前に、佐山は手にしていた鞄でそれを払い、体勢が崩れたところで渾身拳を相手の土手っ腹へ叩き込んだ。佐山のひょろりと頼りない体に油断していた男は、思い切りのいい攻撃を予測できず、もろに喰らった。
呻き声を洩らしてうずくまる男を地面へ俯せに押さえつけながら、片手を背中の方へねじ上げる。相手の動きを封じ込めてしまってから、もうひとりはどうしたかと、佐山は辺りを見回した。
すぐに、少し離れた場所で他の通行人と揉み合っているのをみつけた。
「すみません、これ、押さえてて。あと、一一○番お願いします」
「えっ、あ、はい!」
近くの野次馬たちへ強引に男を預け、佐山は揉み合うふたりのそばに駆け寄った。
簡単にのせてしまった先刻の相手よりも、鞄を手にした男の方が体格がよく、暴力に慣れている感じがした。その男と取っ組み合っている方も背が高く大柄だったが、必死な相手の勢いに押されている。
佐山が駆け寄り辿り着く直前、ひったくりの男の蹴りが、止めようとする男の脇腹に当たった。地面に倒れ込む相手を踏みつけて再び走り出そうとする引ったくり犯の背中に、佐山はそばにあった消費者金融の小さな立て看板を両手で掴んで叩きつけた。
「うぐぉッ」
背後からの打撃に体勢を崩しかけた男は、それでも何とか踏みとどまった。痛みと驚きで逆上して、低い叫び声を上げながら振り返り、佐山の方へ突進してくる。佐山は看板を、今度は相手の足許目掛けて投げつけ足止めすると、怯んだ相手の鼻面に鞄を叩きつけた。
周りの野次馬たちが、男がよろめいたのを見ると一斉に飛びかかり、数人で押さえつけにかかった。
振り返ると、先に捕まえた男も、騒ぎを聞きつけて集まった人たちがしっかり動きを封じている。
それを確認すると、佐山は引ったくり犯に蹴られた脇腹を押さえながら立ち上がろうとしている男の方へ近づき、手を貸した。
「大丈夫ですか?」
「いてて……いや、すみません、平気です。ありがとう」
佐山と同年代に見える若い男は、腹を押さえながら反対の手で佐山の手に掴まり、立ち上がった。声が少し嗄れている。しばらく呻いていたのかもしれない。相当強く蹴りつけられたのが佐山の位置からでも見えた。
痛みに顰められた男の顔がどことなく青白く見えて、佐山は顔を曇らせる。
「顔色、悪いですよ。骨はやられてませんか、ひどく傷むようなら病院に」
「実は徹夜明けなんです。せっかくカッコつけて飛び出したのはいいけど、思うように体が動かなくて。年かなぁ」
「――……」
心配させまいとしてか、おどけて言った男の声は掠れが治り、おそらく彼本来の響きになった。
そしてその声を耳にして、佐山は思わず体の動きを止めた。
「ん? どうかしました?」
様子に気づいて、男が不思議そうに首を傾げる。
ハッと我に返った佐山は、つい顔を赤らめる。
「す、すみません――あんまり言い声なんで、聞き惚れちゃって」
「ああ。よく言われます」
男は照れもせず、笑顔でしれっとそう答えた。佐山は思わず吹き出し、相手も、軽く笑い声を立てた。
「は、は、いてて……とにかく、ありがとう。助かりました」
体を支える佐山の腕に掴まったまま、男が頭を下げる。佐山は恐縮した。
「いや、こちらこそ、ひとりじゃ捕まえられませんでしたから」
佐山と男は、同時に後ろを振り返った。パトカーがやってきて、警官が野次馬たちから引ったくり犯ふたりを引き取る様子が見える。
バッグを盗られて助けを求めていた老女が、佐山たちの方を指さしていた。
「あっ、あの人たちですよ、あのお兄さんたちが捕まえてくれたの」
彼女に言われて近づいてくる警官を見て、男が「しまった」と小さく声を上げた。
「さっさと退散するんだった、安眠が遠くなる……」
「すみません、調書を取りたいので、少しお時間いただけますか?」
男のぼやき声と重なるように、警官が佐山たちに声をかけてくる。
佐山と男は顔を見合わせ、苦笑気味に笑い合う。
「はい」
「いいですよ」
同時に答えながら、佐山は男と自分が奇妙な連帯感を味わっているのがわかって、おかしくなった。
男が佐山に耳打ちしてくる。
「仕方ない、お役所仕事だから時間はかかるだろうけど、これも正義の味方の試練だと思って共に堪え忍びましょう」
男の茶化した囁き声に笑いを返しながら、佐山は何だかどぎまぎして止まらなかった。
(何だ、この動悸は――)
理由なんて、本当はもうわかっている。
男の声が、あまりに秋口に似すぎていたからだ。
忙しさにかまけていたら、財布の中身がすっかり寂しくなっていた。
珍しく、奇蹟的に定時に仕事を終えて会社を出た平日の夕方、佐山は自宅に戻る前に途中の駅で電車を降り、銀行に向かった。そろそろ同じスーツやシャツばかり着続けているのはどうかと、昼間顔を合わせた御幸に言われ、そういえば最近服なんて買ったことがなかったと思い出したのだ。
土日に混み合う店をうろうろするのに気が進まず、延ばし延ばしにしていたが、時間ができたので、金を下ろして気晴らしにぶらぶらすることにした。
秋口と、当分会わずにすむよう仕向けてから、今日で五日。
これで少しは気分が落ち着くかと思ったのに、どうしたって秋口のことを考えては憂鬱な気分になってしまうのだから救いようがない。
(遠くから見るってのも、やりづらいしなあ)
会社でお互いの姿をみつければ、無視するわけにも行かずにこっちからちょっと笑いかけたり、向こうが小さく会釈を返したり、ぎこちないことこの上ない空気だ。喧嘩をしたわけじゃない。気軽に声を掛け合うこともできない。この中途半端さが佐山の気をいよいよ重くさせる。
(……俺は、どうしたいんだ? 結局)
ぼんやりと、答えを本気で出すわけでもなく考えつつ、佐山はATMで金を下ろした。もう窓口は閉まっているが、数人の客がATMを利用するため店の中にいる。下ろした金とカードをを財布にしまい、服屋のあるビルへ歩き出した佐山は、背後で女性の悲鳴を聞き、驚いて振り返った。
「だ、誰かぁ、ひったくり――」
駅前だが、コンコースから外れた人通りのまばらな道だ。佐山から少し離れた場所で初老の女性が歩道に倒れ込み、彼女の手を伸ばす先――佐山の方へ、若い男ふたりが慌ただしく走ってくるのが見えた。通りすがりのOLふたりが彼らに突き飛ばされかけ、慌てて道を避けていた。他にサラリーマンふうの男が佐山と逃げてくる男たちの間にいたが、迷惑そうな顔で立ち止まるだけだった。
「捕まえて、誰かぁ」
甲高い女性の悲鳴を聞きながら、佐山は考えるより先に、走ってくる男たちの進路を阻む位置に移動していた。
「どけ!」
怒声を聞いてももちろん道は譲らず、先を走る男の足先に自分の足を差し出す。
佐山の足に引っかかって、男が派手に地面へ転がった。だが、後から来た男が相棒の醜態には目もくれず、地面に落ちたバッグを素早く拾い上げる。
佐山も手を伸ばしたが、間に合わず、男は道の先を行ってしまった。追いかけようとした佐山の足を、地面に転がったままの男が掴み、佐山も転びかけたが、すぐそばのガードレールに捕まってこらえた。
「てめぇ」
転ばされた怒りにまかせ、男が佐山の肩を掴み、自分の方へ体を向けさせる。振り上げられた拳が降りてくる前に、佐山は手にしていた鞄でそれを払い、体勢が崩れたところで渾身拳を相手の土手っ腹へ叩き込んだ。佐山のひょろりと頼りない体に油断していた男は、思い切りのいい攻撃を予測できず、もろに喰らった。
呻き声を洩らしてうずくまる男を地面へ俯せに押さえつけながら、片手を背中の方へねじ上げる。相手の動きを封じ込めてしまってから、もうひとりはどうしたかと、佐山は辺りを見回した。
すぐに、少し離れた場所で他の通行人と揉み合っているのをみつけた。
「すみません、これ、押さえてて。あと、一一○番お願いします」
「えっ、あ、はい!」
近くの野次馬たちへ強引に男を預け、佐山は揉み合うふたりのそばに駆け寄った。
簡単にのせてしまった先刻の相手よりも、鞄を手にした男の方が体格がよく、暴力に慣れている感じがした。その男と取っ組み合っている方も背が高く大柄だったが、必死な相手の勢いに押されている。
佐山が駆け寄り辿り着く直前、ひったくりの男の蹴りが、止めようとする男の脇腹に当たった。地面に倒れ込む相手を踏みつけて再び走り出そうとする引ったくり犯の背中に、佐山はそばにあった消費者金融の小さな立て看板を両手で掴んで叩きつけた。
「うぐぉッ」
背後からの打撃に体勢を崩しかけた男は、それでも何とか踏みとどまった。痛みと驚きで逆上して、低い叫び声を上げながら振り返り、佐山の方へ突進してくる。佐山は看板を、今度は相手の足許目掛けて投げつけ足止めすると、怯んだ相手の鼻面に鞄を叩きつけた。
周りの野次馬たちが、男がよろめいたのを見ると一斉に飛びかかり、数人で押さえつけにかかった。
振り返ると、先に捕まえた男も、騒ぎを聞きつけて集まった人たちがしっかり動きを封じている。
それを確認すると、佐山は引ったくり犯に蹴られた脇腹を押さえながら立ち上がろうとしている男の方へ近づき、手を貸した。
「大丈夫ですか?」
「いてて……いや、すみません、平気です。ありがとう」
佐山と同年代に見える若い男は、腹を押さえながら反対の手で佐山の手に掴まり、立ち上がった。声が少し嗄れている。しばらく呻いていたのかもしれない。相当強く蹴りつけられたのが佐山の位置からでも見えた。
痛みに顰められた男の顔がどことなく青白く見えて、佐山は顔を曇らせる。
「顔色、悪いですよ。骨はやられてませんか、ひどく傷むようなら病院に」
「実は徹夜明けなんです。せっかくカッコつけて飛び出したのはいいけど、思うように体が動かなくて。年かなぁ」
「――……」
心配させまいとしてか、おどけて言った男の声は掠れが治り、おそらく彼本来の響きになった。
そしてその声を耳にして、佐山は思わず体の動きを止めた。
「ん? どうかしました?」
様子に気づいて、男が不思議そうに首を傾げる。
ハッと我に返った佐山は、つい顔を赤らめる。
「す、すみません――あんまり言い声なんで、聞き惚れちゃって」
「ああ。よく言われます」
男は照れもせず、笑顔でしれっとそう答えた。佐山は思わず吹き出し、相手も、軽く笑い声を立てた。
「は、は、いてて……とにかく、ありがとう。助かりました」
体を支える佐山の腕に掴まったまま、男が頭を下げる。佐山は恐縮した。
「いや、こちらこそ、ひとりじゃ捕まえられませんでしたから」
佐山と男は、同時に後ろを振り返った。パトカーがやってきて、警官が野次馬たちから引ったくり犯ふたりを引き取る様子が見える。
バッグを盗られて助けを求めていた老女が、佐山たちの方を指さしていた。
「あっ、あの人たちですよ、あのお兄さんたちが捕まえてくれたの」
彼女に言われて近づいてくる警官を見て、男が「しまった」と小さく声を上げた。
「さっさと退散するんだった、安眠が遠くなる……」
「すみません、調書を取りたいので、少しお時間いただけますか?」
男のぼやき声と重なるように、警官が佐山たちに声をかけてくる。
佐山と男は顔を見合わせ、苦笑気味に笑い合う。
「はい」
「いいですよ」
同時に答えながら、佐山は男と自分が奇妙な連帯感を味わっているのがわかって、おかしくなった。
男が佐山に耳打ちしてくる。
「仕方ない、お役所仕事だから時間はかかるだろうけど、これも正義の味方の試練だと思って共に堪え忍びましょう」
男の茶化した囁き声に笑いを返しながら、佐山は何だかどぎまぎして止まらなかった。
(何だ、この動悸は――)
理由なんて、本当はもうわかっている。
男の声が、あまりに秋口に似すぎていたからだ。