こころなんてしりもしないで・第10話<完結>
向こうが最初に手を上げたのだから、こっちだって暴力をふるって言うことを聞かせてしまおうか。
そんな凶暴な考えが浮かんでは、必死に打ち消した。
佐山がもう笑顔もなく自分を無視するようになってから三日、秋口は怖くて、自分から彼に近づくことなんてできなくなってしまっていた。
(もうどうだっていいじゃないか。あんな奴)
もう何度もそうやって自分に言い聞かせている。
わざわざ男の、それもあんなパッとしない相手を選ばなくたって、周りにいくらでも綺麗で柔らかくて簡単に自分に媚びる女がいる。
そう思うのに、佐山を抱いて以来、秋口は他の女と寝る気なんて塵ほども起きなくなっていた。
誰と会っていても、佐山ならきっとこう言うはずなのにとか、あんなふうに笑うはずなのにとか、そんなことばかりが思い浮かんでどうにもならなかった。
佐山以外に、誰が自分にあんなふうに柔らかく笑ってくれたり、優しく話してくれたりするのか、秋口には思いつかない。
(――もう、駄目なんだ)
何度も自分に『佐山なんていらない』と言い聞かせようと努力したのに。
佐山以外の誰でも、自分にとっては一緒にいても意味なんてないと、どう誤魔化そうとしてもわかってしまった。
佐山なんて必要ないと思い込もうとするたび、余計に佐山に会いたくなって、触れたくなって、頭がおかしくなりそうになる。
今で充分おかしくなっているのかもしれない。
数日前に沙和子と一緒にいる佐山を見た時に、自分の中で何かが壊れる感じがした。追いかけて引き離すような無様な行為を二度としたくないと、その時は気持ちをねじ伏せて家に帰ったけれど、とても正気で眠れる気がしなくて結局佐山の家に向かい、馬鹿みたいにその帰りを待った。
それでも佐山に拒絶され、怒りと、惨めさと、悲しみとが判別つきがたい強さで渦巻いて、何もできなくなってしまった。
佐山は本気で自分のことを切り捨てる気かもしれない。
そう思うとそれだけで頭がいっぱいになり、取引先でミスをして呆れられ、今まで浴びたことのない罵声を浴びて、秋口は限界を感じた。
(佐山さんがいないと、駄目なんだ)
三日冷たくされて気が変になってしまうのなら、一週間続いたらきっと死んでしまう。
仕事のミスを反省するいとまもなく戻ってきた会社のビルで、秋口は走ってエレベータに近づくと、叩き壊しかねない勢いでボタンを押した。
エレベータを下り、まっすぐ開発課を目指そうとする途中、休憩所に佐山が座っているのが見えて心臓が鳴った。緊張したのか、嬉しいのか、わからないくらい強い感情が突き上げて来る。後ろ姿なのに間違えようもなくわかる。ベンチに座って、少し俯いて、両手に何か持っている。きっとホットミルクだ。猫舌だから冷ましながら呑んでいる。湯気が吹き上げて眼鏡が曇っているかもしれない。
そんなことを想像して、秋口は今浮かんでくるこの感情をどうしていいのか、自分でもすっかり見失ってしまった。
「佐山さん!」
声を張り上げると、驚いたように佐山が振り返った。その表情がすぐに翳るのが辛い。ここのところ、佐山は自分の姿を見ると眉を顰めた。少し前までは、廊下で擦れ違うだけで優しく、穏やかに微笑みかけてくれていたのに。
それを壊したのは紛れもなく自分だ。
「……何」
走って休憩所にやってきた秋口の勢いに押されたのか、佐山が今日は秋口を無視せず、だがやはり笑いもせずに短く訊ねた。
「ごめん」
何から切り出せばいいのかわからず、秋口は息を切らしたままそう言って頭を下げた。
「ひどいことたくさん言って、して……傷つけて、すみませんでした」
「……」
佐山は何も言わず黙りこくっている。秋口の心臓は、走ったせいだけではなく、怖いくらい早鐘を打っていた。
「俺が悪かったから……だから、無視するのやめてください。話聞いてください、頼むから」
頭を下げたままだから、秋口には佐山がどんな顔をしているのかわからない。
自分でも何を言うべきなのか、そもそも自分の考えすらもまとまらないまま、秋口にはただ懇願することしか思いつかなかった。こんな醜態を避けたくてずっと意地を張ってきたのに、それを続けることで佐山と二度と話すらできなくなってしまうことの方が嫌だと、ようやく気づいただけで。
「お願いします、佐山さん」
「女々しいこと言うんだな」
秋口の頭上に振ってきたのは、優しい声音と、それと真逆の冷淡な言葉だった。
おそるおそる秋口が頭を上げると、佐山は笑っている。だが、笑いかけてくれたことに安堵できるような類の表情ではなかった。
「俺は何を謝られてるのかわからないよ。心当たりがたくさんありすぎて」
「全部です」
少しでも黙り込んでしまえば、言いくるめられて逃げられる気がして、秋口は必死になった。
「俺が佐山さん傷つけたこと全部」
「……わかってもないくせに。全部なんて」
佐山は笑みを消して、秋口から顔を逸らした。
秋口は憔悴する気持ちでその両腕を掴む。
「じゃあ教えて下さい」
佐山は答えなかった。
「佐山さんが何考えてるかとか、俺にはわからないんだよ。佐山さんみたいな人、初めてで……でもわかりたいんだ。どうやったら佐山さんがいなくならずにすむかとか、どうやったら俺がこんな気持ちにならなくてすむかとか」
「結局、自分のことだけか」
微かな溜息と共にそう呟かれ、秋口は駄目だと思うのに、言葉が続けられなかった。
「自分が辛いから、そうならずにいられる方法を人に聞いて知りたいだけで、自分じゃ考えようともしないで」
「それでも佐山さんじゃなきゃ嫌なんだから仕方ないだろ!!」
佐山の細い腕を掴み、その肩に額を押しつけて、秋口は感情に任せて声を張り上げた。こんなふうに哀れっぽい声で叫ぶことなんて、生まれて初めてだった。
今はそれを、無様だと嫌悪する余裕すらない。
「わかってるなら、教えてくれればいいじゃないか。やり方がわからないだけなんだ、どうしたら佐山さんが傷つかずにすむのか、教えてくれたらそのとおりにするから。どうやったら俺から離れないでいてくれるのかわかったら、そういうふうにするから、だから」
「……」
「教えてくれよ……」
夢中で、頭で考えるよりも先に出てくる言葉を必死に紡いでいると、大きな溜息が聞こえた。
それだけで秋口は怯えて、言葉を切らせてしまう。
「……まあ……気長に行くか……」
ひとりごとのような、佐山の呟き。
その真意を問うのも怖くて顔を上げられない秋口の頭を、佐山が軽く掌で叩いた。
「いいよ、話は聞く。ちょっとは自分で考えてほしいけど……話し合う余地はある。と思う。理由はどうあれ秋口が謝ったっていうのは進歩だと思うし」
勢いよく顔を上げた秋口が何か言うより早く、その代わり、と佐山が言を継ぐ。
「許す代わりに、もう一発殴らせろ」
「――」
瞬間、以前殴られた頬が痛みを思い出して、秋口は顔を引きつらせた。冷やしたのに腫れはなかなか引かなかったし、切れた口の中もなかなか治らないしでさんざんだった。傷が痛むたびに佐山に力ずくで遠ざけられたことも実感してしまったから、もう思い出したくない痛みだというのに。
(でも……)
それくらいは、当然の報いなのかもしれない。
「わかりました」
覚悟を決めて、秋口は佐山から手を離すと、背筋を伸ばして目を閉じた。力一杯歯を食いしばる。殴られる、と覚悟して構えておけば、多少はダメージに差も出るだろう。
直立不動で振り上げられる拳を待っていた秋口は、しかし、
「……ッ……、……ぐ……っ」
次の瞬間、鳩尾に下から上への強烈な一発を見舞われて、思わずその場に膝をついた。
(は……腹……!?)
予測もしない報復に、秋口は自分のものとも思えない低い呻き声をもらしながら、殴られた腹を両手で押さえた。まるで遠慮のない一撃だった。
「さ、さ、佐山……おまえ、最高……ッ!」
そしてなぜか、爆笑する御幸の声が聞こえた。佐山しか目に入っていなかったので気づかなかったが、休憩所にはどうやら御幸も最初からいたらしい。
「あー、すっきりした」
晴れやかな声が聞こえ、さすがに恨みがましい涙目で秋口は佐山を見上げて――痛みで声が出ないという以上に、絶句した。
佐山は言葉どおり晴れ晴れした表情で笑って秋口を見下ろしながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていたのだ。
(――あたりまえだ、佐山さんの方が辛かったんだから)
自分が今までどれだけのことを佐山にしたのかを考えれば、たかが渾身の力で腹に一発喰らったくらいで許してくれるのなんて、安すぎる。
笑って、それでもこらえきれずに涙を落とす佐山の姿を見て、秋口はたまらない気持ちになってしまった。
たまらなく、この人のことが愛しいと思う。
床に膝をついて咳き込む秋口の前に、佐山も座ってその顔を覗き込んでくる。
「すっきりしたから、もういいよ。俺も子供みたいに無視なんかしてごめんな」
ここに御幸がいなかったら佐山を抱き締められるのに――と思って涙目を向けると、御幸が笑いをこらえた顔で秋口を見下ろし、軽く肩を竦めて見せてから、休憩所を出て行った。
それで秋口は遠慮なく、片手を床について自分の体重を支え、片手で佐山の頭に手を伸ばした。抱き締めようとしているのか、助けを求めて縋っているのか、よくわからないような格好になったが。
「……今晩……空いてますか」
掠れたみっともない声で秋口が咳き込みながら切れ切れに訊ねると、佐山は眼鏡を取って濡れた目許を指で擦りながら首を横に振った。
「今日は残業」
「遅くても待ってる」
喰い下がると、佐山が少し笑って、それで秋口は無性にほっとした。
佐山はちゃんと、いつもの彼らしい表情で笑ってくれた。
そのことが今、どうしようもなく嬉しい。
「じゃ、奢りな」
それだけ言うと、佐山が立ち上がる。
そのまま休憩所を出て行きそうになって、秋口は慌てた。
「あの、手、貸して欲しいんですけど」
秋口を見下ろして、佐山がもう一度笑った。
「甘えるな」
そして佐山は本当に廊下の方へ出て行ってしまい、後には未だ自力では立ち上がることのない秋口だけが残される。
呆然と見送った先で、佐山が開発課には戻らず、その向こうのトイレに入ったところを見て、秋口は気づいた。佐山は泣き顔が恥ずかしくて逃げたのだ。
(……もう泣かせない)
いつも笑ってばかりの佐山を、何度も泣かせたのは自分だ。泣かせることのできる立場を喜ぶような浅ましい心を捨てて、どうすれば佐山が笑ってくれるのか、それだけを考えなくてはならないと思った。
どうしてそうすべきことがわからなかったのか、秋口には今は不思議だ。
そんなことを考えながら、秋口はまだ立ち上がれずにいる体を持て余し、顔を洗った佐山がもう一度自分のところへ来てくれることを願った。
もう一度佐山が自分を見て笑ってくれることを祈った。
そんな凶暴な考えが浮かんでは、必死に打ち消した。
佐山がもう笑顔もなく自分を無視するようになってから三日、秋口は怖くて、自分から彼に近づくことなんてできなくなってしまっていた。
(もうどうだっていいじゃないか。あんな奴)
もう何度もそうやって自分に言い聞かせている。
わざわざ男の、それもあんなパッとしない相手を選ばなくたって、周りにいくらでも綺麗で柔らかくて簡単に自分に媚びる女がいる。
そう思うのに、佐山を抱いて以来、秋口は他の女と寝る気なんて塵ほども起きなくなっていた。
誰と会っていても、佐山ならきっとこう言うはずなのにとか、あんなふうに笑うはずなのにとか、そんなことばかりが思い浮かんでどうにもならなかった。
佐山以外に、誰が自分にあんなふうに柔らかく笑ってくれたり、優しく話してくれたりするのか、秋口には思いつかない。
(――もう、駄目なんだ)
何度も自分に『佐山なんていらない』と言い聞かせようと努力したのに。
佐山以外の誰でも、自分にとっては一緒にいても意味なんてないと、どう誤魔化そうとしてもわかってしまった。
佐山なんて必要ないと思い込もうとするたび、余計に佐山に会いたくなって、触れたくなって、頭がおかしくなりそうになる。
今で充分おかしくなっているのかもしれない。
数日前に沙和子と一緒にいる佐山を見た時に、自分の中で何かが壊れる感じがした。追いかけて引き離すような無様な行為を二度としたくないと、その時は気持ちをねじ伏せて家に帰ったけれど、とても正気で眠れる気がしなくて結局佐山の家に向かい、馬鹿みたいにその帰りを待った。
それでも佐山に拒絶され、怒りと、惨めさと、悲しみとが判別つきがたい強さで渦巻いて、何もできなくなってしまった。
佐山は本気で自分のことを切り捨てる気かもしれない。
そう思うとそれだけで頭がいっぱいになり、取引先でミスをして呆れられ、今まで浴びたことのない罵声を浴びて、秋口は限界を感じた。
(佐山さんがいないと、駄目なんだ)
三日冷たくされて気が変になってしまうのなら、一週間続いたらきっと死んでしまう。
仕事のミスを反省するいとまもなく戻ってきた会社のビルで、秋口は走ってエレベータに近づくと、叩き壊しかねない勢いでボタンを押した。
エレベータを下り、まっすぐ開発課を目指そうとする途中、休憩所に佐山が座っているのが見えて心臓が鳴った。緊張したのか、嬉しいのか、わからないくらい強い感情が突き上げて来る。後ろ姿なのに間違えようもなくわかる。ベンチに座って、少し俯いて、両手に何か持っている。きっとホットミルクだ。猫舌だから冷ましながら呑んでいる。湯気が吹き上げて眼鏡が曇っているかもしれない。
そんなことを想像して、秋口は今浮かんでくるこの感情をどうしていいのか、自分でもすっかり見失ってしまった。
「佐山さん!」
声を張り上げると、驚いたように佐山が振り返った。その表情がすぐに翳るのが辛い。ここのところ、佐山は自分の姿を見ると眉を顰めた。少し前までは、廊下で擦れ違うだけで優しく、穏やかに微笑みかけてくれていたのに。
それを壊したのは紛れもなく自分だ。
「……何」
走って休憩所にやってきた秋口の勢いに押されたのか、佐山が今日は秋口を無視せず、だがやはり笑いもせずに短く訊ねた。
「ごめん」
何から切り出せばいいのかわからず、秋口は息を切らしたままそう言って頭を下げた。
「ひどいことたくさん言って、して……傷つけて、すみませんでした」
「……」
佐山は何も言わず黙りこくっている。秋口の心臓は、走ったせいだけではなく、怖いくらい早鐘を打っていた。
「俺が悪かったから……だから、無視するのやめてください。話聞いてください、頼むから」
頭を下げたままだから、秋口には佐山がどんな顔をしているのかわからない。
自分でも何を言うべきなのか、そもそも自分の考えすらもまとまらないまま、秋口にはただ懇願することしか思いつかなかった。こんな醜態を避けたくてずっと意地を張ってきたのに、それを続けることで佐山と二度と話すらできなくなってしまうことの方が嫌だと、ようやく気づいただけで。
「お願いします、佐山さん」
「女々しいこと言うんだな」
秋口の頭上に振ってきたのは、優しい声音と、それと真逆の冷淡な言葉だった。
おそるおそる秋口が頭を上げると、佐山は笑っている。だが、笑いかけてくれたことに安堵できるような類の表情ではなかった。
「俺は何を謝られてるのかわからないよ。心当たりがたくさんありすぎて」
「全部です」
少しでも黙り込んでしまえば、言いくるめられて逃げられる気がして、秋口は必死になった。
「俺が佐山さん傷つけたこと全部」
「……わかってもないくせに。全部なんて」
佐山は笑みを消して、秋口から顔を逸らした。
秋口は憔悴する気持ちでその両腕を掴む。
「じゃあ教えて下さい」
佐山は答えなかった。
「佐山さんが何考えてるかとか、俺にはわからないんだよ。佐山さんみたいな人、初めてで……でもわかりたいんだ。どうやったら佐山さんがいなくならずにすむかとか、どうやったら俺がこんな気持ちにならなくてすむかとか」
「結局、自分のことだけか」
微かな溜息と共にそう呟かれ、秋口は駄目だと思うのに、言葉が続けられなかった。
「自分が辛いから、そうならずにいられる方法を人に聞いて知りたいだけで、自分じゃ考えようともしないで」
「それでも佐山さんじゃなきゃ嫌なんだから仕方ないだろ!!」
佐山の細い腕を掴み、その肩に額を押しつけて、秋口は感情に任せて声を張り上げた。こんなふうに哀れっぽい声で叫ぶことなんて、生まれて初めてだった。
今はそれを、無様だと嫌悪する余裕すらない。
「わかってるなら、教えてくれればいいじゃないか。やり方がわからないだけなんだ、どうしたら佐山さんが傷つかずにすむのか、教えてくれたらそのとおりにするから。どうやったら俺から離れないでいてくれるのかわかったら、そういうふうにするから、だから」
「……」
「教えてくれよ……」
夢中で、頭で考えるよりも先に出てくる言葉を必死に紡いでいると、大きな溜息が聞こえた。
それだけで秋口は怯えて、言葉を切らせてしまう。
「……まあ……気長に行くか……」
ひとりごとのような、佐山の呟き。
その真意を問うのも怖くて顔を上げられない秋口の頭を、佐山が軽く掌で叩いた。
「いいよ、話は聞く。ちょっとは自分で考えてほしいけど……話し合う余地はある。と思う。理由はどうあれ秋口が謝ったっていうのは進歩だと思うし」
勢いよく顔を上げた秋口が何か言うより早く、その代わり、と佐山が言を継ぐ。
「許す代わりに、もう一発殴らせろ」
「――」
瞬間、以前殴られた頬が痛みを思い出して、秋口は顔を引きつらせた。冷やしたのに腫れはなかなか引かなかったし、切れた口の中もなかなか治らないしでさんざんだった。傷が痛むたびに佐山に力ずくで遠ざけられたことも実感してしまったから、もう思い出したくない痛みだというのに。
(でも……)
それくらいは、当然の報いなのかもしれない。
「わかりました」
覚悟を決めて、秋口は佐山から手を離すと、背筋を伸ばして目を閉じた。力一杯歯を食いしばる。殴られる、と覚悟して構えておけば、多少はダメージに差も出るだろう。
直立不動で振り上げられる拳を待っていた秋口は、しかし、
「……ッ……、……ぐ……っ」
次の瞬間、鳩尾に下から上への強烈な一発を見舞われて、思わずその場に膝をついた。
(は……腹……!?)
予測もしない報復に、秋口は自分のものとも思えない低い呻き声をもらしながら、殴られた腹を両手で押さえた。まるで遠慮のない一撃だった。
「さ、さ、佐山……おまえ、最高……ッ!」
そしてなぜか、爆笑する御幸の声が聞こえた。佐山しか目に入っていなかったので気づかなかったが、休憩所にはどうやら御幸も最初からいたらしい。
「あー、すっきりした」
晴れやかな声が聞こえ、さすがに恨みがましい涙目で秋口は佐山を見上げて――痛みで声が出ないという以上に、絶句した。
佐山は言葉どおり晴れ晴れした表情で笑って秋口を見下ろしながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていたのだ。
(――あたりまえだ、佐山さんの方が辛かったんだから)
自分が今までどれだけのことを佐山にしたのかを考えれば、たかが渾身の力で腹に一発喰らったくらいで許してくれるのなんて、安すぎる。
笑って、それでもこらえきれずに涙を落とす佐山の姿を見て、秋口はたまらない気持ちになってしまった。
たまらなく、この人のことが愛しいと思う。
床に膝をついて咳き込む秋口の前に、佐山も座ってその顔を覗き込んでくる。
「すっきりしたから、もういいよ。俺も子供みたいに無視なんかしてごめんな」
ここに御幸がいなかったら佐山を抱き締められるのに――と思って涙目を向けると、御幸が笑いをこらえた顔で秋口を見下ろし、軽く肩を竦めて見せてから、休憩所を出て行った。
それで秋口は遠慮なく、片手を床について自分の体重を支え、片手で佐山の頭に手を伸ばした。抱き締めようとしているのか、助けを求めて縋っているのか、よくわからないような格好になったが。
「……今晩……空いてますか」
掠れたみっともない声で秋口が咳き込みながら切れ切れに訊ねると、佐山は眼鏡を取って濡れた目許を指で擦りながら首を横に振った。
「今日は残業」
「遅くても待ってる」
喰い下がると、佐山が少し笑って、それで秋口は無性にほっとした。
佐山はちゃんと、いつもの彼らしい表情で笑ってくれた。
そのことが今、どうしようもなく嬉しい。
「じゃ、奢りな」
それだけ言うと、佐山が立ち上がる。
そのまま休憩所を出て行きそうになって、秋口は慌てた。
「あの、手、貸して欲しいんですけど」
秋口を見下ろして、佐山がもう一度笑った。
「甘えるな」
そして佐山は本当に廊下の方へ出て行ってしまい、後には未だ自力では立ち上がることのない秋口だけが残される。
呆然と見送った先で、佐山が開発課には戻らず、その向こうのトイレに入ったところを見て、秋口は気づいた。佐山は泣き顔が恥ずかしくて逃げたのだ。
(……もう泣かせない)
いつも笑ってばかりの佐山を、何度も泣かせたのは自分だ。泣かせることのできる立場を喜ぶような浅ましい心を捨てて、どうすれば佐山が笑ってくれるのか、それだけを考えなくてはならないと思った。
どうしてそうすべきことがわからなかったのか、秋口には今は不思議だ。
そんなことを考えながら、秋口はまだ立ち上がれずにいる体を持て余し、顔を洗った佐山がもう一度自分のところへ来てくれることを願った。
もう一度佐山が自分を見て笑ってくれることを祈った。
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