こころなんてしりもしないで・第9話

 エスカレータから右手に白い包帯を巻いた佐山が下りてくるのをみとめて、秋口は寄り掛かっていた壁から身を起こした。
「――佐山さん」
 決死の覚悟とか、悲愴な覚悟とか、そういう言葉がまったく相応しい気分で秋口はそう声をかける。
 また殴られるか、罵られるか、無視して逃げられるか。
 そのどれをされても話を聞いてもらう覚悟で。
 緊張して強張った顔で、エスカレータから下りて自分に近づく佐山を見遣った秋口は、その表情が彼らしくやわらかくほころんだことを確認して、正直なところ一瞬深く安堵した。
(許してくれるのかもしれない)
 少しだけ緊張を解いて自分からも近づいた秋口を、佐山が笑ったまま見上げる。
「お疲れ様、また明日」
「え」
 社交辞令としか表現しようのない、だが完璧な笑顔でそう言って歩き去って行く佐山を、愚かなことに秋口は立ちつくして見送ってしまった。
 佐山が自動ドアを越え、社外に出て行ったところでやっと我に返る。
「佐山さん、あの」
 走って声をかけると、佐山は不思議そうな表情で振り返ったが、足は留めなかった。
「どうした?」
「時間、ありませんか。話がしたくて」
「打ち合わせなら、明日でも大丈夫だろ。T社の次の納品はまだ大分先だし」
「いや、仕事の話じゃなくて」
 佐山は笑っているのに、秋口はその態度に強烈な違和感を覚えた。
 自分の言葉がまったく通じていない。以前、もっと自分たちの関係が穏やかだった頃、自分が『捨てるぞ』なんて脅し文句を言った後でさえも、佐山はちゃんとこちらに向けて笑いかけてくれていた。
 だが、違う。今は確実に違う。
 その事実に、秋口はどうしようもなく焦燥感を覚えた。
 焦る秋口に、佐山は申し訳なさそうな表情で微笑んで見せる。
「ごめん、今日はちょっと人と約束があるんだ。また今度」
 やんわりと、だが確実に秋口を拒絶すると、思わず足を留める秋口を置いて佐山は駅の方へと去っていってしまった。
(約束――誰と?)
 それが自分の誘いを断る口実なのか、それとも本当に誰かと会う約束があるのか、そんなことを考えて秋口はもう身動きが取れなくなる。御幸か沙和子なら一緒に会社を出るだろう。自分の知らない奴か、それとも。
(……そんなの今考えることじゃない)
 今の自分に、そんなことを詮索して佐山を問いつめる資格がないことぐらい、秋口にもわかった。
 それでも諦めきれずに、帰宅した後携帯電話から連絡してみたが繋がらず、メールの返事も来なかった。これも当然だ、と落胆しながら秋口は思った。
 これまで自分のしてきたことを思い返すにつけ、どうして今日の昼間まででも佐山が自分につき合ってくれていたのか、その方が不思議だ。
(……どうして好きでいてくれたんだろう)
 そう考えてから、秋口の中でもうそれが過去形になっていることに自分で気づいた。
 これでもまだ佐山が自分に好意を持ってくれているなどと、思い上がることはできなくなってしまった。
 そしてこんな状況にでもならなければ、自分が佐山と一緒にいられないことがどうしても辛いと、そう自覚できなったことも、理解する。
(どうしようもない)
 こんなどうしようもない男に、佐山が二度と笑いかけてくれる可能性なんて、ゼロに等しい。
 今の秋口にはそれしかわからなかった。

こころなんてしりもしないで

Posted by eleki