こころなんてしりもしないで・第9話
泣きすぎた目は何となく腫れぼったくて痛かったし、宿酔いのせいで頭は痛いし、胃はムカムカするしで体調は最悪だったが、御幸と話してすっきりしたおかげか、佐山はそう億劫な気分でもなく会社に向かった。一緒に出社した御幸と、途中でコンビニに寄って、一緒にドリンク剤を飲んだのも効いたらしい。
「それじゃ、へばらない程度に頑張れよ」
それぞれの部署に向かう別れ際、御幸がそう言って佐山の背中を叩いた。それが仕事に対する言葉なのか、それともそれ以外のことに対する言葉なのか、判断はつかなかったが、佐山は何となくありがたい気分で頷きを返した。
午前中、胃薬で何とか吐き気を堪えながら仕事をしていると、携帯電話がメールの着信音を鳴らした。
(――あれ)
差出人は秋口だった。いつもなら午後、仕事の終わる目処がついた頃に連絡が来るのに、こんな早い時間にメールが来るなんて珍しい。
何となく緊張しながら本文を読んで、佐山はまた「あれ?」と思った。
『昼休み、資材倉庫で』
「……」
資材倉庫、という文字を見て、ますます佐山は緊張する。ここのところまったく足を踏み入れていない場所だ。
『了解』
短く返事を打ち、佐山は落ち着かない気分で午前中の仕事をすませ、昼休みになると言われたとおり資材倉庫へ向かった。
人目を忍んで中に入り、まだ秋口が現れていないことをたしかめるとほっと息を吐いて、目についた椅子に腰を下ろす。ドリンク剤の効果も午前中までだったのか、胃もたれがひどくなった感じで、気分が悪い。よっぽど酒量が過ぎていたのか、ゆうべの話になると御幸もさすがに呆れた顔で『無茶な飲み方はするなよ』と釘を刺してきた。
鈍く痛む頭を抱えながら、水でも飲んでくればよかったと後悔した時、外からドアが開く気配がした。佐山が顔を上げると、薄暗い部屋の中に、秋口が現れるところだった。
佐山はどう挨拶をするべきか考えあぐね、そんなことすらいちいち考えなくては反応できない状況に何となく気鬱になりながら、それでも秋口に笑いかける。秋口はそれを無視して、黙ったままドアを閉めた。
「ええと……何か、話とか」
会社で、就業時間中にわざわざ自分を呼び出したのだから、何も世間話をするなどという用事ではないだろう。
――もしかしたら、もう二度と会わないとか、そんなことを告げられるのかとメールを受け取った時から佐山は怯えていた。だが秋口の性格上、そのつもりだったらいちいち断ることもなく、ただ自然に誘われることがなくなるだけだろうと察して、気持ちを宥めた。
あまり慰めにはならない気もしたが。
「……ゆうべ」
「え?」
切り出した秋口の言葉は、変に歯切れが悪かったのでよく聞き取れず、佐山は彼を見上げて首を傾げた。秋口はドアのところに突っ立ったまま、少し離れた場所で椅子に座る佐山のことを見下ろしている。
「……誰かと夜、でかけたんですか」
「ああ……うん、御幸とメシ喰いに。行ったけど」
これは世間話なのか、意味のある質問なのか、わからないまま佐山は正直に答えた。そもそも嘘をつく場面でもない。
「それで、御幸さんは佐山さんの家に泊まって?」
「うん、あれ、よく知ってるな」
少し驚いて佐山がそう答えると、秋口は奇妙な顔で佐山のことを見返した。何か苦いものを口の中で味わっているような表情だった。
「今朝は一緒に来たよ、営業が続けて同じネクタイだと都合が悪いっていうんで、俺の勝手に持っていって――」
部屋の中の空気が思い。それをどうにかしたくて、佐山は馬鹿みたいに明るく話した。
秋口はにこりともせず、ますます苦い表情になるだけだった。
「……って、オチとか別に、ないんだけど……」
「あんたは、俺が他の女とでかけてんの知ってるんだろ」
「は?」
気まずく語尾を濁す佐山に、まったく無視する調子で秋口が質問を被せ、佐山はそれもやっぱりうまく聞き取れずに眉根を寄せた。
「俺があんたと会ってない日に、他の女と寝てるのを知ってるんだろって聞いてるんだよ」
「……」
やっぱり、別れ話か。
そう思ってから、そもそもつき合ってもいないことに思い至って、佐山は頭痛と胃痛がひどくなった。
(何でいまさら、こんな話するんだか……)
以前にしたひどい会話を思い出す。自分は秋口が他の女と会っていることを責めるような口調になって、秋口はそんなことを口にするなと切り捨てた。
どうして同じ会話を今秋口が繰り返そうとするのか、佐山は混乱してしまう。
御幸のおかげで晴れた靄が、ふたたび頭の中を覆いだすような感触。
(……試されてるのか)
自分がそのことを責めたり、何か言えば、今すぐにでも『捨てる』とか。
そういう脅しなのかもしれない。
「知ってるけど」
努めて平静を装って、佐山は秋口にそう答えた。
「それが?」
「それで、あんたは何とも思わないのか?」
「何ともって……」
誘導尋問にあっている気がする。引っかからないように、佐山は細心の注意を払った。
「思わないよ、そんなの。別に、男が好き……ってわけじゃなければ、秋口だっていい歳した大人なわけだし、女の子とそういうことがあって当然だろ」
「……」
「秋口くらい色男なら、誘いだってひっきりなしだろうし、俺なんかと一緒にいて時間潰したりしたら、秋口のこと好きな女の子たちに恨まれるとか」
軽口のように、明るく笑って言った佐山は、自分を見下ろす秋口の目がひどく冷たいことに気づいた。
「……御幸にも、言われたし」
尻窄みでそうつけ足した後は、何だか秋口の顔を見ていられず、佐山はつい俯いてしまった。
どうしてか、理由をつけてこの場から逃げ出したい気分で一杯になる。
好きな相手と一応密室で一緒にいるというのに、まったく心が弾まない。
「あの、話がそれだけなら、昼まだだし」
俯いたまま、早口でそう言って佐山は椅子から立ち上がった。外に出たかったのに秋口はドアの前から退いてくれず、さらに佐山の動きを阻むように、腕を掴んで来る。
「……あきぐ」
近づいてくる秋口の体にどうしてか身が竦み、佐山は呼びかけた名前を飲み込み、咄嗟にその腕を振り払った。
秋口が振り払われた自分の腕を見て、それから視線を佐山の姿へ移す。
何の感情も読み取れない秋口の無表情に、佐山はやっぱり体が竦んだ。
怯えたように後退さる佐山を見て、秋口がふと微笑む。
「どうして嫌がるんですか」
「どうして……って……」
今の秋口を見て、怯えない人間がいるとは佐山には思えなかった。表情は笑っているのに、眼差しが剣呑だ。
「こんなの、何度もやったでしょう?」
もう一度、秋口が先刻よりも乱暴に佐山の腕を掴んだ。
強引な力で秋口の方へ引き寄せられて、佐山はよろめくように、その体に体重を預ける格好になる。体勢を立て直す間もなく顎を掴まれ、上向かされて、目を閉じる間もなくキスされた。
自分が凭れていては重たいのでは、とただそれだけの理由で、佐山は両手で秋口の胸を押した。
「だから、どうして」
佐山に押し退けられた秋口が、苛立ったように声を上げる。
「嫌がるんだよ、今さら初めてってわけでもあるまいし」
「痛ッ、何、秋口」
掴まれたままの腕を引かれ、佐山はやはり乱暴な動きで資材倉庫のドアに背中を押しつけられた。
「押さえてろ、人が来たら困るだろ」
「え……」
相変わらず倉庫の鍵は壊れっぱなしだ。
戸惑う佐山にはお構いなしに、秋口が再び唇を重ねてくる。佐山は押さえつけられて痛む肩に眉を顰めながら、それでもおとなしく目を閉じて秋口に従った。条件反射のようなもの。触れられるのは久々だったのに、秋口にそうされれば、佐山は自然と応えようとしてしまう。
秋口は性急な仕種で佐山の上着のボタンを外し、ネクタイを緩めた。
佐山は秋口が何のつもりでこんなことをしているのかが読めなくて、困惑しながら、されるままになっている。
「ん……」
口腔を深く舌で探られながら、指先できつく胸の先を摘まれ、佐山は痛みのせいか快感のせいかわからない呻き声を喉から漏らした。
秋口の動きは本当に性急だった。キスをしながら佐山の胸や脇腹を探った後、もうズボンのベルトに触れている。すぐにベルトもボタンも外して、片手を佐山の下着の中に差し入れてきた。
自分だけ翻弄されるのが嫌で、佐山も秋口の方へ手を伸ばしたが、それを片手で遮られてしまった。
「……?」
「今日は、いいですよ。しなくても」
不思議そうに手を見下ろす佐山から唇を離し、微かに乱れた呼吸で秋口が言った。その声の艶っぽさに佐山は思わず背筋を震わせる。秋口は佐山がまだ触れてもいないのに、欲情して目を潤ませていた。それに気づいて佐山の気分と体も煽られた。再び沸き上がった震えを堪えようとしたタイミングで、秋口の掌が佐山の性器をきつく握り、擦り上げる。濡れた声が零れそうになって、佐山は咄嗟に唇を噛んだ。
「これじゃ、すぐいっちゃいますね」
少し力を緩め、秋口がやんわりした動きに変えて佐山の中心を掌で弄び出す。
佐山は目許を赤くして、羞恥を堪えながら、秋口が与えてくれるだろう絶頂を待った。
「でも今日は、これで終わられたら困るから」
ひとりごとのように秋口がそう言って、その意味を佐山が問い返す間もなく、指先で佐山自身の先端を擦った。滲み出している先走りの体液を指先に絡めながら、反対の手で佐山の下衣を下着ごと押し下げている。
「足、抜いて」
絡まってうまく脱げない服に焦れたように、秋口が佐山の耳許で命令した。耳許で鳴っているかのような大きな心音を持て余しながら、佐山は秋口のことを見返した。
「……秋口……」
相手の意図を察してしまって、佐山は心許ない声を漏らした。
「待ってくれ……ここで、最後まで?」
「嫌なんですか」
思い遣って訊ねる調子とは真逆の声音で、秋口が笑ってそう言う。
「場所が問題? ちゃんと綺麗なベッドがいいとか」
「いや……そういうわけでも……」
問題はそこじゃない気がしたが、佐山にはうまく答えられなかった。
優しくもない顔で笑いながら、弄ぶみたいに秋口に触れられるのが嫌だとか、そんなことを口にはできない。
(まるで優しくしてくれって縋ってるみたいだ)
「じゃあ気分の問題?」
訊ねながら、秋口ははなから佐山の答えの内容に頓着するつもりはないようで、強引に佐山のスラックスも下着も脚の半ばまで押し下げてしまった。そのまま佐山の片脚を服から引き抜き、佐山の先走りで濡れた指先を下肢の間に押し入れて来る。
「……ッ」
迷う様子もなく秋口の指先が佐山の一番奥を探り出し、周辺をなぞった。指が中へ入ってくる感触に、佐山は体を強張らせた。
「もっと足、開けませんか」
やはり優しさや甘さからほど遠い声で秋口が言う。佐山が身動きできずにいると、秋口が小さく舌打ちして一度指を抜き出し、佐山の肩を押して体の向きを変えさせた。ドアに縋るような格好を取らされ、佐山はますます身を固くする。
佐山が逃げ出したい気分になるのは、行為に抵抗があるわけでもなく、秋口が身にまとう冷たさが悲しかったせいだ。
「やっぱり濡れないのか」
佐山の最奥の辺りを再び指先で触れながら、秋口がひとりごとのように呟いた。佐山の胸が締めつけられたように痛くなる。自分の体は女とは違う。反応が違っていて当然だ。
「持ってきてよかった」
これも誰に聞かせるでもない言葉だったが、佐山はつられるように秋口の方を振り返り、その手に小振りで細長いプラスチックの容器をみつける。
「……何……」
「薬局で売ってたローション。女用だけど、別に男に使っちゃいけないわけじゃないだろうし」
「……」
佐山は言葉を失って、今からでもこの場を逃げ出した方がいいのだろうかとぼんやり考えた。
逡巡しているうち、濡れた手が内腿に触れる。咄嗟に逃げだそうとする佐山の体を秋口の片手が押さえつけ、佐山は冷たく濡れた感触が体の中に滑り込むのを感じた。
「ぁ……ッ」
秋口の指先は容赦なく佐山の中へと潜り込んできた。ゆっくり体の中を掻き回される未知の感触に、佐山はドアに縋ることしかできなくなる。痛みよりも違和感が強い。こんな行為が快楽に繋がるなんて理解できなかった。濡れた感触と音が佐山を落ち着かなくさせる。
「力、入れないで下さいよ。動かし辛い」
囁く秋口の声音はどこか佐山をからかうようなものにも聞こえた。佐山は泣きたい気分でどうにか体に籠もってしまう力を抜こうと試みるが、徒労に終わった。緊張でどうしても体が強張ってしまう。
「あ……きぐち、ごめん、まだ無理……」
ただお互いの手や口で体を愛撫しあうだけの行為と、これは確実に一線を画すやり方だ。秋口と触れ合うようになってから、こういう事態を佐山が想像しなかったわけではないが、実際こんな状態になってみて感じるのは手ひどい拒否感だった。指だけだって受け入れることがこんなに不自然な感触なのに、これ以上のことなんて想像もつかない。
「どうして?」
止めることもなく指を動かし続けながら優しく問いかける秋口の声が、上っ面だけのものだなんてわかっていたのに、佐山はそれでもその優しさに縋りたくなった。
「きゅ……急に、全部は」
「御幸さんとは平気なのに?」
「……え……、……ッ」
ぐっと、さらに奥までねじ込まれた秋口の指が、中で動いて内壁を擦る。佐山は顔を歪めて声を押し殺した。
「御幸さんとは、したんでしょう? 昨日」
「んっ、……みゆ……、何……?」
濡れた音を立てて、秋口が佐山の中で指を出し入れしている。速さを増す動きに思考まで掻き乱されたように、佐山はうまく秋口の言葉について考えることができない。
――考えたくなかったのかもしれない。
「そりゃ、俺が他の女と寝てることとやかく言うわけがないよな。あんただって、他の男とこういうことしてるんだから」
「……っ……あ……ッ」
荒っぽく指が引き抜かれ、震えて頽れそうになる佐山の体は秋口の腕に抱え込まれて無理矢理に立たされた。薄い尻の肉を掴んで押し広げられる。さっきまで指でさんざんに掻き回された場所に、今度は別の、もっと大きな熱の塊が押し当てられた。
「秋……ッ」
嫌だ、と言おうとしたのかもしれない。自分でも何を言うつもりかわからなかった佐山の声は一瞬呼吸と共に飲み込まれ、喉で押し殺した悲鳴になった。
「……ッ……く……、……ん」
ねじ込まれる熱に、悲鳴すらうまく音にならない。
咳き込むように喘ぐ佐山の苦痛にはお構いなしに、秋口は強引に身を進めた。逃げようとする佐山の腰を抱え込み、その中に自分自身を押し込む。
あとはもう、佐山にはわけがわからなくなった。体の中を押し広げられ、熱いものが内壁を擦っている。痛いのか熱いのか苦しいのか、誰がこんな感触を自分に与えているのか、
(秋口)
佐山はただその存在だけに心で縋った。秋口がそう望んでしていることだと、辛くはないと、ぐちゃぐちゃになった頭の中で必死に思う。
到底気持ちが繋がっているだなんて思えないのに、体だけ無理矢理に繋げられる苦痛と惨めさをやり過ごそうとする。
秋口に強い力で体の中を貫かれ、途中から佐山は何も考えられなくなった。秋口の手に痛みで萎えかけた性器を掴まれ、擦られて、力ずくで快楽を揺り動かされる。
「……っ……ッ!」
まるで暴力のようだった。抱き締められるのではなく、押さえつけられたまま、無理矢理に体の中を犯される。呻き声を殺すために佐山はきつく歯を噛み締めた。がくがくと揺れる体は自分のものじゃないような気がした。
何度も佐山の中を突き上げた秋口が、不意に自身を外へ抜き出した。生温い感触が佐山の腰や腿に掛かる。
イッたんだ、とわかった刹那、佐山はその場に座り込みたくなったが、秋口はまだ佐山の体を抱えていて、両腕を使い張りつめたペニスをきつく扱いた。
「あっ……ぁ……」
声を洩らし、佐山も秋口の手の中で達した。
気がつくと、後ろから秋口に抱きすくめられる格好になっている。耳許で秋口が荒い息を繰り返していた。
佐山は秋口の体の温かさを感じながら、どの理由でかわからない涙を飲み込み、小さく啜り上げた。
その小さな音に驚いたような、怯えたような動きで秋口の体が震え、佐山の体を抱く力が弱まる。
佐山は座り込みたい気分を堪え、ドアに凭れて呼吸を整えるため大きく深呼吸した。
(――ハンカチ)
床に落ちたズボンのポケットに入っているハンカチをのろのろと拾い上げ、佐山はなるべく何も考えないよう頭を真っ白にして、あちこち濡れた自分の体をそれで拭った。
秋口も多分、億劫げな動きで乱れた自分の衣服を整えている。
佐山は鈍く痛む体を叱咤して動かし、ドアの前から身をずらした。
「先……」
振り返らないまま、秋口に告げる。
「戻っていいよ、ちょっと休んでく」
本当は今すぐにでも床に横たわってしまいたい状態だったが、そんな姿を秋口に見せるのが嫌で、佐山は努めて普通の声音でそう言った。
後ろで秋口が大きく溜息をついたのがわかり、佐山は悪寒を感じた。
決していい雰囲気なんかじゃない。そんなもの欠片もない。
「……やっぱり、女の方がよっぽど楽だ」
「……」
佐山はいっそ、笑い出したい気分になった。
「……面倒臭ぇ」
それだけ言い残して、秋口は佐山の横を擦り抜け、資材倉庫を出て行った。
「……」
ふ、と短く佐山の口から笑いが零れる。
一度笑い出すと止まらなくなって、それはいつの間にか嗚咽に変わり、佐山は床にへたり込んだ。
「それじゃ、へばらない程度に頑張れよ」
それぞれの部署に向かう別れ際、御幸がそう言って佐山の背中を叩いた。それが仕事に対する言葉なのか、それともそれ以外のことに対する言葉なのか、判断はつかなかったが、佐山は何となくありがたい気分で頷きを返した。
午前中、胃薬で何とか吐き気を堪えながら仕事をしていると、携帯電話がメールの着信音を鳴らした。
(――あれ)
差出人は秋口だった。いつもなら午後、仕事の終わる目処がついた頃に連絡が来るのに、こんな早い時間にメールが来るなんて珍しい。
何となく緊張しながら本文を読んで、佐山はまた「あれ?」と思った。
『昼休み、資材倉庫で』
「……」
資材倉庫、という文字を見て、ますます佐山は緊張する。ここのところまったく足を踏み入れていない場所だ。
『了解』
短く返事を打ち、佐山は落ち着かない気分で午前中の仕事をすませ、昼休みになると言われたとおり資材倉庫へ向かった。
人目を忍んで中に入り、まだ秋口が現れていないことをたしかめるとほっと息を吐いて、目についた椅子に腰を下ろす。ドリンク剤の効果も午前中までだったのか、胃もたれがひどくなった感じで、気分が悪い。よっぽど酒量が過ぎていたのか、ゆうべの話になると御幸もさすがに呆れた顔で『無茶な飲み方はするなよ』と釘を刺してきた。
鈍く痛む頭を抱えながら、水でも飲んでくればよかったと後悔した時、外からドアが開く気配がした。佐山が顔を上げると、薄暗い部屋の中に、秋口が現れるところだった。
佐山はどう挨拶をするべきか考えあぐね、そんなことすらいちいち考えなくては反応できない状況に何となく気鬱になりながら、それでも秋口に笑いかける。秋口はそれを無視して、黙ったままドアを閉めた。
「ええと……何か、話とか」
会社で、就業時間中にわざわざ自分を呼び出したのだから、何も世間話をするなどという用事ではないだろう。
――もしかしたら、もう二度と会わないとか、そんなことを告げられるのかとメールを受け取った時から佐山は怯えていた。だが秋口の性格上、そのつもりだったらいちいち断ることもなく、ただ自然に誘われることがなくなるだけだろうと察して、気持ちを宥めた。
あまり慰めにはならない気もしたが。
「……ゆうべ」
「え?」
切り出した秋口の言葉は、変に歯切れが悪かったのでよく聞き取れず、佐山は彼を見上げて首を傾げた。秋口はドアのところに突っ立ったまま、少し離れた場所で椅子に座る佐山のことを見下ろしている。
「……誰かと夜、でかけたんですか」
「ああ……うん、御幸とメシ喰いに。行ったけど」
これは世間話なのか、意味のある質問なのか、わからないまま佐山は正直に答えた。そもそも嘘をつく場面でもない。
「それで、御幸さんは佐山さんの家に泊まって?」
「うん、あれ、よく知ってるな」
少し驚いて佐山がそう答えると、秋口は奇妙な顔で佐山のことを見返した。何か苦いものを口の中で味わっているような表情だった。
「今朝は一緒に来たよ、営業が続けて同じネクタイだと都合が悪いっていうんで、俺の勝手に持っていって――」
部屋の中の空気が思い。それをどうにかしたくて、佐山は馬鹿みたいに明るく話した。
秋口はにこりともせず、ますます苦い表情になるだけだった。
「……って、オチとか別に、ないんだけど……」
「あんたは、俺が他の女とでかけてんの知ってるんだろ」
「は?」
気まずく語尾を濁す佐山に、まったく無視する調子で秋口が質問を被せ、佐山はそれもやっぱりうまく聞き取れずに眉根を寄せた。
「俺があんたと会ってない日に、他の女と寝てるのを知ってるんだろって聞いてるんだよ」
「……」
やっぱり、別れ話か。
そう思ってから、そもそもつき合ってもいないことに思い至って、佐山は頭痛と胃痛がひどくなった。
(何でいまさら、こんな話するんだか……)
以前にしたひどい会話を思い出す。自分は秋口が他の女と会っていることを責めるような口調になって、秋口はそんなことを口にするなと切り捨てた。
どうして同じ会話を今秋口が繰り返そうとするのか、佐山は混乱してしまう。
御幸のおかげで晴れた靄が、ふたたび頭の中を覆いだすような感触。
(……試されてるのか)
自分がそのことを責めたり、何か言えば、今すぐにでも『捨てる』とか。
そういう脅しなのかもしれない。
「知ってるけど」
努めて平静を装って、佐山は秋口にそう答えた。
「それが?」
「それで、あんたは何とも思わないのか?」
「何ともって……」
誘導尋問にあっている気がする。引っかからないように、佐山は細心の注意を払った。
「思わないよ、そんなの。別に、男が好き……ってわけじゃなければ、秋口だっていい歳した大人なわけだし、女の子とそういうことがあって当然だろ」
「……」
「秋口くらい色男なら、誘いだってひっきりなしだろうし、俺なんかと一緒にいて時間潰したりしたら、秋口のこと好きな女の子たちに恨まれるとか」
軽口のように、明るく笑って言った佐山は、自分を見下ろす秋口の目がひどく冷たいことに気づいた。
「……御幸にも、言われたし」
尻窄みでそうつけ足した後は、何だか秋口の顔を見ていられず、佐山はつい俯いてしまった。
どうしてか、理由をつけてこの場から逃げ出したい気分で一杯になる。
好きな相手と一応密室で一緒にいるというのに、まったく心が弾まない。
「あの、話がそれだけなら、昼まだだし」
俯いたまま、早口でそう言って佐山は椅子から立ち上がった。外に出たかったのに秋口はドアの前から退いてくれず、さらに佐山の動きを阻むように、腕を掴んで来る。
「……あきぐ」
近づいてくる秋口の体にどうしてか身が竦み、佐山は呼びかけた名前を飲み込み、咄嗟にその腕を振り払った。
秋口が振り払われた自分の腕を見て、それから視線を佐山の姿へ移す。
何の感情も読み取れない秋口の無表情に、佐山はやっぱり体が竦んだ。
怯えたように後退さる佐山を見て、秋口がふと微笑む。
「どうして嫌がるんですか」
「どうして……って……」
今の秋口を見て、怯えない人間がいるとは佐山には思えなかった。表情は笑っているのに、眼差しが剣呑だ。
「こんなの、何度もやったでしょう?」
もう一度、秋口が先刻よりも乱暴に佐山の腕を掴んだ。
強引な力で秋口の方へ引き寄せられて、佐山はよろめくように、その体に体重を預ける格好になる。体勢を立て直す間もなく顎を掴まれ、上向かされて、目を閉じる間もなくキスされた。
自分が凭れていては重たいのでは、とただそれだけの理由で、佐山は両手で秋口の胸を押した。
「だから、どうして」
佐山に押し退けられた秋口が、苛立ったように声を上げる。
「嫌がるんだよ、今さら初めてってわけでもあるまいし」
「痛ッ、何、秋口」
掴まれたままの腕を引かれ、佐山はやはり乱暴な動きで資材倉庫のドアに背中を押しつけられた。
「押さえてろ、人が来たら困るだろ」
「え……」
相変わらず倉庫の鍵は壊れっぱなしだ。
戸惑う佐山にはお構いなしに、秋口が再び唇を重ねてくる。佐山は押さえつけられて痛む肩に眉を顰めながら、それでもおとなしく目を閉じて秋口に従った。条件反射のようなもの。触れられるのは久々だったのに、秋口にそうされれば、佐山は自然と応えようとしてしまう。
秋口は性急な仕種で佐山の上着のボタンを外し、ネクタイを緩めた。
佐山は秋口が何のつもりでこんなことをしているのかが読めなくて、困惑しながら、されるままになっている。
「ん……」
口腔を深く舌で探られながら、指先できつく胸の先を摘まれ、佐山は痛みのせいか快感のせいかわからない呻き声を喉から漏らした。
秋口の動きは本当に性急だった。キスをしながら佐山の胸や脇腹を探った後、もうズボンのベルトに触れている。すぐにベルトもボタンも外して、片手を佐山の下着の中に差し入れてきた。
自分だけ翻弄されるのが嫌で、佐山も秋口の方へ手を伸ばしたが、それを片手で遮られてしまった。
「……?」
「今日は、いいですよ。しなくても」
不思議そうに手を見下ろす佐山から唇を離し、微かに乱れた呼吸で秋口が言った。その声の艶っぽさに佐山は思わず背筋を震わせる。秋口は佐山がまだ触れてもいないのに、欲情して目を潤ませていた。それに気づいて佐山の気分と体も煽られた。再び沸き上がった震えを堪えようとしたタイミングで、秋口の掌が佐山の性器をきつく握り、擦り上げる。濡れた声が零れそうになって、佐山は咄嗟に唇を噛んだ。
「これじゃ、すぐいっちゃいますね」
少し力を緩め、秋口がやんわりした動きに変えて佐山の中心を掌で弄び出す。
佐山は目許を赤くして、羞恥を堪えながら、秋口が与えてくれるだろう絶頂を待った。
「でも今日は、これで終わられたら困るから」
ひとりごとのように秋口がそう言って、その意味を佐山が問い返す間もなく、指先で佐山自身の先端を擦った。滲み出している先走りの体液を指先に絡めながら、反対の手で佐山の下衣を下着ごと押し下げている。
「足、抜いて」
絡まってうまく脱げない服に焦れたように、秋口が佐山の耳許で命令した。耳許で鳴っているかのような大きな心音を持て余しながら、佐山は秋口のことを見返した。
「……秋口……」
相手の意図を察してしまって、佐山は心許ない声を漏らした。
「待ってくれ……ここで、最後まで?」
「嫌なんですか」
思い遣って訊ねる調子とは真逆の声音で、秋口が笑ってそう言う。
「場所が問題? ちゃんと綺麗なベッドがいいとか」
「いや……そういうわけでも……」
問題はそこじゃない気がしたが、佐山にはうまく答えられなかった。
優しくもない顔で笑いながら、弄ぶみたいに秋口に触れられるのが嫌だとか、そんなことを口にはできない。
(まるで優しくしてくれって縋ってるみたいだ)
「じゃあ気分の問題?」
訊ねながら、秋口ははなから佐山の答えの内容に頓着するつもりはないようで、強引に佐山のスラックスも下着も脚の半ばまで押し下げてしまった。そのまま佐山の片脚を服から引き抜き、佐山の先走りで濡れた指先を下肢の間に押し入れて来る。
「……ッ」
迷う様子もなく秋口の指先が佐山の一番奥を探り出し、周辺をなぞった。指が中へ入ってくる感触に、佐山は体を強張らせた。
「もっと足、開けませんか」
やはり優しさや甘さからほど遠い声で秋口が言う。佐山が身動きできずにいると、秋口が小さく舌打ちして一度指を抜き出し、佐山の肩を押して体の向きを変えさせた。ドアに縋るような格好を取らされ、佐山はますます身を固くする。
佐山が逃げ出したい気分になるのは、行為に抵抗があるわけでもなく、秋口が身にまとう冷たさが悲しかったせいだ。
「やっぱり濡れないのか」
佐山の最奥の辺りを再び指先で触れながら、秋口がひとりごとのように呟いた。佐山の胸が締めつけられたように痛くなる。自分の体は女とは違う。反応が違っていて当然だ。
「持ってきてよかった」
これも誰に聞かせるでもない言葉だったが、佐山はつられるように秋口の方を振り返り、その手に小振りで細長いプラスチックの容器をみつける。
「……何……」
「薬局で売ってたローション。女用だけど、別に男に使っちゃいけないわけじゃないだろうし」
「……」
佐山は言葉を失って、今からでもこの場を逃げ出した方がいいのだろうかとぼんやり考えた。
逡巡しているうち、濡れた手が内腿に触れる。咄嗟に逃げだそうとする佐山の体を秋口の片手が押さえつけ、佐山は冷たく濡れた感触が体の中に滑り込むのを感じた。
「ぁ……ッ」
秋口の指先は容赦なく佐山の中へと潜り込んできた。ゆっくり体の中を掻き回される未知の感触に、佐山はドアに縋ることしかできなくなる。痛みよりも違和感が強い。こんな行為が快楽に繋がるなんて理解できなかった。濡れた感触と音が佐山を落ち着かなくさせる。
「力、入れないで下さいよ。動かし辛い」
囁く秋口の声音はどこか佐山をからかうようなものにも聞こえた。佐山は泣きたい気分でどうにか体に籠もってしまう力を抜こうと試みるが、徒労に終わった。緊張でどうしても体が強張ってしまう。
「あ……きぐち、ごめん、まだ無理……」
ただお互いの手や口で体を愛撫しあうだけの行為と、これは確実に一線を画すやり方だ。秋口と触れ合うようになってから、こういう事態を佐山が想像しなかったわけではないが、実際こんな状態になってみて感じるのは手ひどい拒否感だった。指だけだって受け入れることがこんなに不自然な感触なのに、これ以上のことなんて想像もつかない。
「どうして?」
止めることもなく指を動かし続けながら優しく問いかける秋口の声が、上っ面だけのものだなんてわかっていたのに、佐山はそれでもその優しさに縋りたくなった。
「きゅ……急に、全部は」
「御幸さんとは平気なのに?」
「……え……、……ッ」
ぐっと、さらに奥までねじ込まれた秋口の指が、中で動いて内壁を擦る。佐山は顔を歪めて声を押し殺した。
「御幸さんとは、したんでしょう? 昨日」
「んっ、……みゆ……、何……?」
濡れた音を立てて、秋口が佐山の中で指を出し入れしている。速さを増す動きに思考まで掻き乱されたように、佐山はうまく秋口の言葉について考えることができない。
――考えたくなかったのかもしれない。
「そりゃ、俺が他の女と寝てることとやかく言うわけがないよな。あんただって、他の男とこういうことしてるんだから」
「……っ……あ……ッ」
荒っぽく指が引き抜かれ、震えて頽れそうになる佐山の体は秋口の腕に抱え込まれて無理矢理に立たされた。薄い尻の肉を掴んで押し広げられる。さっきまで指でさんざんに掻き回された場所に、今度は別の、もっと大きな熱の塊が押し当てられた。
「秋……ッ」
嫌だ、と言おうとしたのかもしれない。自分でも何を言うつもりかわからなかった佐山の声は一瞬呼吸と共に飲み込まれ、喉で押し殺した悲鳴になった。
「……ッ……く……、……ん」
ねじ込まれる熱に、悲鳴すらうまく音にならない。
咳き込むように喘ぐ佐山の苦痛にはお構いなしに、秋口は強引に身を進めた。逃げようとする佐山の腰を抱え込み、その中に自分自身を押し込む。
あとはもう、佐山にはわけがわからなくなった。体の中を押し広げられ、熱いものが内壁を擦っている。痛いのか熱いのか苦しいのか、誰がこんな感触を自分に与えているのか、
(秋口)
佐山はただその存在だけに心で縋った。秋口がそう望んでしていることだと、辛くはないと、ぐちゃぐちゃになった頭の中で必死に思う。
到底気持ちが繋がっているだなんて思えないのに、体だけ無理矢理に繋げられる苦痛と惨めさをやり過ごそうとする。
秋口に強い力で体の中を貫かれ、途中から佐山は何も考えられなくなった。秋口の手に痛みで萎えかけた性器を掴まれ、擦られて、力ずくで快楽を揺り動かされる。
「……っ……ッ!」
まるで暴力のようだった。抱き締められるのではなく、押さえつけられたまま、無理矢理に体の中を犯される。呻き声を殺すために佐山はきつく歯を噛み締めた。がくがくと揺れる体は自分のものじゃないような気がした。
何度も佐山の中を突き上げた秋口が、不意に自身を外へ抜き出した。生温い感触が佐山の腰や腿に掛かる。
イッたんだ、とわかった刹那、佐山はその場に座り込みたくなったが、秋口はまだ佐山の体を抱えていて、両腕を使い張りつめたペニスをきつく扱いた。
「あっ……ぁ……」
声を洩らし、佐山も秋口の手の中で達した。
気がつくと、後ろから秋口に抱きすくめられる格好になっている。耳許で秋口が荒い息を繰り返していた。
佐山は秋口の体の温かさを感じながら、どの理由でかわからない涙を飲み込み、小さく啜り上げた。
その小さな音に驚いたような、怯えたような動きで秋口の体が震え、佐山の体を抱く力が弱まる。
佐山は座り込みたい気分を堪え、ドアに凭れて呼吸を整えるため大きく深呼吸した。
(――ハンカチ)
床に落ちたズボンのポケットに入っているハンカチをのろのろと拾い上げ、佐山はなるべく何も考えないよう頭を真っ白にして、あちこち濡れた自分の体をそれで拭った。
秋口も多分、億劫げな動きで乱れた自分の衣服を整えている。
佐山は鈍く痛む体を叱咤して動かし、ドアの前から身をずらした。
「先……」
振り返らないまま、秋口に告げる。
「戻っていいよ、ちょっと休んでく」
本当は今すぐにでも床に横たわってしまいたい状態だったが、そんな姿を秋口に見せるのが嫌で、佐山は努めて普通の声音でそう言った。
後ろで秋口が大きく溜息をついたのがわかり、佐山は悪寒を感じた。
決していい雰囲気なんかじゃない。そんなもの欠片もない。
「……やっぱり、女の方がよっぽど楽だ」
「……」
佐山はいっそ、笑い出したい気分になった。
「……面倒臭ぇ」
それだけ言い残して、秋口は佐山の横を擦り抜け、資材倉庫を出て行った。
「……」
ふ、と短く佐山の口から笑いが零れる。
一度笑い出すと止まらなくなって、それはいつの間にか嗚咽に変わり、佐山は床にへたり込んだ。