こころなんてしりもしないで・第9話
秋口が会社や外の女の子と会っている様子は、佐山にもすぐわかった。
もちろん秋口本人が佐山に宣言するわけではないけれど、もともと社内でも噂話の種にされることの多い彼のことだ。休憩所や食堂での女子社員たちのひそひそ話、男性社員たちのやっかみ半分の揶揄、そんなものが嫌でも佐山の耳に入ってきた。
廊下で他の課の女子社員に呼び止められ、親しげに話す秋口の姿を見たことも、一度や二度じゃない。ここのところおとなしくしていた秋口が、どうやらまたあちこちつまみ食いを始めたらしい。それを知った女子社員たちの行動は素早かった。
『六時には仕事終わります』
携帯電話の液晶画面をしばらく眺め、佐山は細く溜息をもらすと返信モードに変えた。
『了解』
件名なしで、二文字。さっさと送信して携帯電話をポケットにしまい、佐山は目の前のパソコンモニタに視線を向けた。
女の子たちと遊ぶ合間に、秋口は佐山とも会う。会って、食事をして、別れて、それで終わりだ。まるで秋口と一緒に出かけるようになった最初の頃のよう。
他愛ない話をしながら気に入った店で食事をとって、笑って、ただそれの繰り返し。
(……疲れたな)
無性に煙草が吸いたくなったが、最近吸い過ぎなのは自覚していたので、佐山はその欲求をどうにか押し殺した。何かと休憩を取りすぎだ。同僚たちもそろそろ変に思っているだろう。溜息ばかりついて、冴えない顔色で、正確な仕事を信条としているのにケアレスミスの増えてきた佐山のことを。
(すごく、疲れた)
最初の頃に秋口と会いだした頃も、やたらと疲れていた。緊張して、楽しくて、そんな自分の感情の浮き沈みに自分で振り回されて、疲れた。
あの頃がもうずっと昔のことみたいだ。
こんな思いをしてまでどうして自分が秋口のそばにいたいと思うのか、佐山は自分の気持ちが馬鹿馬鹿しくて悲しくなってくる。
(それでも会えないよりはマシだ、なんて)
誘いを断れば、秋口は他の人と出かけるだろう。医務室で強引に組み敷かれたのを最後に、秋口は佐山の体に触らなくなったが、秋口好みの綺麗な女と出かけて、彼が相手に手を出さないなんて佐山には考えられなかった。
(こういうのも女々しいっていうのか)
傷ついて、疲れて、それでも秋口に会いたいと思い続ける自分が佐山には滑稽だった。それでもいてもたってもいられないまま、その日も秋口と会って、ただ食事をして、内容なんて覚えてもいられないような当たり障りのない会話をして、お互いの家に帰った。
「佐山、今帰り?」
秋口からのお誘いが掛からなかった平日の晩、仕事を終えてビルを出たところで、御幸に声をかけられた。
「お疲れ、御幸もちょうどか」
「いいタイミング。な、急いでないなら飯でも行かないか」
気軽な調子で自分を誘う御幸の笑顔に、佐山は無性にほっとした気分で笑い返し、頷いた。
「よし決まり決まり」
御幸が佐山の背を押すように歩き出し、駅の方へと向かう。
「ここ、久しぶりだよな」
御幸のリクエストで、ふたりお気に入りの定食屋へ入った。ふたり掛けの席に向かい合って座る。佐山はメニューを見てもあまり食欲が湧かなかったが、御幸を心配させたくなくて、焼き魚定食を頼んだ。御幸はヒレカツ定食にビール。
「俺もちょっと、飲もうかな」
ビールを注文した御幸の声を聞いて、佐山も飲み物のメニューに視線を落とした。
「えーと……生搾りオレンジサワー」
「オレンジ多めでお願いします」
さり気なく御幸が付け足して、佐山は軽く肩を竦めた。御幸は困ったように笑っている。
「ま、飲みたい気分の時もあるよな」
いろいろなことに、聡い御幸は多分気がついているだろうが、何も言わないでいてくれた。そういう相手が自分にいることを、佐山は心底から感謝する。
すぐにやってきたビールとサワーで軽く乾杯して、佐山は久しぶりに、料理を美味いと思って口に運んだ。
秋口と一緒に入る店は、あんなに気に入っていた料理なのに、最近ではその味もほとんどわからなかったのだ。
会社でのできごとや些細な日常、秋口との会話と大差ないことを話しているのに、御幸の前で佐山は自分がずいぶんリラックスしていることに気づいた。
同時に、秋口といる時の自分が、どれほど無理をしているかにも気づいてしまう。あたりまえの態度を貫くことに神経をすり減らしているのだ。
「佐山、そろそろ酒やめとけよ。顔色やばいぞ」
甘い酒が変に美味くて、少しでやめておこうと思ったのに、いつの間にか佐山のグラスの中味は半分ほどに減っている。気づいた御幸がそう釘を刺したが、佐山は大丈夫大丈夫と笑ってまたひとくち酒を飲んだ。
「前にもちょっと飲んで、平気だったんだ」
そう言ってから、その時の酒は秋口と一緒に飲んだのだということを思い出して、喉が詰まるような感触を覚える。
美味い酒で、酔っぱらって、勢い余って秋口に好きだなんて本心を告げてしまった。
あのことさえなければ、秋口と自分はもう少しマシな関係でいられただろうか――そんなことを考えたくなくて、佐山はもうひとくち酒を飲む。
本当に大丈夫かよ、と呆れたような、心配げな御幸な声が聞こえて、笑い返したつもりが、そこから先の記憶がない。
もちろん秋口本人が佐山に宣言するわけではないけれど、もともと社内でも噂話の種にされることの多い彼のことだ。休憩所や食堂での女子社員たちのひそひそ話、男性社員たちのやっかみ半分の揶揄、そんなものが嫌でも佐山の耳に入ってきた。
廊下で他の課の女子社員に呼び止められ、親しげに話す秋口の姿を見たことも、一度や二度じゃない。ここのところおとなしくしていた秋口が、どうやらまたあちこちつまみ食いを始めたらしい。それを知った女子社員たちの行動は素早かった。
『六時には仕事終わります』
携帯電話の液晶画面をしばらく眺め、佐山は細く溜息をもらすと返信モードに変えた。
『了解』
件名なしで、二文字。さっさと送信して携帯電話をポケットにしまい、佐山は目の前のパソコンモニタに視線を向けた。
女の子たちと遊ぶ合間に、秋口は佐山とも会う。会って、食事をして、別れて、それで終わりだ。まるで秋口と一緒に出かけるようになった最初の頃のよう。
他愛ない話をしながら気に入った店で食事をとって、笑って、ただそれの繰り返し。
(……疲れたな)
無性に煙草が吸いたくなったが、最近吸い過ぎなのは自覚していたので、佐山はその欲求をどうにか押し殺した。何かと休憩を取りすぎだ。同僚たちもそろそろ変に思っているだろう。溜息ばかりついて、冴えない顔色で、正確な仕事を信条としているのにケアレスミスの増えてきた佐山のことを。
(すごく、疲れた)
最初の頃に秋口と会いだした頃も、やたらと疲れていた。緊張して、楽しくて、そんな自分の感情の浮き沈みに自分で振り回されて、疲れた。
あの頃がもうずっと昔のことみたいだ。
こんな思いをしてまでどうして自分が秋口のそばにいたいと思うのか、佐山は自分の気持ちが馬鹿馬鹿しくて悲しくなってくる。
(それでも会えないよりはマシだ、なんて)
誘いを断れば、秋口は他の人と出かけるだろう。医務室で強引に組み敷かれたのを最後に、秋口は佐山の体に触らなくなったが、秋口好みの綺麗な女と出かけて、彼が相手に手を出さないなんて佐山には考えられなかった。
(こういうのも女々しいっていうのか)
傷ついて、疲れて、それでも秋口に会いたいと思い続ける自分が佐山には滑稽だった。それでもいてもたってもいられないまま、その日も秋口と会って、ただ食事をして、内容なんて覚えてもいられないような当たり障りのない会話をして、お互いの家に帰った。
「佐山、今帰り?」
秋口からのお誘いが掛からなかった平日の晩、仕事を終えてビルを出たところで、御幸に声をかけられた。
「お疲れ、御幸もちょうどか」
「いいタイミング。な、急いでないなら飯でも行かないか」
気軽な調子で自分を誘う御幸の笑顔に、佐山は無性にほっとした気分で笑い返し、頷いた。
「よし決まり決まり」
御幸が佐山の背を押すように歩き出し、駅の方へと向かう。
「ここ、久しぶりだよな」
御幸のリクエストで、ふたりお気に入りの定食屋へ入った。ふたり掛けの席に向かい合って座る。佐山はメニューを見てもあまり食欲が湧かなかったが、御幸を心配させたくなくて、焼き魚定食を頼んだ。御幸はヒレカツ定食にビール。
「俺もちょっと、飲もうかな」
ビールを注文した御幸の声を聞いて、佐山も飲み物のメニューに視線を落とした。
「えーと……生搾りオレンジサワー」
「オレンジ多めでお願いします」
さり気なく御幸が付け足して、佐山は軽く肩を竦めた。御幸は困ったように笑っている。
「ま、飲みたい気分の時もあるよな」
いろいろなことに、聡い御幸は多分気がついているだろうが、何も言わないでいてくれた。そういう相手が自分にいることを、佐山は心底から感謝する。
すぐにやってきたビールとサワーで軽く乾杯して、佐山は久しぶりに、料理を美味いと思って口に運んだ。
秋口と一緒に入る店は、あんなに気に入っていた料理なのに、最近ではその味もほとんどわからなかったのだ。
会社でのできごとや些細な日常、秋口との会話と大差ないことを話しているのに、御幸の前で佐山は自分がずいぶんリラックスしていることに気づいた。
同時に、秋口といる時の自分が、どれほど無理をしているかにも気づいてしまう。あたりまえの態度を貫くことに神経をすり減らしているのだ。
「佐山、そろそろ酒やめとけよ。顔色やばいぞ」
甘い酒が変に美味くて、少しでやめておこうと思ったのに、いつの間にか佐山のグラスの中味は半分ほどに減っている。気づいた御幸がそう釘を刺したが、佐山は大丈夫大丈夫と笑ってまたひとくち酒を飲んだ。
「前にもちょっと飲んで、平気だったんだ」
そう言ってから、その時の酒は秋口と一緒に飲んだのだということを思い出して、喉が詰まるような感触を覚える。
美味い酒で、酔っぱらって、勢い余って秋口に好きだなんて本心を告げてしまった。
あのことさえなければ、秋口と自分はもう少しマシな関係でいられただろうか――そんなことを考えたくなくて、佐山はもうひとくち酒を飲む。
本当に大丈夫かよ、と呆れたような、心配げな御幸な声が聞こえて、笑い返したつもりが、そこから先の記憶がない。