こころなんてしりもしないで・第8話
(ひどいことをした)
逃げるように医務室を出た後、秋口は一杯に混乱した頭を抱えて、無意識に営業部の方へ向かった。
(ひどいことをしてしまった)
後悔しているのか、腹を立てているのか、何に腹を立てているのか、考えも感情すらまとまらず、秋口は営業部の自分の机に戻った。
あんなふうに理性を手放したことなんて今まで一度もなかった。
佐山が医務室で沙和子といるのを見た瞬間、どうしようもない、度し難い怒りが全身を貫いて、自分でも制御できなくなってしまったのだ。
『沙和子が――』
佐山がその声で沙和子の名前を呼んだ時、それは以前に恋人同士のつき合いがあったのなら不思議でも何でもなかったのに、秋口には佐山のことが許せなくなった。
そんなものは勝手な感情だと、わかっていたのに無理矢理目を逸らした自分がいる。
頭に血が昇って、駄目だと思う間もなくひどいことを口走った。
あんなふうに嫌がる相手を力ずくでねじ伏せたのなんて、生まれて初めてだ。
(佐山さん、泣いてた)
当然だ。それだけのことを自分が言った。ひどいことをしているという自覚はあの時にだってあったのに、佐山の涙を見たって、それは秋口を止めるよりもむしろ逆の効果しかもたらさなかった。嫌がる態度がさらに秋口を逆上させた。どうせ俺のことが好きなくせに、俺に触られて嬉しいくせにと、同じことばかりを考えた。
(最低だ)
おまけにことがすんだ後、目を見開いてただ大きく息を繰り返す佐山を見て、いたたまれず、逃げ出してしまった。謝ることも言いつくろうこともできず、それはまさに逃げるという言葉に相応しい態度だった。
謝るべきだ、と仕事をする気にもならずパソコンのモニタを睨みながら秋口は思ったが、「どうやって」という自問に答えが出ない。
そもそも佐山が許してくれるかがわからなかった。あんな言葉を投げつけられて、嫌がっているのに強引にいかされて。
謝りもしなかった男を、一体誰が許すのか。
長い間そんなことを悶々と考え、何も手につかず、秋口は結局そのまま帰り支度を始めた。
なぜ自分がこんなにも、佐山にこだわってしまうのか。
秋口はまだ答えを出せずにいた。自分をこんなふうに思い悩ませる佐山のことが、次第に腹立たしくなってくる始末だ。
(もういい、俺が悩む必要なんてない。どうせ顔合わせ辛いし、当分会わなければほとぼりも冷めるし)
半ばやけくそのようにそう結論づけようとした秋口は、エスカレータでエントランスへ向けて下りる途中、その壁際に寄り掛かって立っている佐山の姿に気づき、ぎくりとした。
人待ち顔でいる佐山に、秋口は一番最初に自分が彼を誘った時のことを不意に思い出した。あの日も仕事の後、佐山がそうしてあそこで立っていた。
(御幸さんか、雛川さんを待ってるんだ)
秋口は咄嗟にそう思い、刹那、ぎゅっと心臓を握り潰されるような感覚を味わった。佐山が、自分ではない誰かを待っている。そのことが秋口を傷つけた。
佐山に見つからないよう、顔を伏せ足早にその場を去ってしまおうとした秋口は、エスカレータを下りたところですぐそばに誰かがやってきたことに気づき、ハッとして顔を上げた。
「秋口」
立っていたのは佐山だった。秋口はつい驚いて小さく目を見開く。
佐山は彼らしく控えめに笑って、秋口のことを見上げている。
「さっきは今晩無理って言ったけど、仕事切り上げて来たから。やっぱり飯、行かないか」
「……え……」
驚いて、秋口は笑っている佐山のことを見返した。一瞬、自分の行為を非難され罵声を浴びせかけられるのではと覚悟を決めかけたのに、佐山があまりに普段どおりだったので、上手く反応できなかった。
「あ、もちろん、都合が悪くなったのならいいんだけど」
「……いや――大丈夫ですけど」
自分ばかりが取り乱しているのはみっともないと、そう思った途端秋口は普段どおりに答えることができた。多少ぎこちなく、その上ぶっきらぼうな調子にはなってしまったが。
そうか、と佐山は笑ったまま頷いた。
佐山の態度が理解できないまま、秋口は会社を出て、佐山のリクエストで久しぶりに彼お気に入り料理屋へ向かった。雑誌で紹介された時の客足が少し落ち着いたのか、長い時間待たされることもなく、秋口と佐山は席に案内された。
「ここ、久しぶりだな」
佐山は嬉しそうにメニューを開き、秋口も到底食欲なんて湧かないまま適当に料理を注文した。
佐山はまったく普段と同じ表情で、口調で、秋口は彼の内心を疑いながらも、その理由を自分から問うわけにもいかず、自分も普段どおりに相槌を打ち、会話を交わした。
「佐山さん、すみませんけどそっちの塩、ちょっと取ってくれませんか」
「あ、うん」
何気なく頼んだ秋口に、佐山がテーブルの端に置かれた小瓶を取ってくれた。それを受け取ろうとした秋口の手が佐山の指先に触れた時、佐山が秋口が驚くほど素早くその手を引っ込めて、小瓶はテーブルの上に落ち、蓋がはずれて中身が散らばった。
「……」
「あ……あーあ、ごめん、店の人呼ばないと」
佐山が不自然なほどのんびりした口調で言って、苦笑した。
その笑い顔を見た刹那、秋口は頭の中を殴られたような気分で、気づいてしまった。
佐山はいつもどおりに振る舞おうと『している』のだ。秋口を責めもせず、本当は傷つきも怒りもして、不意に触れた秋口の指先にすら過剰に反応してしまうほどなのに、普段と同じ態度で笑って秋口と一緒にいる。
そうするために佐山が必死になっていることに、秋口は気づいてしまった。
(どうして)
秋口がそんなことを思うのも馬鹿らしい。自分自身が言ったからだ。
『あんたとやるメリットなんて、女みたいにぐちぐち言わないことなんだから――』
どうしてあんなひどいことが言えたのか、秋口にだってわからない。
「どうもやっぱり、トロいんだろうなあ……」
恥ずかしそうに小瓶を起こし、皿を退けておしぼりでテーブルの上を拭う佐山を見ながら、秋口は何だか泣きたい気分になってしまった。
どうして、と今度は違う疑問が秋口の脳裡に浮かぶ。
どうして、佐山は自分をこんなにまで好きなのか。
「ごめんな、テーブル散らかしちゃって」
困って笑いながら謝る佐山に、秋口はどうしても自分が謝ることなんてできなかった。
逃げるように医務室を出た後、秋口は一杯に混乱した頭を抱えて、無意識に営業部の方へ向かった。
(ひどいことをしてしまった)
後悔しているのか、腹を立てているのか、何に腹を立てているのか、考えも感情すらまとまらず、秋口は営業部の自分の机に戻った。
あんなふうに理性を手放したことなんて今まで一度もなかった。
佐山が医務室で沙和子といるのを見た瞬間、どうしようもない、度し難い怒りが全身を貫いて、自分でも制御できなくなってしまったのだ。
『沙和子が――』
佐山がその声で沙和子の名前を呼んだ時、それは以前に恋人同士のつき合いがあったのなら不思議でも何でもなかったのに、秋口には佐山のことが許せなくなった。
そんなものは勝手な感情だと、わかっていたのに無理矢理目を逸らした自分がいる。
頭に血が昇って、駄目だと思う間もなくひどいことを口走った。
あんなふうに嫌がる相手を力ずくでねじ伏せたのなんて、生まれて初めてだ。
(佐山さん、泣いてた)
当然だ。それだけのことを自分が言った。ひどいことをしているという自覚はあの時にだってあったのに、佐山の涙を見たって、それは秋口を止めるよりもむしろ逆の効果しかもたらさなかった。嫌がる態度がさらに秋口を逆上させた。どうせ俺のことが好きなくせに、俺に触られて嬉しいくせにと、同じことばかりを考えた。
(最低だ)
おまけにことがすんだ後、目を見開いてただ大きく息を繰り返す佐山を見て、いたたまれず、逃げ出してしまった。謝ることも言いつくろうこともできず、それはまさに逃げるという言葉に相応しい態度だった。
謝るべきだ、と仕事をする気にもならずパソコンのモニタを睨みながら秋口は思ったが、「どうやって」という自問に答えが出ない。
そもそも佐山が許してくれるかがわからなかった。あんな言葉を投げつけられて、嫌がっているのに強引にいかされて。
謝りもしなかった男を、一体誰が許すのか。
長い間そんなことを悶々と考え、何も手につかず、秋口は結局そのまま帰り支度を始めた。
なぜ自分がこんなにも、佐山にこだわってしまうのか。
秋口はまだ答えを出せずにいた。自分をこんなふうに思い悩ませる佐山のことが、次第に腹立たしくなってくる始末だ。
(もういい、俺が悩む必要なんてない。どうせ顔合わせ辛いし、当分会わなければほとぼりも冷めるし)
半ばやけくそのようにそう結論づけようとした秋口は、エスカレータでエントランスへ向けて下りる途中、その壁際に寄り掛かって立っている佐山の姿に気づき、ぎくりとした。
人待ち顔でいる佐山に、秋口は一番最初に自分が彼を誘った時のことを不意に思い出した。あの日も仕事の後、佐山がそうしてあそこで立っていた。
(御幸さんか、雛川さんを待ってるんだ)
秋口は咄嗟にそう思い、刹那、ぎゅっと心臓を握り潰されるような感覚を味わった。佐山が、自分ではない誰かを待っている。そのことが秋口を傷つけた。
佐山に見つからないよう、顔を伏せ足早にその場を去ってしまおうとした秋口は、エスカレータを下りたところですぐそばに誰かがやってきたことに気づき、ハッとして顔を上げた。
「秋口」
立っていたのは佐山だった。秋口はつい驚いて小さく目を見開く。
佐山は彼らしく控えめに笑って、秋口のことを見上げている。
「さっきは今晩無理って言ったけど、仕事切り上げて来たから。やっぱり飯、行かないか」
「……え……」
驚いて、秋口は笑っている佐山のことを見返した。一瞬、自分の行為を非難され罵声を浴びせかけられるのではと覚悟を決めかけたのに、佐山があまりに普段どおりだったので、上手く反応できなかった。
「あ、もちろん、都合が悪くなったのならいいんだけど」
「……いや――大丈夫ですけど」
自分ばかりが取り乱しているのはみっともないと、そう思った途端秋口は普段どおりに答えることができた。多少ぎこちなく、その上ぶっきらぼうな調子にはなってしまったが。
そうか、と佐山は笑ったまま頷いた。
佐山の態度が理解できないまま、秋口は会社を出て、佐山のリクエストで久しぶりに彼お気に入り料理屋へ向かった。雑誌で紹介された時の客足が少し落ち着いたのか、長い時間待たされることもなく、秋口と佐山は席に案内された。
「ここ、久しぶりだな」
佐山は嬉しそうにメニューを開き、秋口も到底食欲なんて湧かないまま適当に料理を注文した。
佐山はまったく普段と同じ表情で、口調で、秋口は彼の内心を疑いながらも、その理由を自分から問うわけにもいかず、自分も普段どおりに相槌を打ち、会話を交わした。
「佐山さん、すみませんけどそっちの塩、ちょっと取ってくれませんか」
「あ、うん」
何気なく頼んだ秋口に、佐山がテーブルの端に置かれた小瓶を取ってくれた。それを受け取ろうとした秋口の手が佐山の指先に触れた時、佐山が秋口が驚くほど素早くその手を引っ込めて、小瓶はテーブルの上に落ち、蓋がはずれて中身が散らばった。
「……」
「あ……あーあ、ごめん、店の人呼ばないと」
佐山が不自然なほどのんびりした口調で言って、苦笑した。
その笑い顔を見た刹那、秋口は頭の中を殴られたような気分で、気づいてしまった。
佐山はいつもどおりに振る舞おうと『している』のだ。秋口を責めもせず、本当は傷つきも怒りもして、不意に触れた秋口の指先にすら過剰に反応してしまうほどなのに、普段と同じ態度で笑って秋口と一緒にいる。
そうするために佐山が必死になっていることに、秋口は気づいてしまった。
(どうして)
秋口がそんなことを思うのも馬鹿らしい。自分自身が言ったからだ。
『あんたとやるメリットなんて、女みたいにぐちぐち言わないことなんだから――』
どうしてあんなひどいことが言えたのか、秋口にだってわからない。
「どうもやっぱり、トロいんだろうなあ……」
恥ずかしそうに小瓶を起こし、皿を退けておしぼりでテーブルの上を拭う佐山を見ながら、秋口は何だか泣きたい気分になってしまった。
どうして、と今度は違う疑問が秋口の脳裡に浮かぶ。
どうして、佐山は自分をこんなにまで好きなのか。
「ごめんな、テーブル散らかしちゃって」
困って笑いながら謝る佐山に、秋口はどうしても自分が謝ることなんてできなかった。