こころなんてしりもしないで・第8話
送信完了、のメッセージを確認してから、秋口は携帯電話を折りたたんで机の上に置く。
営業一課の自分の席に座り、まったく頭に入らない書類を眺め、我知らず溜息のような吐息を洩らした。
途端、携帯電話がメール着信のランプを点灯させて、秋口は慌てて再び電話を手に取った。画面を確認すると、別の課の女子社員からだった。
『週末は楽しかったです! また近々誘ってくださいね』
女の子らしく、絵文字を使った可愛いメールに、秋口は顔を顰めると簡単な操作でそのメールを削除した。反射的にそうしてしまってから、また溜息をついてしまう。
(何やってんだか)
週末、金曜の夜から秋口の胸を占めるのは、苦すぎる後悔の味ばかりだった。
(つまらないことした)
会社帰り、声をかけてきた女子社員とそのまま出かけた。最近ならもうずっとそういう誘いは断っていたのに、了承した自分の心理を秋口はおぼろげに自分でも理解している。
――多分、腹を立てていたのだ。
先週の火曜日から、佐山の姿が社内に見あたらず、メールを送ってみたのに返信もなかった。具合でも悪くしたのか、あの部屋にひとりで病に伏しているのでは気の毒だと、会社から電話をしようと思った時、二課の御幸も休んでいることに気づいた。
気になって同じ課の社員に訊ねれば御幸は有給休暇、佐山は夏休みだという。
まるで申し合わせたかのような休暇。まるで、ではなくてそのとおりなのだろう。ふたりの親しさは秋口も承知している。あの部屋、佐山の散らかりきった部屋を御幸は訪れて、掃除までして行くのだ。
自分が佐山の部屋を訪れるよりもずっと昔から。
そう思うと、秋口は何だか胸がもやもやして収まらなかった。佐山と御幸のことを考えると以前からそうだったが、より強いその感じに、もう誤魔化しが効かなくなっている。
自分には休みの日程も教えなかったくせに、御幸とは休みを示し合わせているのだ。きっと、一緒にどこかへ出かけているのだろう。
それに自分が腹を立てる必要はないことだった。そう思うのに、苛々して止まらない。
独占欲、なんて馬鹿げた単語が頭に浮かんだ時、秋口はうろたえた。今までどんな上等の女とつき合ったって味わったことのない、嫌な感触。相手に対してわずかな執着だって感じたことはない。たとえば沙和子に対する感情だって、彼女を好きだから他の男に渡したくないというよりも、この自分が声をかけたのに袖にするなんて許し難いと、そういうプライドが先立っていた。
佐山に対する自分の執着心に気づいた時、秋口はただうろたえて、なすすべを失った。
自分から電話の一本でもかけて、今どこにいるのかとか――会いたいのだとか、そういうことを伝えればいいのではと頭の片隅に方法は浮かんだのに、つまらない自尊心が邪魔をしてそれを正視できなかった。
おまけに、休暇中の佐山と偶然会社の前で会えた時、嬉しかったのに、その分やはり彼が御幸と一緒だったということを知って、どうしようもなく落胆して、やがてそれは理不尽な怒りに変わった。
だから休み明けに、珍しく佐山から誘われた時、断ってしまった。断ってすぐ後悔したが、『やっぱり一緒に帰りましょう』とは言えなかった。負ける気がして口惜しかったのだ。
それですぐ引き下がった佐山にも、『俺のことを好きなんだからもっと喰い下がればいいのに』などと八つ当たり気味に思い、その気分のまま女子社員に誘われて、出かけてしまった。
一緒に食事を摂って、酒を飲んで、その後はお定まりのコース。同じ会社の人間の目につかないよう、少し離れた駅のホテルで一夜を過ごした。
この夜が今までになく苦い時間で、秋口は狼狽を通り越して途方に暮れた。
柔らかい女の髪を撫でて、匂いを覚えて、体を抱いたのに、まるっきり充足感がなかったのだ。高い声を上げる女の喘ぎをうるさいと感じて、義務のように愛撫を繰り返して、ただ射精した。それだけだ。
キスをした時に感じた煙草の味は、秋口の嫌いなメンソールで、すぐにそれ以外の煙草の匂いを思い出し恋しい気分になった。
佐山との時は、触れ合って相手をいかせるだけで、秋口の認識では決してセックスと呼べるようなものではなかった。
なのに、佐山にはしない挿入もあった女に対する方が、味気なくて、つまらないと感じるなんて、どうかしている。
彼女を抱けば抱くほど、ここにはいない別の人に触れたいとか、匂いを感じたいとか、抱き締めたいとか――そんなことを思ってしまって、それを打ち消すのに苦労した。
彼女と土曜の朝に別れた時は、すっかり気疲れしてしまったほどだ。
家に帰るまで、帰ってからも、何度も携帯電話を開いては閉じる動きを繰り返した。多分自分が会いたいと佐山に連絡を取れば、佐山はすぐに了承してくれるだろう。それがわかっているのにできなかった。自分からそんなことをするのはどうしても許せなかった。
(佐山さんが俺のことを好きなんだから、佐山さんから動けばいい)
どうしてこの自分から、佐山と会いたいとか、別の人といるより自分を選んで欲しいとか、そんなことを懇願できるのか。相手は男で、しかも眼鏡で腕カバーで。そう侮るように思わなくては、今すぐにでも佐山のところに行って、あらぬことを口走ってしまいそうになる。それが秋口には怖かったし、これまでの人生を覆すようなことになりそうで、許容できなかった。
理性の片隅では、そんなプライドが馬鹿みたいにくだらないことだと、ちゃんとわかっているのに。
それをやっぱり正面から見ることができなくて、秋口はただいつものように、今日の仕事が終わる時間だけをメールする。
早く返事が来ないかと、音も鳴らない携帯電話を何度も見てしまう自分を、本当に馬鹿みたいだと思った。
営業一課の自分の席に座り、まったく頭に入らない書類を眺め、我知らず溜息のような吐息を洩らした。
途端、携帯電話がメール着信のランプを点灯させて、秋口は慌てて再び電話を手に取った。画面を確認すると、別の課の女子社員からだった。
『週末は楽しかったです! また近々誘ってくださいね』
女の子らしく、絵文字を使った可愛いメールに、秋口は顔を顰めると簡単な操作でそのメールを削除した。反射的にそうしてしまってから、また溜息をついてしまう。
(何やってんだか)
週末、金曜の夜から秋口の胸を占めるのは、苦すぎる後悔の味ばかりだった。
(つまらないことした)
会社帰り、声をかけてきた女子社員とそのまま出かけた。最近ならもうずっとそういう誘いは断っていたのに、了承した自分の心理を秋口はおぼろげに自分でも理解している。
――多分、腹を立てていたのだ。
先週の火曜日から、佐山の姿が社内に見あたらず、メールを送ってみたのに返信もなかった。具合でも悪くしたのか、あの部屋にひとりで病に伏しているのでは気の毒だと、会社から電話をしようと思った時、二課の御幸も休んでいることに気づいた。
気になって同じ課の社員に訊ねれば御幸は有給休暇、佐山は夏休みだという。
まるで申し合わせたかのような休暇。まるで、ではなくてそのとおりなのだろう。ふたりの親しさは秋口も承知している。あの部屋、佐山の散らかりきった部屋を御幸は訪れて、掃除までして行くのだ。
自分が佐山の部屋を訪れるよりもずっと昔から。
そう思うと、秋口は何だか胸がもやもやして収まらなかった。佐山と御幸のことを考えると以前からそうだったが、より強いその感じに、もう誤魔化しが効かなくなっている。
自分には休みの日程も教えなかったくせに、御幸とは休みを示し合わせているのだ。きっと、一緒にどこかへ出かけているのだろう。
それに自分が腹を立てる必要はないことだった。そう思うのに、苛々して止まらない。
独占欲、なんて馬鹿げた単語が頭に浮かんだ時、秋口はうろたえた。今までどんな上等の女とつき合ったって味わったことのない、嫌な感触。相手に対してわずかな執着だって感じたことはない。たとえば沙和子に対する感情だって、彼女を好きだから他の男に渡したくないというよりも、この自分が声をかけたのに袖にするなんて許し難いと、そういうプライドが先立っていた。
佐山に対する自分の執着心に気づいた時、秋口はただうろたえて、なすすべを失った。
自分から電話の一本でもかけて、今どこにいるのかとか――会いたいのだとか、そういうことを伝えればいいのではと頭の片隅に方法は浮かんだのに、つまらない自尊心が邪魔をしてそれを正視できなかった。
おまけに、休暇中の佐山と偶然会社の前で会えた時、嬉しかったのに、その分やはり彼が御幸と一緒だったということを知って、どうしようもなく落胆して、やがてそれは理不尽な怒りに変わった。
だから休み明けに、珍しく佐山から誘われた時、断ってしまった。断ってすぐ後悔したが、『やっぱり一緒に帰りましょう』とは言えなかった。負ける気がして口惜しかったのだ。
それですぐ引き下がった佐山にも、『俺のことを好きなんだからもっと喰い下がればいいのに』などと八つ当たり気味に思い、その気分のまま女子社員に誘われて、出かけてしまった。
一緒に食事を摂って、酒を飲んで、その後はお定まりのコース。同じ会社の人間の目につかないよう、少し離れた駅のホテルで一夜を過ごした。
この夜が今までになく苦い時間で、秋口は狼狽を通り越して途方に暮れた。
柔らかい女の髪を撫でて、匂いを覚えて、体を抱いたのに、まるっきり充足感がなかったのだ。高い声を上げる女の喘ぎをうるさいと感じて、義務のように愛撫を繰り返して、ただ射精した。それだけだ。
キスをした時に感じた煙草の味は、秋口の嫌いなメンソールで、すぐにそれ以外の煙草の匂いを思い出し恋しい気分になった。
佐山との時は、触れ合って相手をいかせるだけで、秋口の認識では決してセックスと呼べるようなものではなかった。
なのに、佐山にはしない挿入もあった女に対する方が、味気なくて、つまらないと感じるなんて、どうかしている。
彼女を抱けば抱くほど、ここにはいない別の人に触れたいとか、匂いを感じたいとか、抱き締めたいとか――そんなことを思ってしまって、それを打ち消すのに苦労した。
彼女と土曜の朝に別れた時は、すっかり気疲れしてしまったほどだ。
家に帰るまで、帰ってからも、何度も携帯電話を開いては閉じる動きを繰り返した。多分自分が会いたいと佐山に連絡を取れば、佐山はすぐに了承してくれるだろう。それがわかっているのにできなかった。自分からそんなことをするのはどうしても許せなかった。
(佐山さんが俺のことを好きなんだから、佐山さんから動けばいい)
どうしてこの自分から、佐山と会いたいとか、別の人といるより自分を選んで欲しいとか、そんなことを懇願できるのか。相手は男で、しかも眼鏡で腕カバーで。そう侮るように思わなくては、今すぐにでも佐山のところに行って、あらぬことを口走ってしまいそうになる。それが秋口には怖かったし、これまでの人生を覆すようなことになりそうで、許容できなかった。
理性の片隅では、そんなプライドが馬鹿みたいにくだらないことだと、ちゃんとわかっているのに。
それをやっぱり正面から見ることができなくて、秋口はただいつものように、今日の仕事が終わる時間だけをメールする。
早く返事が来ないかと、音も鳴らない携帯電話を何度も見てしまう自分を、本当に馬鹿みたいだと思った。