こころなんてしりもしないで・第8話
佐山の家に遊びに来た御幸は、部屋の掃除をしながら長い間話し込み、夜遅くになって車で帰っていった。
翌日佐山は一日寝て過ごした。それほど疲れた自覚はなかったのに、頭も体も疲労しきっていたようで、御幸が帰ったあとすぐベッドに潜り、目が覚めた時にはすでに陽が傾いていて驚いた。
さらに翌日、短い休暇を終えて佐山はまたいつもどおり会社へ向かった。
家にも資料を持ち帰ったせいで、滞りなく進む業務の合間、佐山は何度も携帯電話の画面を見た。
『昨日から姿が見えないので、風邪でもひいたのかと思っていました。夏休みなんですね。今何をしていますか』
送信者は秋口航。水曜日の昼過ぎ、ちょうど佐山が病院にいた時刻に送られて来たものだ。一昨日の夜、御幸の車で会社から自宅に戻る途中に届いた。
件名はなかったが、珍しく、ずいぶん長い本文だった。メールをすぐ受け取れなかったことを佐山は悔やんだが、どっちにしろその時『今何をしている』かなんて答えようがなかった。
(実の母親に、笑って人違いをされています――とか)
馬鹿正直に書くわけにもいかなかったし、嘘をつくのも気がひけた。
『昨日は返信できなくてごめん、やっぱりメールが止まっていたようで』
そう文字を打ちかけた途中で、佐山はそのメールを破棄した。メールが届かなかった事情なら昨日会って直接話したから、今さら繰り返すのも間が抜けている。かと言って、何ごともなかったかのように他の話題を送ることは難しかったし、そもそもそんなふうにメールで世間話をしたことはないのだ。
ただいつも、秋口から送られてくる、就業時間の連絡を待つだけで。
「……」
少し考えた後、佐山はひとつ決意して、昼休みを迎えた。時刻を報せる音楽放送を聞いてから、すぐに開発課のオフィスを出て、営業課の方へ向かう。
「秋口」
食堂に向かうために廊下へ出てきた秋口に呼びかけ、佐山は彼の方へ近づいた。
「はい」
足を止める秋口の前で自分も立ち止まり、佐山はその顔を見上げる。
「これから食事か?」
「外でね。接待ついでですよ」
秋口はちょっと肩を竦めるような格好をした。
「そうか……今日は、その、仕事は何時に終わるかな」
思い切って訊ねてみた佐山に、秋口は一瞬驚いたように目を瞠ってから、すぐに苦笑じみた表情になった。
「今日はちょっと。すみませんけど」
答えながら、秋口は腕時計を見てまた佐山に視線を戻した。
「もう行かないといけないので」「
「ああ、悪いな、呼び止めて」
秋口は小さく佐山に頭を下げると、廊下を歩いていってしまった。
「……」
その後ろ姿を見遣って、佐山はそっと溜息をつく。メールでは味気ないと思って直接訊ねてみたが、結果は空振りだ。
昨日の夕方に起き出してから、つい先刻まで、長い間考え続けて『やっぱり一度秋口ときちんと話をするべきだ』と答えを出した。別に自分たちの関係が何なのかとか、どうしてこんなことを続けるのかとか、そういう話をしたいわけじゃない。ただ、一昨日偶然会った時のように普通に会話ができるのなら、そうしたいと思っただけだ。
黙って、ただお互いの快楽を貪るような真似だけするのでは、あまりに虚しいと。
(まあ……どっちにしろ今日は会わないわけだし)
次の機会を捜そうと、佐山はとりあえず諦めた。
その日の定時を過ぎた後、佐山は御幸と落ち合って会社を出た。佐山に今日用事がないと知ると、御幸の方から食事に誘ったのだ。おそらく自分の心配をしてくれているのだろうと、佐山はすぐに察した。一昨日のように病院に向かった後、佐山が表に出さないようにしながらも、しばらくは塞ぎ込んでしまうことを御幸は知っているのだ。
御幸のおかげで気が紛れ、彼と食事をしている間は秋口のことも、病院でのことも考えずにすみ佐山は安堵した。ただ『今は考えずにいられた』と気づいた瞬間に、何かしらの思考を巡らせて塞ぎ込んでしまったりはするのだが、御幸が何も言わずそばにいてくれたので、やっぱりそれがありがたかった。
御幸に明日の朝一番で大きなプレゼンテーションがあると知って、そう遅くならない時間に佐山の方から帰宅を申し出た。会社の最寄り駅から少し離れた駅前で飲んでいたふたりは(佐山はいつもどおりお茶ですませたが)、店を出ると駅へ向かって歩き出した。
御幸が立ち止まったのは、その駅へと辿り着く少し手前の道半ばだった。
「あれ……」
「どうした?」
隣を歩いていた御幸が立ち止まってしまったので、つられて、佐山も足を留め相手を振り返る。
御幸は駅へ向かう大きな通りから、歓楽街へと続く路地の方を見遣っていた。
「御幸?」
「――いや、何でもない。ちょっと、知り合いに似てるのがいたと思ったけど、違ったみたいだ」
「そうか?」
御幸は何ごともなかったかのように佐山の隣に並び、佐山も彼と一緒に再び歩き出した。
改札を抜けて、それぞれ上りと下りのホームへ別れるまでの間、御幸は少し不機嫌そうに黙り込んでいた。他人を気遣うことの上手い御幸がそんな態度なのが珍しく、佐山は理由を問えずにいた。御幸から話さないのなら、自分が聞くべきことでもないだろうと判断する。
「それじゃ、またな」
別れる間際には、いつもの御幸らしい笑顔でそう言って手を振ったので、佐山はほっとして自分も手を上げて応えた。
御幸が駅前で誰を見たのかなんて、その時の佐山は思いつきもしなかった。
翌日佐山は一日寝て過ごした。それほど疲れた自覚はなかったのに、頭も体も疲労しきっていたようで、御幸が帰ったあとすぐベッドに潜り、目が覚めた時にはすでに陽が傾いていて驚いた。
さらに翌日、短い休暇を終えて佐山はまたいつもどおり会社へ向かった。
家にも資料を持ち帰ったせいで、滞りなく進む業務の合間、佐山は何度も携帯電話の画面を見た。
『昨日から姿が見えないので、風邪でもひいたのかと思っていました。夏休みなんですね。今何をしていますか』
送信者は秋口航。水曜日の昼過ぎ、ちょうど佐山が病院にいた時刻に送られて来たものだ。一昨日の夜、御幸の車で会社から自宅に戻る途中に届いた。
件名はなかったが、珍しく、ずいぶん長い本文だった。メールをすぐ受け取れなかったことを佐山は悔やんだが、どっちにしろその時『今何をしている』かなんて答えようがなかった。
(実の母親に、笑って人違いをされています――とか)
馬鹿正直に書くわけにもいかなかったし、嘘をつくのも気がひけた。
『昨日は返信できなくてごめん、やっぱりメールが止まっていたようで』
そう文字を打ちかけた途中で、佐山はそのメールを破棄した。メールが届かなかった事情なら昨日会って直接話したから、今さら繰り返すのも間が抜けている。かと言って、何ごともなかったかのように他の話題を送ることは難しかったし、そもそもそんなふうにメールで世間話をしたことはないのだ。
ただいつも、秋口から送られてくる、就業時間の連絡を待つだけで。
「……」
少し考えた後、佐山はひとつ決意して、昼休みを迎えた。時刻を報せる音楽放送を聞いてから、すぐに開発課のオフィスを出て、営業課の方へ向かう。
「秋口」
食堂に向かうために廊下へ出てきた秋口に呼びかけ、佐山は彼の方へ近づいた。
「はい」
足を止める秋口の前で自分も立ち止まり、佐山はその顔を見上げる。
「これから食事か?」
「外でね。接待ついでですよ」
秋口はちょっと肩を竦めるような格好をした。
「そうか……今日は、その、仕事は何時に終わるかな」
思い切って訊ねてみた佐山に、秋口は一瞬驚いたように目を瞠ってから、すぐに苦笑じみた表情になった。
「今日はちょっと。すみませんけど」
答えながら、秋口は腕時計を見てまた佐山に視線を戻した。
「もう行かないといけないので」「
「ああ、悪いな、呼び止めて」
秋口は小さく佐山に頭を下げると、廊下を歩いていってしまった。
「……」
その後ろ姿を見遣って、佐山はそっと溜息をつく。メールでは味気ないと思って直接訊ねてみたが、結果は空振りだ。
昨日の夕方に起き出してから、つい先刻まで、長い間考え続けて『やっぱり一度秋口ときちんと話をするべきだ』と答えを出した。別に自分たちの関係が何なのかとか、どうしてこんなことを続けるのかとか、そういう話をしたいわけじゃない。ただ、一昨日偶然会った時のように普通に会話ができるのなら、そうしたいと思っただけだ。
黙って、ただお互いの快楽を貪るような真似だけするのでは、あまりに虚しいと。
(まあ……どっちにしろ今日は会わないわけだし)
次の機会を捜そうと、佐山はとりあえず諦めた。
その日の定時を過ぎた後、佐山は御幸と落ち合って会社を出た。佐山に今日用事がないと知ると、御幸の方から食事に誘ったのだ。おそらく自分の心配をしてくれているのだろうと、佐山はすぐに察した。一昨日のように病院に向かった後、佐山が表に出さないようにしながらも、しばらくは塞ぎ込んでしまうことを御幸は知っているのだ。
御幸のおかげで気が紛れ、彼と食事をしている間は秋口のことも、病院でのことも考えずにすみ佐山は安堵した。ただ『今は考えずにいられた』と気づいた瞬間に、何かしらの思考を巡らせて塞ぎ込んでしまったりはするのだが、御幸が何も言わずそばにいてくれたので、やっぱりそれがありがたかった。
御幸に明日の朝一番で大きなプレゼンテーションがあると知って、そう遅くならない時間に佐山の方から帰宅を申し出た。会社の最寄り駅から少し離れた駅前で飲んでいたふたりは(佐山はいつもどおりお茶ですませたが)、店を出ると駅へ向かって歩き出した。
御幸が立ち止まったのは、その駅へと辿り着く少し手前の道半ばだった。
「あれ……」
「どうした?」
隣を歩いていた御幸が立ち止まってしまったので、つられて、佐山も足を留め相手を振り返る。
御幸は駅へ向かう大きな通りから、歓楽街へと続く路地の方を見遣っていた。
「御幸?」
「――いや、何でもない。ちょっと、知り合いに似てるのがいたと思ったけど、違ったみたいだ」
「そうか?」
御幸は何ごともなかったかのように佐山の隣に並び、佐山も彼と一緒に再び歩き出した。
改札を抜けて、それぞれ上りと下りのホームへ別れるまでの間、御幸は少し不機嫌そうに黙り込んでいた。他人を気遣うことの上手い御幸がそんな態度なのが珍しく、佐山は理由を問えずにいた。御幸から話さないのなら、自分が聞くべきことでもないだろうと判断する。
「それじゃ、またな」
別れる間際には、いつもの御幸らしい笑顔でそう言って手を振ったので、佐山はほっとして自分も手を上げて応えた。
御幸が駅前で誰を見たのかなんて、その時の佐山は思いつきもしなかった。