こころなんてしりもしないで・第8話
病院の建物を出ると、灼けつくような陽射しが落ちてきて、佐山は咄嗟に目を細めた。病院の建物から細い道を挟んだ向かい、駐車場のコンクリートの上には陽炎が揺れている。
掌を目の上に翳し、眼鏡の奥の目を陽射しから庇いながら、佐山はその陽炎の方へ向かって歩いた。道を通り過ぎる車はひとつもない。都心から、駅からずいぶんと離れた場所にあるこの土地を訪れる者は、この近くに住む人間の他は、病院に用のある患者か見舞い客しかいないのだ。
土地が余っているためかずいぶん広い駐車場には、数えるほどの車しか停まっていなかった。そのうち敷地の真ん中にぽつんと止められた青い車に、寄り掛かるように立っている友人の姿をみつけて、佐山は少し早足になった。
近づいてくる佐山に気づいて、御幸が片手を上げた。
「やっぱり外にいたのか、待合室にいないから」
「ちょっとその辺歩いてたんだよ。向こうにコンビニできててびっくりした、ほらこれ」
御幸が投げたミネラルウォーターのペットボトルを佐山は受け取った。
「もういいのか?」
訊ねられて頷いた佐山に頷きを返し、御幸が車の運転席のドアを開ける。佐山も助手席の方へ回り、シートに収まると、車が静かに発進した。
まだ陽が高い。擦れ違う車もない細い道で、御幸が黙ってハンドルを握っている。佐山も特に口を開かず、シートに深く凭れて目を閉じた。
ひどく疲労している。いつものことだ。胸に詰まる重い感触をやり過ごそうとするのに、病室での遣り取りを思い出しては深い溜息が漏れそうになった。
「いい天気だな」
ひとりごとのようにぽつりと言った御幸の言葉につられるように、佐山は瞼を開いた。
「窓開けていいか?」
訊ねると、自動で窓が開いた。生温い風を受けながら、佐山は開いた窓に頬杖をついて外の景色を眺める。
本当にいい天気だった。朝から快晴。いっそ雨が降ってくれればここに来ない言い訳になったのに、と考えてしまう自分を佐山は恥じた。
外をみつめる佐山の目から涙が伝っていることに、多分御幸は気づいていたが、何も言わなかった。そうすることが暗黙のルールだった。
高速道路を使っても三時間以上掛かる道のりを、佐山と御幸はほぼ無言で過ごした。高速を下りて、馴染んだ景色、ビルの建ち並ぶ通りへと差し掛かってから佐山はようやく口を開く。
「夕食、奢るよ。何がいい」
「そうだなあ、和食かな、美味い魚が食べたい」
不意に訊ねた佐山にすぐ応え、御幸が屈託のない口調で言った。こうして御幸が佐山の休暇に合わせて自分も有給を取り、車で遠い病院まで送り迎えした後は、佐山が食事を奢るのがここ数年来の恒例になっている。
御幸のリクエストした和食を出す店へと向かい、ふたりでゆっくりと座敷に座った。平日の夕方、店を訪れる客はそう多くない。
運ばれてきた料理に佐山はほとんど手を着けなかったが、御幸はそれについても何も言わず、自分は美味い美味いと上機嫌そうに言いながらすべて平らげた。
「佐山と外でゆっくり飯喰うのも、久しぶりだな」
食事の途中に御幸がそう言った。そういえばそうだ、と佐山も頷く。
「ここのところ、会っても食堂か休憩所だけだったしな。今日はわざわざありがとう、休み合わせてもらって、悪いな」
「ドライブに行く約束してただろ」
今日は水曜日だったから、連休にもならない単発の休みだ。申し訳ないと思いながらも、こうして自分のために時間を取ってくれる友人が佐山には心底からありがたかった。
「まだ時間、早いな。これからどうする」
食事を終えても、まだ午後八時前だった。佐山が会計をすませ、ふたりで駐車場に戻りながら、御幸が訊ねた。
「長い時間運転して、疲れただろ。移動するのは面倒じゃないか?」
「そうだな、駐車場捜すのも面倒だし……そうだ、久しぶりに佐山の家に行こうかな」
提案した御幸に、佐山は一瞬ぎくりと声を詰まらせた。
自分の部屋を思った時、浮かんだのは暗い部屋、軋むベッド、荒い息づかいと小さく漏れる声。ベッドの上にいるのはひとりじゃない。
「ああ、都合が悪ければ断っていいんだぞ?」
佐山の絶句をどう解釈したか、御幸が首を傾げてそう言った。
佐山は生々しい記憶を振り払うように、御幸に向かってぎこちなく笑って見せる。
「いいよ、散らかってるけど――」
「片付いてる佐山の部屋なんて、行ったことないだろ俺は」
「そうだ、その前に、悪いけどいったん会社に行ってもらえるか? 取ってきたい書類があるんだ」
そう頼んだ佐山に、御幸がわずかに眉根を寄せた。
「休みの時くらい、仕事のことなんか忘れろって。ただでさえ短い休暇なんだから」
「仕事してる方が気が紛れるんだよ」
佐山が答えると、御幸はもう何も言わなかった。きっと病院に行った自分の心境を気遣ってくれているのだろうと察して、佐山はひどく御幸に申し訳のない気分になった。それからわずかな自己嫌悪も味わう。
自分が一番考えなくてはならないのは、あの病室にいる寂しい女性のことなのに、病院から会社へと思いを馳せればもうそのことは忘れて、別の人のことで頭がいっぱいになっている。
せめてその相手のことを考えて幸福な気分を味わうことができるのならばまだ救いはあるのだが、状況はまったく逆だ。
(この時間なら、秋口はもう帰ってるかな)
そのことに、自分ががっかりしているのか、安堵しているのか、自分でもわからないまま佐山は御幸の車で会社に向かった。
夏休みのことを、佐山は何となく秋口に言いそびれていた。そんな話をするタイミングを掴めず休暇を迎えてしまった。
相変わらず、会社帰りに時間が合えば佐山の部屋でお互いの体に触れ合っているというのに、会話が弾む気配なんて微塵もないままだ。
佐山の休暇は明日で終わりだった。
(御幸の言うとおり、二週間くらい休みを取って、旅行にでも行けばよかったかも)
後悔は今さらだった。冷静に考える時間が欲しいと願いつつ、秋口に何日も会えないことが佐山にそれをためらわせた。
会いたいし、会いたくない。秋口は忙しいのか、昨日も今日もメールは来なかった。自分が会社にいないことに気づいているのか、いないのか、それすらも佐山にはわからない。
「佐山、着いたぞ」
ぼんやり物思いに耽っていると、御幸の声に呼ばれて佐山は我に返った。車は会社から少し離れた路肩に停められていた。御幸を車中に待たせておいてビルに向かう。開発課のオフィスに入ると、休みなのにわざわざ顔を見せるきまじめさを残業中の同僚に笑われた。
自分の机から書類を取って、再び社員用の通用口を抜けるまでの間は誰にも会わなかった。定時はとっくに過ぎている。秋口はもう帰宅したか、それとも残業しているのか。どっちにしろ顔を合わせたって、交わす話題もない。そう諦め、御幸を待たせては悪いと急ぎ足で表に出た佐山は、名前を呼ばれて竦むように足取りを止めた。
「佐山さん?」
はっとして、振り返る。御幸の車のある方、佐山が進もうとした道の反対側から、秋口が歩いてくるところだった。
「あれ、今日……休みじゃなかったです?」
「うん、ちょっと仕事取りに」
秋口は外回りからの帰りなのか、それとも買い出しにでもでかけていたのか、上着を手に少し驚いた顔で佐山のことを見ていた。手にした書類袋を佐山が見せると、秋口が軽く苦笑のような表情になる。
「何も夏休み中にまで会社に来ることないのに」
「明後日にはもう出社だから、気になるところは家でやっておきたくて」
「損するなあ」
秋口は呆れた様子ではあったが、佐山は彼と普通に言葉を交わせたことが嬉しかった。不意打ちで顔を合わせたことがむしろよかったのかもしれない。気構える暇もなかった。
「半端な時期だし、もうちょっと長く休めるように日程組めばいいのに」
「いいんだ、消化しないといけないから休んだだけだし」
笑って答えながら、佐山は少し胸が痛かった。昨日は一日秋口に会えず、自分はそのせいで湧き起こる感情を持て余していたというのに、秋口の方は平然と『もうちょっと長く休めばいいのに』などと言う。
(当然か)
気にする方がきっとおかしいのだ。
「今日は携帯、持ってないんですか?」
「え?」
もやもやと胸を覆う感情に力ずくで蓋をしようとあがいていた佐山は、秋口の問いに首を傾げた。
「いや、あるけど、ここに」
携帯電話はポケットに入れっぱなしだ。今日は朝出かける前に御幸と連絡を取ったきりで、後は着信音の鳴った覚えがない。
「電源切ってましたか。メール、入れたんだけど」
笑って訊ねる秋口に、佐山は慌てて携帯電話の液晶画面を見た。だがメールが届いた様子はない。
「ああ……圏外だったから、センターで止まっちゃってるのかも」
「携帯通じないようなところに行ってたんですか」
病院では電源を切っていたし、あの周辺は佐山の使っている携帯電話は通じない。
「うん、ちょっと、遠出して」
「どこに?」
おそらく世間話のついでのような秋口の問いに、佐山は咄嗟に返事をすることができなかった。
昼間見た青い空に浮かぶ雲や、病院の中の冷えた廊下、白い部屋、白いベッド、細い腕を思い出す。
それから――
『翼は一緒じゃないの?』
無邪気に問いかける掠れた声を。
「佐山さん?」
黙り込んでしまった佐山に、怪訝そうな秋口の声がかかる。
「ああ、うん、ちょっと……本当にちょっと、そこまで」
言葉を濁した佐山に、秋口がまた少し笑った。
「御幸さんと?」
気づくと、御幸の車がすぐそこまで来ていた。パワーウインドを下げ、運転席から顔を覗かせている。秋口と視線が合って、軽く手を挙げ挨拶をしていた。
「あっち、待たせてるんだ。それじゃあな」
逃げるように、佐山は秋口に背を向け御幸の車へと向かった。
秋口は何も言わず佐山の姿を見ていた。
掌を目の上に翳し、眼鏡の奥の目を陽射しから庇いながら、佐山はその陽炎の方へ向かって歩いた。道を通り過ぎる車はひとつもない。都心から、駅からずいぶんと離れた場所にあるこの土地を訪れる者は、この近くに住む人間の他は、病院に用のある患者か見舞い客しかいないのだ。
土地が余っているためかずいぶん広い駐車場には、数えるほどの車しか停まっていなかった。そのうち敷地の真ん中にぽつんと止められた青い車に、寄り掛かるように立っている友人の姿をみつけて、佐山は少し早足になった。
近づいてくる佐山に気づいて、御幸が片手を上げた。
「やっぱり外にいたのか、待合室にいないから」
「ちょっとその辺歩いてたんだよ。向こうにコンビニできててびっくりした、ほらこれ」
御幸が投げたミネラルウォーターのペットボトルを佐山は受け取った。
「もういいのか?」
訊ねられて頷いた佐山に頷きを返し、御幸が車の運転席のドアを開ける。佐山も助手席の方へ回り、シートに収まると、車が静かに発進した。
まだ陽が高い。擦れ違う車もない細い道で、御幸が黙ってハンドルを握っている。佐山も特に口を開かず、シートに深く凭れて目を閉じた。
ひどく疲労している。いつものことだ。胸に詰まる重い感触をやり過ごそうとするのに、病室での遣り取りを思い出しては深い溜息が漏れそうになった。
「いい天気だな」
ひとりごとのようにぽつりと言った御幸の言葉につられるように、佐山は瞼を開いた。
「窓開けていいか?」
訊ねると、自動で窓が開いた。生温い風を受けながら、佐山は開いた窓に頬杖をついて外の景色を眺める。
本当にいい天気だった。朝から快晴。いっそ雨が降ってくれればここに来ない言い訳になったのに、と考えてしまう自分を佐山は恥じた。
外をみつめる佐山の目から涙が伝っていることに、多分御幸は気づいていたが、何も言わなかった。そうすることが暗黙のルールだった。
高速道路を使っても三時間以上掛かる道のりを、佐山と御幸はほぼ無言で過ごした。高速を下りて、馴染んだ景色、ビルの建ち並ぶ通りへと差し掛かってから佐山はようやく口を開く。
「夕食、奢るよ。何がいい」
「そうだなあ、和食かな、美味い魚が食べたい」
不意に訊ねた佐山にすぐ応え、御幸が屈託のない口調で言った。こうして御幸が佐山の休暇に合わせて自分も有給を取り、車で遠い病院まで送り迎えした後は、佐山が食事を奢るのがここ数年来の恒例になっている。
御幸のリクエストした和食を出す店へと向かい、ふたりでゆっくりと座敷に座った。平日の夕方、店を訪れる客はそう多くない。
運ばれてきた料理に佐山はほとんど手を着けなかったが、御幸はそれについても何も言わず、自分は美味い美味いと上機嫌そうに言いながらすべて平らげた。
「佐山と外でゆっくり飯喰うのも、久しぶりだな」
食事の途中に御幸がそう言った。そういえばそうだ、と佐山も頷く。
「ここのところ、会っても食堂か休憩所だけだったしな。今日はわざわざありがとう、休み合わせてもらって、悪いな」
「ドライブに行く約束してただろ」
今日は水曜日だったから、連休にもならない単発の休みだ。申し訳ないと思いながらも、こうして自分のために時間を取ってくれる友人が佐山には心底からありがたかった。
「まだ時間、早いな。これからどうする」
食事を終えても、まだ午後八時前だった。佐山が会計をすませ、ふたりで駐車場に戻りながら、御幸が訊ねた。
「長い時間運転して、疲れただろ。移動するのは面倒じゃないか?」
「そうだな、駐車場捜すのも面倒だし……そうだ、久しぶりに佐山の家に行こうかな」
提案した御幸に、佐山は一瞬ぎくりと声を詰まらせた。
自分の部屋を思った時、浮かんだのは暗い部屋、軋むベッド、荒い息づかいと小さく漏れる声。ベッドの上にいるのはひとりじゃない。
「ああ、都合が悪ければ断っていいんだぞ?」
佐山の絶句をどう解釈したか、御幸が首を傾げてそう言った。
佐山は生々しい記憶を振り払うように、御幸に向かってぎこちなく笑って見せる。
「いいよ、散らかってるけど――」
「片付いてる佐山の部屋なんて、行ったことないだろ俺は」
「そうだ、その前に、悪いけどいったん会社に行ってもらえるか? 取ってきたい書類があるんだ」
そう頼んだ佐山に、御幸がわずかに眉根を寄せた。
「休みの時くらい、仕事のことなんか忘れろって。ただでさえ短い休暇なんだから」
「仕事してる方が気が紛れるんだよ」
佐山が答えると、御幸はもう何も言わなかった。きっと病院に行った自分の心境を気遣ってくれているのだろうと察して、佐山はひどく御幸に申し訳のない気分になった。それからわずかな自己嫌悪も味わう。
自分が一番考えなくてはならないのは、あの病室にいる寂しい女性のことなのに、病院から会社へと思いを馳せればもうそのことは忘れて、別の人のことで頭がいっぱいになっている。
せめてその相手のことを考えて幸福な気分を味わうことができるのならばまだ救いはあるのだが、状況はまったく逆だ。
(この時間なら、秋口はもう帰ってるかな)
そのことに、自分ががっかりしているのか、安堵しているのか、自分でもわからないまま佐山は御幸の車で会社に向かった。
夏休みのことを、佐山は何となく秋口に言いそびれていた。そんな話をするタイミングを掴めず休暇を迎えてしまった。
相変わらず、会社帰りに時間が合えば佐山の部屋でお互いの体に触れ合っているというのに、会話が弾む気配なんて微塵もないままだ。
佐山の休暇は明日で終わりだった。
(御幸の言うとおり、二週間くらい休みを取って、旅行にでも行けばよかったかも)
後悔は今さらだった。冷静に考える時間が欲しいと願いつつ、秋口に何日も会えないことが佐山にそれをためらわせた。
会いたいし、会いたくない。秋口は忙しいのか、昨日も今日もメールは来なかった。自分が会社にいないことに気づいているのか、いないのか、それすらも佐山にはわからない。
「佐山、着いたぞ」
ぼんやり物思いに耽っていると、御幸の声に呼ばれて佐山は我に返った。車は会社から少し離れた路肩に停められていた。御幸を車中に待たせておいてビルに向かう。開発課のオフィスに入ると、休みなのにわざわざ顔を見せるきまじめさを残業中の同僚に笑われた。
自分の机から書類を取って、再び社員用の通用口を抜けるまでの間は誰にも会わなかった。定時はとっくに過ぎている。秋口はもう帰宅したか、それとも残業しているのか。どっちにしろ顔を合わせたって、交わす話題もない。そう諦め、御幸を待たせては悪いと急ぎ足で表に出た佐山は、名前を呼ばれて竦むように足取りを止めた。
「佐山さん?」
はっとして、振り返る。御幸の車のある方、佐山が進もうとした道の反対側から、秋口が歩いてくるところだった。
「あれ、今日……休みじゃなかったです?」
「うん、ちょっと仕事取りに」
秋口は外回りからの帰りなのか、それとも買い出しにでもでかけていたのか、上着を手に少し驚いた顔で佐山のことを見ていた。手にした書類袋を佐山が見せると、秋口が軽く苦笑のような表情になる。
「何も夏休み中にまで会社に来ることないのに」
「明後日にはもう出社だから、気になるところは家でやっておきたくて」
「損するなあ」
秋口は呆れた様子ではあったが、佐山は彼と普通に言葉を交わせたことが嬉しかった。不意打ちで顔を合わせたことがむしろよかったのかもしれない。気構える暇もなかった。
「半端な時期だし、もうちょっと長く休めるように日程組めばいいのに」
「いいんだ、消化しないといけないから休んだだけだし」
笑って答えながら、佐山は少し胸が痛かった。昨日は一日秋口に会えず、自分はそのせいで湧き起こる感情を持て余していたというのに、秋口の方は平然と『もうちょっと長く休めばいいのに』などと言う。
(当然か)
気にする方がきっとおかしいのだ。
「今日は携帯、持ってないんですか?」
「え?」
もやもやと胸を覆う感情に力ずくで蓋をしようとあがいていた佐山は、秋口の問いに首を傾げた。
「いや、あるけど、ここに」
携帯電話はポケットに入れっぱなしだ。今日は朝出かける前に御幸と連絡を取ったきりで、後は着信音の鳴った覚えがない。
「電源切ってましたか。メール、入れたんだけど」
笑って訊ねる秋口に、佐山は慌てて携帯電話の液晶画面を見た。だがメールが届いた様子はない。
「ああ……圏外だったから、センターで止まっちゃってるのかも」
「携帯通じないようなところに行ってたんですか」
病院では電源を切っていたし、あの周辺は佐山の使っている携帯電話は通じない。
「うん、ちょっと、遠出して」
「どこに?」
おそらく世間話のついでのような秋口の問いに、佐山は咄嗟に返事をすることができなかった。
昼間見た青い空に浮かぶ雲や、病院の中の冷えた廊下、白い部屋、白いベッド、細い腕を思い出す。
それから――
『翼は一緒じゃないの?』
無邪気に問いかける掠れた声を。
「佐山さん?」
黙り込んでしまった佐山に、怪訝そうな秋口の声がかかる。
「ああ、うん、ちょっと……本当にちょっと、そこまで」
言葉を濁した佐山に、秋口がまた少し笑った。
「御幸さんと?」
気づくと、御幸の車がすぐそこまで来ていた。パワーウインドを下げ、運転席から顔を覗かせている。秋口と視線が合って、軽く手を挙げ挨拶をしていた。
「あっち、待たせてるんだ。それじゃあな」
逃げるように、佐山は秋口に背を向け御幸の車へと向かった。
秋口は何も言わず佐山の姿を見ていた。