こころなんてしりもしないで・第7話
足許がふわふわする感覚、というのを生まれて初めて味わっている。
別にそのことばかりを考えているわけじゃないのに、いつでも気持ちが上擦って、落ち着かない。パソコンのキーボードを叩いていても、書類を眺めていても、喉が詰まったように熱くなって、そわそわしてしまう。
(……駄目だ)
溜息をつき、眼鏡を取ってこめかみを揉んだ。
「あれ、佐山、お疲れ?」
後ろを通り掛かった開発課の同期が、そんな佐山の様子を見て声をかけてくる。佐山は振り返って曖昧に笑った。
「かもしれない。ちょっと一服してくる」
急ぎの仕事がないのを幸い、佐山はデスクの上の煙草とライターを取って尻ポケットにねじ込み、席を立った。妙に頭が痛んだので、眼鏡はかけず、そのままシャツの胸ポケットに引っかける。
まだ午前中、休憩所の辺りに人影はなかった。佐山は自販機でホットミルクを買うと、カップを取り出し、立ったまま壁に寄り掛かった。
冷房の効いたビルの中、暖かいミルクを飲み込むと、少し落ち着いた。
だが一口目を飲んだだけであとは動きが止まり、そのまま、カップの中のミルクを眺める。湯気のせいと裸眼のせいで、ミルクはずいぶんぼんやりした、白い靄のように見えた。
「……」
そしてほんの少し動きを止めてしまうと、佐山の脳裡に浮かぶのはゆうべの晩秋口に触れられた状況ばかりだ。
(本当、駄目だ)
目を閉じて、頭も壁に預けてしまう。自分の顔が赤くなってしまわない自信がなかった。まるで恋を覚えたての子供みたいだと奇妙に気恥ずかしい心地になる。
ゆうべ、佐山は何度も秋口とキスを交わした。それは本当にただ触れるだけの接吻けで、ゆっくり、ゆっくりと、秋口の唇が触れては離れ、触れては離れと、した。
その時佐山の頭は真っ白で、どうして秋口が自分にそんなことをするのか、まったく答えが出なかった。
そして未だに、正解なんて捜せない。
秋口はみっともなく泣いてしまった自分に何度も唇で触れてから、そのうちにそっと体を離した。
『飯、喰いましょう。残ってるから、勿体ない』
言われた言葉の意味がその時の佐山にはよくわからなくて、曖昧な視線で秋口を見上げた。その時も佐山は眼鏡がなく裸眼で、秋口の姿がひどくぼやけて見えていた。だから彼がどんな顔をしていたのかわからなかった。
涙の伝う目尻や頬が痒くなって、その辺りに佐山が指で触れようとするより先に、視界に黒いものが飛び込んできた。驚いて身を引くと、背中のドアに頭をぶつけてしまった。
微かに秋口の輪郭が揺れて、笑われたのだとわかった。
『眼鏡。ないと見えないんでしょう』
笑った声で秋口はそう言って、佐山に眼鏡をかけてくれた。その眼鏡を佐山は一度取り外して、目許を拭ってからもう一度自分で掛け直した。
その時には、秋口はもう元の席に戻っていた。
佐山は上手く思考の働かない頭を持て余しながら、自分も秋口の向かいに座り直した。
秋口は普通の顔で食事を再開して、佐山も無理に春巻きを口の中へと押し込み、ラッシーでそれを飲み下した。味なんてさっぱりわからなかった。
秋口の真意を問うことが佐山にはできなかった。あまりに秋口が平然とした態度だったせいだと思う。平然としているのに何も喋らない。いつもだったら場を和ませるような会話を如才なく続けるのに。
秋口は結局それから最後まで、黙然と料理を口に運び続けた。佐山も黙ったまま食事を終え、ふたりで店を出た。
『それじゃ、また会社で』
いつものとおり、分かれ道でそう言うと、秋口は駅の方へと行ってしまった。
佐山は取り残された気分でそれを見送り、それから自分の家へと戻った。
眠れなかった。自分の部屋の自分のベッドに横たわるのに、秋口にされたキスの感触を思い出してしまって、明け方近くまで眠気なんて一欠片も起きなかった。
起きてからもその調子だ。
好きだと、自分の気持ちが当の秋口にばれて、それで秋口は自分にキスした。
でも秋口は何も言わなかった。
それがどういうことなのか、佐山はずっと、その意味について考えようとしている。
決してキスをされたこと自体に浮かれてしまわないように。
(秋口が、俺と同じ気持ちだなんてことは、ありえないんだから)
何度も何度も、そうやって自分を戒める。調子に乗って、秋口に嫌な思いをさせることにでもなったら最低だ。
(もしかしたら、いい歳して男なんかに告白した俺のことを、可哀想だと思って慰めてくれたのかもしれないし)
自分が女だったら、多分秋口の行動に説明はつくのだ。ごく簡単に。佐山にもそれはわかる。秋口は女の子の扱いが上手くて、彼が好んでつき合うのは物分かりがよくプライドも高く、後腐れのない大人の女性が多い。噂でそう聞いて、その相手として名前の挙がった女性数人は社内で佐山も知っている人だったから、納得もできた。
キスをされたくらいで、想いを返してもらえたなんて勘違いしてつきまとったりしたら、秋口には迷惑だろう。そういうタイプの女を秋口が相手にした話は聞いたことがない。
(だから、いちいち浮かれたら駄目なんだって)
もし秋口が女だったら、さちに話は簡単だった。誠意を尽くして気持ちを告げて、できれば恋人としてつき合ってほしいと言うだけだ。結果はどうあっても、自分の取るべき行動はひとつしかないし、そもそも、迷う理由も悩む理由もひとつだってない。
今の自分の前に立ちふさがるあたりまえの障害について思って、冷房で冷えた手をカップで温めながら、佐山は小さく溜息をついた。
「あれ――」
ぼやけた視界で揺れる湯気を眺めていると、間近で声が聞こえて佐山はぎょっと顔を上げた。いつの間にか斜め前に人がいて、自分の正面に近づきながら顔を覗き込んでいる。
声でわかった。秋口だ。
「佐山さん、眼鏡は?」
「ここ」
内心はひどくうろたえていたのに、佐山は何ともない素振りで自分の胸ポケットを指さして見せた。割合こういう態度が得意なのだ。昨日、秋口の前でみっともなく涙なんてこぼしてしまったのが異常なくらいで。
「俺の顔見えてます?」
間近に秋口の顔があった。まったく眼鏡を外していた自分は運がいい。その男らしく整った顔になるべく焦点を合わせないよう、目を細めながら佐山は首を横に振った。
「ぼやけてる」
本当は近視だから、近づいてくれれば充分見えるのだが。
「すげぇ顔」
秋口が小さく笑った。それから、不意に片手を佐山の頬へ伸ばしてくる。
「ちょっと、動かないで。睫ついてる」
「……」
佐山は大人しく動きを止めた。本当は体が強張って、動かなかったのだが。
秋口の指先が軽く目許に触れて、反射的に佐山は目を閉じた。
「取れたか?」
なかなか離れない秋口の指に困って、佐山は目を閉じたまま訊ねた。
「……秋口?」
そんなに頑固な睫なのかと、再び問おうとした佐山は、秋口の指先にそっと目許を撫でられて微かに眉根を寄せた。些細な感触だったのに、体が震えそうになって驚いた。
佐山はその動揺を隠すように瞼を開き、つい秋口に視線を凝らしてしまった。
秋口が真顔で佐山のことを見下ろしていた。
(……あれ、何か)
よくない感じだ、と佐山は肌で感じた。
今秋口とふたりきりでいるのは、多分よくない。
「そろそろ仕事、戻るな」
温くなったミルクを一気に飲み干し、秋口から顔を逸らすようにして空になったカップを捨て、休憩所を出ようと歩き出しかけた佐山は、手首を掴まれ驚いた。
見上げると秋口はもう自分の前を歩いていて、手を引っ張ったまま休憩所から廊下に進んでいる。
「あ――秋口?」
何のつもりかと、訊ねたつもりで呟いた言葉は無視された。廊下を歩く別の社員が、無表情の秋口と、それに手を引かれた佐山を怪訝そうに見ていたが秋口はお構いなしだ。どんどん佐山を引っ張って、廊下を奥の方へと進んでいる。
大股で歩く秋口の後を仕方なく小走りについていった佐山は、そのまま資材倉庫まで辿り着いた。資材倉庫とは名ばかりで、使い道はないが処分し辛い古びた備品や資料が押し込められた、狭いがらくた部屋だ。秋口はその部屋の中に佐山の手を引いて入ると、IDカードなんかなくても入れる壊れかけたドアを閉じた。
明かりはつけなかったが、ブラインドの掛かった窓から外の光が細く何条も漏れている。
佐山は何が起きたのかよくわからなくて、とにかく落ち着こうと、眼鏡に手を伸ばした。
それを、秋口のもう一本の手に止められた。両手を押さえるように掴まれ、佐山は顔が上げられなくなってしまった。自分の心音が奇妙に近い。まるで耳許に心臓があるみたいだ。
多分、きっと、期待してたと思う。
そして佐山の期待どおりに、秋口はそのまま身を屈め、そっと近づいてきた。佐山はやっぱり顔が上げられず、俯いたまま困り果てる。
どうして、と理由を問えば、秋口が逃げてしまう気がして何も言えなかった。秋口は俯いた佐山の顔を下から掬うように、ゆっくり唇を合わせてきた。佐山は少し迷ったあと目を閉じる。昨日みたいに、秋口に何度も接吻けられる間に少しずつ顎が上がった。気づいたら秋口にされっぱなしになっているわけではなく、自分からも唇を寄せて触れ合っているような格好になっていた。
(止まらない)
どこの世界に、好きな相手からキスされて、自分からその状況を手放せるような人間がいるのか。
佐山は面倒になって、もう理由なんて考えず秋口とキスを交わした。わけを聞くなら喋るために離れなくてはいけない。そんなの勿体ない。
秋口の舌が唇に触れると、佐山はほぼ無意識にそれを開いた。自分からも少し舌を差し出し、接吻けはすぐに深くなった。両手を戒めるように掴まれているのがわずかにもどかしい。でもどうせ両手が自由だって、自分から秋口の背を抱いたりすることはできなかっただろう。
秋口はどうしてか、佐山が逃げ出すことでも警戒するように、きつく手首を握っている。ちょっと痛かったが、佐山はそれに文句を言う気も起きなかった。
「……ん……」
息苦しいのと、気持ちいいので、微かに吐息に似た声を洩らしてしまう。その自分の声が部屋の中に響いたから、佐山は変に緊張した。つい夢中で舌を絡め合ったりしてしまったが、そういえばここは会社なのだと、いまさら思い出した。
それで無意識に佐山が少し身を引くと、濡れた音を立てて互いの舌と唇が離れた。その音がやたら淫らっぽくて佐山は頭がくらくらする。場所とか、相手のこととか、考えるだけで貧血でも起こしそうな気分になった。
血が下がっているのではなく、頭に昇っている方の眩暈なのかもしれない。
佐山は息が乱れているのを悟られたくなくて、ゆっくり深呼吸した。まだ間近にいる秋口からも吐息が漏れ、体が震えそうになるのをようやく堪える。
秋口はやっぱり何も言わなかった。佐山は声を出せばそれが上擦っていそうなのが怖くて、口が開けなかった。
黙ったままお互いそのまま向かい合い、しばらくの時が過ぎる。佐山は視線を落とし、薄暗がりの中で秋口の靴ばかりを見ていた。茶色い革靴。輪郭なんてぼやけてよくわからない。本当にそれが茶色いのかも。
「佐山さん、今日も夜」
不意に秋口の方から口を開き、佐山は小さく肩を揺らした。馬鹿みたいに驚いてしまって、それに秋口が気づかなければいいと必死に願った。
「空いてますか? また、飯でも」
佐山は少しの間を置いてから頷き、それではわからないかと、「うん」と小さな声で答えた。
「じゃ、終わったらメールか電話」
「わかった」
そう返事をしたのに、秋口はまだ佐山の手を離さなかった。
「……秋口、先出てくれ」
このまま秋口と一緒にこの部屋を出て、どういう顔をして自分のデスクに戻ればいいのか、佐山には見当もつかなかった。
秋口は頷くとやっと手を離し、あとは何も言わずにすぐ部屋を出て行った。
ドアが閉まる音をたしかめてから、佐山はその場にしゃがみ込み、項垂れて大きく溜息をついた。
別にそのことばかりを考えているわけじゃないのに、いつでも気持ちが上擦って、落ち着かない。パソコンのキーボードを叩いていても、書類を眺めていても、喉が詰まったように熱くなって、そわそわしてしまう。
(……駄目だ)
溜息をつき、眼鏡を取ってこめかみを揉んだ。
「あれ、佐山、お疲れ?」
後ろを通り掛かった開発課の同期が、そんな佐山の様子を見て声をかけてくる。佐山は振り返って曖昧に笑った。
「かもしれない。ちょっと一服してくる」
急ぎの仕事がないのを幸い、佐山はデスクの上の煙草とライターを取って尻ポケットにねじ込み、席を立った。妙に頭が痛んだので、眼鏡はかけず、そのままシャツの胸ポケットに引っかける。
まだ午前中、休憩所の辺りに人影はなかった。佐山は自販機でホットミルクを買うと、カップを取り出し、立ったまま壁に寄り掛かった。
冷房の効いたビルの中、暖かいミルクを飲み込むと、少し落ち着いた。
だが一口目を飲んだだけであとは動きが止まり、そのまま、カップの中のミルクを眺める。湯気のせいと裸眼のせいで、ミルクはずいぶんぼんやりした、白い靄のように見えた。
「……」
そしてほんの少し動きを止めてしまうと、佐山の脳裡に浮かぶのはゆうべの晩秋口に触れられた状況ばかりだ。
(本当、駄目だ)
目を閉じて、頭も壁に預けてしまう。自分の顔が赤くなってしまわない自信がなかった。まるで恋を覚えたての子供みたいだと奇妙に気恥ずかしい心地になる。
ゆうべ、佐山は何度も秋口とキスを交わした。それは本当にただ触れるだけの接吻けで、ゆっくり、ゆっくりと、秋口の唇が触れては離れ、触れては離れと、した。
その時佐山の頭は真っ白で、どうして秋口が自分にそんなことをするのか、まったく答えが出なかった。
そして未だに、正解なんて捜せない。
秋口はみっともなく泣いてしまった自分に何度も唇で触れてから、そのうちにそっと体を離した。
『飯、喰いましょう。残ってるから、勿体ない』
言われた言葉の意味がその時の佐山にはよくわからなくて、曖昧な視線で秋口を見上げた。その時も佐山は眼鏡がなく裸眼で、秋口の姿がひどくぼやけて見えていた。だから彼がどんな顔をしていたのかわからなかった。
涙の伝う目尻や頬が痒くなって、その辺りに佐山が指で触れようとするより先に、視界に黒いものが飛び込んできた。驚いて身を引くと、背中のドアに頭をぶつけてしまった。
微かに秋口の輪郭が揺れて、笑われたのだとわかった。
『眼鏡。ないと見えないんでしょう』
笑った声で秋口はそう言って、佐山に眼鏡をかけてくれた。その眼鏡を佐山は一度取り外して、目許を拭ってからもう一度自分で掛け直した。
その時には、秋口はもう元の席に戻っていた。
佐山は上手く思考の働かない頭を持て余しながら、自分も秋口の向かいに座り直した。
秋口は普通の顔で食事を再開して、佐山も無理に春巻きを口の中へと押し込み、ラッシーでそれを飲み下した。味なんてさっぱりわからなかった。
秋口の真意を問うことが佐山にはできなかった。あまりに秋口が平然とした態度だったせいだと思う。平然としているのに何も喋らない。いつもだったら場を和ませるような会話を如才なく続けるのに。
秋口は結局それから最後まで、黙然と料理を口に運び続けた。佐山も黙ったまま食事を終え、ふたりで店を出た。
『それじゃ、また会社で』
いつものとおり、分かれ道でそう言うと、秋口は駅の方へと行ってしまった。
佐山は取り残された気分でそれを見送り、それから自分の家へと戻った。
眠れなかった。自分の部屋の自分のベッドに横たわるのに、秋口にされたキスの感触を思い出してしまって、明け方近くまで眠気なんて一欠片も起きなかった。
起きてからもその調子だ。
好きだと、自分の気持ちが当の秋口にばれて、それで秋口は自分にキスした。
でも秋口は何も言わなかった。
それがどういうことなのか、佐山はずっと、その意味について考えようとしている。
決してキスをされたこと自体に浮かれてしまわないように。
(秋口が、俺と同じ気持ちだなんてことは、ありえないんだから)
何度も何度も、そうやって自分を戒める。調子に乗って、秋口に嫌な思いをさせることにでもなったら最低だ。
(もしかしたら、いい歳して男なんかに告白した俺のことを、可哀想だと思って慰めてくれたのかもしれないし)
自分が女だったら、多分秋口の行動に説明はつくのだ。ごく簡単に。佐山にもそれはわかる。秋口は女の子の扱いが上手くて、彼が好んでつき合うのは物分かりがよくプライドも高く、後腐れのない大人の女性が多い。噂でそう聞いて、その相手として名前の挙がった女性数人は社内で佐山も知っている人だったから、納得もできた。
キスをされたくらいで、想いを返してもらえたなんて勘違いしてつきまとったりしたら、秋口には迷惑だろう。そういうタイプの女を秋口が相手にした話は聞いたことがない。
(だから、いちいち浮かれたら駄目なんだって)
もし秋口が女だったら、さちに話は簡単だった。誠意を尽くして気持ちを告げて、できれば恋人としてつき合ってほしいと言うだけだ。結果はどうあっても、自分の取るべき行動はひとつしかないし、そもそも、迷う理由も悩む理由もひとつだってない。
今の自分の前に立ちふさがるあたりまえの障害について思って、冷房で冷えた手をカップで温めながら、佐山は小さく溜息をついた。
「あれ――」
ぼやけた視界で揺れる湯気を眺めていると、間近で声が聞こえて佐山はぎょっと顔を上げた。いつの間にか斜め前に人がいて、自分の正面に近づきながら顔を覗き込んでいる。
声でわかった。秋口だ。
「佐山さん、眼鏡は?」
「ここ」
内心はひどくうろたえていたのに、佐山は何ともない素振りで自分の胸ポケットを指さして見せた。割合こういう態度が得意なのだ。昨日、秋口の前でみっともなく涙なんてこぼしてしまったのが異常なくらいで。
「俺の顔見えてます?」
間近に秋口の顔があった。まったく眼鏡を外していた自分は運がいい。その男らしく整った顔になるべく焦点を合わせないよう、目を細めながら佐山は首を横に振った。
「ぼやけてる」
本当は近視だから、近づいてくれれば充分見えるのだが。
「すげぇ顔」
秋口が小さく笑った。それから、不意に片手を佐山の頬へ伸ばしてくる。
「ちょっと、動かないで。睫ついてる」
「……」
佐山は大人しく動きを止めた。本当は体が強張って、動かなかったのだが。
秋口の指先が軽く目許に触れて、反射的に佐山は目を閉じた。
「取れたか?」
なかなか離れない秋口の指に困って、佐山は目を閉じたまま訊ねた。
「……秋口?」
そんなに頑固な睫なのかと、再び問おうとした佐山は、秋口の指先にそっと目許を撫でられて微かに眉根を寄せた。些細な感触だったのに、体が震えそうになって驚いた。
佐山はその動揺を隠すように瞼を開き、つい秋口に視線を凝らしてしまった。
秋口が真顔で佐山のことを見下ろしていた。
(……あれ、何か)
よくない感じだ、と佐山は肌で感じた。
今秋口とふたりきりでいるのは、多分よくない。
「そろそろ仕事、戻るな」
温くなったミルクを一気に飲み干し、秋口から顔を逸らすようにして空になったカップを捨て、休憩所を出ようと歩き出しかけた佐山は、手首を掴まれ驚いた。
見上げると秋口はもう自分の前を歩いていて、手を引っ張ったまま休憩所から廊下に進んでいる。
「あ――秋口?」
何のつもりかと、訊ねたつもりで呟いた言葉は無視された。廊下を歩く別の社員が、無表情の秋口と、それに手を引かれた佐山を怪訝そうに見ていたが秋口はお構いなしだ。どんどん佐山を引っ張って、廊下を奥の方へと進んでいる。
大股で歩く秋口の後を仕方なく小走りについていった佐山は、そのまま資材倉庫まで辿り着いた。資材倉庫とは名ばかりで、使い道はないが処分し辛い古びた備品や資料が押し込められた、狭いがらくた部屋だ。秋口はその部屋の中に佐山の手を引いて入ると、IDカードなんかなくても入れる壊れかけたドアを閉じた。
明かりはつけなかったが、ブラインドの掛かった窓から外の光が細く何条も漏れている。
佐山は何が起きたのかよくわからなくて、とにかく落ち着こうと、眼鏡に手を伸ばした。
それを、秋口のもう一本の手に止められた。両手を押さえるように掴まれ、佐山は顔が上げられなくなってしまった。自分の心音が奇妙に近い。まるで耳許に心臓があるみたいだ。
多分、きっと、期待してたと思う。
そして佐山の期待どおりに、秋口はそのまま身を屈め、そっと近づいてきた。佐山はやっぱり顔が上げられず、俯いたまま困り果てる。
どうして、と理由を問えば、秋口が逃げてしまう気がして何も言えなかった。秋口は俯いた佐山の顔を下から掬うように、ゆっくり唇を合わせてきた。佐山は少し迷ったあと目を閉じる。昨日みたいに、秋口に何度も接吻けられる間に少しずつ顎が上がった。気づいたら秋口にされっぱなしになっているわけではなく、自分からも唇を寄せて触れ合っているような格好になっていた。
(止まらない)
どこの世界に、好きな相手からキスされて、自分からその状況を手放せるような人間がいるのか。
佐山は面倒になって、もう理由なんて考えず秋口とキスを交わした。わけを聞くなら喋るために離れなくてはいけない。そんなの勿体ない。
秋口の舌が唇に触れると、佐山はほぼ無意識にそれを開いた。自分からも少し舌を差し出し、接吻けはすぐに深くなった。両手を戒めるように掴まれているのがわずかにもどかしい。でもどうせ両手が自由だって、自分から秋口の背を抱いたりすることはできなかっただろう。
秋口はどうしてか、佐山が逃げ出すことでも警戒するように、きつく手首を握っている。ちょっと痛かったが、佐山はそれに文句を言う気も起きなかった。
「……ん……」
息苦しいのと、気持ちいいので、微かに吐息に似た声を洩らしてしまう。その自分の声が部屋の中に響いたから、佐山は変に緊張した。つい夢中で舌を絡め合ったりしてしまったが、そういえばここは会社なのだと、いまさら思い出した。
それで無意識に佐山が少し身を引くと、濡れた音を立てて互いの舌と唇が離れた。その音がやたら淫らっぽくて佐山は頭がくらくらする。場所とか、相手のこととか、考えるだけで貧血でも起こしそうな気分になった。
血が下がっているのではなく、頭に昇っている方の眩暈なのかもしれない。
佐山は息が乱れているのを悟られたくなくて、ゆっくり深呼吸した。まだ間近にいる秋口からも吐息が漏れ、体が震えそうになるのをようやく堪える。
秋口はやっぱり何も言わなかった。佐山は声を出せばそれが上擦っていそうなのが怖くて、口が開けなかった。
黙ったままお互いそのまま向かい合い、しばらくの時が過ぎる。佐山は視線を落とし、薄暗がりの中で秋口の靴ばかりを見ていた。茶色い革靴。輪郭なんてぼやけてよくわからない。本当にそれが茶色いのかも。
「佐山さん、今日も夜」
不意に秋口の方から口を開き、佐山は小さく肩を揺らした。馬鹿みたいに驚いてしまって、それに秋口が気づかなければいいと必死に願った。
「空いてますか? また、飯でも」
佐山は少しの間を置いてから頷き、それではわからないかと、「うん」と小さな声で答えた。
「じゃ、終わったらメールか電話」
「わかった」
そう返事をしたのに、秋口はまだ佐山の手を離さなかった。
「……秋口、先出てくれ」
このまま秋口と一緒にこの部屋を出て、どういう顔をして自分のデスクに戻ればいいのか、佐山には見当もつかなかった。
秋口は頷くとやっと手を離し、あとは何も言わずにすぐ部屋を出て行った。
ドアが閉まる音をたしかめてから、佐山はその場にしゃがみ込み、項垂れて大きく溜息をついた。