こころなんてしりもしないで・第6話
週末、金曜日にも秋口は佐山を誘った。昼休みでは沙和子が佐山に話しかける隙ができてしまうかと思って、駅から会社に行く道のりで姿を見かけたのを幸い、約束を取りつけることに成功した。
「でも、いいのか。俺とばっかり食べに行って……その、他の人の約束とか」
会社に向かって並んで歩きつつ、佐山が遠慮がちにそう言った。佐山を最初に誘った日以来、秋口は他の人間と夜に出かけたことがない。同じ会社の女子社員も、メールや携帯電話で連絡を取り合うような他の相手も、声をかけられてもすべて上手く断った。今のところ沙和子を落とせないのなら秋口にとって意味はなく、沙和子に声をかけられても怒って睨まれてしまうのだから仕方がない。
(でもこれ、いつまでやってりゃいいんだ?)
沙和子と佐山が縒りを戻すことを場当たり的に阻止することはできても、結局沙和子の不興を買うだけで、彼女の中で秋口の株が上がるわけもない。むしろ下がる一方だ。
沙和子が佐山のことを諦めるまで佐山を誘い続けるしかないのか、と秋口はいささかげんなりしつつ、今日も佐山と一緒にいつもの店へと向かった。
「あれ、何だかものすごく並んでないか?」
ビルに入り、店のある二階へ向かう途中の階段に、客が行列を作っていた。これまで多少店の中で待たされることはあっても、外にまで客が列を成しているところなんて秋口は初めて見た。隠れ家的な穴場だったのだ。
「申し訳ございません、一時間ほどお待ちいただくことになると思いますが……」
客の名前を順番にメモしている店員が、秋口たちに声をかけてきた。何でも、雑誌に紹介されたために、昨日から急激に客が増えてしまったらしい。
「どうします?」
秋口が訊ねると、佐山が困惑げに「うーん」と眉を顰めた。
「一時間も待つのは、ちょっとなあ……もう結構遅いし」
「他に行きますか? 金曜だし、どこも混んでると思いますけど」
「でも、その店もそろそろ終わりじゃないか?」
腕時計を見ながら佐山が言った。秋口の方の仕事が伸びてしまったから、会社を出た頃はもう九時を回っていたのだ。この店は深夜まで営業しているが、オフィス街なので、それ以外の店はそろそろラストオーダーの時間だろう。
「でも俺、だいぶ腹減ってるんですよね。腹に何か入れないと、家に帰るまでに電車でぶっ倒れそう」
「チェーン系の居酒屋なら、ちょっと待てば入れるかもしれない」
「いや、それは勘弁。あの安っぽい味駄目なんですよ」
割合味にうるさいタチなので、秋口はテレビコマーシャルでさんざん宣伝しているような、薄利多売の居酒屋が嫌いだった。ろくな味だったためしがない。
「新宿辺り出ても、どうせ混んでるだろうしな……」
思案する佐山を見ていた秋口は、思いついて口を開いた。
「そうだ、佐山さんち、ここから近いでしょう。この駅からちょっと外れたところに、結構美味い惣菜置いてるスーパーがあるんですよ、遅くまでやってる。そこで買っていけばいい」
「えっ」
あからさまなほどぎょっと驚いた顔で、佐山が時計から秋口に視線を移す。
「うち……いや、でも、すごく散らかってるぞ?」
「座れるところがあれば気にしませんよ。十五分で着くんでしょ? 新宿出て駅からうろうろするより早い」
「う、うーん……」
「俺が行ったら、迷惑ですか」
煮え切らない様子の佐山に、秋口は少し強引な語調で訊ねた。それでも、意外に頑固な佐山のことだから、半分くらいは「急にそんなこと言われても」と断られることを覚悟した。覚悟しておけば、不意打ちに突っぱねられて腹を立てることもない。
「……まあ……本当にものすごく散らかっててもいいなら」
だが、佐山は長い時間考えた後にようやく頷いた。それに少し驚きつつ、どことなく嬉しくなって、秋口は頷きを返す。
「じゃ、行きましょう。本当に美味いんですよ、そこ」
秋口の案内でそのスーパーに向かい、ふたりで買い物カゴをぶら下げてあれこれ食料や飲み物を買った。
「秋口は結構、食い道楽なんだな」
料理を吟味してはカゴに放り込むのは秋口の役目で、佐山はただそれを興味深そうに眺めている。
「母親が料理上手なんですよ、料理教室とか開いてるし。小さい頃から舌が慣らされちゃって、滅多なものは受けつけない」
「ブルジョア……」
「ってほどでもないと思うんですけどね」
すべて秋口が選んだ商品で会計をすませ、代金は折半した。ふたりしてスーパーのビニール袋を片手にぶら下げて、会社最寄りの駅へと戻る。
「でも秋口、電車大丈夫か」
電車に乗り込む頃には、十時近くになっていた。これから食事をして酒を飲んで、といっても、それほど時間がない。
「まあ最悪タクシーで。それとも泊めてもらおうかな」
冗談めかして言った秋口は、佐山が予想を超えて困り果てた顔になっているのに、ひそかにショックを受けつつ笑って見せた。こうまでわかりやすく嫌がられるとは。
「冗談ですよ、そこまで図々しくありません」
佐山は曖昧な笑顔で頷いた。ほっとしているようにも見えた。
(何だ。少しはうち解けたってことでもないのか)
立て続けに一緒に食事をして、それなりに会話も交わして、勝手に親しくなった気になっていた。自分が佐山に好意を持って近づいたわけではないにしろ、佐山の方はそういう自分をゆったり受け入れているふうに見えていたのだが。
(誰にでもこうなだけか?)
後輩の強引な誘いを断れないだけの先輩――という図式を思い浮かべて、秋口は勝手に落胆した。
「この駅」
少し混み合った電車の中、会話を弾ませることもなくいたら、佐山が停車駅の少し前で口を開いた。頷き、秋口は停まった駅で佐山と一緒に電車を降りる。
「歩いてすぐだから」
そう佐山が言ったとおり、彼の住んでいるマンションは駅から五分ほどの立地だった。近くにはコンビニエンスストアや、もう閉まってしまったがスーパーマーケットや書店、CDショップが並び、住みやすそうな街だ。
「いいとこ住んでますね」
「うん、気に入ってる。こっちだよ」
三階建ての煉瓦造りのマンションが、佐山の住処だった。暗いのでよくは見えなかったが、年季が入っている割に手入れの行き届いた建物のようだった。管理人室はもう閉まっているが、セキュリティが入っていて、ビデオカメラが作動している。エントランスは明るい。
佐山の案内で、秋口は二階の南端に当たる部屋へ向かった。ワープロ打ちの文字で「SAYAMA」と綺麗に表札が出ている。
「えーと、本当にすごいから」
そう言いながら佐山が鍵を開けた時も、秋口は「まあ大袈裟に表現しているのだろう」と思っていた。
しかし実際、佐山の部屋はすごかった。
「……わー……」
玄関で立ち往生し、秋口は我知らず、驚きか、感嘆かわからない声を発した。
多分広めの1DK。玄関から入ってすぐがダイニングキッチンだ。
しかしそのダイニングキッチンには、うずたかく本が積まれ、雑誌が積まれ、それが雪崩を起こし、溜まりきった新聞がヒモで括られもせず新聞入れに放り込まれ、ダイレクトメールは散乱し、これからクリーニングに行くらしい服とクリーニングから帰ってきたらしい服がダイニングテーブルと椅子の上を占拠している。本と服に埋まってテレビやコンポが見えて、CDがなぜかケースにも入らず、佐山のつけた照明を反射させている。
「うーん」
足も踏み場もない、とはよく言ったもので、佐山は腰に手を当てて秋口と一緒に部屋の惨状を眺めた後、おもむろに足であちこちの荷物を払いのけ始めた。
「い、いや、佐山さん。手でやりましょうよ」
「とりあえず、獣道を作らないと」
「獣なのか」
わけのわからないところで秋口は感心した。しかし佐山が作った細い通り道は、たしかに獣道と表現するのに相応しいものだった。
泊めてもらおうか、と自分が言った時の佐山の態度は、もしかしたら泊まって迷惑ということではなく、単純にもうひとりが寝るような場所がないという意味だったのでは――と秋口は察した。
「……これだけ散らかってても、台所は綺麗なんだな」
そしてそのことに秋口はまた感心する。シンクには汚れた皿ひとつ残っていないし、洗いカゴの中は空っぽだ。レンジの上にはやかんひとつ。その他食料も調味料も見あたらないが、もしかしたらきちんと整理してしまってあるわけではなく、そもそもそれらがこの部屋には存在していないのではと秋口は予測を立てた。
「佐山さん、自炊って全然しません?」
「あ、全然まったく。全部外で済ます」
なるほどそれで、ゴミらしいゴミが見あたらないのだろう。新聞も雑誌もゴミなのかもしれないが、とりあえず飲食物に関するゴミは、ミネラルウォーターの空きボトルくらいだ。
「こっちは多少、マシだから」
率先して獣道を進んだ佐山が、奥の部屋から秋口を手招きした。
こちらは広い洋室で、ベッドや棚、ローテーブルがあった。やはりここも紙類が山積みになり、ローテーブルの上には開きっぱなしのノートパソコンがあった。
「仕事して寝るだけって感じの部屋だ」
クロゼットは開けっ放しだったが、こちらにあるのはクリーニング済のシャツとスーツやネクタイだけのようだった。
佐山はテーブルの上からパソコンを退かし、床に積まれた資料を部屋の隅に寄せて、どうにか人が座れるスペースを作った。ふたり分のスーツの上着は、皺にならないよう秋口がそっとベッドへ載せた。
「二週間前くらいまでなら、もうちょっとマシだったんだけど」
佐山に促され、秋口はネクタイを緩めながらとりあえずそのスペースに腰を下ろす。クッションや座布団などの気の利いたアイテムは見あたらなかった。
「大掃除でもしたんですか」
「御幸がな」
そしてその部屋を、佐山は二週間でここまでに育て上げたらしい。
「悪いな、本当、こんなで」
「いやー……まあ」
言葉を濁しつつ、秋口は買ってきた総菜を取り出した。
「あ、皿とか」
「このままでいいんじゃないですか、割箸もあるし」
獣道を通ってダイニングの食器棚まで向かわせるのも忍びなかったので、秋口はプラスチックのパックのまま料理を並べた。
「佐山さん、ちょっと、飲みません?」
ビニールの中から缶ビールを取り出し、秋口は佐山にそれを示して見せた。
「これすごく美味いんですよ。自宅だし、ちょっとだけなら平気じゃないですか」
「うーん……じゃあまあ、本当に少しだけ」
「残ったら俺が飲みますよ」
迷いつつ、佐山が缶を秋口から受け取った。お互いプルタブを開け、申し合わせたように缶を掲げる。
「初訪問の素晴らしい部屋に」
「悪かったな」
秋口の軽口に佐山が笑い、鈍い音を立てて缶を軽くぶつけ合ってから、ふたりしてビールに口をつけた。
「あ、本当だ、口当たりいい」
驚いて缶を見る佐山に、秋口はしてやったりの気分でにやりとした。
「アルコール度もそんなにないですし。食べながら、ほどほどに」
空腹だった秋口は総菜の片っ端から手をつけ、佐山もちびちびとビールを啜りつつ、料理を口にした。
「ひとり暮らしは長いんですか?」
食事と酒の合間に、佐山の部屋を眺めながら秋口は訊ねた。窓には素っ気ない無地のカーテン、広い壁には会社で配られたカレンダーがぽつんと貼られているだけだ。
「そうだな、大学進学してからだから……かれこれ九年くらい」
「その頃からずっとこの調子?」
「そうだなあ……ひとりになって、拍車がかかったかも。駄目なんだ、綺麗だと落ち着かなくて。それにしても散らかしすぎたって御幸にいつも言われるけどな」
「片付いてる方がむしろどこに何があるのかわからないって人もいますよね」
「さすがに会社で使うものだけは別によけてあるけど、それ以外は本当にどこにあるのかわからない」
フォローしてみたつもりの秋口の言葉に、佐山は何かを諦めたような緩い笑顔でそう呟いた。
「あれですか、片づけられない病気の人」
「なのかな。単にずぼらなだけかも」
息を吐き出した佐山の目許がほのかに赤いことに、秋口は呟いた。先刻から何度かビール缶に口をつけただけなのに、もう酔いが回り始めているらしい。
「あー……クラクラする、久しぶりだよ、酒なんて」
「大丈夫ですか?」
「うん、いい気分だ。料理も美味しいし」
笑って、佐山がテーブルの上の総菜をつつく。
「でも、変な感じだよ。あの秋口が、俺の部屋で俺の向かいで、飯喰って酒飲んで」
「『あの』って?」
どこか上機嫌に見える佐山を、くつろいだ気分であぐらをかきながら秋口は眺めた。
本当に散らかりきってはいたが、佐山の部屋は居心地がいいのが不思議だ。
「女の子にモテて、男前で、仕事もできる――」
褒められて当然のことばかりだったが、秋口の方も、佐山にそう言われるのが『変な感じ』だった。
「佐山さんがそんなふうに思ってるとは知らなかったな」
「うん?」
ビールを飲みながら、佐山が首を傾げて秋口を見返した。
「仕事、失敗したじゃないですか、俺。呆れられてると思ってた」
「あれは、たまたま……相手が悪かったよ、青木さんの時も、ああいうやり方で困ってたんだ」
「八つ当たりでひどいこと言ったし、佐山さんに」
秋口の方も、景気よく進めたビールのせいか、酔いが回ってきている。普段ならビールの一杯や二杯で酔っぱらうような軟弱な体でもないのだが、妙にいい気持ちになっている。
「そうだなあ……ちょっと、ひどいなと思ったけど」
笑って、佐山はまたビールを飲んだ。
「ちゃんと謝ってくれただろ。その上あんないい店に誘ってくれて、奢ってくれて。その後もこうやって一緒に飲んでくれて。おつりが来るよ」
佐山が少し眠たそうに瞼を指先で擦った。
「本当に酒、弱いんですねえ」
佐山の言葉にくすぐったい気分になりながら、秋口はその様子を眺める。
「横になりますか? 眠たそうだ」
「大丈夫――せっかく秋口が来てくれたのに、寝たら、悪いだろ」
そう言いつつも、佐山の瞼は重たく落ちかけている。
「……ごめん、ここのところ残業続きで、家でも仕事してたから、あんまり寝てなくて……」
「いいですよ、適当に俺、ひとりで飲んでますから」
「でも」
佐山は頑なに、それよりもくずった子供のように首を横に振っている。その仕種が妙に微笑ましくて、秋口は笑ってしまった。
「食べたら、帰っちゃうだろ」
「そりゃまあ、ここに泊まるってわけにも……」
「片づけておけばよかった」
壁に背中で寄り掛かり、ビール缶を両手で持って、佐山は大仰に溜息をついた。
「せっかく秋口が来てくれるなら、こんなみっともない部屋見せないで、御幸が掃除してくれたまま綺麗だったらよかったよ」
「そんな気にしてませんって」
「秋口の部屋は、きっと綺麗なんだろうなあ……」
秋口の返事は聞こえていない風情で、佐山はまたビールを呷った。
「佐山さん、そろそろやめといた方がよさそうじゃないですか。顔真っ赤ですよ」
「でも、気持ちいいから」
そう答えつつ、佐山の体はゆらゆらと揺れている。見事な酔っ払いだ。秋口は苦笑した。
「まだ半分も飲んでないんだよ」
ほら、と佐山が差し出した缶を、秋口は取り上げてしまった。重さでは、たしかにまだ三分の一程度しか飲んだ感じはしない。
「あー……」
缶を取られて、佐山が不満そうに顔を顰める。秋口はやっぱり笑ってしまってから、佐山が飲んでいたビールの残りを飲んだ。
「間接キス……」
「え?」
「とか言ったような言わないような……」
いまいち聞き取れない発音でむにゃむにゃと呟いて、佐山はそのまま床へ横向きに倒れ込んだ。
「ベッドで寝ますか?」
あまりに早い撃沈に感心しつつ、秋口は佐山に問いかけた。
「遠い」
ベッドは秋口の背中の方にある。
「運びますよ」
「重いよ」
「まさか。そんなガリガリの体しておいて」
これならふっくらした女を運ぶ方が辛いだろう。
「駄目なんだよ、肉がつかない体質で……」
床に転がったまま、佐山が眼鏡の向こうの瞼を閉じた。
「小さい頃、全然食事をしない時があって。成長期にそんなことしたから、こんな体になったんだ」
「食事をしないって、何でまた」
佐山が気持ちよさそうなので、秋口はベッドに運ぶことは見送ってビールを飲んだ。
「何でだっけ……」
佐山の声は、もう半分眠っている。
「体力をつけようと思って、運動もしたけど、筋肉はつかないし背は伸びないし……秋口みたいになりたかった」
「俺ですか」
「そう。背が高くて、手足もしっかりしてて、足なんかすごく長くて」
佐山の手放しの褒めように、秋口はやっぱりこそばゆい気分になった。そんな褒め言葉なんて、他の人たちから言われ慣れているはずなのに。
「おまけに男前だし、声も低くてよく響くし、サラリーマンなんかやめて、役者やったって不思議じゃないくらい」
「褒めすぎですよ」
酔っ払いの戯言だと知りつつ、秋口は無性に照れ臭くなってわざと眉を顰めた。もちろん、目を閉じている佐山に見えるはずもなかったが。
「男親がいないから、そういうの、憧れるんだ。秋口が俺の親父だったらよかったなあ……」
「親父か。俺、佐山さんより年下なんですけど?」
「そう、年下なのにやたら格好いいし、いつも美人と一緒にいるし……俺はきっと彼女たちに恨まれてるだろうな」
「佐山さん、眼鏡外した方がいいんじゃないですか。歪みますよ」
「うん」
子供みたいな素直さで頷いたものの、佐山は寝転がったまま動こうとはしなかった。床に押しつけた顔で、眼鏡のフレームが変形しそうになっている。秋口はひとつ溜息をつくと、テーブルの横を回って、積まれた書類を倒さないように気をつけながら佐山の近くに膝行った。
「取りますよ」
一声かけて、秋口は佐山の顔からそっと眼鏡を取った。
その時、不意に佐山が瞼を開き、秋口は自分でも奇妙だと思うほど動転した。
佐山は眠気とアルコールで潤んだ目で、秋口のことを見上げて、笑った。
「秋口は、優しいな」
「たかが眼鏡取っただけじゃないですか」
「じゃあ、意地悪だな」
「どっちですか」
小さく体を揺らして、佐山が笑っている。酔っ払いめ、と思いながら、秋口は佐山のネクタイに手をかけた。
「ほら、せめて着替えて、ベッド入ってください。俺そろそろ帰りますよ」
「……駄目だって」
「何が」
「まだ帰っちゃ駄目だよ、来たばっかだろ」
不満げに自分を睨みつけた佐山の眼差しに、秋口はまた動揺する。
年上の、いつも眼鏡でおまけに腕カバーの、いまいち冴えない、しかも男を、一瞬でも色っぽいとか可愛いだとか思うなんて。
どうかしている。
「でも佐山さん、眠たいでしょ」
「起きる」
佐山は両手を床について、体を起こそうとした。だが、横座りの格好で起き上がったところで眩暈がしたらしく、そのまま後ろに倒れそうになり、秋口は慌ててその背中を押さえた。あやうく壁に頭を激突させるところだった。
「酒に弱いって、本当は酒癖が悪くて営業向いてなかったんじゃないですか」
「そうだよ、秋口みたいに口が上手いわけじゃないし」
ふう、と大きく息を吐き出しながら、今度は前に倒れそうになる佐山の体を、仕方なく秋口は抱き込むように支えた。佐山の頭の重みが肩に来る。
本当なら、男にもたれかかられて嬉しいことなんてなかったし、多分相手が佐山じゃなかったら容赦なく床に突き飛ばしていたところだろう。
しかし秋口はそうせず、あやすように佐山の背中を叩いた。
「……秋口見てると、羨ましいんだ……すごく憧れる」
いつも以上にゆっくりとした、たどたどしい語調で佐山が呟いている。吐息が、ネクタイを緩めた首元に掛かって、秋口は少し身じろいだ。
心臓が鳴っていた。
秋口は跳ね上がる鼓動を押さえて、そっと、佐山の様子を窺おうと身じろぎした。途端、その体勢が床に崩れそうになるのを、慌てて支え直した。
「格好いいし、男らしいし、背は高いし……」
「それはさっき聞きました」
すっかり酔っ払いの譫言になっている佐山に、どぎまぎしつつ、それを悟られないよう努めて冷静な声で秋口は言った。
「何度でも言うよ」
佐山が小さく笑う。
その手が自分のシャツの背中を掴む感触がして、秋口は驚いた。
シャツの布たった二枚を隔てた、自分たちの肌の近さに思い至って、秋口の理性がぐらりと揺れる。
(……って、男相手に何をこんな)
どうしてこんなことになってしまったのか、秋口は佐山の部屋を訪れたことを後悔した。
相手が佐山でも、散らかりきった部屋でも――こんな雰囲気になって、それをぶち壊すことができなくなってしまう。今まで秋口がそんなことをしたことはなかった。
こんなふうに、相手が無防備に自分への好意を表している状態で。
自分がそれを不愉快だと感じているわけでもなく。
むしろ、嬉しいなどと思った上、相手の様子に微かな緊張まで感じているというのに。
「……佐山さん」
自分の頭にも、たしかに酒が回っていることを自覚しつつ、秋口はそっとその耳許に囁いた。
「佐山さん、俺のこと好きなの?」
相手が自分に向ける、単なる好意以上の感情に、どうしてこれまで気づかなかったのか。秋口は自分の間抜けさに驚いた。
たとえ普段はまったく気づかなかったとしても、今こうして佐山が全身で向ける自分への感情が、わからないほど恋愛に対して秋口は無知じゃない。
「うん」
呆気ないほど素直に、佐山が頷いた。
「……マジで?」
訊ねてみたものの、まさかあっさり肯定されるとは思っていなかった。
佐山はもう、安心しきったように自分にすべての体重を預けている。佐山の体は軽くて骨張っていて、女みたいに柔らかくはないが、その服や髪に染みた煙草の匂いに、うっすら汗ばんだ肌の感触に、秋口はたしかな官能を感じた。
(待て、この人、男だぞ)
男が好きな男なんて、これまで嘲笑の対象でしかなかった。これまで二度ほど、そういう手合いに言い寄られたことがあるが、両方こっぴどく侮蔑的な言葉で突き放して、二度と自分に近づけようとはしなかった。
なのに秋口は今、佐山のことを突き放そうなんて気分すら、まったく起こらなかった。
「……佐山さん」
体がずり落ちないように、両腕でその背を支えつつ、秋口は慎重に佐山に呼びかけた。
「あの、今のは」
訊ねる途中、秋口は軽く眉を寄せ、口を噤んだ。
「……」
首筋に当たる暖かな吐息は、紛れもなく、寝息だ。
「……寝てやがる」
慣れない酒は、佐山をあっという間に眠りのふちに引きずり込んでしまったらしい。
秋口は深々と息を吐き出した。
ほっとしたような、とてつもなく困惑したような、何とも形容しがたい気分だった。
秋口は生まれて初めてこんな問題でこんなふうに途方にくれ、眠ってしまった佐山を叩き起こすこともなく、その体を抱くようにただただ座りこけていた。
「でも、いいのか。俺とばっかり食べに行って……その、他の人の約束とか」
会社に向かって並んで歩きつつ、佐山が遠慮がちにそう言った。佐山を最初に誘った日以来、秋口は他の人間と夜に出かけたことがない。同じ会社の女子社員も、メールや携帯電話で連絡を取り合うような他の相手も、声をかけられてもすべて上手く断った。今のところ沙和子を落とせないのなら秋口にとって意味はなく、沙和子に声をかけられても怒って睨まれてしまうのだから仕方がない。
(でもこれ、いつまでやってりゃいいんだ?)
沙和子と佐山が縒りを戻すことを場当たり的に阻止することはできても、結局沙和子の不興を買うだけで、彼女の中で秋口の株が上がるわけもない。むしろ下がる一方だ。
沙和子が佐山のことを諦めるまで佐山を誘い続けるしかないのか、と秋口はいささかげんなりしつつ、今日も佐山と一緒にいつもの店へと向かった。
「あれ、何だかものすごく並んでないか?」
ビルに入り、店のある二階へ向かう途中の階段に、客が行列を作っていた。これまで多少店の中で待たされることはあっても、外にまで客が列を成しているところなんて秋口は初めて見た。隠れ家的な穴場だったのだ。
「申し訳ございません、一時間ほどお待ちいただくことになると思いますが……」
客の名前を順番にメモしている店員が、秋口たちに声をかけてきた。何でも、雑誌に紹介されたために、昨日から急激に客が増えてしまったらしい。
「どうします?」
秋口が訊ねると、佐山が困惑げに「うーん」と眉を顰めた。
「一時間も待つのは、ちょっとなあ……もう結構遅いし」
「他に行きますか? 金曜だし、どこも混んでると思いますけど」
「でも、その店もそろそろ終わりじゃないか?」
腕時計を見ながら佐山が言った。秋口の方の仕事が伸びてしまったから、会社を出た頃はもう九時を回っていたのだ。この店は深夜まで営業しているが、オフィス街なので、それ以外の店はそろそろラストオーダーの時間だろう。
「でも俺、だいぶ腹減ってるんですよね。腹に何か入れないと、家に帰るまでに電車でぶっ倒れそう」
「チェーン系の居酒屋なら、ちょっと待てば入れるかもしれない」
「いや、それは勘弁。あの安っぽい味駄目なんですよ」
割合味にうるさいタチなので、秋口はテレビコマーシャルでさんざん宣伝しているような、薄利多売の居酒屋が嫌いだった。ろくな味だったためしがない。
「新宿辺り出ても、どうせ混んでるだろうしな……」
思案する佐山を見ていた秋口は、思いついて口を開いた。
「そうだ、佐山さんち、ここから近いでしょう。この駅からちょっと外れたところに、結構美味い惣菜置いてるスーパーがあるんですよ、遅くまでやってる。そこで買っていけばいい」
「えっ」
あからさまなほどぎょっと驚いた顔で、佐山が時計から秋口に視線を移す。
「うち……いや、でも、すごく散らかってるぞ?」
「座れるところがあれば気にしませんよ。十五分で着くんでしょ? 新宿出て駅からうろうろするより早い」
「う、うーん……」
「俺が行ったら、迷惑ですか」
煮え切らない様子の佐山に、秋口は少し強引な語調で訊ねた。それでも、意外に頑固な佐山のことだから、半分くらいは「急にそんなこと言われても」と断られることを覚悟した。覚悟しておけば、不意打ちに突っぱねられて腹を立てることもない。
「……まあ……本当にものすごく散らかっててもいいなら」
だが、佐山は長い時間考えた後にようやく頷いた。それに少し驚きつつ、どことなく嬉しくなって、秋口は頷きを返す。
「じゃ、行きましょう。本当に美味いんですよ、そこ」
秋口の案内でそのスーパーに向かい、ふたりで買い物カゴをぶら下げてあれこれ食料や飲み物を買った。
「秋口は結構、食い道楽なんだな」
料理を吟味してはカゴに放り込むのは秋口の役目で、佐山はただそれを興味深そうに眺めている。
「母親が料理上手なんですよ、料理教室とか開いてるし。小さい頃から舌が慣らされちゃって、滅多なものは受けつけない」
「ブルジョア……」
「ってほどでもないと思うんですけどね」
すべて秋口が選んだ商品で会計をすませ、代金は折半した。ふたりしてスーパーのビニール袋を片手にぶら下げて、会社最寄りの駅へと戻る。
「でも秋口、電車大丈夫か」
電車に乗り込む頃には、十時近くになっていた。これから食事をして酒を飲んで、といっても、それほど時間がない。
「まあ最悪タクシーで。それとも泊めてもらおうかな」
冗談めかして言った秋口は、佐山が予想を超えて困り果てた顔になっているのに、ひそかにショックを受けつつ笑って見せた。こうまでわかりやすく嫌がられるとは。
「冗談ですよ、そこまで図々しくありません」
佐山は曖昧な笑顔で頷いた。ほっとしているようにも見えた。
(何だ。少しはうち解けたってことでもないのか)
立て続けに一緒に食事をして、それなりに会話も交わして、勝手に親しくなった気になっていた。自分が佐山に好意を持って近づいたわけではないにしろ、佐山の方はそういう自分をゆったり受け入れているふうに見えていたのだが。
(誰にでもこうなだけか?)
後輩の強引な誘いを断れないだけの先輩――という図式を思い浮かべて、秋口は勝手に落胆した。
「この駅」
少し混み合った電車の中、会話を弾ませることもなくいたら、佐山が停車駅の少し前で口を開いた。頷き、秋口は停まった駅で佐山と一緒に電車を降りる。
「歩いてすぐだから」
そう佐山が言ったとおり、彼の住んでいるマンションは駅から五分ほどの立地だった。近くにはコンビニエンスストアや、もう閉まってしまったがスーパーマーケットや書店、CDショップが並び、住みやすそうな街だ。
「いいとこ住んでますね」
「うん、気に入ってる。こっちだよ」
三階建ての煉瓦造りのマンションが、佐山の住処だった。暗いのでよくは見えなかったが、年季が入っている割に手入れの行き届いた建物のようだった。管理人室はもう閉まっているが、セキュリティが入っていて、ビデオカメラが作動している。エントランスは明るい。
佐山の案内で、秋口は二階の南端に当たる部屋へ向かった。ワープロ打ちの文字で「SAYAMA」と綺麗に表札が出ている。
「えーと、本当にすごいから」
そう言いながら佐山が鍵を開けた時も、秋口は「まあ大袈裟に表現しているのだろう」と思っていた。
しかし実際、佐山の部屋はすごかった。
「……わー……」
玄関で立ち往生し、秋口は我知らず、驚きか、感嘆かわからない声を発した。
多分広めの1DK。玄関から入ってすぐがダイニングキッチンだ。
しかしそのダイニングキッチンには、うずたかく本が積まれ、雑誌が積まれ、それが雪崩を起こし、溜まりきった新聞がヒモで括られもせず新聞入れに放り込まれ、ダイレクトメールは散乱し、これからクリーニングに行くらしい服とクリーニングから帰ってきたらしい服がダイニングテーブルと椅子の上を占拠している。本と服に埋まってテレビやコンポが見えて、CDがなぜかケースにも入らず、佐山のつけた照明を反射させている。
「うーん」
足も踏み場もない、とはよく言ったもので、佐山は腰に手を当てて秋口と一緒に部屋の惨状を眺めた後、おもむろに足であちこちの荷物を払いのけ始めた。
「い、いや、佐山さん。手でやりましょうよ」
「とりあえず、獣道を作らないと」
「獣なのか」
わけのわからないところで秋口は感心した。しかし佐山が作った細い通り道は、たしかに獣道と表現するのに相応しいものだった。
泊めてもらおうか、と自分が言った時の佐山の態度は、もしかしたら泊まって迷惑ということではなく、単純にもうひとりが寝るような場所がないという意味だったのでは――と秋口は察した。
「……これだけ散らかってても、台所は綺麗なんだな」
そしてそのことに秋口はまた感心する。シンクには汚れた皿ひとつ残っていないし、洗いカゴの中は空っぽだ。レンジの上にはやかんひとつ。その他食料も調味料も見あたらないが、もしかしたらきちんと整理してしまってあるわけではなく、そもそもそれらがこの部屋には存在していないのではと秋口は予測を立てた。
「佐山さん、自炊って全然しません?」
「あ、全然まったく。全部外で済ます」
なるほどそれで、ゴミらしいゴミが見あたらないのだろう。新聞も雑誌もゴミなのかもしれないが、とりあえず飲食物に関するゴミは、ミネラルウォーターの空きボトルくらいだ。
「こっちは多少、マシだから」
率先して獣道を進んだ佐山が、奥の部屋から秋口を手招きした。
こちらは広い洋室で、ベッドや棚、ローテーブルがあった。やはりここも紙類が山積みになり、ローテーブルの上には開きっぱなしのノートパソコンがあった。
「仕事して寝るだけって感じの部屋だ」
クロゼットは開けっ放しだったが、こちらにあるのはクリーニング済のシャツとスーツやネクタイだけのようだった。
佐山はテーブルの上からパソコンを退かし、床に積まれた資料を部屋の隅に寄せて、どうにか人が座れるスペースを作った。ふたり分のスーツの上着は、皺にならないよう秋口がそっとベッドへ載せた。
「二週間前くらいまでなら、もうちょっとマシだったんだけど」
佐山に促され、秋口はネクタイを緩めながらとりあえずそのスペースに腰を下ろす。クッションや座布団などの気の利いたアイテムは見あたらなかった。
「大掃除でもしたんですか」
「御幸がな」
そしてその部屋を、佐山は二週間でここまでに育て上げたらしい。
「悪いな、本当、こんなで」
「いやー……まあ」
言葉を濁しつつ、秋口は買ってきた総菜を取り出した。
「あ、皿とか」
「このままでいいんじゃないですか、割箸もあるし」
獣道を通ってダイニングの食器棚まで向かわせるのも忍びなかったので、秋口はプラスチックのパックのまま料理を並べた。
「佐山さん、ちょっと、飲みません?」
ビニールの中から缶ビールを取り出し、秋口は佐山にそれを示して見せた。
「これすごく美味いんですよ。自宅だし、ちょっとだけなら平気じゃないですか」
「うーん……じゃあまあ、本当に少しだけ」
「残ったら俺が飲みますよ」
迷いつつ、佐山が缶を秋口から受け取った。お互いプルタブを開け、申し合わせたように缶を掲げる。
「初訪問の素晴らしい部屋に」
「悪かったな」
秋口の軽口に佐山が笑い、鈍い音を立てて缶を軽くぶつけ合ってから、ふたりしてビールに口をつけた。
「あ、本当だ、口当たりいい」
驚いて缶を見る佐山に、秋口はしてやったりの気分でにやりとした。
「アルコール度もそんなにないですし。食べながら、ほどほどに」
空腹だった秋口は総菜の片っ端から手をつけ、佐山もちびちびとビールを啜りつつ、料理を口にした。
「ひとり暮らしは長いんですか?」
食事と酒の合間に、佐山の部屋を眺めながら秋口は訊ねた。窓には素っ気ない無地のカーテン、広い壁には会社で配られたカレンダーがぽつんと貼られているだけだ。
「そうだな、大学進学してからだから……かれこれ九年くらい」
「その頃からずっとこの調子?」
「そうだなあ……ひとりになって、拍車がかかったかも。駄目なんだ、綺麗だと落ち着かなくて。それにしても散らかしすぎたって御幸にいつも言われるけどな」
「片付いてる方がむしろどこに何があるのかわからないって人もいますよね」
「さすがに会社で使うものだけは別によけてあるけど、それ以外は本当にどこにあるのかわからない」
フォローしてみたつもりの秋口の言葉に、佐山は何かを諦めたような緩い笑顔でそう呟いた。
「あれですか、片づけられない病気の人」
「なのかな。単にずぼらなだけかも」
息を吐き出した佐山の目許がほのかに赤いことに、秋口は呟いた。先刻から何度かビール缶に口をつけただけなのに、もう酔いが回り始めているらしい。
「あー……クラクラする、久しぶりだよ、酒なんて」
「大丈夫ですか?」
「うん、いい気分だ。料理も美味しいし」
笑って、佐山がテーブルの上の総菜をつつく。
「でも、変な感じだよ。あの秋口が、俺の部屋で俺の向かいで、飯喰って酒飲んで」
「『あの』って?」
どこか上機嫌に見える佐山を、くつろいだ気分であぐらをかきながら秋口は眺めた。
本当に散らかりきってはいたが、佐山の部屋は居心地がいいのが不思議だ。
「女の子にモテて、男前で、仕事もできる――」
褒められて当然のことばかりだったが、秋口の方も、佐山にそう言われるのが『変な感じ』だった。
「佐山さんがそんなふうに思ってるとは知らなかったな」
「うん?」
ビールを飲みながら、佐山が首を傾げて秋口を見返した。
「仕事、失敗したじゃないですか、俺。呆れられてると思ってた」
「あれは、たまたま……相手が悪かったよ、青木さんの時も、ああいうやり方で困ってたんだ」
「八つ当たりでひどいこと言ったし、佐山さんに」
秋口の方も、景気よく進めたビールのせいか、酔いが回ってきている。普段ならビールの一杯や二杯で酔っぱらうような軟弱な体でもないのだが、妙にいい気持ちになっている。
「そうだなあ……ちょっと、ひどいなと思ったけど」
笑って、佐山はまたビールを飲んだ。
「ちゃんと謝ってくれただろ。その上あんないい店に誘ってくれて、奢ってくれて。その後もこうやって一緒に飲んでくれて。おつりが来るよ」
佐山が少し眠たそうに瞼を指先で擦った。
「本当に酒、弱いんですねえ」
佐山の言葉にくすぐったい気分になりながら、秋口はその様子を眺める。
「横になりますか? 眠たそうだ」
「大丈夫――せっかく秋口が来てくれたのに、寝たら、悪いだろ」
そう言いつつも、佐山の瞼は重たく落ちかけている。
「……ごめん、ここのところ残業続きで、家でも仕事してたから、あんまり寝てなくて……」
「いいですよ、適当に俺、ひとりで飲んでますから」
「でも」
佐山は頑なに、それよりもくずった子供のように首を横に振っている。その仕種が妙に微笑ましくて、秋口は笑ってしまった。
「食べたら、帰っちゃうだろ」
「そりゃまあ、ここに泊まるってわけにも……」
「片づけておけばよかった」
壁に背中で寄り掛かり、ビール缶を両手で持って、佐山は大仰に溜息をついた。
「せっかく秋口が来てくれるなら、こんなみっともない部屋見せないで、御幸が掃除してくれたまま綺麗だったらよかったよ」
「そんな気にしてませんって」
「秋口の部屋は、きっと綺麗なんだろうなあ……」
秋口の返事は聞こえていない風情で、佐山はまたビールを呷った。
「佐山さん、そろそろやめといた方がよさそうじゃないですか。顔真っ赤ですよ」
「でも、気持ちいいから」
そう答えつつ、佐山の体はゆらゆらと揺れている。見事な酔っ払いだ。秋口は苦笑した。
「まだ半分も飲んでないんだよ」
ほら、と佐山が差し出した缶を、秋口は取り上げてしまった。重さでは、たしかにまだ三分の一程度しか飲んだ感じはしない。
「あー……」
缶を取られて、佐山が不満そうに顔を顰める。秋口はやっぱり笑ってしまってから、佐山が飲んでいたビールの残りを飲んだ。
「間接キス……」
「え?」
「とか言ったような言わないような……」
いまいち聞き取れない発音でむにゃむにゃと呟いて、佐山はそのまま床へ横向きに倒れ込んだ。
「ベッドで寝ますか?」
あまりに早い撃沈に感心しつつ、秋口は佐山に問いかけた。
「遠い」
ベッドは秋口の背中の方にある。
「運びますよ」
「重いよ」
「まさか。そんなガリガリの体しておいて」
これならふっくらした女を運ぶ方が辛いだろう。
「駄目なんだよ、肉がつかない体質で……」
床に転がったまま、佐山が眼鏡の向こうの瞼を閉じた。
「小さい頃、全然食事をしない時があって。成長期にそんなことしたから、こんな体になったんだ」
「食事をしないって、何でまた」
佐山が気持ちよさそうなので、秋口はベッドに運ぶことは見送ってビールを飲んだ。
「何でだっけ……」
佐山の声は、もう半分眠っている。
「体力をつけようと思って、運動もしたけど、筋肉はつかないし背は伸びないし……秋口みたいになりたかった」
「俺ですか」
「そう。背が高くて、手足もしっかりしてて、足なんかすごく長くて」
佐山の手放しの褒めように、秋口はやっぱりこそばゆい気分になった。そんな褒め言葉なんて、他の人たちから言われ慣れているはずなのに。
「おまけに男前だし、声も低くてよく響くし、サラリーマンなんかやめて、役者やったって不思議じゃないくらい」
「褒めすぎですよ」
酔っ払いの戯言だと知りつつ、秋口は無性に照れ臭くなってわざと眉を顰めた。もちろん、目を閉じている佐山に見えるはずもなかったが。
「男親がいないから、そういうの、憧れるんだ。秋口が俺の親父だったらよかったなあ……」
「親父か。俺、佐山さんより年下なんですけど?」
「そう、年下なのにやたら格好いいし、いつも美人と一緒にいるし……俺はきっと彼女たちに恨まれてるだろうな」
「佐山さん、眼鏡外した方がいいんじゃないですか。歪みますよ」
「うん」
子供みたいな素直さで頷いたものの、佐山は寝転がったまま動こうとはしなかった。床に押しつけた顔で、眼鏡のフレームが変形しそうになっている。秋口はひとつ溜息をつくと、テーブルの横を回って、積まれた書類を倒さないように気をつけながら佐山の近くに膝行った。
「取りますよ」
一声かけて、秋口は佐山の顔からそっと眼鏡を取った。
その時、不意に佐山が瞼を開き、秋口は自分でも奇妙だと思うほど動転した。
佐山は眠気とアルコールで潤んだ目で、秋口のことを見上げて、笑った。
「秋口は、優しいな」
「たかが眼鏡取っただけじゃないですか」
「じゃあ、意地悪だな」
「どっちですか」
小さく体を揺らして、佐山が笑っている。酔っ払いめ、と思いながら、秋口は佐山のネクタイに手をかけた。
「ほら、せめて着替えて、ベッド入ってください。俺そろそろ帰りますよ」
「……駄目だって」
「何が」
「まだ帰っちゃ駄目だよ、来たばっかだろ」
不満げに自分を睨みつけた佐山の眼差しに、秋口はまた動揺する。
年上の、いつも眼鏡でおまけに腕カバーの、いまいち冴えない、しかも男を、一瞬でも色っぽいとか可愛いだとか思うなんて。
どうかしている。
「でも佐山さん、眠たいでしょ」
「起きる」
佐山は両手を床について、体を起こそうとした。だが、横座りの格好で起き上がったところで眩暈がしたらしく、そのまま後ろに倒れそうになり、秋口は慌ててその背中を押さえた。あやうく壁に頭を激突させるところだった。
「酒に弱いって、本当は酒癖が悪くて営業向いてなかったんじゃないですか」
「そうだよ、秋口みたいに口が上手いわけじゃないし」
ふう、と大きく息を吐き出しながら、今度は前に倒れそうになる佐山の体を、仕方なく秋口は抱き込むように支えた。佐山の頭の重みが肩に来る。
本当なら、男にもたれかかられて嬉しいことなんてなかったし、多分相手が佐山じゃなかったら容赦なく床に突き飛ばしていたところだろう。
しかし秋口はそうせず、あやすように佐山の背中を叩いた。
「……秋口見てると、羨ましいんだ……すごく憧れる」
いつも以上にゆっくりとした、たどたどしい語調で佐山が呟いている。吐息が、ネクタイを緩めた首元に掛かって、秋口は少し身じろいだ。
心臓が鳴っていた。
秋口は跳ね上がる鼓動を押さえて、そっと、佐山の様子を窺おうと身じろぎした。途端、その体勢が床に崩れそうになるのを、慌てて支え直した。
「格好いいし、男らしいし、背は高いし……」
「それはさっき聞きました」
すっかり酔っ払いの譫言になっている佐山に、どぎまぎしつつ、それを悟られないよう努めて冷静な声で秋口は言った。
「何度でも言うよ」
佐山が小さく笑う。
その手が自分のシャツの背中を掴む感触がして、秋口は驚いた。
シャツの布たった二枚を隔てた、自分たちの肌の近さに思い至って、秋口の理性がぐらりと揺れる。
(……って、男相手に何をこんな)
どうしてこんなことになってしまったのか、秋口は佐山の部屋を訪れたことを後悔した。
相手が佐山でも、散らかりきった部屋でも――こんな雰囲気になって、それをぶち壊すことができなくなってしまう。今まで秋口がそんなことをしたことはなかった。
こんなふうに、相手が無防備に自分への好意を表している状態で。
自分がそれを不愉快だと感じているわけでもなく。
むしろ、嬉しいなどと思った上、相手の様子に微かな緊張まで感じているというのに。
「……佐山さん」
自分の頭にも、たしかに酒が回っていることを自覚しつつ、秋口はそっとその耳許に囁いた。
「佐山さん、俺のこと好きなの?」
相手が自分に向ける、単なる好意以上の感情に、どうしてこれまで気づかなかったのか。秋口は自分の間抜けさに驚いた。
たとえ普段はまったく気づかなかったとしても、今こうして佐山が全身で向ける自分への感情が、わからないほど恋愛に対して秋口は無知じゃない。
「うん」
呆気ないほど素直に、佐山が頷いた。
「……マジで?」
訊ねてみたものの、まさかあっさり肯定されるとは思っていなかった。
佐山はもう、安心しきったように自分にすべての体重を預けている。佐山の体は軽くて骨張っていて、女みたいに柔らかくはないが、その服や髪に染みた煙草の匂いに、うっすら汗ばんだ肌の感触に、秋口はたしかな官能を感じた。
(待て、この人、男だぞ)
男が好きな男なんて、これまで嘲笑の対象でしかなかった。これまで二度ほど、そういう手合いに言い寄られたことがあるが、両方こっぴどく侮蔑的な言葉で突き放して、二度と自分に近づけようとはしなかった。
なのに秋口は今、佐山のことを突き放そうなんて気分すら、まったく起こらなかった。
「……佐山さん」
体がずり落ちないように、両腕でその背を支えつつ、秋口は慎重に佐山に呼びかけた。
「あの、今のは」
訊ねる途中、秋口は軽く眉を寄せ、口を噤んだ。
「……」
首筋に当たる暖かな吐息は、紛れもなく、寝息だ。
「……寝てやがる」
慣れない酒は、佐山をあっという間に眠りのふちに引きずり込んでしまったらしい。
秋口は深々と息を吐き出した。
ほっとしたような、とてつもなく困惑したような、何とも形容しがたい気分だった。
秋口は生まれて初めてこんな問題でこんなふうに途方にくれ、眠ってしまった佐山を叩き起こすこともなく、その体を抱くようにただただ座りこけていた。