こころなんてしりもしないで・第5話
自分で誘っておきながら、佐山と――というより男と差し向かいで食事、という状況を考えて秋口は気が重くなった。これが年上の美人でふたりきりというのなら、残業なんてすべて放り出しても構わないと思うのに。
特に急ぎの仕事があるわけでもなかったのに、秋口は定時の就業時間がとっくに過ぎても、自分のデスクの前でパソコンのモニタを眺めていた。
パソコンの画面で時間をたしかめれば、もう七時を回ろうとしている。お互いの仕事が終わったら、と約束をしておいたが、ぐずぐずと今日やらなくてもいい書類などを作った。このまま遅くなれば、佐山も待ちくたびれて帰ってしまうかもしれないという都合のいい希望。
少なくとも自分を待っている間は、万が一沙和子に声を掛けられたって、彼女と出かけてしまったりはしないだろう。
八時半を回ってようやく、秋口は携帯電話を手に取った。アドレス帳から佐山の名前を捜し出して、通話ボタンを押す。
五回呼び出し音が鳴って、やっぱりもう痺れを切らして帰ってしまったのだろうかと思った時、佐山が電話に出た。
『はい、佐山です』
「あー……お疲れ様です、秋口です。ええと、今仕事終わったんですけど」
『そうか、お疲れ』
「佐山さん、まだ会社です?」
『え、うん、開発に』
「そっちは仕事、どうですか」
『今日やらなきゃいけない作業は終わったから、もう出られるよ』
溜息を押し殺しつつ、秋口はエントランスで待ち合わせることにして、電話を切った。
(まあ、この時間なら、ちょっとメシ喰って酒飲んで帰ればいいか)
荷物を持って、まだ数人残っている他の社員に挨拶をすると、秋口は廊下に出た。
エントランスに辿り着くと、佐山がその隅の壁に人待ち顔で寄り掛かっている。外の方を眺めていた。秋口はゆっくり歩きながら、その横顔を見遣った。
(あの人、何であんな分厚い眼鏡してんだろ)
よほど視力が悪いのか、佐山の眼鏡のレンズは分厚い。顔も小作りなのにフレームの大きな眼鏡をしているから、どうも野暮ったく見えるのだ。
横から見ると、ちょうど眼鏡に隠れず顔のラインが見えるようになる。元々の顔の造りはそう悪くないんじゃないか、と秋口は少し驚いた。眼鏡を取って、真っ黒の髪を明るく染めたり、思い切って短くしてしまえば、ずいぶんと印象が変わるのではないだろうか。
(まあ、中身は変わらないんだろううけど)
そんなことを思いつつ、秋口は佐山の方に近づいて声を掛けた。
「すみません、お待たせしました」
秋口の声に、佐山が振り返って控えめに笑う。
「お疲れ、じゃ、行くか」
並んで会社を出ると、秋口も佐山も、もうすっかり暗いですねとか腹減ったなとか、当たり障りのないことを話しながら店の方へと歩いた。何となく会話がぎこちない。自分は乗り気じゃないし、佐山の方にしてもそうかもしれないと秋口は思った。謝って許してもらったとはいえ、先輩に向かってひどい言葉を吐くような後輩と一緒に食事するなんて、気が乗らなくて当然だ。
すでに佐山を誘ったことを後悔しながら、秋口は辿り着いた店のドアをくぐった。大通りから細い路地の方へ少し入ったビルにある、割合広くて小洒落た店だ。
「へえ、いい雰囲気だな」
店員に案内されるのを待つ間、佐山が店の中を見回してそう呟いた。それで秋口は少しだけ嬉しくなる。自分の気に入った店を褒められるのはちょっと気分がいいものだ。内装はエスニックで、暗い照明の中、木像や金属のオブジェが浮かび上がり、低く民族音楽が流れている。客はそれなりに入っているが、ざわめきは控えめだった。
「秋口、よく来るのか、こういう店」
「ちょっと前からハマってるんですよ、ここの生春巻きと海鮮焼きそばが、特に美味くて――あ、結構香草キツい料理とかありますけど。佐山さん、大丈夫ですか」
「うん、多分」
話している間にやって来たが、ふたりを窓際の席に案内した。秋口がひとりで来る時は、同じ窓際でも大抵カウンタ席だ。
フロアにはひとりの者、友達同士で数人固まったOLやサラリーマン、あとはカップルが一番目についた。その間を擦り抜けて、秋口は案内された席、木の椅子に腰かける。佐山もその向いに座った。
テーブルに置いてあったメニューは一冊きりで、秋口はふたりで見られるような向きでそのページを開いた。
「ええと、何が美味いんだっけ」
佐山が少し身を乗り出してメニューに視線を落とす。
「このスプリングロールっていうのと、あとこの焼きそば。それにカレーも美味いし、デザートも結構いけます」
「うーん、目移りするなあ」
佐山は楽しそうにメニューを眺めている。写真入りのメニューは細かく材料や調理方の説明もしてあって、どれも美味そうだった。初めて来たのなら、たしかに目移りするだろう。
「秋口は、何にする?」
「今日は豆腐野菜のフォーにしようかな。あとスプリングロール」
「俺は……じゃあ、海鮮焼きそばで」
「佐山さん飲めないんでしたっけ? 甘いもの系平気だったら、この柚子茶お勧めですよ」
「じゃ、それも」
「俺はビール頼もう。すみません!」
秋口は近くを通り掛かった店員を呼び、佐山の分もてきぱきと注文をすました。少し待つと、ビールと柚子茶がやってくる。
「へえ、焼き物のタンブラーなんだ」
テーブルに載せられたビールタンブラーを見て、佐山が感心したように呟く。
「これだと泡がきめ細かくなって、美味いんです」
佐山は物珍しそうな様子で、秋口が傾けて見せたタンブラーを覗き込んでいる。酒は飲めないというし、営業時代もこういう店での接待はなかっただろう。
「一応、乾杯しますか?」
秋口の言葉に、佐山が笑った。
「お茶だぞ、俺」
「まあ気分で。――お疲れ様です」
「お疲れ」
瀬戸物のタンブラーとガラスのティカップで乾杯すると、佐山がますます楽しそうな笑顔を見せる。
秋口も何だか釣られて笑ってしまった。冷まし冷まし秋口がお茶を飲むのを、ビールに口をつけながら眺め。
「どうですか、それ」
「うーん……結構、かなり、甘い。でも美味い、疲れ取れそう」
猫舌だという佐山は、舐めるようにちびちびと柚子茶を飲んでいる。
(……何か)
冷たい空調の中、暖かい飲み物を飲んでほっとしたのか、佐山は少しくつろいだ様子になっていた。
(可愛いな、この人)
不意にそんなことを思ってしまってから、秋口はそんな自分に気づいてハッとした。
(可愛いって何だ、気色悪い)
男、しかも年上に対して可愛いなんて、どんな気の迷いだと自分の思考にげんなりした。
大体その男なんかと向い合って食事をすること自体、気が進まなかったはずなのに、何を釣られてくつろいだ気分になっているのか。
「秋口? 飲まないのか?」
タンブラーを手にしたまま、眉を顰めて動きを止めている秋口に気づき、佐山が不審そうに呼びかけてきた。
「疲れてるみたいだけど、大丈夫か」
黙り込んでしまった秋口に、体調が悪いのかと気遣った佐山が訊ねてくる。きまり悪い心地になって、秋口は「いや……」と曖昧に答えてビールを飲んだ。
「営業は大変だもんな、歩き回らなくちゃいけないし。秋口は家、どの辺だっけ。通勤大変じゃないか?」
「電車で、一回乗り換えて、何だかんだで四十分くらい掛かるかな。まあ楽な方ですよ、電車乗ってる時間自体は二十分くらいだし。佐山さんは?」
「俺は電車で十五分くらい。会社から近いとこ選んだから」
どうやら佐山はひとり暮らしらしい、とその言葉で秋口は察する。
「御幸さんも近くに住んでるんですか」
「御幸? いや、あいつは結構遠いよ、実家住まいだから、そろそろ会社の近くに引っ越したいって言ってるけど、楽だからなかなか踏み切れないって言ってたな」
「ああ、わかります、ひとりの方が気楽だけど、掃除とか洗濯とか料理とか面倒な時なんかは実家はよかったって思う」
「秋口、自分でそういうのやるのか?」
佐山が少し驚いたように言って、秋口はその反応になぜだかムッとした。どうしてかは自分でもわからない。腹が立ったというより、奇妙な羞恥心のようなものを感じたようだ。
「そりゃ、連れ込んだ女の子に毎日全部やらせるわけじゃないですよ。自分でできます」
「あー……そっか……」
佐山の方は、腑に落ちたような、そうでもないような、微妙な感じで頷いている。
「佐山さんは? 何か結構、几帳面にやりそうだけど。掃除とか」
訊ねると、佐山は秋口から視線を逸らし、微かに遠い目になった。
「掃除機が、もはやどこにあるのか……」
「……ひょっとして、真逆ですか」
予想外の反応に、秋口がおそるおそる訊ねると、神妙な顔で頷かれてしまった。
「たまに御幸が遊びに来た時に、発狂される」
「そこまでカオスなのか……」
「片付いてると、何となく不安になるんだよ。まあ、単にずぼらだっていうのもあるんだけど」
「意外だ……だって佐山さんの机、結構片付いてるじゃないですか」
「会社はまた別なんだよ。仕事するには整理整頓されてる方が効率いいだろ。でも、自分のテリトリーっていうか、縄張りの中では、カテゴリ関係なく物に囲まれてたいっていうか。とにかく、捨てるのが苦手なんだよ」
「ふうん。割と、物に執着がある方です?」
「だな。きっとこれはもう使わないなと思っても、思い出が残ってるから捨てられない」
話しているところに、料理を持った店員がやってきた。しばらくその料理に舌鼓を打つことで会話が中断する。佐山が料理を手放しで褒めるから、この店に連れてきた秋口がやっぱり誇らしくなってしまう。
「で――さっきの話」
フォーを箸で摘まみつつ、秋口は話題を元に戻した。
「部屋散らかってるって、それじゃ彼女も呼べないんじゃありません」
探りを入れるつもりで訊ねた秋口に、佐山が苦笑を返した。
「残念ながら、片づけてくれるような人にも心当たりがないし」
「そういうの、欲しくないんですか? 便利でしょ」
「うーん……あんまり他人に自分のもの弄られるのは得意じゃないし。それに、つき合ってるとしても、だからって掃除をしてくれてあたりまえってわけじゃないだろ。恋人であって、家政婦じゃないんだから」
至極まっとうな意見だ。恋人じゃなくたって、掃除も洗濯も料理もしてもらって当然と思っている秋口には、少々耳が痛い。
「まあ俺も、勝手に自分のものいじられたら、気分悪いですけどね」
つけ足しのよう言った秋口の言葉は嘘でもない。一度寝ただけで、恋人面して部屋に居座り、勝手に自分のものをあちこち弄り回すタイプの女は苦手だった。こちらから頼んでやってもらう分には何とも思わないのだが。
「でもまあ、うちは母親と姉が勝手に部屋掃除するタイプだったから、耐性はついてるのかも。家族の場合は、ちゃんと俺が触ってほしくないところわかっててくれるから、楽だったんですけど」
「いいご家族だな」
佐山が微笑した。少し喋りすぎたかもしれないと、秋口はほのかに悔やむ。秋口は割合自分の家族が好きだったから、マザコンなり、ファザコンなり、シスコンなりと思われたらばつが悪い。実際そうであると自覚している分。
「佐山さんのところは? 兄弟とか、いないんですか」
佐山の方の言質も取ればおあいこだと、妙な対抗意識で秋口はそう訊ねた。
佐山が焼きそばを摘んでいた箸を留め、ほんのわずかだけ困ったような表情で、皿の上に視線を落とす。
「うーん……俺は、一応、ひとりっ子」
微妙な言い回しだ。秋口は訊ねてすぐ、聞かない方がいいことを聞いてしまったと後悔した。家族の話は佐山にとって鬼門なのかもしれない。そこに踏み込んでいけるほど、秋口だって無神経ではなかった。
(そういえば俺、やけに和やかにメシ喰ってるな)
不意にそう気づいて、秋口は怪訝な気分になった。
佐山のことが目障りだったからこそ、沙和子とよりを戻すなんてことがないよう、彼をここに誘ったのに。
仕事の失敗をフォローしてもらった負い目もあるが、自分が今佐山にキツイことが言えないのは、その雰囲気のせいもあるだろうと秋口は考える。佐山は終始控えめに自分の横や隣にいて、こっちを苛々させるようなことを言わない。
たまに一緒に飲みに行く男連中は、自分の手柄を自慢したり、すぐ女の話になったり、仕事の愚痴を言ってばかりで、秋口が見下すのに充分な理由があった。俺より大したことないくせに、と。
だが佐山はそういう話題を一切口にしないし、居心地がいいのだ。
(まあ……うるさくないから、いてもいいってことかな)
学生時代など、クラスに必ずひとりはこういうタイプがいて、購買に行くと言えばついでに買い物を頼んだり、他の友達が煩わしくなった時に遊びに誘った。たいてい、何もせずぼんやりそばにいるだけで、気の利いたことひとつ言うでなし、誘った秋口の方から飽きて、二度と声も掛けなくなるのだが。
(そういうことだろ、きっと)
自分を納得させて、秋口は生春巻きを口に放り込んだ。
「いい食べっぷりだなあ」
その様子を見て、佐山が感心したような声を上げた。秋口はもうフォーを平らげ、合間に摘んでいた春巻きも、あとひとつを残すところになっている。
「あ、春巻き一個食べます?」
気を利かせて秋口が勧めると、佐山が首を横に振った。
「いや、俺はもう腹一杯」
「え、それだけですか」
この店は一皿の量がそう多くはなく、大抵の人はメイン一品に、サイドメニューを一品つけている。秋口もそうだし、実はさらにデザートも追加しようかと思案していたところだった。
「本当に小食なんですね」
佐山が少し恥ずかしそうな苦笑で、箸をテーブルに置いた。
「憧れなんだけどな、秋口みたいに美味そうにたくさん料理食べる奴。ああ、足りなかったら、こっちは気にしないでもっと頼んでくれ」
お言葉に甘えて、秋口はビールのお代わりと、甘くないデザートの追加を注文した。
それからは仕事の話に移り、だがまじめな打ち合わせというわけでもなく、雑談混じりの気楽な会話をしながら秋口は料理をすべて平らげた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
言った佐山に頷いて秋口が腕時計を見ると、すでに時刻は十一時を回っていた。秋口が思ったよりずっと遅い時間になってしまった。
「あ、今日はここ、払いますから」
伝票を手に取ろうとした佐山の動きを制し、秋口はそれを横から奪った。
「いや、でも」
「――先週のお詫びってことで。受け取ってください」
殊勝に頭を下げた秋口を少しの間眺めてから、佐山が表情を綻ばせて、頷く。
「そうか、じゃあ、今日はご馳走になろうかな。ありがとう」
頑なに断られると思っていた秋口は、建前で提案したわけでもなかったので、ほっとした。佐山のような性格だったら、きっと自分の分は自分で払うと言い張って、謙虚な頑固さで譲らないと予測していたのだ。
こんな場合、気持ちよく奢らせてもらった方が、遺恨が残らなくて秋口も気が楽だ。
会計を済ませ、秋口は来た時と同じように、佐山と並んで店を出た。
「俺、こっちの駅から帰れるんで」
大通りに向かいながら、秋口は店に近い駅の方を指さして佐山にそう告げた。
「俺は向こうに戻らないとだから――じゃあここで」
「すみません、遠い方まで引っ張って来ちゃって」
「いや、すごく美味しかった、ご馳走様」
笑って言った佐山が、そのままふと目を伏せて俯いた。表情の変化に、秋口はなぜかぎくりとする。
「佐山さん?」
「こんなこというの、あれだけど……俺は秋口に嫌われてるって思ってたから」
顔を上げてもう一度秋口を見上げた佐山の表情は、照れたような、はにかむような、嬉しそうな顔をしていた。
「誘ってくれて嬉しかった、どうもありがとう」
「……いや……」
ストレートな佐山の言葉と、その表情に、秋口も釣られて無性に照れ臭い気分になってしまった。何を言い出すのかと、逆に突慳貪な声で返したくなるほど。
さすがにそれでは子供っぽすぎると思って、どうにか踏みとどまったが。
「よかったら、また来ような」
「……はい」
それでもやっぱりどこかぶっきらぼうな口調になってしまいながら、秋口は笑った佐山に向けて、そう答えた。
「じゃあ、おやすみ。また会社で」
「おやすみなさい」
佐山が踵を返し、ゆっくりと会社の方へと歩いていく。
静かに遠ざかっていく佐山の後ろ姿を、秋口は突っ立ったまま見送った。
(はい――って)
小柄なその背中を眺めながら、秋口は何だか複雑な気分だった。
(何いい返事してんだ、俺は)
別に馴れ合うつもりで誘ったわけじゃない。
でも、どうしてか、秋口はもう一度くらいは佐山と一緒に食事をしたっていいんじゃないかと、そんなふうに思った。
特に急ぎの仕事があるわけでもなかったのに、秋口は定時の就業時間がとっくに過ぎても、自分のデスクの前でパソコンのモニタを眺めていた。
パソコンの画面で時間をたしかめれば、もう七時を回ろうとしている。お互いの仕事が終わったら、と約束をしておいたが、ぐずぐずと今日やらなくてもいい書類などを作った。このまま遅くなれば、佐山も待ちくたびれて帰ってしまうかもしれないという都合のいい希望。
少なくとも自分を待っている間は、万が一沙和子に声を掛けられたって、彼女と出かけてしまったりはしないだろう。
八時半を回ってようやく、秋口は携帯電話を手に取った。アドレス帳から佐山の名前を捜し出して、通話ボタンを押す。
五回呼び出し音が鳴って、やっぱりもう痺れを切らして帰ってしまったのだろうかと思った時、佐山が電話に出た。
『はい、佐山です』
「あー……お疲れ様です、秋口です。ええと、今仕事終わったんですけど」
『そうか、お疲れ』
「佐山さん、まだ会社です?」
『え、うん、開発に』
「そっちは仕事、どうですか」
『今日やらなきゃいけない作業は終わったから、もう出られるよ』
溜息を押し殺しつつ、秋口はエントランスで待ち合わせることにして、電話を切った。
(まあ、この時間なら、ちょっとメシ喰って酒飲んで帰ればいいか)
荷物を持って、まだ数人残っている他の社員に挨拶をすると、秋口は廊下に出た。
エントランスに辿り着くと、佐山がその隅の壁に人待ち顔で寄り掛かっている。外の方を眺めていた。秋口はゆっくり歩きながら、その横顔を見遣った。
(あの人、何であんな分厚い眼鏡してんだろ)
よほど視力が悪いのか、佐山の眼鏡のレンズは分厚い。顔も小作りなのにフレームの大きな眼鏡をしているから、どうも野暮ったく見えるのだ。
横から見ると、ちょうど眼鏡に隠れず顔のラインが見えるようになる。元々の顔の造りはそう悪くないんじゃないか、と秋口は少し驚いた。眼鏡を取って、真っ黒の髪を明るく染めたり、思い切って短くしてしまえば、ずいぶんと印象が変わるのではないだろうか。
(まあ、中身は変わらないんだろううけど)
そんなことを思いつつ、秋口は佐山の方に近づいて声を掛けた。
「すみません、お待たせしました」
秋口の声に、佐山が振り返って控えめに笑う。
「お疲れ、じゃ、行くか」
並んで会社を出ると、秋口も佐山も、もうすっかり暗いですねとか腹減ったなとか、当たり障りのないことを話しながら店の方へと歩いた。何となく会話がぎこちない。自分は乗り気じゃないし、佐山の方にしてもそうかもしれないと秋口は思った。謝って許してもらったとはいえ、先輩に向かってひどい言葉を吐くような後輩と一緒に食事するなんて、気が乗らなくて当然だ。
すでに佐山を誘ったことを後悔しながら、秋口は辿り着いた店のドアをくぐった。大通りから細い路地の方へ少し入ったビルにある、割合広くて小洒落た店だ。
「へえ、いい雰囲気だな」
店員に案内されるのを待つ間、佐山が店の中を見回してそう呟いた。それで秋口は少しだけ嬉しくなる。自分の気に入った店を褒められるのはちょっと気分がいいものだ。内装はエスニックで、暗い照明の中、木像や金属のオブジェが浮かび上がり、低く民族音楽が流れている。客はそれなりに入っているが、ざわめきは控えめだった。
「秋口、よく来るのか、こういう店」
「ちょっと前からハマってるんですよ、ここの生春巻きと海鮮焼きそばが、特に美味くて――あ、結構香草キツい料理とかありますけど。佐山さん、大丈夫ですか」
「うん、多分」
話している間にやって来たが、ふたりを窓際の席に案内した。秋口がひとりで来る時は、同じ窓際でも大抵カウンタ席だ。
フロアにはひとりの者、友達同士で数人固まったOLやサラリーマン、あとはカップルが一番目についた。その間を擦り抜けて、秋口は案内された席、木の椅子に腰かける。佐山もその向いに座った。
テーブルに置いてあったメニューは一冊きりで、秋口はふたりで見られるような向きでそのページを開いた。
「ええと、何が美味いんだっけ」
佐山が少し身を乗り出してメニューに視線を落とす。
「このスプリングロールっていうのと、あとこの焼きそば。それにカレーも美味いし、デザートも結構いけます」
「うーん、目移りするなあ」
佐山は楽しそうにメニューを眺めている。写真入りのメニューは細かく材料や調理方の説明もしてあって、どれも美味そうだった。初めて来たのなら、たしかに目移りするだろう。
「秋口は、何にする?」
「今日は豆腐野菜のフォーにしようかな。あとスプリングロール」
「俺は……じゃあ、海鮮焼きそばで」
「佐山さん飲めないんでしたっけ? 甘いもの系平気だったら、この柚子茶お勧めですよ」
「じゃ、それも」
「俺はビール頼もう。すみません!」
秋口は近くを通り掛かった店員を呼び、佐山の分もてきぱきと注文をすました。少し待つと、ビールと柚子茶がやってくる。
「へえ、焼き物のタンブラーなんだ」
テーブルに載せられたビールタンブラーを見て、佐山が感心したように呟く。
「これだと泡がきめ細かくなって、美味いんです」
佐山は物珍しそうな様子で、秋口が傾けて見せたタンブラーを覗き込んでいる。酒は飲めないというし、営業時代もこういう店での接待はなかっただろう。
「一応、乾杯しますか?」
秋口の言葉に、佐山が笑った。
「お茶だぞ、俺」
「まあ気分で。――お疲れ様です」
「お疲れ」
瀬戸物のタンブラーとガラスのティカップで乾杯すると、佐山がますます楽しそうな笑顔を見せる。
秋口も何だか釣られて笑ってしまった。冷まし冷まし秋口がお茶を飲むのを、ビールに口をつけながら眺め。
「どうですか、それ」
「うーん……結構、かなり、甘い。でも美味い、疲れ取れそう」
猫舌だという佐山は、舐めるようにちびちびと柚子茶を飲んでいる。
(……何か)
冷たい空調の中、暖かい飲み物を飲んでほっとしたのか、佐山は少しくつろいだ様子になっていた。
(可愛いな、この人)
不意にそんなことを思ってしまってから、秋口はそんな自分に気づいてハッとした。
(可愛いって何だ、気色悪い)
男、しかも年上に対して可愛いなんて、どんな気の迷いだと自分の思考にげんなりした。
大体その男なんかと向い合って食事をすること自体、気が進まなかったはずなのに、何を釣られてくつろいだ気分になっているのか。
「秋口? 飲まないのか?」
タンブラーを手にしたまま、眉を顰めて動きを止めている秋口に気づき、佐山が不審そうに呼びかけてきた。
「疲れてるみたいだけど、大丈夫か」
黙り込んでしまった秋口に、体調が悪いのかと気遣った佐山が訊ねてくる。きまり悪い心地になって、秋口は「いや……」と曖昧に答えてビールを飲んだ。
「営業は大変だもんな、歩き回らなくちゃいけないし。秋口は家、どの辺だっけ。通勤大変じゃないか?」
「電車で、一回乗り換えて、何だかんだで四十分くらい掛かるかな。まあ楽な方ですよ、電車乗ってる時間自体は二十分くらいだし。佐山さんは?」
「俺は電車で十五分くらい。会社から近いとこ選んだから」
どうやら佐山はひとり暮らしらしい、とその言葉で秋口は察する。
「御幸さんも近くに住んでるんですか」
「御幸? いや、あいつは結構遠いよ、実家住まいだから、そろそろ会社の近くに引っ越したいって言ってるけど、楽だからなかなか踏み切れないって言ってたな」
「ああ、わかります、ひとりの方が気楽だけど、掃除とか洗濯とか料理とか面倒な時なんかは実家はよかったって思う」
「秋口、自分でそういうのやるのか?」
佐山が少し驚いたように言って、秋口はその反応になぜだかムッとした。どうしてかは自分でもわからない。腹が立ったというより、奇妙な羞恥心のようなものを感じたようだ。
「そりゃ、連れ込んだ女の子に毎日全部やらせるわけじゃないですよ。自分でできます」
「あー……そっか……」
佐山の方は、腑に落ちたような、そうでもないような、微妙な感じで頷いている。
「佐山さんは? 何か結構、几帳面にやりそうだけど。掃除とか」
訊ねると、佐山は秋口から視線を逸らし、微かに遠い目になった。
「掃除機が、もはやどこにあるのか……」
「……ひょっとして、真逆ですか」
予想外の反応に、秋口がおそるおそる訊ねると、神妙な顔で頷かれてしまった。
「たまに御幸が遊びに来た時に、発狂される」
「そこまでカオスなのか……」
「片付いてると、何となく不安になるんだよ。まあ、単にずぼらだっていうのもあるんだけど」
「意外だ……だって佐山さんの机、結構片付いてるじゃないですか」
「会社はまた別なんだよ。仕事するには整理整頓されてる方が効率いいだろ。でも、自分のテリトリーっていうか、縄張りの中では、カテゴリ関係なく物に囲まれてたいっていうか。とにかく、捨てるのが苦手なんだよ」
「ふうん。割と、物に執着がある方です?」
「だな。きっとこれはもう使わないなと思っても、思い出が残ってるから捨てられない」
話しているところに、料理を持った店員がやってきた。しばらくその料理に舌鼓を打つことで会話が中断する。佐山が料理を手放しで褒めるから、この店に連れてきた秋口がやっぱり誇らしくなってしまう。
「で――さっきの話」
フォーを箸で摘まみつつ、秋口は話題を元に戻した。
「部屋散らかってるって、それじゃ彼女も呼べないんじゃありません」
探りを入れるつもりで訊ねた秋口に、佐山が苦笑を返した。
「残念ながら、片づけてくれるような人にも心当たりがないし」
「そういうの、欲しくないんですか? 便利でしょ」
「うーん……あんまり他人に自分のもの弄られるのは得意じゃないし。それに、つき合ってるとしても、だからって掃除をしてくれてあたりまえってわけじゃないだろ。恋人であって、家政婦じゃないんだから」
至極まっとうな意見だ。恋人じゃなくたって、掃除も洗濯も料理もしてもらって当然と思っている秋口には、少々耳が痛い。
「まあ俺も、勝手に自分のものいじられたら、気分悪いですけどね」
つけ足しのよう言った秋口の言葉は嘘でもない。一度寝ただけで、恋人面して部屋に居座り、勝手に自分のものをあちこち弄り回すタイプの女は苦手だった。こちらから頼んでやってもらう分には何とも思わないのだが。
「でもまあ、うちは母親と姉が勝手に部屋掃除するタイプだったから、耐性はついてるのかも。家族の場合は、ちゃんと俺が触ってほしくないところわかっててくれるから、楽だったんですけど」
「いいご家族だな」
佐山が微笑した。少し喋りすぎたかもしれないと、秋口はほのかに悔やむ。秋口は割合自分の家族が好きだったから、マザコンなり、ファザコンなり、シスコンなりと思われたらばつが悪い。実際そうであると自覚している分。
「佐山さんのところは? 兄弟とか、いないんですか」
佐山の方の言質も取ればおあいこだと、妙な対抗意識で秋口はそう訊ねた。
佐山が焼きそばを摘んでいた箸を留め、ほんのわずかだけ困ったような表情で、皿の上に視線を落とす。
「うーん……俺は、一応、ひとりっ子」
微妙な言い回しだ。秋口は訊ねてすぐ、聞かない方がいいことを聞いてしまったと後悔した。家族の話は佐山にとって鬼門なのかもしれない。そこに踏み込んでいけるほど、秋口だって無神経ではなかった。
(そういえば俺、やけに和やかにメシ喰ってるな)
不意にそう気づいて、秋口は怪訝な気分になった。
佐山のことが目障りだったからこそ、沙和子とよりを戻すなんてことがないよう、彼をここに誘ったのに。
仕事の失敗をフォローしてもらった負い目もあるが、自分が今佐山にキツイことが言えないのは、その雰囲気のせいもあるだろうと秋口は考える。佐山は終始控えめに自分の横や隣にいて、こっちを苛々させるようなことを言わない。
たまに一緒に飲みに行く男連中は、自分の手柄を自慢したり、すぐ女の話になったり、仕事の愚痴を言ってばかりで、秋口が見下すのに充分な理由があった。俺より大したことないくせに、と。
だが佐山はそういう話題を一切口にしないし、居心地がいいのだ。
(まあ……うるさくないから、いてもいいってことかな)
学生時代など、クラスに必ずひとりはこういうタイプがいて、購買に行くと言えばついでに買い物を頼んだり、他の友達が煩わしくなった時に遊びに誘った。たいてい、何もせずぼんやりそばにいるだけで、気の利いたことひとつ言うでなし、誘った秋口の方から飽きて、二度と声も掛けなくなるのだが。
(そういうことだろ、きっと)
自分を納得させて、秋口は生春巻きを口に放り込んだ。
「いい食べっぷりだなあ」
その様子を見て、佐山が感心したような声を上げた。秋口はもうフォーを平らげ、合間に摘んでいた春巻きも、あとひとつを残すところになっている。
「あ、春巻き一個食べます?」
気を利かせて秋口が勧めると、佐山が首を横に振った。
「いや、俺はもう腹一杯」
「え、それだけですか」
この店は一皿の量がそう多くはなく、大抵の人はメイン一品に、サイドメニューを一品つけている。秋口もそうだし、実はさらにデザートも追加しようかと思案していたところだった。
「本当に小食なんですね」
佐山が少し恥ずかしそうな苦笑で、箸をテーブルに置いた。
「憧れなんだけどな、秋口みたいに美味そうにたくさん料理食べる奴。ああ、足りなかったら、こっちは気にしないでもっと頼んでくれ」
お言葉に甘えて、秋口はビールのお代わりと、甘くないデザートの追加を注文した。
それからは仕事の話に移り、だがまじめな打ち合わせというわけでもなく、雑談混じりの気楽な会話をしながら秋口は料理をすべて平らげた。
「じゃあ、そろそろ行くか」
言った佐山に頷いて秋口が腕時計を見ると、すでに時刻は十一時を回っていた。秋口が思ったよりずっと遅い時間になってしまった。
「あ、今日はここ、払いますから」
伝票を手に取ろうとした佐山の動きを制し、秋口はそれを横から奪った。
「いや、でも」
「――先週のお詫びってことで。受け取ってください」
殊勝に頭を下げた秋口を少しの間眺めてから、佐山が表情を綻ばせて、頷く。
「そうか、じゃあ、今日はご馳走になろうかな。ありがとう」
頑なに断られると思っていた秋口は、建前で提案したわけでもなかったので、ほっとした。佐山のような性格だったら、きっと自分の分は自分で払うと言い張って、謙虚な頑固さで譲らないと予測していたのだ。
こんな場合、気持ちよく奢らせてもらった方が、遺恨が残らなくて秋口も気が楽だ。
会計を済ませ、秋口は来た時と同じように、佐山と並んで店を出た。
「俺、こっちの駅から帰れるんで」
大通りに向かいながら、秋口は店に近い駅の方を指さして佐山にそう告げた。
「俺は向こうに戻らないとだから――じゃあここで」
「すみません、遠い方まで引っ張って来ちゃって」
「いや、すごく美味しかった、ご馳走様」
笑って言った佐山が、そのままふと目を伏せて俯いた。表情の変化に、秋口はなぜかぎくりとする。
「佐山さん?」
「こんなこというの、あれだけど……俺は秋口に嫌われてるって思ってたから」
顔を上げてもう一度秋口を見上げた佐山の表情は、照れたような、はにかむような、嬉しそうな顔をしていた。
「誘ってくれて嬉しかった、どうもありがとう」
「……いや……」
ストレートな佐山の言葉と、その表情に、秋口も釣られて無性に照れ臭い気分になってしまった。何を言い出すのかと、逆に突慳貪な声で返したくなるほど。
さすがにそれでは子供っぽすぎると思って、どうにか踏みとどまったが。
「よかったら、また来ような」
「……はい」
それでもやっぱりどこかぶっきらぼうな口調になってしまいながら、秋口は笑った佐山に向けて、そう答えた。
「じゃあ、おやすみ。また会社で」
「おやすみなさい」
佐山が踵を返し、ゆっくりと会社の方へと歩いていく。
静かに遠ざかっていく佐山の後ろ姿を、秋口は突っ立ったまま見送った。
(はい――って)
小柄なその背中を眺めながら、秋口は何だか複雑な気分だった。
(何いい返事してんだ、俺は)
別に馴れ合うつもりで誘ったわけじゃない。
でも、どうしてか、秋口はもう一度くらいは佐山と一緒に食事をしたっていいんじゃないかと、そんなふうに思った。