こころなんてしりもしないで・第5話
ホームを降りたところで見覚えのある横顔をみつけて、秋口は自分が佐山と同じ電車に乗ってきたことを知った。
声をかけるかどうか、迷う。
(……こないだは、言い過ぎた)
金曜日の晩、佐山に投げつけた言葉は全て八つ当たりだった。
工場にも、宮原にもどうにか連絡がついて、納期に間に合うよう手配を済ませた後、秋口を支配したのは安堵感よりも苦い後悔だった。
思い返すと、無性に自分が恥ずかしくなった。子供でもあるまいし、自分のミスを誰かのせいにして、それを庇ってくれた人に喰ってかかるなんて、無様なことこの上ない。
土日をかけて、結局自分を保つために佐山にあんな暴言を吐いたことが、ミスをしたこと以上に愚かなことだと納得して、次に顔を見たら謝ろうと思っていた。
だが、同じ会社へ向かう社員たちも多いホームで、その話題を持ち出すことがどうしてもためらわれた。肩を叩いて、挨拶をして、この間はすみません、ありがとうございましたと頭を下げればとりあえずの格好はつくとわかっているのに。
結局つかず離れずの距離で、さり気なく佐山の後ろを歩いているうちに、改札口まで辿り着いてしまった。
(よし、声掛けよう)
いつまでも自分の失態を思い悩むのも嫌だったので、さっさと謝ってしまおうと秋口が足を踏み出しかけた時、自分が声をかけるより先に佐山が振り返ったのに驚いた。
佐山の横顔がパッと笑顔になる。つられて秋口がその視線を追うと、御幸が隣に並ぶところだった。
(何だよ)
出鼻をくじかれた気分で、秋口は軽く舌打ちする。
佐山と御幸の足取りはのんびりしていて、追い越すわけにもいかず、秋口は少し離れたところからその後ろをついて歩く羽目になった。御幸のいるところで佐山に頭を下げるなんて死んでも御免だったが、かといってふたりを何喰わぬ顔で追い越して行くこともできない。
会社のビルまでは歩いて十五分ほど、面倒なことになった。知り合いに大声で声を掛けられたら気まずいことこの上ないだろう。
声がかけ辛いよう、気むずかしい表情まで作っている自分は間違いなく道化だと思った。
「……?」
何気ない素振りで見遣っていた佐山の目許が、不意に赤く染まり、秋口は驚いた。御幸を見上げて驚いたような表情をしている。
(……あの人、あんな顔もするのか)
何を話しているのかはわからないが、佐山は照れた顔になっている。
それを見下ろす御幸の表情は優しい。
囁くように御幸が佐山の耳許に唇を寄せ、佐山が笑ってその脇腹に拳を軽く突き立てる。
ごく親しい友人同士の遣り取りから、秋口はなぜか目が離せなかった。佐山の表情はくつろいだ笑顔に変わっていて、その変化に秋口の視線が奪われる。自分の前で、どこか頼りなく笑顔を浮かべる佐山とは別人のようだった。
「おはよう、秋口君」
そして急に名前を呼ばれ、ハッとしてふたりから自分の隣へ目を移す。
「ずいぶん怖い顔で佐山さんのこと睨んでるのね」
沙和子だった。
「おはようございます、今日もお綺麗ですね」
咄嗟に社交辞令を口にした秋口を、沙和子が「ありがとう」とさらっと躱す。
「佐山さんと一緒に仕事をするようになったんですってね」
「ええ、偶然ね」
佐山と御幸は仲睦まじそうに会話しながら歩いている。朝の喧噪に紛れてお互いの声が聞き取りづらいのか、佐山よりも背の高い御幸がときおり顔を佐山の方へ近づけたり、佐山が御幸を見上げたりしていた。
(本当に、仲よすぎじゃないか? あの人たち)
「他の人が担当だった仕事に、秋口君が強引に割って入ったって聞いたわ。――何考えてるの」
沙和子の口調は少し困ったようなものだった。
秋口は佐山たちから彼女にまた視線を移し、笑う。
「何って、前任の方が忙しくなったから、手助けするために申し出ただけですよ」
「佐山さんに、おかしなこと言わないでね」
「おかしなことって?」
わざと問い返すと、沙和子はますます困った顔になる。
「雛川さんが、まだ佐山さんに未練があるとか?」
「……そうよ」
思いのほかはっきりと、沙和子が秋口の軽口に頷きを返した。その潔さに秋口は驚く。
「雛川さんの方から佐山さん振ったんだって聞きましたけど」
「子供だったの。佐山さんが優しくて強いって気づけなかったこと、今は後悔してるわ」
優しいはともかく、強いという表現が佐山に使えるとは秋口は思えない。沙和子が佐山の何を見ているのか、やっぱり不思議になった。
「雛川さんが縒りを戻そうって言ったのなら、佐山さんは喜ぶんじゃないですかね」
内心の焦りと嫉妬心を抑えつつ、秋口は努めて軽い口調でそう言った。沙和子は黙り込んで何も応えなかった。
「雛川さんがその気なら、別に俺が佐山さんに何言ったって構わないでしょ、結果は同じだし」
「自分で言いたいのよ」
橋渡しなんてする気は毛頭ないのにそう言ってみた秋口に、沙和子はきっぱりと答えた。
「だから、秋口君は邪魔しないでね」
そう言い置いて、沙和子は小さく秋口に微笑みかけると、同じ総務部の女子社員をみつけてそちらへ向かっていってしまった。
(――何だよ、それは)
きっちり釘を刺されてしまった。
男として、ずいぶん虚仮にされたもんだと思う。
沙和子のことは他人の羨望を集める存在として以外興味がなかったが、それでも、だからこそ、自分を軽く扱われたことに腹が立つ。
(邪魔するなって言われると、邪魔してやりたくなるんだよな)
佐山にしても沙和子にしても、関われば苛立つだけだったから、もう全部無視したっていいのだ。なのに妙な意地のせいでそれができない。
むっつりと顔を顰めたまま秋口が前を見遣ると、佐山は相変わらず御幸と楽しそうに話していた。
自分がこんなふうに腹を立てているのに、佐山だけ脳天気に笑っているのが許せない。
(……よし)
秋口は肚の裡でひとつ決意して、会社へと向かっていった。
声をかけるかどうか、迷う。
(……こないだは、言い過ぎた)
金曜日の晩、佐山に投げつけた言葉は全て八つ当たりだった。
工場にも、宮原にもどうにか連絡がついて、納期に間に合うよう手配を済ませた後、秋口を支配したのは安堵感よりも苦い後悔だった。
思い返すと、無性に自分が恥ずかしくなった。子供でもあるまいし、自分のミスを誰かのせいにして、それを庇ってくれた人に喰ってかかるなんて、無様なことこの上ない。
土日をかけて、結局自分を保つために佐山にあんな暴言を吐いたことが、ミスをしたこと以上に愚かなことだと納得して、次に顔を見たら謝ろうと思っていた。
だが、同じ会社へ向かう社員たちも多いホームで、その話題を持ち出すことがどうしてもためらわれた。肩を叩いて、挨拶をして、この間はすみません、ありがとうございましたと頭を下げればとりあえずの格好はつくとわかっているのに。
結局つかず離れずの距離で、さり気なく佐山の後ろを歩いているうちに、改札口まで辿り着いてしまった。
(よし、声掛けよう)
いつまでも自分の失態を思い悩むのも嫌だったので、さっさと謝ってしまおうと秋口が足を踏み出しかけた時、自分が声をかけるより先に佐山が振り返ったのに驚いた。
佐山の横顔がパッと笑顔になる。つられて秋口がその視線を追うと、御幸が隣に並ぶところだった。
(何だよ)
出鼻をくじかれた気分で、秋口は軽く舌打ちする。
佐山と御幸の足取りはのんびりしていて、追い越すわけにもいかず、秋口は少し離れたところからその後ろをついて歩く羽目になった。御幸のいるところで佐山に頭を下げるなんて死んでも御免だったが、かといってふたりを何喰わぬ顔で追い越して行くこともできない。
会社のビルまでは歩いて十五分ほど、面倒なことになった。知り合いに大声で声を掛けられたら気まずいことこの上ないだろう。
声がかけ辛いよう、気むずかしい表情まで作っている自分は間違いなく道化だと思った。
「……?」
何気ない素振りで見遣っていた佐山の目許が、不意に赤く染まり、秋口は驚いた。御幸を見上げて驚いたような表情をしている。
(……あの人、あんな顔もするのか)
何を話しているのかはわからないが、佐山は照れた顔になっている。
それを見下ろす御幸の表情は優しい。
囁くように御幸が佐山の耳許に唇を寄せ、佐山が笑ってその脇腹に拳を軽く突き立てる。
ごく親しい友人同士の遣り取りから、秋口はなぜか目が離せなかった。佐山の表情はくつろいだ笑顔に変わっていて、その変化に秋口の視線が奪われる。自分の前で、どこか頼りなく笑顔を浮かべる佐山とは別人のようだった。
「おはよう、秋口君」
そして急に名前を呼ばれ、ハッとしてふたりから自分の隣へ目を移す。
「ずいぶん怖い顔で佐山さんのこと睨んでるのね」
沙和子だった。
「おはようございます、今日もお綺麗ですね」
咄嗟に社交辞令を口にした秋口を、沙和子が「ありがとう」とさらっと躱す。
「佐山さんと一緒に仕事をするようになったんですってね」
「ええ、偶然ね」
佐山と御幸は仲睦まじそうに会話しながら歩いている。朝の喧噪に紛れてお互いの声が聞き取りづらいのか、佐山よりも背の高い御幸がときおり顔を佐山の方へ近づけたり、佐山が御幸を見上げたりしていた。
(本当に、仲よすぎじゃないか? あの人たち)
「他の人が担当だった仕事に、秋口君が強引に割って入ったって聞いたわ。――何考えてるの」
沙和子の口調は少し困ったようなものだった。
秋口は佐山たちから彼女にまた視線を移し、笑う。
「何って、前任の方が忙しくなったから、手助けするために申し出ただけですよ」
「佐山さんに、おかしなこと言わないでね」
「おかしなことって?」
わざと問い返すと、沙和子はますます困った顔になる。
「雛川さんが、まだ佐山さんに未練があるとか?」
「……そうよ」
思いのほかはっきりと、沙和子が秋口の軽口に頷きを返した。その潔さに秋口は驚く。
「雛川さんの方から佐山さん振ったんだって聞きましたけど」
「子供だったの。佐山さんが優しくて強いって気づけなかったこと、今は後悔してるわ」
優しいはともかく、強いという表現が佐山に使えるとは秋口は思えない。沙和子が佐山の何を見ているのか、やっぱり不思議になった。
「雛川さんが縒りを戻そうって言ったのなら、佐山さんは喜ぶんじゃないですかね」
内心の焦りと嫉妬心を抑えつつ、秋口は努めて軽い口調でそう言った。沙和子は黙り込んで何も応えなかった。
「雛川さんがその気なら、別に俺が佐山さんに何言ったって構わないでしょ、結果は同じだし」
「自分で言いたいのよ」
橋渡しなんてする気は毛頭ないのにそう言ってみた秋口に、沙和子はきっぱりと答えた。
「だから、秋口君は邪魔しないでね」
そう言い置いて、沙和子は小さく秋口に微笑みかけると、同じ総務部の女子社員をみつけてそちらへ向かっていってしまった。
(――何だよ、それは)
きっちり釘を刺されてしまった。
男として、ずいぶん虚仮にされたもんだと思う。
沙和子のことは他人の羨望を集める存在として以外興味がなかったが、それでも、だからこそ、自分を軽く扱われたことに腹が立つ。
(邪魔するなって言われると、邪魔してやりたくなるんだよな)
佐山にしても沙和子にしても、関われば苛立つだけだったから、もう全部無視したっていいのだ。なのに妙な意地のせいでそれができない。
むっつりと顔を顰めたまま秋口が前を見遣ると、佐山は相変わらず御幸と楽しそうに話していた。
自分がこんなふうに腹を立てているのに、佐山だけ脳天気に笑っているのが許せない。
(……よし)
秋口は肚の裡でひとつ決意して、会社へと向かっていった。