こころなんてしりもしないで・第2話
総務部の雛川沙和子と言えば、同じ女子社員からすら憧れの眼差しで見られるマドンナだった。
今どきマドンナなどというふたつ名を誰もが平然と口にするくらい、彼女は本当に美人で上品で、大人の女の色香を漂わせている。彼女の声聞きたさに、総務部の内線が無駄な呼び出し音を鳴らすことも、男性社員が無駄な書類を持ってくることも、もはや社内では日常茶飯事だ。
秋口航が彼女に興味を持ったのは、特別その容姿が好みだったわけではなく、仕事上の有能さに尊敬の念を抱いたわけでもなく、ただ単に『社内で一番のいい女』だったからだ。
「ごめんなさいね、今日も早く帰らないといけないの」
外回りに向かう途中、たまたま廊下で行き会った沙和子に声をかけたら、いつもどおりの台詞が返ってきた。
たまたま、といっても、もちろんわざと総務部のあるフロアを通って歩いていたのだが。秋口のいる営業部と、彼女のいる総務部は階が違う。
「毎日そんなに早く帰って、つまらなくないですか」
両手に書類を抱え、秋口を見上げて、沙和子は実に清楚な微笑みを浮かべた。
「両親と同居ですもの。あんまり遅くに帰ったら、心配かけちゃうわ」
「責任持って送りますよ?」
秋口も、余裕の笑みで沙和子を見下ろす。
絵になるふたりをとおりすがりの社員が見遣り、男子社員はおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、女子社員はうっとり目を潤ませている。
やんわりと、しかしきっぱり誘いを断られているのに、秋口は顔色を変えることも、口惜しがる仕種をすることもない。ただ自信に溢れた眼差しで沙和子を見るだけだ。
実際、女がどうして自分の誘いを断ることなどあるのか、理解できなかった。連れて歩くには最適な見栄えの良さだし、相手を退屈させずに時間を過ごすすべも心得ている。
「もし先約があるっていうなら、話は別ですけど」
「あら、約束した相手がいるのなら、引き下がってくれるの?」
沙和子は前に立つ秋口に行き先を塞がれる格好になっているが、困った様子もない。場慣れした空気を秋口は感じた。当然だ、こんないい女がこれまでどれほどの数の男に声を掛けられてきたかなんて、想像するのも面倒臭い。
だが、彼女に今特定の相手がいないことは把握している。
「いや。そいつに話をつけて、雛川さんが面倒な思いをしないよう手回しするだけ」
沙和子はさすがに、少し呆れた顔になった。
「わたしの気持ちはお構いなしなのね」
「俺のこと好きになるなら、間にある余分な手間を減らしてやった方が親切でしょう?」
困った顔で笑い、沙和子が息を吐き出す。
「噂どおり、強引ね」
「気に懸けてくれて、どうも」
「わたしももういい歳だから、あんまり若い子のそういうところ、ついてけないのよ。疲れちゃうから」
秋口は声を上げて笑った。
「若い子って、俺と雛川さん、ふたつしか違わないでしょ」
「歳の問題じゃないのよ」
沙和子も柔らかな声で笑った。
少し秋口はムッとしたが、顔には出さず、沙和子を見下ろす。
「じゃ、お姉さん。どうしたら年下の男とつき合う気になりますか」
少しくだけた口調で言った秋口に、沙和子は笑わず、思案げに細い指先を顎に当てた。
「そうねえ……佐山さんくらいの男になったら、相手してあげてもいいわ」
「佐山? 誰?」
人の名前らしいが、秋口に聞き覚えはない。
沙和子は秋口が今まで見た中で、一番柔らかく綺麗な表情で笑った。
「開発課の、佐山さん。あなたがあの人くらい大人で優しい態度を取れたら、一度くらいお酒でも飲みに行きましょう」
それだけ言うと、沙和子は秋口の大柄な体を避けて、廊下を歩いていった。
「開発課……佐山?」
眉根を寄せて、秋口は沙和子の背中を見遣る。
記憶を巡らせても、やっぱり聞き覚えはない。技術開発部の開発課と言えば、秋口のいる営業部と同じフロアにある部署だ。
もしかしたら廊下で擦れ違ったりしたことはあるのかもしれないが、男の顔や名前なんていちいち覚えていない。さすがに同じ一課のメンツは把握しているが、同じ営業の二課だって、パッと見てすぐわかるのは御幸という先輩くらいだ。女みたいな名前で、やたら甘い顔立ちの色男だから自分と同じ程度に社内で騒がれているらしい。御幸のファンだという女子社員と話しているうち、相手が自分の方に色目を使うようになる瞬間がおもしろくて好きだった。
(御幸はともかく、佐山?)
まさか名指しで男の名前が出てくるとは思っていなかった。
秋口は腕時計をちょっと見下ろすと、すぐに踵を返して廊下を歩き出した。
今どきマドンナなどというふたつ名を誰もが平然と口にするくらい、彼女は本当に美人で上品で、大人の女の色香を漂わせている。彼女の声聞きたさに、総務部の内線が無駄な呼び出し音を鳴らすことも、男性社員が無駄な書類を持ってくることも、もはや社内では日常茶飯事だ。
秋口航が彼女に興味を持ったのは、特別その容姿が好みだったわけではなく、仕事上の有能さに尊敬の念を抱いたわけでもなく、ただ単に『社内で一番のいい女』だったからだ。
「ごめんなさいね、今日も早く帰らないといけないの」
外回りに向かう途中、たまたま廊下で行き会った沙和子に声をかけたら、いつもどおりの台詞が返ってきた。
たまたま、といっても、もちろんわざと総務部のあるフロアを通って歩いていたのだが。秋口のいる営業部と、彼女のいる総務部は階が違う。
「毎日そんなに早く帰って、つまらなくないですか」
両手に書類を抱え、秋口を見上げて、沙和子は実に清楚な微笑みを浮かべた。
「両親と同居ですもの。あんまり遅くに帰ったら、心配かけちゃうわ」
「責任持って送りますよ?」
秋口も、余裕の笑みで沙和子を見下ろす。
絵になるふたりをとおりすがりの社員が見遣り、男子社員はおもしろくなさそうに鼻を鳴らし、女子社員はうっとり目を潤ませている。
やんわりと、しかしきっぱり誘いを断られているのに、秋口は顔色を変えることも、口惜しがる仕種をすることもない。ただ自信に溢れた眼差しで沙和子を見るだけだ。
実際、女がどうして自分の誘いを断ることなどあるのか、理解できなかった。連れて歩くには最適な見栄えの良さだし、相手を退屈させずに時間を過ごすすべも心得ている。
「もし先約があるっていうなら、話は別ですけど」
「あら、約束した相手がいるのなら、引き下がってくれるの?」
沙和子は前に立つ秋口に行き先を塞がれる格好になっているが、困った様子もない。場慣れした空気を秋口は感じた。当然だ、こんないい女がこれまでどれほどの数の男に声を掛けられてきたかなんて、想像するのも面倒臭い。
だが、彼女に今特定の相手がいないことは把握している。
「いや。そいつに話をつけて、雛川さんが面倒な思いをしないよう手回しするだけ」
沙和子はさすがに、少し呆れた顔になった。
「わたしの気持ちはお構いなしなのね」
「俺のこと好きになるなら、間にある余分な手間を減らしてやった方が親切でしょう?」
困った顔で笑い、沙和子が息を吐き出す。
「噂どおり、強引ね」
「気に懸けてくれて、どうも」
「わたしももういい歳だから、あんまり若い子のそういうところ、ついてけないのよ。疲れちゃうから」
秋口は声を上げて笑った。
「若い子って、俺と雛川さん、ふたつしか違わないでしょ」
「歳の問題じゃないのよ」
沙和子も柔らかな声で笑った。
少し秋口はムッとしたが、顔には出さず、沙和子を見下ろす。
「じゃ、お姉さん。どうしたら年下の男とつき合う気になりますか」
少しくだけた口調で言った秋口に、沙和子は笑わず、思案げに細い指先を顎に当てた。
「そうねえ……佐山さんくらいの男になったら、相手してあげてもいいわ」
「佐山? 誰?」
人の名前らしいが、秋口に聞き覚えはない。
沙和子は秋口が今まで見た中で、一番柔らかく綺麗な表情で笑った。
「開発課の、佐山さん。あなたがあの人くらい大人で優しい態度を取れたら、一度くらいお酒でも飲みに行きましょう」
それだけ言うと、沙和子は秋口の大柄な体を避けて、廊下を歩いていった。
「開発課……佐山?」
眉根を寄せて、秋口は沙和子の背中を見遣る。
記憶を巡らせても、やっぱり聞き覚えはない。技術開発部の開発課と言えば、秋口のいる営業部と同じフロアにある部署だ。
もしかしたら廊下で擦れ違ったりしたことはあるのかもしれないが、男の顔や名前なんていちいち覚えていない。さすがに同じ一課のメンツは把握しているが、同じ営業の二課だって、パッと見てすぐわかるのは御幸という先輩くらいだ。女みたいな名前で、やたら甘い顔立ちの色男だから自分と同じ程度に社内で騒がれているらしい。御幸のファンだという女子社員と話しているうち、相手が自分の方に色目を使うようになる瞬間がおもしろくて好きだった。
(御幸はともかく、佐山?)
まさか名指しで男の名前が出てくるとは思っていなかった。
秋口は腕時計をちょっと見下ろすと、すぐに踵を返して廊下を歩き出した。