こころなんてしりもしないで・第4話
やり残したことがあるような気分で会社を出ると、まっすぐ自宅へ戻る気にもならず、佐山は何となく行き着けの料理屋へ足を向けた。
あまり広くも綺麗でもない、だが料理は絶品の定食屋。混み合っているのでカウンタ席へ回され、食欲はないけれど水だけというわけにもいかないので、味噌汁だけ頼んで店に妙な顔をされた。
(――さすがに)
カウンタに突っ伏し、細く息を吐き出す。
(応えたなあ……)
味噌汁がやってきても、手を着ける気にならず佐山はひたすらカウンタに額を押しつけた。後ろでは賑やかに笑いさざめく声が響いている。誰もいない部屋で夜を過ごす気にはなれず店に赴いたものの、周りの楽しげな話し声が聞こえてしまえば、自分だけ疎外されているようで無性に寂しい。
(無理矢理でも、秋口のところに居座ってやればよかったか)
取り返しがつかないくらい疎まれてしまえば、いっそもうその姿を見ようなんて気にもならないかもしれない。そんなことを思って、自分の後ろ向きさ加減を佐山はひとり嗤った。
誰かが隣に座る気配がして、こんなふうにカウンタに突っ伏していては他の客の邪魔になると、そう思ったのに佐山は億劫で起き上がる気力も湧いてこない。
「すみません、鮭定食と生」
「はーい」
聞こえた声に驚いて、佐山はやっと顔を上げた。隣には御幸がすました顔で座っていた。
「よ。味噌汁、冷めるぞ」
「御幸……何で」
御幸はおしぼりで手を拭きながら、佐山の顔を見て軽く肩を竦めた。
「飲み会、途中から顔出したんだけどさ。秋口がいなくなった後釜みたいな扱いってのも居心地悪くて、逃げてきたんだ。ろくにメシ喰えなかったからここに来てみたら、佐山がいたんだよ」
「そうだ、御幸、俺の夕飯買いに行ってくれてたんだよな。俺、おまえが帰ってくる前に出てきちゃって」
「食事は秋口に預けたぞ、会社戻るって言うから。折詰めもらわなかったか?」
「いや」
秋口がそんな荷物を持っていたかも、佐山には思い出せない。佐山が首を振ると、御幸が大仰に眉を顰めた。
「あいつ、俺の差し入れ横領しやがったな」
「ごめん、後で金」
「いいよ、もともと陣中見舞いで奢るつもりだったんだから」
御幸がポケットから煙草を取り出して咥え、佐山にも勧めてくれた。佐山はそれを受け取って一本唇に挟む。御幸がライターで火もつけてくれた。
煙草を吸って、親友の顔を見て、人心地つく。佐山はこのタイミングで御幸がやってきてくれた偶然に、心から感謝した。
「はい、生です」
店の女の子が生ビールを運んできて、それを受け取りながら、御幸が佐山の手許を見下ろす。
「おまえ、味噌汁と水だけ?」
「あんまり腹減ってなくて」
「せめて飲み物頼めよ、すみません、グレープフルーツジュースひとつ!」
御幸が勝手に佐山の分の飲み物を頼んで、すぐにやってきたそのグラスを佐山に勧めた。
「何かトラブルあったんだろ。秋口との仕事で」
秋口の携帯電話が繋がらなかったので、彼がいる店に向かった御幸と連絡を取った。秋口と話していた時、御幸もその場にいただろうから、うすうす事情は察しているのだろう。
「うん、ちょっとな、連絡ミスっていうか」
「秋口のミス?」
「っていうのか、どうなのか……」
佐山はかいつまんで御幸に状況を話した。
「だから、メールでって言ったのを無視してFAX一枚入れて、向こうが確認も取らなかったってことなんだけど」
「結局秋口の落ち度ってことだよな。連絡来たのを見過ごしたんだから」
「でも、俺の方にもFAXは来てたんだから、俺のミスでもあるだろ。そう思って、連絡取れるところには秋口に断らずに取っておいたんだけど」
「逆ギレされたか?」
「……」
黙り込んだ佐山に、御幸はそれを肯定と受け取って、軽く溜息をついた。
「タイミングもあったかなあ」
「タイミング?」
「いや、佐山から電話来る前、ちょっと秋口に釘刺しておいたんだよ、俺。あんまり佐山をいじめるなってさ」
驚いて顔を上げた佐山に、御幸が軽く苦笑する。
「いろいろキツイこと言われてただろ。俺の前でだっておまえへの当て擦り言ってるのに、あいつの性格からして、おまえの前では口噤むなんてことないだろうし」
「……根本的に、合わないみたいなんだよなあ」
ジュースのグラスを手に、佐山は深々と溜息をついた。
「俺は別に、秋口に何かした覚えもないんだけど。それであの態度なら、虫が好かないっていうか、そりが合わないっていうか、そういうことなんだろうな」
御幸は「秋口は男相手なら誰にでもそういう態度だから」と言っていたが、それにしたって自分への風当たりがきつすぎるように佐山は思う。
「話してると、秋口が苛々してくるのが空気でわかるんだよ。そうすると焦って、何とか場を和ませようとするんだけど空振って、泥沼っていうか」
「俺は雛川さんか秋口かっていうなら、雛川さんを推すな」
溜息混じりに話していた佐山は、さらりと友人の言った言葉の意味がよくわからず、彼のことをじっと見返してしまった。
御幸も頬杖をついて、佐山のことを眺めている。
「何でここで、そういう選択肢なんだ?」
「雛川さんも、佐山のよさをちゃんと理解しないで、他の男に走ったような人だけどさ。それでも秋口が相手っていうよりは、まだしも友人として応援できる」
「……御幸?」
妙な風に、心臓が跳ね上がる。自分の気持ちを見透かしたような御幸の言葉に、佐山は緊張して、顔を強張らせた。
「佐山はもう雛川さんに未練がないみたいだから、あんまり意味のない人選かもしれないけど」
「御幸、おまえ」
「気づいちゃうんだよなあ、これが」
ひとりごとのように御幸が言った時、店の女の子が鮭定食を運んできて、御幸の前に置いた。割り箸を割って、「いただきます」と御幸が丁寧に両手を合わせる。
「当たってるだろ?」
「……何でわかったんだ」
御幸に自分の気持ちを話した覚えも、言い当てられるほど露骨な行動をした覚えもない。秋口と言葉を交わすようになったのだってここ最近のことだし、あんまり驚いてしまって、佐山は誤魔化そうという気分もなくなってしまった。
「何年友達やってると思ってんだよ。ずっと様子おかしかっただろ、急に考え込んだり、溜息ついたり、物憂げな感じだったり。だからきっとこれは恋煩いに違いないと思って、こっそり見守ってたんだよ」
「俺、そんなにわかりやすかったか?」
だとしたら恥ずかしい。佐山は何だか消え入りたい気持ちになった。万が一秋口自身や周囲の人間にまで自分の気持ちが伝わってしまっているのなら、どんな顔をして会社に行けばいいのか、もうわからない。
「いや。多分他の奴は気づきもしないだろ、俺だからわかったんだよ」
「……どういうところで?」
「視線、かな。廊下や休憩所でおまえの姿みかけた時、食堂でとか、ずっと動かないでどこかを見てるとしたら、かならずおまえの視線の先に秋口がいるんだよ。だから、ピンと来た」
「でもそんな、たまたま目に止まっただけかもしれないじゃないか。秋口は目立つし」
「誰が相手でも、佐山があんなふうに誰かをみつめることなんてこれまでなかったよ。あんなに美人の雛川さんと恋人同士になった時だってさ」
「……」
沙和子との時は、彼女の方から佐山に近づいて、それでつき合うようになった。たとえ彼女を社内でみかけたとしても、仕事中だからと、簡単に意識の外へ遣ることができた。
なのに秋口だけは駄目だった。声が聞こえると、姿が視界に引っかかると、どうしても視線で追ってしまう。あまり見ていては変に思われると、必死に目を逸らしている間も、意識しすぎて不自然な態度になりやしないかと不安だった。
「それにそもそも、顔がさ。何ていうか、恋してるんだよな」
「は……恥ずかしいな」
恋してる、なんて表現をされるなんて思ってもみなかった。佐山は何となく顔を赤らめ、グレープフルーツジュースを呷った。
「よりによって何で秋口かって、思わずにいられないわけだけど。親友としては」
「……俺もそう思うよ」
御幸が呆れる気持ちはわかる。男の目から見て、秋口の態度は最悪だ。生意気で女たらし、容姿がいいのを鼻にかけて、目上を相手に嫌味を言って平然としている。
よりによってどうして自分が秋口を好きなのかなんて、やっぱり未だに佐山自身にもわからないのだ。
「今日、トラブっただろ。それで俺はフォローしたつもりなんだけど、秋口は怒ってさ。ああ、こいつはまだまだ子供なんだなあと思ったし、責められたことは理不尽だと思ったのに――そういう相手にがっかりするとか、怒ったりするっていうより、嫌われて悲しいとか、そういう気持ちばっかり先に立つんだよな……」
グラスを額に押しつけ、冷たさを味わいながら佐山は目を閉じた。
今日が出会って一番ひどいことを言われた気がする。トロいだの貧相だの声に出したり態度で言われた時も、まだ溜息をつく程度ですんだのに、今は何だか泣けてきそうだ。
「佐山は、どうしたいんだ?」
御幸に訊ねられ、佐山は目を閉じたまま応えた。
「どうって?」
「だから、秋口とさ。好きになったのなら、気持ちを伝えるとか、それともあいつの性格に呆れて見放して嫌いになるとか」
「……どっちも、ピンと来ないなあ」
告白なんてしたところで、一笑に付されるか、気味が悪いと露骨に嫌悪を示されるか。想像するだに気が遠くなる。
いっそ嫌いになれれば楽だと思うのに、それもやっぱり不可能な気が、佐山にはするのだ。
「本当にどうして、秋口なんだろう。別に今まで男に興味持ったことなんて一度もないんだ。可愛くて気の利く優しい女の子なら会社の中だってたくさんいるだろうし、そういう子と家庭築くのが夢なのに、秋口が相手なんて不毛すぎる。どうやったら秋口のこと考えずにすむのか、誰かに教えてほしいよ」
「ま――どうやったら嫌いになれるかとか、考えちゃう時点でもう無理なんだろうけどな」
「……本当にひどいこと言われるんだ。大したことじゃないって自分に言い聞かせてたけど、やっぱりひどいこと言われてるんだよ。侮られてるのが嫌ってほどわかる。普通なら殴ったって、みんな俺の味方するだろうなってわかるくらいだ。なのに俺は、殴ろうなんて気も起こさずに、ただしょんぼりしてるんだよ。馬鹿げてる」
「理屈で計れるなら、面倒なんてひとつもないよ、佐山。美人で優しくてついでに仕事もできて、って相手をみんなが好きになるなら、それこそ世の中の男全員が雛川さんに結婚申し込むだろうし」
そう、沙和子は誰が見てもいい女だ。
(でも……沙和子の時は、こんなふうにならなかった)
相手を思って眠れない夜があるとか、何をしていても気を抜けばその人のことを考えてしまうとか、学生でもないのにそんな事態が訪れるなんて、佐山は知らなかった。
「秋口に、気持ちに応えて欲しいなんて思ってないんだ。そんなところ想像もつかないし」
「本当に?」
「え?」
佐山は瞑っていた瞼を開き、傍らの御幸を見遣った。御幸がじっと佐山のことをみていた。
「本当に、考えたことないのか? 好きになったんだから相手に想い返して欲しいとか、自分のこと考えて欲しいとか、無理だって思ってても、どこかで想像したことないのか? 一度も?」
「……」
それは佐山が必死になって蓋をしてきた『欲』だ。
気づけば辛い思いをするから、何も望んでいないし、何も求めていないと自分に言い聞かせていた願いだ。
「やめてくれよ、そんなこと、考えるようになったらますます目の前真っ暗だ」
「一生に一度くらいなら、そういう体験したっていいと思うぜ、俺は」
佐山は困って黙り込んだ。御幸が焚きつけるでもない、穏やかな口調で続ける。
「佐山がそういうの避けて、平凡で穏やかな家庭作りたいって思ってるのは、知ってるけどさ」
「……御幸」
「せっかく好きになったのに、自分からなかったことにする必要はないと思うんだよ。何ていうか……雛川さんとつき合ってた時、おまえ、必死だっただろ。ちゃんと結婚して、ちゃんと家庭作って、倖せにならなきゃって、それは普通に、誰でも自然と望むことなはずなのに、使命感っていうか、仕事みたいな感じでさ。あんな美人とつき合ってるのに、倖せな感じが全然しなかった。一生懸命倖せになろうとしてるのが、見てて俺の方も辛かったんだよ」
「……」
「今のおまえも充分辛そうだけど、でも悪くはないぜ。義務感で幸福掴もうとして不幸になるより、不幸のために不幸になる方が、よっぽどちゃんと生きてるって感じがする」
「どっちにしろ不幸になるのかよ」
御幸の言い種に、佐山はちょっと笑ってしまった。御幸も笑っていた。
「だって相手、秋口だぜ」
「だよなあ……」
考えると、途方もない気分になる。秋口に自分の気持ちが通じて、想い返してもらうことを、本当は気持ちの奥底で望まないわけではないのに想像がつかない。そういう自分たちの姿に。
「諦めきれるんなら、いいんだ。俺もあいつはお勧めしない。でも、さ。万が一、どうしても、忘れることができないっていうなら」
笑いながら、でもまじめな声で、友人が優しく佐山を唆す。
「人生一回きりって覚悟で、言い寄ったっていいと思うんだ。好きになって簡単に『やっぱり嫌い』ってなれるくらいなら、そもそもあんな面倒なの好きにはならなかっただろ」
「でも、もし気持ち伝えたとしたって、大笑いして終わりだと思うぞ」
「『今は』だろ。秋口は絶対佐山のこと誤解してるから、単純に、それで終わるのも俺は口惜しいし。せいぜい、おまえの男ぶりをあいつに見せつけてやれよ、それだけで少しは状況が変わってくると思うし」
「そうかな……」
「そうさ」
「優しいな、御幸は」
「逆だろ、優しかったら、みすみす茨の道を親友に踏ませないって」
「茨か……」
呟いた佐山に、御幸が少し慌てたようにつけ足した。
「あ、言っておくけど、相手が秋口ってことだけだからな」
「わかってるよ」
苦笑して、佐山は頷く。御幸が、たとえ自分が同性を好きな人間であったとしても、それを嘲笑うような男ではないことは佐山もよく知っている。
「変に未練が残ってずっと辛い思いするより、ズバッと突き進んでズバッと振られて来い」
「やっぱり振られるんじゃないか」
冗談めかした御幸の言葉に笑って、佐山はずいぶんと自分の心が軽くなっていることに気づいた。黙ってひとりで思い悩んでいた時よりも、御幸に笑ってもらえてすっきりする。
(そうだよな、悶々と『嫌いになれたら』なんて思うより)
好きなんだから仕方ないと、諦めてしまう方が前向きだ。
「ありがとうな、御幸」
心から感謝して佐山がそう言うと、御幸はちょっと気障っぽく肩を竦めただけで、何も応えず定食の続きを食べ始めた。
あまり広くも綺麗でもない、だが料理は絶品の定食屋。混み合っているのでカウンタ席へ回され、食欲はないけれど水だけというわけにもいかないので、味噌汁だけ頼んで店に妙な顔をされた。
(――さすがに)
カウンタに突っ伏し、細く息を吐き出す。
(応えたなあ……)
味噌汁がやってきても、手を着ける気にならず佐山はひたすらカウンタに額を押しつけた。後ろでは賑やかに笑いさざめく声が響いている。誰もいない部屋で夜を過ごす気にはなれず店に赴いたものの、周りの楽しげな話し声が聞こえてしまえば、自分だけ疎外されているようで無性に寂しい。
(無理矢理でも、秋口のところに居座ってやればよかったか)
取り返しがつかないくらい疎まれてしまえば、いっそもうその姿を見ようなんて気にもならないかもしれない。そんなことを思って、自分の後ろ向きさ加減を佐山はひとり嗤った。
誰かが隣に座る気配がして、こんなふうにカウンタに突っ伏していては他の客の邪魔になると、そう思ったのに佐山は億劫で起き上がる気力も湧いてこない。
「すみません、鮭定食と生」
「はーい」
聞こえた声に驚いて、佐山はやっと顔を上げた。隣には御幸がすました顔で座っていた。
「よ。味噌汁、冷めるぞ」
「御幸……何で」
御幸はおしぼりで手を拭きながら、佐山の顔を見て軽く肩を竦めた。
「飲み会、途中から顔出したんだけどさ。秋口がいなくなった後釜みたいな扱いってのも居心地悪くて、逃げてきたんだ。ろくにメシ喰えなかったからここに来てみたら、佐山がいたんだよ」
「そうだ、御幸、俺の夕飯買いに行ってくれてたんだよな。俺、おまえが帰ってくる前に出てきちゃって」
「食事は秋口に預けたぞ、会社戻るって言うから。折詰めもらわなかったか?」
「いや」
秋口がそんな荷物を持っていたかも、佐山には思い出せない。佐山が首を振ると、御幸が大仰に眉を顰めた。
「あいつ、俺の差し入れ横領しやがったな」
「ごめん、後で金」
「いいよ、もともと陣中見舞いで奢るつもりだったんだから」
御幸がポケットから煙草を取り出して咥え、佐山にも勧めてくれた。佐山はそれを受け取って一本唇に挟む。御幸がライターで火もつけてくれた。
煙草を吸って、親友の顔を見て、人心地つく。佐山はこのタイミングで御幸がやってきてくれた偶然に、心から感謝した。
「はい、生です」
店の女の子が生ビールを運んできて、それを受け取りながら、御幸が佐山の手許を見下ろす。
「おまえ、味噌汁と水だけ?」
「あんまり腹減ってなくて」
「せめて飲み物頼めよ、すみません、グレープフルーツジュースひとつ!」
御幸が勝手に佐山の分の飲み物を頼んで、すぐにやってきたそのグラスを佐山に勧めた。
「何かトラブルあったんだろ。秋口との仕事で」
秋口の携帯電話が繋がらなかったので、彼がいる店に向かった御幸と連絡を取った。秋口と話していた時、御幸もその場にいただろうから、うすうす事情は察しているのだろう。
「うん、ちょっとな、連絡ミスっていうか」
「秋口のミス?」
「っていうのか、どうなのか……」
佐山はかいつまんで御幸に状況を話した。
「だから、メールでって言ったのを無視してFAX一枚入れて、向こうが確認も取らなかったってことなんだけど」
「結局秋口の落ち度ってことだよな。連絡来たのを見過ごしたんだから」
「でも、俺の方にもFAXは来てたんだから、俺のミスでもあるだろ。そう思って、連絡取れるところには秋口に断らずに取っておいたんだけど」
「逆ギレされたか?」
「……」
黙り込んだ佐山に、御幸はそれを肯定と受け取って、軽く溜息をついた。
「タイミングもあったかなあ」
「タイミング?」
「いや、佐山から電話来る前、ちょっと秋口に釘刺しておいたんだよ、俺。あんまり佐山をいじめるなってさ」
驚いて顔を上げた佐山に、御幸が軽く苦笑する。
「いろいろキツイこと言われてただろ。俺の前でだっておまえへの当て擦り言ってるのに、あいつの性格からして、おまえの前では口噤むなんてことないだろうし」
「……根本的に、合わないみたいなんだよなあ」
ジュースのグラスを手に、佐山は深々と溜息をついた。
「俺は別に、秋口に何かした覚えもないんだけど。それであの態度なら、虫が好かないっていうか、そりが合わないっていうか、そういうことなんだろうな」
御幸は「秋口は男相手なら誰にでもそういう態度だから」と言っていたが、それにしたって自分への風当たりがきつすぎるように佐山は思う。
「話してると、秋口が苛々してくるのが空気でわかるんだよ。そうすると焦って、何とか場を和ませようとするんだけど空振って、泥沼っていうか」
「俺は雛川さんか秋口かっていうなら、雛川さんを推すな」
溜息混じりに話していた佐山は、さらりと友人の言った言葉の意味がよくわからず、彼のことをじっと見返してしまった。
御幸も頬杖をついて、佐山のことを眺めている。
「何でここで、そういう選択肢なんだ?」
「雛川さんも、佐山のよさをちゃんと理解しないで、他の男に走ったような人だけどさ。それでも秋口が相手っていうよりは、まだしも友人として応援できる」
「……御幸?」
妙な風に、心臓が跳ね上がる。自分の気持ちを見透かしたような御幸の言葉に、佐山は緊張して、顔を強張らせた。
「佐山はもう雛川さんに未練がないみたいだから、あんまり意味のない人選かもしれないけど」
「御幸、おまえ」
「気づいちゃうんだよなあ、これが」
ひとりごとのように御幸が言った時、店の女の子が鮭定食を運んできて、御幸の前に置いた。割り箸を割って、「いただきます」と御幸が丁寧に両手を合わせる。
「当たってるだろ?」
「……何でわかったんだ」
御幸に自分の気持ちを話した覚えも、言い当てられるほど露骨な行動をした覚えもない。秋口と言葉を交わすようになったのだってここ最近のことだし、あんまり驚いてしまって、佐山は誤魔化そうという気分もなくなってしまった。
「何年友達やってると思ってんだよ。ずっと様子おかしかっただろ、急に考え込んだり、溜息ついたり、物憂げな感じだったり。だからきっとこれは恋煩いに違いないと思って、こっそり見守ってたんだよ」
「俺、そんなにわかりやすかったか?」
だとしたら恥ずかしい。佐山は何だか消え入りたい気持ちになった。万が一秋口自身や周囲の人間にまで自分の気持ちが伝わってしまっているのなら、どんな顔をして会社に行けばいいのか、もうわからない。
「いや。多分他の奴は気づきもしないだろ、俺だからわかったんだよ」
「……どういうところで?」
「視線、かな。廊下や休憩所でおまえの姿みかけた時、食堂でとか、ずっと動かないでどこかを見てるとしたら、かならずおまえの視線の先に秋口がいるんだよ。だから、ピンと来た」
「でもそんな、たまたま目に止まっただけかもしれないじゃないか。秋口は目立つし」
「誰が相手でも、佐山があんなふうに誰かをみつめることなんてこれまでなかったよ。あんなに美人の雛川さんと恋人同士になった時だってさ」
「……」
沙和子との時は、彼女の方から佐山に近づいて、それでつき合うようになった。たとえ彼女を社内でみかけたとしても、仕事中だからと、簡単に意識の外へ遣ることができた。
なのに秋口だけは駄目だった。声が聞こえると、姿が視界に引っかかると、どうしても視線で追ってしまう。あまり見ていては変に思われると、必死に目を逸らしている間も、意識しすぎて不自然な態度になりやしないかと不安だった。
「それにそもそも、顔がさ。何ていうか、恋してるんだよな」
「は……恥ずかしいな」
恋してる、なんて表現をされるなんて思ってもみなかった。佐山は何となく顔を赤らめ、グレープフルーツジュースを呷った。
「よりによって何で秋口かって、思わずにいられないわけだけど。親友としては」
「……俺もそう思うよ」
御幸が呆れる気持ちはわかる。男の目から見て、秋口の態度は最悪だ。生意気で女たらし、容姿がいいのを鼻にかけて、目上を相手に嫌味を言って平然としている。
よりによってどうして自分が秋口を好きなのかなんて、やっぱり未だに佐山自身にもわからないのだ。
「今日、トラブっただろ。それで俺はフォローしたつもりなんだけど、秋口は怒ってさ。ああ、こいつはまだまだ子供なんだなあと思ったし、責められたことは理不尽だと思ったのに――そういう相手にがっかりするとか、怒ったりするっていうより、嫌われて悲しいとか、そういう気持ちばっかり先に立つんだよな……」
グラスを額に押しつけ、冷たさを味わいながら佐山は目を閉じた。
今日が出会って一番ひどいことを言われた気がする。トロいだの貧相だの声に出したり態度で言われた時も、まだ溜息をつく程度ですんだのに、今は何だか泣けてきそうだ。
「佐山は、どうしたいんだ?」
御幸に訊ねられ、佐山は目を閉じたまま応えた。
「どうって?」
「だから、秋口とさ。好きになったのなら、気持ちを伝えるとか、それともあいつの性格に呆れて見放して嫌いになるとか」
「……どっちも、ピンと来ないなあ」
告白なんてしたところで、一笑に付されるか、気味が悪いと露骨に嫌悪を示されるか。想像するだに気が遠くなる。
いっそ嫌いになれれば楽だと思うのに、それもやっぱり不可能な気が、佐山にはするのだ。
「本当にどうして、秋口なんだろう。別に今まで男に興味持ったことなんて一度もないんだ。可愛くて気の利く優しい女の子なら会社の中だってたくさんいるだろうし、そういう子と家庭築くのが夢なのに、秋口が相手なんて不毛すぎる。どうやったら秋口のこと考えずにすむのか、誰かに教えてほしいよ」
「ま――どうやったら嫌いになれるかとか、考えちゃう時点でもう無理なんだろうけどな」
「……本当にひどいこと言われるんだ。大したことじゃないって自分に言い聞かせてたけど、やっぱりひどいこと言われてるんだよ。侮られてるのが嫌ってほどわかる。普通なら殴ったって、みんな俺の味方するだろうなってわかるくらいだ。なのに俺は、殴ろうなんて気も起こさずに、ただしょんぼりしてるんだよ。馬鹿げてる」
「理屈で計れるなら、面倒なんてひとつもないよ、佐山。美人で優しくてついでに仕事もできて、って相手をみんなが好きになるなら、それこそ世の中の男全員が雛川さんに結婚申し込むだろうし」
そう、沙和子は誰が見てもいい女だ。
(でも……沙和子の時は、こんなふうにならなかった)
相手を思って眠れない夜があるとか、何をしていても気を抜けばその人のことを考えてしまうとか、学生でもないのにそんな事態が訪れるなんて、佐山は知らなかった。
「秋口に、気持ちに応えて欲しいなんて思ってないんだ。そんなところ想像もつかないし」
「本当に?」
「え?」
佐山は瞑っていた瞼を開き、傍らの御幸を見遣った。御幸がじっと佐山のことをみていた。
「本当に、考えたことないのか? 好きになったんだから相手に想い返して欲しいとか、自分のこと考えて欲しいとか、無理だって思ってても、どこかで想像したことないのか? 一度も?」
「……」
それは佐山が必死になって蓋をしてきた『欲』だ。
気づけば辛い思いをするから、何も望んでいないし、何も求めていないと自分に言い聞かせていた願いだ。
「やめてくれよ、そんなこと、考えるようになったらますます目の前真っ暗だ」
「一生に一度くらいなら、そういう体験したっていいと思うぜ、俺は」
佐山は困って黙り込んだ。御幸が焚きつけるでもない、穏やかな口調で続ける。
「佐山がそういうの避けて、平凡で穏やかな家庭作りたいって思ってるのは、知ってるけどさ」
「……御幸」
「せっかく好きになったのに、自分からなかったことにする必要はないと思うんだよ。何ていうか……雛川さんとつき合ってた時、おまえ、必死だっただろ。ちゃんと結婚して、ちゃんと家庭作って、倖せにならなきゃって、それは普通に、誰でも自然と望むことなはずなのに、使命感っていうか、仕事みたいな感じでさ。あんな美人とつき合ってるのに、倖せな感じが全然しなかった。一生懸命倖せになろうとしてるのが、見てて俺の方も辛かったんだよ」
「……」
「今のおまえも充分辛そうだけど、でも悪くはないぜ。義務感で幸福掴もうとして不幸になるより、不幸のために不幸になる方が、よっぽどちゃんと生きてるって感じがする」
「どっちにしろ不幸になるのかよ」
御幸の言い種に、佐山はちょっと笑ってしまった。御幸も笑っていた。
「だって相手、秋口だぜ」
「だよなあ……」
考えると、途方もない気分になる。秋口に自分の気持ちが通じて、想い返してもらうことを、本当は気持ちの奥底で望まないわけではないのに想像がつかない。そういう自分たちの姿に。
「諦めきれるんなら、いいんだ。俺もあいつはお勧めしない。でも、さ。万が一、どうしても、忘れることができないっていうなら」
笑いながら、でもまじめな声で、友人が優しく佐山を唆す。
「人生一回きりって覚悟で、言い寄ったっていいと思うんだ。好きになって簡単に『やっぱり嫌い』ってなれるくらいなら、そもそもあんな面倒なの好きにはならなかっただろ」
「でも、もし気持ち伝えたとしたって、大笑いして終わりだと思うぞ」
「『今は』だろ。秋口は絶対佐山のこと誤解してるから、単純に、それで終わるのも俺は口惜しいし。せいぜい、おまえの男ぶりをあいつに見せつけてやれよ、それだけで少しは状況が変わってくると思うし」
「そうかな……」
「そうさ」
「優しいな、御幸は」
「逆だろ、優しかったら、みすみす茨の道を親友に踏ませないって」
「茨か……」
呟いた佐山に、御幸が少し慌てたようにつけ足した。
「あ、言っておくけど、相手が秋口ってことだけだからな」
「わかってるよ」
苦笑して、佐山は頷く。御幸が、たとえ自分が同性を好きな人間であったとしても、それを嘲笑うような男ではないことは佐山もよく知っている。
「変に未練が残ってずっと辛い思いするより、ズバッと突き進んでズバッと振られて来い」
「やっぱり振られるんじゃないか」
冗談めかした御幸の言葉に笑って、佐山はずいぶんと自分の心が軽くなっていることに気づいた。黙ってひとりで思い悩んでいた時よりも、御幸に笑ってもらえてすっきりする。
(そうだよな、悶々と『嫌いになれたら』なんて思うより)
好きなんだから仕方ないと、諦めてしまう方が前向きだ。
「ありがとうな、御幸」
心から感謝して佐山がそう言うと、御幸はちょっと気障っぽく肩を竦めただけで、何も応えず定食の続きを食べ始めた。