こころなんてしりもしないで・第4話

(あれ、あの人、まだ来てないのか?)
 金曜日、仕事が終わった後に集まった営業一課と二課合同の飲み会。
 馴染みの店に揃った顔ぶれの中に、今日なぜか混じるのだと告げられていた佐山の姿がみつからなくて、秋口は何となく辺りを見回した。
「秋口くん、どうしたの?」
 テーブル席に座っているのは三十人近い人数。営業の全員が出席しているわけではないのに、他の部署の人間も紛れているから結局大勢になっている。先日声を掛けてきた巻野も、会社を出たところで白々しく偶然を装い、店では秋口の隣を確保して営業の女子社員から眉を顰められている。
 その彼女に声をかけられ、秋口は「いや」と曖昧に首を横に振った。
 佐山と仲のいい御幸の姿も店の中になかった。御幸はさほど熱心に飲み会に参加する方でもなかったので、珍しいことではないが。
(別に来たって来なくたって、どっちでもいいんだけど)
 部外者、開発課である佐山が呼ばれたのが、営業の女子社員の希望だと聞いていたので、今回の飲み会がどうなるのか少し興味はあった。いつもは大体秋口の周りに女子社員の大半が集まり、その女子社員を狙った男性社員が間に割って入り、秋口に興味のない女子社員や輪に入って行けない女子社員が少し外れたところに固まり、秋口の「おこぼれ」に興味がない男性社員も男性同士で固まり、固まり同士がたまに接触する感じ。御幸が来た場合、彼は大抵男性社員の固まりの中に入って行くので、秋口狙いの女子社員はなかなか彼のそばに行き難い。御幸が派手で積極的な女を好まないのは皆何となく察している。
 佐山が顔を出すのなら、まあ流れとして御幸と一緒に男性社員の固まりに収まるだろうが、彼を連れてこいと言った営業課の女子社員がどう出るのか見てみたい気分があった。佐山がどんなふうに女をあしらうかとか――あるいは、どんなふうにあしらわれるのかとか。
 適当な人数が集まったところで誰かが勝手に乾杯の音頭を取って、なし崩し的に飲み会が始まった。特に誰かの歓迎会とか名目のある集まりではなかったから、みんながそれぞれ勝手に料理を頼み、酒を飲み、喋り、賑やかだ。
 秋口の周りに群がる女の子たちは、皆競って秋口の皿に料理をよそったり、ビールを注いだり、話しかけたりと忙しい。秋口は適当に彼女たちに相槌を打って笑いかけながら、今日はどの子を持って帰ろうかなどと算段をまとめている。
 途中で席を立ってトイレに向かったら、入口の方からやってくる御幸と鉢合わせた。
「あれ、お疲れ様です」
「よう」
 秋口の姿をみとめ、御幸が軽く笑いかけてくる。相変わらず「王子様」みたいな様子で、秋口は彼にあまり浮いた噂がないのが不思議だった。恋人の話をまるで聞かない。もしかしたらこっそり社外の相手とつき合っているのかもしれないが。
「残業でした?」
「ちょっとな」
 飲み会が始まって、一時間近く経っている。この時間になってから御幸がわざわざ店に足を運ぶことが意外だった。もしかしたら御幸の後ろから佐山が現れるのではと思って、秋口は彼の後ろの方に視線を向けたが、ただ店員が通り過ぎていくだけだ。
「佐山さん、来ないんですか?」
「ああ、あいつも残業。腹減ったっていうから、ちょっと食べ物持って行ってやろうと思ってさ。ここの料理美味いし、持ち帰りもできるだろ」
「そのためにわざわざ?」
 秋口の驚きに、御幸は笑って頷いた。
「俺が来たの、皆には言わないでおいてくれ。今料理頼んでるところだけど、捕まったら戻れなくなりそうだし」
 たしかに、御幸が来たことを女子社員たちが知ったら、きっと無理矢理テーブルに着かせて、時間一杯まで離さないことだろう。
「しっかし、いくら友達のためっていったって、よくそこまでしますねえ」
「あいつ、放っておくと飯抜くこと多いからな。心配なんだよ」
 そういえば食が細そうだったっけ、と秋口は佐山と食堂で一緒になった時のことを思い出す。
「恋人かおふくろさんって風情ですね」
「こんなでかいおふくろじゃ、佐山も迷惑だろうけどな」
 からかうつもりで秋口が言うと、御幸は気を悪くしたふうもなく、笑って流した。穏和な彼らしい反応だ。
「佐山さんは、他人から庇われて甘やかされるのに慣れてるって感じの人なのかな。正直なとこ、俺なんか反応見てたまに苛々しますけどね。何言ってもへらへら笑ってるし、プライドあるのかなって不思議だな」
「プライド、ね」
 御幸が微笑んだまま、秋口を見返す。
「秋口はプライドっていうのが高そうだよな」
 秋口も御幸に笑い返した。
「相応ですよ」
「俺はたとえば仕事に関してちゃんとした結果を出すために、真剣に取り組むことをプライドがあるって言うと思うけどな。人間として尊敬できる」
「それ、佐山さんのことですか?」
「そうだよ」
「営業についてけなくて、胃壊したってのに?」
「何も仕事が辛くて精神的に駄目になったとか、仕事を失敗したってわけじゃない。ただ、ひどい客に下戸なのをからかわれて無理に酒を飲まされて、入院しなくちゃならなかったんだ」
 それだって男として情けないんじゃないか、とジョッキ三杯空けてもまだまだ素面に近い秋口は思った。
 それを口に出さなかったのは、やんわり微笑んでいる御幸から、静かな怒りが伝わってきたからだ。
「秋口が何をたくらんでるのかは知らないけどな」
 笑ったまま、とん、と軽く御幸が拳で秋口の胸を押す。秋口はお愛想笑いを返した。
「たくらんでるって、何ですか。おっかないな」
「T社の仕事。おまえが青木さんにねじ込んで、無理矢理引き継いだって聞いたぞ?」
「……」
「おまえだって複数口仕事持ってるだろうに、強引に変わってもらったって聞いて、不思議だったんだ。だから青木さんにたしかめたら、あの生意気な秋口が『青木さんはチーフになったんだし、新しい仕事に集中して下さい』とか殊勝なこと言ったって、感動してたぞ」
「本音言ったまでですよ、今度の仕事が成功したら、青木さん間違いなく昇進するだろうし、あの人にはお世話になってるから、恩返ししたいなって」
「そうだな、青木さんも、秋口は仕事できるからあいつになら任せられるって言ってたし。でかい仕事のチーフに任命されて緊張してたとこ、絆されたみたいな形で」
 とんとんと、もう一度御幸が秋口の胸を叩いた。
「何をたくらんでわざわざ佐山と一緒の仕事を選んだのかは知らないけど、大概にしておけよ。つまらないことに横やり入れられて仕事が滞るようじゃ、佐山もいい迷惑だ」
「人聞き悪いな。俺が佐山さんに嫌がらせでもしてるような言い種じゃないですか」
 秋口は不快になった。自分は佐山に対して思ったことを言っているだけだし、それを当人ではなくその友人からくさされるのでは、こちらこそいい迷惑だ。
「もしかして、佐山さんが御幸さんに泣きついたんですか。俺に何かされてるって」
「佐山がそんなこと言うかよ。あいつはたとえおまえにどれだけ悪口雑言吐かれたって、俺に泣きついたりしないさ」
「御幸さん、俺のこと目障りなんですか?」
 自分と御幸は社内で同じくらい女子社員にもてるし、仕事の評価も高い。だからそういう自分に難癖つけているのだろうか――と疑う秋口に、御幸はこれまでとは少々質の違う笑顔を見せた。
 哀れむような表情だと、秋口はそう気づいて瞬間的に背筋へ怒りを立ち昇らせた。
「ま……秋口が多少何か言ったところで、佐山の仕事に影響が出るほど大袈裟なことでもないかな。あいつの邪魔だけしてくれなければいいか」
「ご心配いただかなくても、青木さんと組んでた時以上に成果は出してみせますよ」
「そっか。頑張れ」
 手を離した御幸に、もっと何か言い返してやりたかったが、そのタイミングで店員が御幸の頼んだ持ち帰り用の料理を運んで来たので、秋口は口を噤んだ。
「それじゃ、俺は戻るな」
 料理を受け取った御幸が、穏やかな笑顔で秋口にそう告げた時、そのポケットの中で携帯電話の着信音が響いた。
「あれ、佐山だ」
 電話の液晶画面を見た御幸が、そう言って通話ボタンを押す。他人の会話なんて聞いても仕方がないので、秋口はそもそもの目的であるトイレに向かいかけた。
「うん、今ちょうど店。おまえの好きなれんこんの揚げ物買ったぞ。――え? 秋口? ああ、今いるけど、ここに」
 だが、自分の名を呼ばれて動きを止める。
「秋口、ちょっと、佐山から用があるって」
「俺に?」
 仕事のことだろうかと、秋口は御幸の携帯電話を受け取った。自分の電話は、そういえば鞄と一緒に席に置いてきてしまった。御幸に会わなければ、用を足してすぐ戻るつもりだったのだ。
「もしもし? 秋口です」
『ああ、ごめん、佐山です。今ちょっといいか』
 佐山の声音はいつになく真剣で、微かに重い。
 秋口はすぐに、仕事上で何かトラブルがあったのだと察した。
『T社の発注書な、今確認したけど、もしかしたら俺が受け取ったのと仕様が変わってるかもしれない』
「え? まさか、そんなはずないですよ。向こうの担当に確認してもらって、サンプルでもオッケーもらったじゃないですか」
『うん、でも、昼間に送られてきたFAX、念のためってさっき確認してたら』
「FAX? 連絡は全部、メールか電話でしてるはずですよ」
『担当の宮原さん、急ぎの用だと、FAXで送ることがあるんだ。そっちの方が確実って思ってるみたいで』
「何だそれ、俺あれほど連絡は全部メールでって事前に」
『ともかく、まだ店にいるなら、悪いけど一旦戻ってきてくれないか。もう工場に発注しちゃってるから、変更するなら今のうちにしておかないと、月曜の朝イチにでも作り始めたらまずい』
「――わかりました、すぐ戻ります」
 秋口は舌打ちしながら通話を切って、電話を御幸に返した。
「トラブルか?」
 素直に頷く気にもなれず、秋口は御幸の問いを無視した。
「俺ちょっと、社に戻ります。ああ、料理届けるなら、俺やりますよ。御幸さんはついでに飲んでいったらどうです」
 御幸と一緒に会社に戻るのは、秋口にとって避けたい事態だった。
「そうか? じゃあ、よろしく」
 御幸はあっさり頷いて、秋口は助かったと思いつつ、彼に内心を見透かされた気がして、何だか不愉快な気分にもなった。
 まるっきりの八つ当たりだと自覚していたので、辛うじて笑顔も作ったが。
「御幸さん来たら女の子たち喜びますよ、席、こっちです」
 御幸を社員たちの集まる場所へ案内し、荷物を取ると、名残惜しむ女子社員たちを置いて、秋口は店を飛び出した。
 店から会社まで小走りに進む。タクシーを使うほどの距離じゃない。秋口はすでにロックされている社員用の玄関をIDカードで通り抜け、まっさきに営業一課へと向かった。
 業務用ファクシミリの受信済用紙を漁るが、それらしきものはない。営業時間中に受け取ったFAXは事務の社員が整理して担当の社員に渡すし、今日秋口がT社から連絡を受けた覚えはなかった。終業後に届いた通信の中にもT社からのものはない。
 自分のデスクに駆け寄り、パソコンを立ち上げてメールチェックをするが、そこにも連絡は特になかった。
(ひょっとして)
 思い当たり、秋口は青木のデスクに近づくと、悪いと思いながらも勝手にその上の書類を書き分けた。青木はあまり整理上手な方ではなく、必要なのかそうでないのかおそらく本人しかわからない書類が、適当に書類入れに突っ込まれていた。
「――あった」
 商品と、ただ「ご担当者様」とだけ書かれたT社からのFAX。おそらく事務の社員が、青木の担当だと勘違いして振り分けてしまったのだろう。
 焦燥する気分で確認すると、たしかに、殴り書きで仕様変更の指示が出ていた。
「普通口頭で確認するだろう」
 ここにはいない担当者を罵り、そんな場合ではないと、秋口は急いで相手の会社に電話をかけた。しかし営業時間外のアナウンスが流れるだけで繋がらない。携帯電話も繋がらなかった。週末は金曜の夜から家族で旅行に出かけるとか話していたのに、愛想よく「羨ましいですね」なんて言った自分を秋口は思い出す。
「くそっ」
 青木の椅子を蹴り上げ、FAX用紙を握り締めて秋口は営業一課を出た。
「佐山さん」
 開発課の中に入り、ひとり残っている佐山に声を掛けると、佐山はちょうど電話中のようで、受話器を握ったまま秋口に片手を挙げて応えた。
「はい――はい、では、そのようにお願いいたします。遅くに申し訳ありません、失礼いたします」
 電話を切った佐山の元に、秋口は苛立ちながら近づいた。
「FAX、ありましたよ。青木さんとこに」
「やっぱり。俺の方に流れてきたのに、秋口からは連絡ないから変だと思ってたんだ」
 落ち着いた佐山の態度に、秋口はますます八つ当たり的に腹が立ってきた。
「担当者の名前くらい書けってんだ。大体、青木さんから引き継いだ時の挨拶で、連絡は全部メールでって念押ししておいたはずなのに」
「でもそれは、こっちの都合だろ。FAXが来たんなら、ちゃんと確認するべきだったんだ。ごめん、俺も昼間別の仕事にかかり切りだったから、こんな指示が出てると思わなくて」
 申し訳なさそうな顔でそう言ってから、佐山はモニタの画面を指さした。
「部品のサイズを変えてもう一回図面引き直したから、秋口が確認してくれたらすぐ工場に再発注するよ」
「え、再発注って、でももう工場は終わって」
「さっき連絡したら、まだ担当の人が残ってて、仕事が詰まってるから明日機械回すつもりだったって。今日中にもう一回連絡する約束で待ってもらってるから、急ごう」
「……」
 返事もなく黙り込んだ秋口に、佐山が少し首を傾げた。
「秋口?」
「それ、俺の仕事ですよね」
 佐山から電話が来て、わずか二十分にも満たない。
 自分があたふたと店から駆け戻ってきた間に、佐山が仕事相手にもう話をつけてきたことを、本当ならば感謝すべきなのはわかっていたが。
(俺だってそのくらい、できたのに)
 よりによって『この』佐山にフォローされてしまったという事実が、いたく秋口の自尊心を傷つけた。
「あ――悪い、なるべく急いだ方がいいと思って、独断で連絡取ったんだ」
 秋口の怒りを察して、咄嗟に申し訳なさそうな顔になる佐山の態度に、秋口はさらに苛立ってしまう。
 明らかに自分のミスなのはわかっている。どんな手段であろうと取引相手からの連絡を見過ごしたことは、営業として致命的だろう。青木だって、T社の担当は寸前で仕様を変えるのが好きだから気をつけろと、わざわざ何度も念押ししていた。
 わかっているのに、秋口はとても素直に礼を言う気分にはなれなかった。余計なことをしたと、庇わなくても自分がすぐにミスを取り返せたのにと、どうしても佐山を詰る方向に心が向いてしまう。
「ずいぶん手回しがいいんですね。もしかして、どうせ俺がミスするだろうって見越して待ち構えてました?」
「そんなわけないだろ。単に、俺の方が宮原さんとも工場ともつき合い長いし、やり方がわかってるだけだよ」
「俺はやり方がわかってなくてすみません。覚えておきますんで、これからは俺の許可なしに勝手なことしないで下さい。これじゃ急いで戻ってきた俺が馬鹿みたいじゃないか」
「……ごめん」
 困り切った顔の佐山を見ていたら、もっとひどいことを言って泣き顔にでもさせてやりたいと、凶暴な衝動が秋口の中に湧き上がる。
(こんなこと言われて言い返しもしないなんて、俺のこと馬鹿にしてるに決まってる)
 理不尽なことを言っているという罪悪感を隠すために、秋口はそれを佐山への苛立ちにすり替えた。
「……もう型は作ってあるらしいから、その損失分の計算も、できたら今日のうちに持って行きたいから」
 俯き加減に佐山が言った。咄嗟にそのことに思い至らなかった自分を隠すため、応える秋口の言葉はひどく乱暴な調子になった。
「わかってますって。図面できたら、佐山さんもう帰っていいですよ。後は俺が全部やります」
「でもこれは、俺の仕事でもあるから」
「そんなに俺のこと信用できないんですか?」
「……」
「何なら全部佐山さんがやりますか? そうですよね、佐山さん俺より営業経験長いらしいし。自分でやる方が安心っていうのなら」
「わかった。じゃあ、先、帰るな」
 耐えかねたように、佐山が秋口の言葉を遮って立ち上がった。秋口の方は見ず、プリンタを動かして図面を印刷している。
「何かあったら携帯、電話してくれ。何時でも待ってるから」
 そう告げた佐山に応える気にならず、秋口はFAXを確認している素振りで無視した。
 佐山が荷物をまとめ、自分の机から離れる。出口のところで気懸かりそうに振り返ったのが気配でわかったが、秋口はそれも無視した。
 静かに足音が遠ざかっていく。秋口はひどく惨めな気分でそれを聞いていた。

こころなんてしりもしないで

Posted by eleki