こころなんてしりもしないで・第2話

「佐山、客」
 呼ばれて顔を上げると、課長が入口の方を親指で差していた。
 佐山は自分のデスクの前から立ち上がり、誰だろう、と思いながら入口に向かった。あまり広くはない開発課オフィスの、パーティションで仕切られた隙間をぬって進む。あちこち資料の山が積み上げられ、デスクトップマシンやノートパソコンが作動音を響かせ、部屋の中は雑然と表現するのが一番近い。気を利かせてスチール棚の整理をしてくれたり、コーヒーを淹れてくれる女子社員はいなかったので、少ない人数なのに男所帯丸出しの場所だった。
(そろそろ大掃除が必要かもしれないな)
 開発課に移ってきた二年くらい前から、もうずっと考えていることをぼんやり思いながら、佐山はモニタと図面を見すぎて痛む瞼を眼鏡の下で押さえつつ、入口まで辿り着いた。
 今日は誰かと打ち合わせなどがあっただろうか――と思いながら手を下ろした佐山は、入口のそばに立っていたスーツ姿の顎辺りにまず目を遣った。思いのほか相手の背が高く、顔を見たつもりが鼻までしか見えなかった。
(でかいなあ)
 それでもう一段階、首を上に向けてから、佐山はそのまま動きを止めた。
 そこに立っていたのは、紛れもなく、秋口航だった。
「あれ、えっと……」
「何で腕カバー?」
 まず第一声がそれだった。一体何の用かと、驚きよりも訝しむ気持ちで問おうとした佐山は、それでますます事態が理解できなくなる。
 佐山は背広の上着を脱いで、シャツの腕に黒いカバーを掛けていた。
「図面を引く時、シャツが汚れないように」
 とりあえず質問されたのは理解できたので、そう答えた。
 秋口は眉を顰め、佐山の腕カバーから顔に視線を移している。
「で、眼鏡だし」
「近眼だから」
 佐山の眼鏡は分厚い。薄型レンズを注文しても、あまり薄くならないほど視力が悪いのだ。
「ええと、営業の?」
 なにゆえ腕カバーや眼鏡を気にされなくてはならないのか、やはり理解できないまま、佐山は秋口に訊ねた。
 間近で見ると、遠目の時よりもその男前ぶりがありありとわかって頭の芯が少し痺れる。一直線に整った太い眉、純和風の顔立ちなのに彫りが深く、口が大きい。高そうなスーツを綺麗に着こなしていたが、決して紳士には見えなかった。どこか、野性の動物っぽい空気がある。剽悍、という漢字が佐山の頭に浮かんだ。
「ああ。一課の秋口です、よろしく」
「佐山です――何か、仕事ですか」
 営業が持ってきた仕事を開発課が請け負うことは当然ある。それにしたって、その場合はまず書面が作られ、担当の挨拶から始まってミーティングルームで打ち合わせを行う手順なはずだが。
 秋口は手ぶらだった。
「そう、この間まで青木さんがやってたT社の仕事。今度から俺が引き継ぐことになったんで」
「ああ、そうなのか」
 もう一度確認したが、秋口はやっぱり手ぶらだった。
「今時間があるなら、ちょっとコーヒーでも飲みませんか。挨拶代わりに、奢ります」
 にこやかな秋口の顔を見上げてから、佐山は自分のデスクがある方を振り向いた。
 先刻まで続けていた作業が、ものの見事に途中ではあるが。
「そうだな、今ちょっと休憩しようと思ってたところだから。奢りはいいけど、つき合うよ」
 佐山は秋口と並び、廊下の隅にある休憩所に向かった。休憩所は喫煙所も兼ねていて、コーヒーやジュースの自動販売機と灰皿、ベンチが置かれている。秋口が先に自販機に向かい、小銭を入れた。
「コーヒーでいいですか」
「いや、本当に自分で買うから」
 佐山はスラックスの尻ポケットから財布を取り出し、急いで小銭を取ろうとした。が、手が滑って小銭の十枚ほどが床に散らばってしまう。
「と」
 慌てて身を屈め、小銭を拾う秋口の背に、「鈍くせ」と小さな声が聞こえた。
 つい後ろを振り返ると、秋口と目が合い、にっこり見事な笑顔を作られた。わざとらしいほどの営業スマイル。でもいい男だ。反射的に佐山も笑い返す。本当はみっともないところを見られて恥ずかしく、居たたまれない気分だった。
 コーヒーを買う秋口の隣の自販機で、佐山はホットミルクを買った。
 紙カップを取り出す姿を、コーヒーを手にした秋口にまじまじ眺められ、佐山はやはり居心地の悪い気分でそれを見返した。
「何か?」
「牛乳?」
「胃弱だから、コーヒーはなるべく飲まないようにしてるんだ」
「はー……」
 感心したように秋口が目を見開いている。
 小馬鹿にしている、と言ってもいいような表情だったが。
 佐山はホットミルクの入ったカップを手にベンチに座り、秋口はその向かいに立った。壁を背に凭せかけ、片手をポケットに突っ込みながらコーヒーを飲む姿がやたらサマになっている。佐山はミルクを冷まし冷まし、秋口の方をそっと見遣った。
 じっと自分を見下ろしている秋口とまた目が合った。
「挙句、猫舌?」
 佐山は聞こえないふりでミルクを啜った。途端舌が焼ける。そう、猫舌なのだ。
「熱ちっ」
 顔を顰める佐山を見て、秋口が声を殺して笑っていた。
「佐山さんって、俺より先の入社ですよね?」
 秋口に訊ねられ、口許をてのひらで抑えながら佐山は頷いた。
「五年目」
「今、いくつ?」
「二十七だけど」
「へえ……じゃ、俺より四つ年上か」
 思案げに呟く秋口に、佐山は内心で首を捻った。
(まあ、挨拶代わりか?)
 これから一緒に仕事をするのだ。その相手のことを少しは知っておいた方が、やりやすいと思っているのかもしれない。
 それにしては、妙に考え込む仕種なのが佐山は気になった。そしていまいち冴えない自分に呆れているのだろうと簡単に予測できてしまう。たかがコーヒーひとつ飲むのに、やたら洗練された物腰をしている秋口の方が変なのだとも思った。こうして眺めていると、まるで俳優か何かのようだ。平凡な会社の平凡な休憩室なのに、映画のワンシーンのように絵になっている。
 そんな秋口に見とれているのを悟られたらと思うと気まずくて、佐山は話題を捜した。
「そう、青木さんからの引き継ぎのことだけど」
「それはこっちでやっておきます。佐山さんは青木さんとやってた時と同じようにしてて下さい」
 話が終わってしまった。
 手持ち無沙汰で、煙草でも吸おうと佐山はポケットを探ったが、生憎デスクに置いてきてしまった。秋口に持っていないか聞こうか迷ったが、会ったなりもらい煙草ができるほど図々しくもなれない。
 秋口の方は、片手で煙草を取りだして咥え、片手で器用にジッポライターで火をつけて、やっぱり絵になる仕種で煙草を吸い始めている。
「佐山さん、仕事はできるんですってね」
 煙草の煙を吐き出しながら、秋口が口を開いた。
(仕事『は?』)
 佐山はその言い種に引っかかったが、あまり深い意味はないのかもしれない。
「青木さんが言ってました。佐山さんとの仕事は楽だって。俺が引き継ぐって話になったら、ちょっと残念そうにしてた」
「青木さんは、他の仕事が入ったのか?」
「大口の取り引きがね。何人かチーム組んで、青木さんがチーフ」
「そうか。それにしても、ずいぶん急だったな、引き継ぎ」
「青木さんみたいなベテランと違って、俺みたいな若造と組むのは迷惑ですか?」
「え?」
 思いがけないことを言われて、佐山は驚いて秋口を見た。
 秋口は言葉の割に、自信たっぷりな笑みで佐山を見返している。
「いや、迷惑ってことはないけど。仕事だろ」
「それだけ?」
「それだけって」
 佐山には他に言いようがない。何しろ秋口と仕事をするのはこれで初めてなのだ。
「これでも俺、仕事もできるって評判あるんですよ?」
(仕事『も』か)
 やっぱり秋口は意図して言い回しを変えているようだ。なるほど、だから男性社員たちに『生意気だ』と言われるのだろうと、佐山は実際秋口と話してみて納得した。
「評価は仕事をしてみてから」
 佐山はようやく冷めてきたミルクを飲む。秋口はつまらなさそうな顔になっていた。
「張り合いねぇな」
「……営業と開発が張り合ってどうするんだ?」
 協力するならともかく、と怪訝な気分で思う佐山のことを、秋口はますますつまらなさそうな顔になって見遣る。
「なんっか、佐山さんってのらくらしてますねえ」
 それから、苛立っているようにも見えた。秋口の反応が、佐山にはいまいちわからない。初対面なはずなのに、やたら突っかかられている気がするのだ。
 仕方なく、佐山は笑った。
「普通だろ」
 笑った佐山を見る秋口の目は冷たい。
「もっとこう、テンポよく行きません?」
 そう言われても、と困惑していた時、「あれ、佐山」と明るい声が掛かって佐山はほっとした。聞き覚えのある声に振り返ると、やはり御幸がやってくるところだった。
「珍しい取り合わせだな。お疲れ」
 御幸は外回りの行きか帰りらしく、鞄を抱えている。柔らかい印象のその笑顔に少し落ち着いた気分になってから、佐山は自分が自覚していたよりはるかに緊張していたことを知った。
 平静を装おうとしていたのに、秋口を前にして、どこか舞い上がっていたらしい。さっきから微妙に手が震えそうになるのを、気づかないふりで目を逸らしていたのだが。
「お疲れ、外暑かっただろ」
「ああ、そろそろスーツが辛い時期だよ」
 笑いながら佐山に言って、御幸は秋口の方にも目を移した。
「秋口も、お疲れさん」
 秋口はただ眉を上げ、辛うじて挨拶に見える程度に頷いただけだった。御幸はあまり先輩向けとは言い難い後輩の態度をさして気に止めたふうもなく、鞄から財布を取り出した。その中を覗いて、「あれ?」という顔になる。
「万券しかないや。佐山、奢って」
「はいはい」
 佐山は立ち上がると自販機に近づき、小銭を入れた。
「ホット? アイス?」
「ホット」
 御幸に頷き、佐山は自販機のボタンを押した。
「……ホットミルクティ……」
 佐山の様子を眺めていた秋口が、押されたボタンを見て呟く。御幸は紅茶党だ。つき合いの長い佐山はそれを承知している。
「あ、御幸、これ奢ってやるから煙草」
「はいよ」
 佐山が紅茶の紙カップを差し出し、御幸が代わりに煙草を佐山に渡した。佐山がありがたく一本いただいて口に咥えると、秋口がライターを取り出した。身を屈めた佐山の煙草に火がつく。
 煙を吸ったらちょっと落ち着いて、佐山は深く息を吐き出した。
「仲いいんですね、ふたり」
 一連の様子を見ていた秋口が、妙に感心した口調で言った。
「同期だから。な」
 御幸が佐山を見上げ、佐山は煙草を咥えたまま頷いた。
 秋口は壁に寄り掛かったまま、御幸と佐山を交互に眺めている。
「こっちも意外な取り合わせって風情」
「俺と佐山?」
 秋口の言葉に、御幸は意外そうに問い返しているが、佐山はそりゃそうだと納得していた。王子様みたいな容貌の御幸と、ごく平凡な自分が並んでいるところを見て、大抵の人がそう言う。
(御幸がこれで頭が固いの、みんな知らないんだろうな)
 見た目だけなら美人を山ほどはべらせてあたりまえの姿なのに、御幸は浮ついた空気が苦手なタイプだ。如才ないから相手を持ち上げるし、雰囲気に合わせて周りと一緒に盛り上がることはできるが、本当のところは大勢で騒ぐよりも、佐山と一緒に地味な定食屋でさんまでもつついている方が性に合っている。
「そう言われるのも意外だな、佐山とは同期で一番話が合うし、一番つき合いやすいよ」
 佐山が何も言わない代わりのように、御幸がそう秋口に反駁した。
「へえ」
 黙って煙草をふかす佐山のことを、秋口はやっぱり意外そうな顔つきで見遣った。
 その視線は自分を値踏みしているような意味を含んでいる気がして、佐山はまた心許ない気分になった。何だって秋口は、先刻からそんな目で自分を見てばかりいるのか。初めて仕事を組む相手が気になるのかもしれないが、それにしたって不躾だ。
「ま、御幸さん、相手に合わせるの上手そうですから」
「そうだな、佐山もな。自然に相手のこと気遣えるようなとこ、好きなんだよ。こいつの」
 目の前で御幸にそんなことを言われて、佐山は無性に照れてしまった。御幸は昔から佐山のことを買ってくれている。営業部のエースと呼ばれるほど仕事のできる御幸に評価されるのは素直に嬉しいが、面と向かってだと気恥ずかしい。
「気遣いが上手いって割に、営業は向いてなかったみたいですけどね」
 笑いながら秋口が言って、御幸が微かに眉を顰めた。
「仕事が上手くいかずに胃潰瘍なんて、ずいぶんナイーブなんだなあ。俺なんか図々しいってよく言われるから、見習わないと」
 秋口の口調にはいやみがなく、その分余計辛辣に聞こえた。佐山は否定するのもおかしい気がして、曖昧に笑いながら冷めたミルクを飲んだ。実際秋口の言ったとおりだから、訂正する理由もない。
「そう、営業なんだから多少図々しいところはあっていいだろうけど、踏み込むべきところじゃないところに土足で踏み込むようだと、大事なお客を逃すからな」
 御幸は眉間の皺を解くと、穏やかな口調でそう言った。諭すような先輩の言葉に秋口は肩を竦め、「ご指導、どうも」と言って短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「俺はそろそろ戻ります。じゃ、佐山さん、今後よろしく」
 そう言って慇懃に頭を下げると、秋口はコーヒーカップを手に休憩所を出て行ってしまった。
 御幸がその後ろ姿を見てから、佐山の方へ視線を移す。
「初対面だよな、おまえら?」
「さっき初めて名乗り合ったよ」
 苦笑する佐山に、御幸が困った顔で髪を掻き上げた。
「あいつ男相手だと、誰にでもあんな感じだからな」
「性格のはっきりした奴なんだな」
「営業向きではあるんだよ、押しが強いし。あれでもうちょっと険が取れてくれればいいんだけど、さすがに取引先相手にはもうちょっとへりくだってるだろ」
「でも、謝る時もなんとなく自信に溢れてそうだよな」
 たとえばミスを相手に責められて、必死にぺこぺこしている秋口なんて佐山には想像がつかなかった。万が一自分側のミスで取引先の人間に詫びなければならない時も、戦略とか様式美のために頭を下げるのだろう。
 プライドの高さは充分伝わってきた。
「それは言えるな。あんまりミスらしいミスもしない奴なんだけど。入社以来、秋口のせいで失敗した仕事ってまだないかもしれないぞ」
 御幸が少しまじめな顔で、佐山のことを見上げた。
「ああいう性格の上、男嫌いなだけなんだ。気にすんなよ」
 やはり御幸の目から見ても、秋口が佐山に好意を持ってないことはわかったのだろう。
 佐山は御幸の軽口に二重の意味で落胆したが、励ましてくれているのがわかるので、笑って頷いた。
「これから一緒に仕事することになるし、慣れるようにするよ」
「秋口と組むのか?」
「こないだまで青木さんとやってた仕事。急に言われて俺も驚いたんだけど」
「秋口に引き継ぎなのか……昨日青木さんと話した時、T社のやつがもう大詰めだから佐山と頑張るって言ってたのに。急に別の契約の話でも入ったのかな」
 少し不思議そうに呟いてから、御幸が紅茶を飲み干し、立ち上がった。
「秋口が仕事のできる奴なのは事実だ、その辺は心配いらないと思うけど。あの調子だから、あんまり言いたいこと言わせないでおけよ、先輩らしくびしっとな」
 秋口に対して、自分がびしっと何かを言える気もしなくて、佐山はただ笑った。御幸もその顔を見て苦笑する。
「佐山の優しいところは好きだけど、そのせいで自分が辛くなるようなことだけは避けろよ」
 御幸の口調が意外なほど真剣で、佐山は少し面喰らう。
「大袈裟だな、さっき秋口が言ったことなら、気にしてないぞ? 実際営業に向かなくて体壊したのは事実だし、失敗したのはみっともないと思ううけど、今開発でそれなりに成果出せてるから、結果オーライだと思うし」
「うん……なら、いいんだ」
 友人に心配をかけているのなら申し訳なく、そう説明した佐山に、御幸は優しい顔で笑った。
「それじゃ、俺もそろそろ行くわ。あ、おまえ、今日夜空いてたら飯でも行かないか。美味いもつ鍋出す店聞いたんだ」
 王子様が「もつ鍋」などと似合わない言葉を言ったのがおかしくて、佐山は笑いながら頷いた。

こころなんてしりもしないで

Posted by eleki